書痴肉林・蟄居汎読記

佐野白羚の古い雑文の一部を(たぶん)定期的にひっそり掲載します

丸谷才一『女ざかり』(文藝春秋)

 大新聞に所属する女性の論説委員・南弓子が、あるコラムをきっかけに政府与党から圧力がかかり、「閑職」に飛ばされそうになる。
そこで女性論説員は恋人や親戚の力を総動員しこの圧力に抗するが、はたしてその結末どうなるか。

筋の要約だけだとこれで終わる。これで終わってもいいのだけれど、ここは僕しか書かない様なことを頑張って書くべき場所なので、こんな文庫本裏の紹介文をそのまま写した様なもので満足するわけには、いかない。どうしても。

読中読後、第一に、丸谷さんの小出しに決めてくる新奇絶妙の造詣に余程吃驚した次第。文人墨客の揮毫がなぜ政治家に重宝されるのかを分析する件、御霊信仰に基づいて西郷隆盛銅像化を論ずる件、選挙対策の金銭授受を贈与論的見地から説明する件など。学問的妥当性などこの際どうでもよくて、一読合点してしまうこういう目からの鱗の開陳過程が作品の妙味を一層深くしている。それもこれ見よがしに語るのでなくてさりげなく当意即妙のタイミングで解説するものだから余計奥ゆかしくて、僕もこの知識開陳作法には余程影響されたけれど、その実何一つ体得してはいない。もう情けなくて情けなくて。 

すなわちこの人は正真正銘碩学なのである、といったら称賛に過ぎるか。いやでもそれくらいいいたくなる。碩学といえば日本では中村元とか加藤周一とか井筒俊彦みたいな学匠をいうけれど、彼らに共通している点はひとつ、碩学オーラである。碩学オーラの有無が碩学かそうでないかを決定するのだ。碩学オーラについてはまた別のときに詳しく考察したいけれど、ともかく写真の印象でさえ何か異様な知的気圧を感じる人が世の中にはいて、そうした人が碩学なのである。丸谷さんは文章にも写真にも明らかに碩学オーラがある。現にその学殖は半端なものではい。彼の筆になる作物を手当たり次第何か読めば誰でも納得されると思う。 

ところでフランスの社交界には過分の激賞を通して皮肉を表明したり評価の失墜をはかるという、極めて陰険な風習があると聞いたことがあるけれど、たしかにこうして褒めまくっていると幾分肌寒い気持ちになる。もちろんそこに敬意漲るものがあるのは確かだけれど、心のどこかには、自分の誇張的称賛行為を検知する機制が働いてるのも感じられる。ともかく、褒めると行為には、他人の猜疑心ないしは懐疑心を呼び覚まさないではおかない何かがある。僕は当面これを「称賛の自己阻害性」と呼ぶことにする。称賛度の高まりそのものがその効用を減退させるという法則で、これは普通どこでも見られるし誰もが経験している。日本語で俗にいう、「ほめ殺し」だ。
例を二三。

 

「あの首相の判断さすがだよな、金のスキャンダルも聞かないし彼みたいのを政治家の鏡というんだね」「いやそうでもないよ、下半身が案外だらしないみたいだぜ」
「**ちゃんがあのグループのなかで一番綺麗なことに異論はないよね」「いや、そうとばかりもいえない、胴に比して足がふとすぎて均衡が悪い」
「**先生の論文は理路整然、まったく非の打ちどころがないと思わないかい」「僕はそうは思いません。一部情緒に流され過ぎるきらいがあって、その点がどうしても気になります」 

 

思い起こせば頻繁にあるでしょう、こういう事例。褒められている当人のいないところで当人を褒めれば褒めるほど、それまで受け身だった聞き手はいよいよ向きになって、何か粗をさがそうと必死になる。二三の人間が額を集めて不在の某を心から褒めちぎる光景など、僕は想像だにできない。時代の政治的英雄も国民的アイドルも、この「称賛の自己阻害性」からは、逃れられない。まして市井の凡人にあっては想像するにあまりある。嫉妬は大抵他者への称賛に起因している。身近の他者が沢山褒められるのを「おもしろい」と感じられる人間は、広い世界どれくらいいるか。よほどのお人よしか間抜けは別にして、人間はふつう自分がかわいい(といってもこういう一般化はふつう自分の経験を軸にしたものなのだけど)。こと自分に関してはいかに明敏を以て鳴らすモラリストも盲目に近いといえる。人間は自分以外の者に対する称賛には極めて神経質であるし、さらにいうと、しばしば敵対的でさえある。とことんチヤホヤされたあとに突然奈落の底に落とされるセレブリティの運命を司るのは、こうした「凡人の集合的嫉妬」に他ならない。偉い偉いすごいすごい綺麗綺麗と他人が褒められているのを耳にしていると、かならずムカついてくる一群がいる。なんか悪いことや疚しい部分はないのかと詮索し出す一群も出てくる。こうした一群の不満詮索欲を劇的に解消するのに一番いいのは、スキャンダルだ。スキャンダル(醜聞)は頂点近くまで成長した名誉を極端に傷つける偶像破壊の一撃で、今日では週刊誌やかつてのイエローペーパーのような扇情的かつ攻勢的なマスメディアがその発端を探しだす。もっとも事の原因はもっと複雑に入り組んでいるのだけど、ともかくスキャンダルによる失墜の背後には、「その他大勢」の静かな「嫉妬心」がひしめいている。お金持ちが脱税疑惑や詐欺容疑で捜査を受けると義憤を装って歓喜する。清楚なイメージの定着した美人女優の不倫が発覚すれば、不倫さえできない凡庸な女たちは我が身の惨めさに不思議な慰めを見出す(失墜する名誉など最初から持たない安心感もそこには含まれている)。

凡庸な嫉妬心がいかに災いをもたらすかについては、またいずれ論じます。

 ここで押さえておくべき定理はひとつ。

「人間は他人に対する称賛を正気で聞き続けることは出来ない」

たとえ彼彼女が「称賛に値する」と頭では了解していても、眼の前で称賛ばかり聞かされるのにはとうとう堪えられないのだな。称賛されているのが自分ではなくて(利害関係のない)赤の他人であることに、内心我慢ならない。そしてその我慢ならない度合いは、称賛対象者との関係距離に反比例する。ようするに褒められているのが身近な人間であればあるだけ、くやしいのである(姉弟姉妹、師弟関係の壮絶な嫉妬劇をみたまえ、あるいは思いだしたまえ。ただし子どもを称賛されている場合の両親のそれは別だ)。
こんな具合に、嫉妬という心理現象は、称賛のこの諸刃的性質と切り離して論ずることはできない。

だから僕は丸谷さんの作品を最も効果的に称賛すべく、まずは称賛そのものに一定の抑制をかけなければなりません。称賛の言葉に多種多様のツイストを加えられる修辞語法を開発し、その修練に努めなければなりません。褒めるって実は大変なんですよ。一人勝手に恍惚境で感動していれば済むものではないからね。まして書評家ともなると、その苦労のほどは自ずと察せられるよ。

ともかく、丸谷さんの小説には専業作家でなければ成せない創作技芸がふんだんに盛り込まれているし、全体の風格も生半可なものではない。権力と言論人の間に繰り広げられる譲歩戦の描写が本当に小気味よい。権力の中枢にいたことなどないはずの一作家がどうしてここまで想像力をたくましくできるのか、つくづく感服した。官邸や首相夫人の描き方なども心憎いほど「うまい」(ここで「うまい」というのは、読みながら、政治をめぐる人間の人間臭さを感じないではいられなかったからだ。文学はルポルタージュではない。事柄の時系列的記述ではなくて、リアリティの造形描写が文学の核をなしている。文学の言葉は、濃淡無限の「重み」を含ませている。眼の前にないことさえ「あたかもあるかのように」描き出して、読者を納得させる凄みが文学の中枢にはある。『女ざかり』の場合、登場する人物はみんな非実在だし、事件も虚構だ。僕たちの生きている「歴史的事実」ではない。にもかかわらず、そこで描かれている人物は概して「現実以上に現実的な重み」を担っている。権力中枢に漂う生々しくも緊張した気配や人間臭がそうした重みを与えているのだ)


繰り返すけれど、文化人類学から叙勲事情までの作者の縦横無尽の薀蓄だけでもぜんたい読む甲斐がある。
それに、面白くて中だるみのない物語りはもちろん、人物のセリフや形容表現にも奇抜の遊び心がきらめく。論説委員を追われそうになった弓子の孤独感をキューピーの記事中広告の天使に仮託して示すあたりはさすがに舌を巻いた。新聞記者の心情を示すのに新聞紙面を使うなんざ、乙と思わんか。比喩を発案した瞬間の丸谷さんのしたり顔を見たいと思ったね、丸谷さん、技あり。
彼は、文学に関する桁違いの教養と方法意識が血肉と化しているような人だから、小賢しいばかりな「技巧」の嫌味はない。こんなふうに書いても、なんだか不満足だ。称賛の定型化は所詮避けられないのか。

この辺で一区切りとします。じゃあね。

女ざかり (文春文庫)

女ざかり (文春文庫)

 

 

別役実『淋しいおさかな』(PHP文庫)

 

むかし読んだ本で、著者は皆目忘れてしまったけれどたしか、「青年が美しいのは、彼らが決して終わらない問題のために真剣に悩むことができるからだ」というふうな文言があって、それがずっと奥歯に挟まったシシャモの小骨みたいに記憶されているので、しばらく一考を差し向けてみたい。それにしてもこの言葉、ずいぶん青年というものを買い被っている人だなあと思えなくもないけれど、少なくとも、この書き手の皮膚感覚では、彼の生きていた時代、青年たちはかつての白樺派のように高邁な「実存的問題」に日々懊悩していたのだ(もちろん個体差は大きい)。そして若さゆえの虚勢であるにせよ学生などは、「栄華の巷低く見て」という調子の旧制高校的気概もある程度は引きずっていた。そういう時代は「俺たちが社会を変えるのだ」と気炎を吐く連中も少なくなかったし、「この大宇宙の謎が分からないくらいなら身投げして死んでしまおう」という悩める青年も少なくなかった(たぶん)*注*

 

*注*《こういう「たぶん」みたいなものは、たとえば内田樹さんの素晴らしい文癖のひとつで、要するに自分の断言をただちに保留に付する一種の著述マナーといえるのだ。適宜適切の「自己ツッコミ」を挿入することで、全体の主張が過熱暴走することを未然に防ぐ。

例)彼らのように熱狂するだけでものを考えない畜群的人間が増えると、与党はますますこうした不満分子を延命的に動員しやすくなるのだ(かくいう僕も普段何も考えないのだけどね)

この自己ツッコミの技法がもうちょっと高レベルになると、一つのテーゼをやんわり否定もしくは保留することで、直面している問題の単純化を回避し、より高次の認識を暗示することになる。これがすなわちアウフへーベン(止揚)で、既に時代遅れの刻印をおされて久しい用語なのだけれど、内実は決して廃れていない。『碧巌録』のような禅語録にある「著語」もほぼ同じような保留機能を担っているのだけど、おしなべてこの種の能書きは長くなると逆効果らしいので、この続きはいずれまた。》

 

「青年」とは何か(いつも壮大な本質論的設問ばかり)。答えにくい。本当に。まだ「国民国家」とは何か、とか、「議会制民主主義」とは何かという問いのほうが模範解答らしいものを示せるというものだ。手近の辞書ではだいたい「十四、五~二五くらいの男女を指すが、しばしば三十代を含めることもある」という具合に何時も通り実に素っ気なく記しているけれど、僕自身の日本語センサーによれば、青年という年齢範疇に「女性」は入ってこない。ジェンダーバイアス云々の面倒な話は同好の士だけでやってもらいたいのだけれど、ともかく、「少年」という言葉同様、「青年」という言葉にも抜きがたい「男くささ」がある。なぜだろうか。なんだか厄介で難しいね。ちょっと似たものとして、サラリーマン(もうウンザリするほど俗悪な言葉だな)というものもある。後から出て来たサラリーウーマンというのはかなり言いにくいし音としてもイビツだ。そもそも定着していない。言葉と性の問題、これはこれで沢山の問題提起と膨大な研究があるから、うかつに扱えない。

僕が青年と聞いて脳裏に表象されるのはちょうど、埴谷雄高の『死霊』に出てくる三輪与志のように陰鬱で取り留めのない宇宙論にばかりかまけている気難しい高等遊民だったり、『カラマーゾフの兄弟』のイワンやアリョーシャのような過度に純朴だったり(勿論この純朴も途中劇的に変質するのだけれど)、過剰に知性的な若者の姿だったりする。そういえば、一九世紀半ばのロシア文学に「余計者」という人物類型が登場したでしょう。物凄い知性と教養に恵まれながら無気力で現実を直視しない没落貴族。たとえばツルゲーネフの『ルージン』とかプーシキンの『エブゲーニー・オネーギン』、ゴンチャロフの『オブローモフ』がその典型。あの「余計者」に共通する現実遊離の性質が、「青年」の必須条件と僕は思うのです。「現実的な青年」なんて言い方は、丸い三角形というのと同じで、形容矛盾。

だから、青年と聞いて反射的に想像される人物類型は、大概決まって「三輪与志」的なものなのだ。その凄愴の気において、彼こそ、ロシア的「余計者」の最終形態という観がある。埴谷雄高がこんな特殊変態の人物を造形できたのは、彼自身のなかに三輪与志の心性がどっしり居座っていたからに違いない。たしかに古今東西、いろいろな作家が色々な「青年」を造形してきた。でもどれも正面から「青年」と呼びたいものではない。『太陽の季節』に描かれた群像も青年とは呼びたくないし(クソガキではあるけれど)、「若大将シリーズ」の群像も純性の青年とはいえない(この辺の判断は極めて主観依存性が強いのだけど)。何に比べても三輪与志ほど魅力的で「病的」な青年はいない。端的にいうと、「三輪与志」的な成分を含まない青年は、決して青年とは呼べない。そういうのは「青年もどき」とでもいうべきものだ。真性の青年は一つの問題だけに沈没しているから、いつも途方も無く無気力で途方もなく現実遊離している存在である。

要するに青年はモラトリアム(支払い猶予)の特権に甘んじながらも、どこか精神の安定を欠いていて、そのために始終鬱然たる宏大な黒い想念をいつも頭蓋に秘めている。自分の「存在」とぴったり重なることができない。青年はいつも、揺れている。大いに揺れている。このすさまじい振幅を示す揺らぎだけが彼らの存在意義を形作るくらいに。その想念は計算高き「人生の欲望」に汚染されていない。預金残高を始終気に掛けたり住宅ローンの選択に余念のない所帯じみた生活人を見下す暇もないほど、彼らの一部は自分の思考と想念に夢中になっている。夢中にならざるをえない。言い方を思い切って換えれば、青年というものは、自分の存在そのものを「哲学」の生贄として捧げることを毫も厭わぬ人間のことなのだ。冒頭に挙げた著者が美しいと感じたのはきっと、そういう欲得なしの純性に探究心に他ならない(うん、なんか色々勇ましいことを書いたので、もうそういうことにしておこう)

周囲に養われているにもかかわらず、彼らはしばしばあらゆるものを敵視し、攻撃し、薄汚れた社会や歴史を舌足らずの言葉で弾劾する。「大人の嘘」をあばき、「友人の無理解」に憤り、「生ぬるい日常」を否定し、「それなりの将来設計」を粉砕する。

繰り返すけれど、このどん詰まりの八方ふさがりの不安定のなかに、青年固有の「純潔」がある(もちろん当の青年はそんな言葉を「ふざけるな」と一蹴するだろうけど。少なくとも僕が当の青年なら、ただでは済まさない)。

青年はかならずしも年齢のみで規定されるものではないが、だいたいにおいて人は年齢通りに「鈍化」する。劣化する。退化する。いつの世にも「永遠の青年」などと自称する木偶の坊がいるけれど、僕にはそんな酔っ払いの自己顕示みたいな宣言をまともに信じる度量がない。「永遠の青年」を自称する人々は、「青年」でありつづけることがどれだけ「生きにくく」、どれだけ「無惨」な情念と自殺衝動に満ち溢れているかを、あまり考えようとしない。「青年」というものは「青年」を失った人間の眼には美しく映るけれども、青年当人は時に発狂寸前の情態であったりするのだ。それでも青年はただ考えるためにのみ考えている動物であるから、「俺は青年だ」などと自己を客観化する薄汚い意図も時間も余力もないのである。

老いた革命家を想像するのが難しいように、年老いた煩悶者を想像することもまた難しい。事実煩悶ほど普遍的な心理様態はないにもかかわらず、その煩悶と最も親和するのはほかならぬ青年なのだ。だいたい五十年くらい前、五木寛之に(僕はこの老作家のエッセイは大半読んでいるけれど、小説は『青春の門』の最初の二三巻しか読んでいない。それにしてもこういう括弧注釈はただでさえ読みにくい悪文を更に読みにくくするので以後極力使わないことにします)、『青年は荒野をめざす』という小説が出て(ザ・フォーク・クルセダーズの歌もいいけど。舌も乾かぬうちにまた馬鹿括弧)、大変流行したことがあるけれど、この「荒野」というイメージ、今思えば絶妙の言語感覚と唸らざるをえないものだね。いや本当。これお花畑では噴飯ものだし、草原じゃまずい。沙漠もなんか違う。青年がめざすのは荒野でなければならない。ヘルマン・ヘッセの『荒野の狼』(Der steppenwolf)は僕の偏愛する作品の一つだけれど、この荒野の心象も「青年的なもの」と実に親和性が高い。青年の眼下に広がるのは、強靭な雑草だけが点点と生えている殺伐たる地平でなければ、どうにも間が抜けてしまう。

林房雄の『青年』や森鷗外の『青年』についても何か一考加えるつもりだったけれど、なんか詰まらないというか細かい話しか思い浮かばないので、「悩める青年たち」の雑談はこの辺で収めます。フィクションを通して「幕末の志士」に憧れる人々が戦後絶えない理由の考察もいずれまた。

目下の問題は、どうやってこれを別役実の童話集に架橋するか、ということなのだけれど、それは大したことではないのだ。ある話を殆ど無関係の話にリレーすることについては、もう慣れている。昔から何千何万回もそんなことしてきたのだからね。

 

本作に限らず、劇作家・別役実(べっちゃく、という読み方が本当らしい)の筆になる数多くの童話については、不気味で不条理で時に大味に過ぎて取り付く島が殆どないのだけれど、読後、不思議な酸味が口に生じることがあるのだ。これっぽっちも目出度い結末でないのに、さばさばした気になれる。例の薄汚れた想念に浸食されていないためだと、僕は思う。

最後にこれだけはどうしても言いたい。

「青年は大志などという下らぬものよりも哲学を抱きなさい。というより哲学という白鯨に呑み込まれてしまおう」

 

淋しいおさかな (PHP文庫)

『世界の名著〈第22〉デカルト』(中央公論社)

現在の中央公論新社に「世界の名著」という名高いシリーズ(全八一巻)があって、これについて思うと僕はこもごもの感慨をどうしても抑えられないのだ。どれだけ心拍数をあげて読んだか知れないよ。旧約・新約聖書も最初はこれで読んだ。パスカルの『パンセ』もモンテーニュの『エセ―』(抄訳なんだけど)もフロイトの『精神分析学入門』もデュルケムの『自殺論』もマルサスの『人口論』も勿論この叢書で初読した(この「初読」のサ行変格活用はいいね。新しくないか。歴史的用例だよこれは)。この叢書経験はそのまま「世界思想との出会い」だった。桁違いの知性との直面。知的豪傑からの呼びかけ。陳腐な物言いだけれど、「叡智」の存在に気圧されてしまうという経験は、人を否応なく謙虚にするのだ。「もう馬鹿の無知ですみません。あなたの叡智のお零れでもせめて」というふうな礼儀作法で書物に向き合わねば、人はついに何も得られない。

 

本叢書は「高校生でも読める」よう編集されていたらしいので(どこかの薄っぺらい「評論家」が高校生時代にこの叢書を読破したと吹聴していた)、訳文はいくぶん平明で、注釈も懇ろに記されている。結果ずいぶん広く普及した。「世界の名著」と言えば、読書人なら大抵一度ならず見聞きしているはずだ。すこし前の世代なら、感傷と懐古なしには語れぬ挿話が一つや二つ胸中に仕舞い込んであることだろう。

当然今でもよく見かける(もちろん古本ね)。知る限り高くても五〇〇円くらいで入手できる。発行されたのは凡そ一九六〇年代後半から七〇年代後半にかけてであり、たしかにいささか古くさい面もあって、たとえば「孫文毛沢東」や「レーニン」などが堂々一巻組まれているところなどに少し「政治の季節」を嗅ぎ取ってしまうのだけれども、ぜんたいのラインナップは実に広汎重厚多士済済、いまでもじゅうぶん熟読に堪えるものだ。いったいバラモン経典からウィトゲンシュタインまでのコンテンツを広範に抑えているのだから、編纂者も力瘤のいれかたが違う。

 

とくに、四五巻のブルクハルト『イタリア・ルネサンスの文化』、五五巻のホイジンガ『中世の秋』、五六巻のマンハイムオルテガ(『イデオロギーユートピア』『大衆の反逆』)の出来具合は素晴らしかった。編纂の動機はどうあれ、これだけ質の高い著作群を廉価販売することの出版史的意義は極めて大きかったと思う。二十歳前後最初に手にしたハイデッガー集『存在と時間』の訳文には正直閉口したけれど、それはそれで痛快苦渋の洗礼に違いなかった(現在は岩波文庫から懇切丁寧な熊野純彦訳が出ている)。興に乗ってきたのでもうちょっと続けますよ。

個人的にでなくて世間的にも評判が高いのは、五九巻の「マリノフスキー/レヴィ=ストロース」ではないかな。抄訳だけど、当時『西太平洋の遠洋航海者』が訳出されたことの価値はなかなか大きかったと師匠がすこぶる褒めていた(今は文庫本でも種々読める)。

 そしてデカルトの巻もなかなかよかったよ、というのが今回の趣旨なのだ。野田又夫の解説で、世界論、方法序説省察、哲学の原理、情念論、書簡集がまとめて収録されている。要領のいいデカルト入門だね。岩波文庫で一冊づつ揃えるより、とりあえずここで主著はあらかた読める。僕もそのむかし熱心に読んだものだけど、特段訳文に不愉快を覚えることもないから、じゅうぶん人に推奨できる代物だね(尤も僕はひところ法政大学出版局のウニベルシタス叢書に鍛えられたおかげで、読みにくい訳文にも相当強くなっているのだけど)。もしアイドルの気違い染みたストーカー心理のごとく「自分はデカルト様に選ばれた」って気になれば、すぐにグーテンベルクプロジェクトのサイトから原語原文をダウンロードして精読研究すればいいのだ。人が本を選ぶのでなくて本が人を選ぶ。この際常識を翻然裏返すのだ。「お前は私を理解できる、いいか、耳の穴かっぽじってよく聞くんだ」、この曰く言い難い読書経験はいつの世にもあって、時空を超えた精神的師弟関係はこの契機を以て始まるのだ(そのことは内田樹が強烈なレヴィナス体験を通して熱弁をふるっている)。

 

デカルト(一五九六~一六五〇)は、今日的知見から見ると間の抜けたことも沢山考えている(もちろん今日的知見がぜんぶ「真」なのでもない)。とくに天体論や自然論にみるべきものは少ないけれど(歴史資料としては別)、彼の本源的な哲学姿勢、すこしでも疑い得るものは偽と見なし、すこしも疑いえない絶対確実の認識に立脚したうえで全ての思索をはじめようとするスタンスの開発・徹底は、ほとんど英雄的といってもいい(懐疑癖が肉体に沁み付いていない人間からすれば余程病的に見えるだろうが)。この懐疑がどんな過酷な段階を経るのかは読んでほしいですね。何につけネタバレは禁忌。彼の冴え渡る知性の一端を窺い知るのに、その論法のスリルを味わうに如くは無いのだ。

ところで、あらゆる人間のなかで僕は哲学者を一番尊敬している。自分の脳で底知れない世界と対峙している思索者に畏敬の念を抱かない人などあるものか。彼らは「何も分からない」という絶望の淵に立ったうえで思索を開始している。そこから踏みこむ一歩。それだけでもう格好いい。

アリストテレスプラトンエピクロスニーチェキルケゴールフッサールハイデッガーサルトルも、皆凄まじく炯々たる眼光を持していたはずで、この眼光がまた底知れない愁いと勇気を湛えていたに違いないのだ。それに比べたら、政治的英雄などウンザリするほど粗野で愚鈍な俗物ばかり。何かひとつ属性というか呼称を選べるとしたら、何としても「哲学者」として死にたいものですね。「本物の知性」という部面からみると、哲学者以外は「話にならないだ。」いや本当に。

 

人は何のために生きているのか、という種類の問いかけは嫌いでないけど、そこに青春風を吹かした自己陶酔的ポーズが寸毫でも混じるのを見てしまうといつも、目いっぱい唾を吐きかけてこう罵りたくなる。

「意味みたいな不細工なものをいちいち了解している生物などいないぞ、この青二才め」

 

とはいえ(とはいえ、なんか随分久しぶりに使ったな)、「なんで」という問いには何か抗い難い色気というか、甘い蜜のような芳香があることは十分承知している。うんざりするほど。ただ僕は、この「なんで」を含んだ言明が世の中に満ち溢れている一方で、この「なんで」そのものの正体に切り込んでいる言明がおそろしく少ない事実に苦言を表明したいのだ。「なんで」そのものを哲学の対象にしないと、この問いに参入できないと思うのだ(一字でも節約できるので以下は「なぜ」に統一)

 

「なぜ」を含んだ文言は、何を以て最適解(至上解)としうるのか。荒っぽい言い方だな。「なぜ」の発問を十分に満たしる応答の条件があるとして、それはどのようなものであるのか。まだ荒っぽい。そもそも本質的に「なぜ」とは何か。これでは愚問の見本みたいじゃないか。うんとね、いま苦渋してまで何がいいたいかの一端でも示すためにはどう言えばいいかな(不愉快過ぎて掌に脂汗が滲んできた)。ようするに、「なぜ」という機能要素の「正当性」をいかにして把握するのか。駄目駄目。

「なぜ」という「言明要請」に応答しうる「最終言明」においては、いかなる「言明要請」の可能性をも認められないのか。ちょっと近づいたかな。

 

例えばこういうこと。「なぜこの宇宙は存在しているのか」という悪評高い発問(=言明要請)があります。なぜこれが「問題含み」かというと、発問受容者の解釈次第で、この「なぜ」はどのような様相をも帯び得るからである。

ある解釈者は、「この宇宙で生きる我々の使命」という目的論的テイストをあらかじめ与えているかもしれないし、ある解釈者は「自然科学的解答」(例えばインフレーション宇宙モデルとか)以外は全部言葉遊びだというスタンスからこの問いを受容するだろうし、またある解釈者は「無は論理的に自己否定概念であるから何ものかが存在していることは自明である」という種類の哲学的命題に立脚しているかもしれない。

当然その立場によってめいめいの「最終言明」の種類が大きく相違する(厳密にいうと、「統一的自己」のなかでさえ「単一の問い」などありえない。昨日の「なぜこの宇宙は存在しているのか」という問いと、今日の「なぜこの宇宙は存在しているのか」という問いとでは、受容の仕方において僅かに相違しているからである)。

同じ発問がそもそも様々な位相・含意で解釈されてしまうのだ。これはヒトのコミュニケーション行為においてはどうしても避けがたい事態なのだ。「問い」は決して「単一」ではない。「われわれ」は答える以前に問うことさえまともに出来ないくらい朦朧たる内省状況にある。常に「言葉の非同一性問題」に直面しなければならない。

考える者の多くは大体この段階で絶望する。だがここで諦めて発狂してはいかんぞ。全ての思考行為はこうした言語運用の危機的状況からようやく始まるのだ。

とりあえず重大な暫定命題をひとつ。

「ある発問に対して十全に応答しうる言明は存在しない」(≒発問を充足させる最終言明は存在しない)

なぜなら、発問の意味的構成要素は「単一解釈」を可能としないからである。

「なぜこの宇宙は存在しているのか」という発問を荒っぽく構成要素に分解してみると、「なぜ」「この・宇宙」「存在」というふうになるね。じゃあこれらの発問要素をめぐって何か確実に「了解」されている共通的特質があるか、考えてみよう。

「なぜ」って何なのさ、「この・宇宙」っ何なのさ、「存在」って何のさ、あんたあの子の何なのさ(笑ったかな、というより理解できたかな)。

 

それだから、答えられないことは聞くな、という俗流の応答様式には、それなりの根拠がある。答えられないことは聞いても答えられない。これ以上さっぱりした言明はないよ。

答えられないことは沈黙しなければならない。「なぜこの世界が存在しているのか」という問いを満足させうる知的資料は存在しない。『創世記』を開いても『神学大全』を開いても『利己的な遺伝子』を開いても『存在と無』を開いても分からない。永久に。いかなる発問においても、知的欲求不満は必至なのだ。この辺はいずれもっと詳細に述べようと思う。問いの中には問いがマトリョーシカ人形みたいに構造化されている。というより、上記の理由で問いそのものの足腰が弱すぎて曖昧性を免れえない。

 

私見だけど、「人間の生きる意味」などを飽きずに問い続けるより、この「問うことの不可能性」を微細に分析し続けるほうが、知的パフォーマンスにおいてより大きいと考えています。問うことは答えること以上に難しい、というより不毛である、という認識。何かを確実に知りたいという欲求に憑かれるのはつらいことだろうけれど(満たされないから)、それでも問うことをやめないのが人間の性。人間だもの(いや人間って何んだ)。

ずっとずっと「最終言明」の幻を追い続けるのも一興じゃないですか。問うことの欺瞞と曖昧を凝視しつつ、しかし問うことに一縷の望みを愚直に追い求め続けるのも。オアシスを求めつづける沙漠のキャラバンのように(こんな月並みの直喩しか思いつかないのか)。

自分の「確信」や「直観」をひたすら「括弧」に入れ続ける勇気を欠いた人間は、哲学者にはなれない。思索者にもなれない。その真似事さえできない。

「創造主がつくられたから」というふうな出来合いの形而上学的命題をひたすら再生産していれば事足りる「宗教者」より、やはり、こういう過酷な宙吊り状態に耐えられる思索者に僕は憧れるのだ。

いちどデカルトに対面して、 思索に耽ってみてください。

世界の名著〈第22〉デカルト (1967年)

山本作兵衛『画文集 炭鉱に生きる(地の底の人生記録)』(講談社)

 ちょっと似非文学風にいうなら、頃日、気鬱の虫がやおら集きはじめている。

フランク永井を聴いているときも憂うつだし、モーツァルト弦楽四重奏曲を流しているときも憂うつ、何か書いているときも憂うつ、ヒカキンとかその他雑多の底辺YouTuberたちを見てケラケラ笑っているときも憂うつだし、『百年の孤独』を読み直しているときも憂うつだし、バッティング練習をしていても憂うつだし、羽生結弦に見惚れているときも憂うつ、同志と形而上的激論を交わしているときも憂うつ、無銭旅行をしているときも憂うつ、アパート裏で勝手に摘んだ柿をかじってみてやたら渋かったときも憂うつだったし、大量のパンと野菜を土産にもらったときも憂うつだった。憂うつなんて問題ないさ、みたいな安直な生活記事を以前大量に書きちらしては売文してきたけど、やはり全部嘘みたいだ。懺悔しないといけない。「憂うつに解法なし、人類に救いなし」というのが目下絶大の確信なのである。最初からとことん本題と没交渉だな。

けれども僕はそもそも読後録など畢竟随想以外の何ものでもないと観念しているから、何を書いてもいいのだ。書くことの目的は書くという筋肉活動にある。人間はものを書くことで自己と社会を超越できる、などと赤面せずに叫んでいられたあの時代が懐かしい。何か快楽が必要なのだ。快楽、快楽とは何か。すくなくとも僕は知っている。快楽とは、一口にいうと、「そこに肉体的・物理的制限のもとに存在していない」ことだ。ギャンブル快楽、薬物快楽、房事快楽、文筆快楽、快楽のバリエーションはまことに果てしないけれども、それらに共通しているのは瞬時の「不在感覚」なのだ。え、そんなのもう知っているって。生物が生きているということは、それだけで凄まじい受難なのだ。人間はこの「消えたい」という強烈な内的要求を満たすために、いろいろな変態性を身に付けて来た。僕はこれを以前、「不在快楽論」というの題のもとに素描して筐底に封印した。

第一、本の値段とか著者略歴とか概要なんかはアマゾンや楽天の方がうまくまとめてくれるのだから、僕みたいな思索幽霊は、結局何を言っているのか分かりかねる狂人の寝言じみた「所感」を気随気儘に書きまくって、ウェブ空間のもはや末期ともいえる言論汚染をより悪化させることしか出来ない。

 

二〇一一年、山本作兵衛の筆になる炭坑画の数々が「記憶遺産」なるものに登録された。記憶遺産とは何であろうか。この胡散臭い響きがかえって耳に快いのでその興味は一方ならない。一分くらいで調べてみると、これはユネスコ主催の世界遺産事業のひとつで、「後世に伝えるべき歴史的文書」などの保存の奨励を目的としているらしい。くわえて、デジタル化などにより世界中の人々がそれらにアクセスしやすくすることで、世界的観点からその重要性の認識が高まることをめざしている(百科事典マイペディアを参考)。まずもって気になるのは、何が重要で何が重要でないかを最終的に決定する基準はどこにあるのか、ということ。いいかえれば国家間の政治的小道具となる危険性をどう軽減しているのか、ということ。もうひとつは、実に取り留めのない話だけど、そもそも人類の歴史に「記憶されるべき事物」など存在しているのか、ということ。

たとえば既に「記憶遺産」として登録されている文書には何があるかを見てみると、その性格の一端が分かるかもしれない。フランスの人権宣言、アンネ・フランクの「日記」(俗にいう『アンネの日記』)、ベートーヴェンの第九の自筆譜(そういえばむかし閲覧したことある)、藤原道長の「御堂関白記」。 なぜか分からないけれど、こういう形で並べてみると、ちょっと切ない気になる。どうしても舌足らずになっていけないけれど、こういう文書類が国際的文化機関のお墨付きを得て鎮座してしまうと、僕など急にそっぽをむきたくなる。「文科省推奨映画」とか「推薦図書」を嫌がる天邪鬼的青少年心理と殆ど同じ原理だ。いま思うのだけれど、ほうっておいても記憶されるものは記憶されるし忘れられるものは忘れられる、と言ってはまずいのか。ユネスコなどが「記憶しましょう」と言わなければ何も記憶されない、という話は信じがたい。しかしやはりそれではまずいのか。難しい、難しい。ある「遺跡」を修学旅行の定番コースにしたり、繰り返し繰り返し「私たちはあの出来事を忘れてはならない」と無理やり回顧させることによる「教育的効能」を、これまで僕はろくに考えてみたことがなかった。「忘れられてはならないこと」と「忘れられないこと」はどう違うのか。歴史が悪夢に他ならないことは皆知っているけれど、その悪夢の断面図をいちいち覚えていることで避けられる悪夢などあるのか。一世代二世代三世代のうちで記憶して何とかなる問題などありうるのか。元来我々が後世のことなど本当に考えることができるのか。これを自分のつむじ曲がりの所為にだけにしていいのか、分からない。とうぜん僕は、「地球の為に」とか「子孫のために」とか「人類の為に」などと叫んでいる連中がぜんぶ自己欺瞞のインチキであることを知っている。そういうことを叫んでいる連中自身が実は自分の言葉など少しも信じていないことも知っている。けれどもこれと記憶遺産の話は微妙に違う気もする。

 

明治初年度から昭和三十年代の閉山までの炭坑現場の様子を窺い知る方法はいくつかあるのかもしれないけれど、七歳から筑豊炭田で働いていた山本作兵衛によるこの訥々たる画文集くらい、当時の現場の体臭を染みこませているものは少ない。「明治国家の殖産興業政策の影には無数の炭坑労働者がいて云々」という例の迷調子の、いわゆる「国民の歴史」による通り一遍の記述では汲み取りえない生の皮膚感覚が残っている。

ものを伝える方式にもいろいろあるのだなとつくづく感服した。「記憶遺産」の是非はまだ決着しないけれども。

 

画文集 炭鉱に生きる 地の底の人生記録 (講談社+α文庫)

 

島尾敏雄『日の移ろい』(中央公論社)

ずっとまえ長旅があって、車中、近現代の日本人作家をいかに短く端的に表現できるかという変妙な遊びでずいぶん盛り上がった。判定基準はぜんぶ恣意・直感。全然面白くなくても芯を捉えていれば高得点。名前を聞いた途端に想起されるフレーズをそのまま口にするほうが大体において出来がいい。「いいね」と思うものは決まって変な勘案や技巧を経ていないのだ。反射というか、口を衝いて出る感じ。たとえばこんなの(興に入って長くなってしまった)。

 

森鴎外⇒「子どもはむかしから高瀬舟ばかり読まされる。一種の国語拷問」

国木田独歩⇒「作品は三流。感度は一流」

徳田秋声⇒「自然主義文学史の学位論文を執筆している学生にしか読まれない」

幸田露伴⇒「現代語訳は恥ずかしいから無理して岩波文庫

芥川龍之介⇒「作家すなわち神経症という不当な関連図式をはからずも普及させてしまった戦犯」

夏目漱石⇒「日本人が好きな小説家を尋ねられたときの守護神」

井伏鱒二⇒「存在そのものがユーモア。あるいは、文章が上手すぎて真似さえされない」

筒井康隆⇒「本人はたぶんに真面目な常識人」

 

島田清次郎⇒「一〇万人に一人くらいしか名前を知らない。流行作家をめぐる人々の忘却曲線がいかに急勾配であるかを雄弁に語り続けてやまない」

正宗白鳥⇒「文化勲章を拒否しなかったことでニヒリストとしての晩節を汚した」

丸谷才一⇒「エッセイが代表作」

宮本百合子⇒「著作全集が古本屋で一五〇〇円以内で売られている」

大岡昇平⇒「形而上学的センスの致命的欠乏」

野間宏⇒「青年の環が岩波文庫に入っている理由が分からない」

堀田善衛⇒「明らかに過小評価されている」

瀬戸内晴美⇒「瀬戸内寂聴と別人ではない」

森茉莉⇒「テレヴィとか書いても鼻に付かない稀有な特権」

三島由紀夫⇒「本物の金メッキ」

吉川英治⇒「意識高い系からは伝統的に蔑まれている」

司馬遼太郎⇒「組織論やリーダー哲学をのたまうエセインテリ的経営者およびサラリーマンに愛され過ぎたせいで知識人には永久に愛されない運命」

山本周五郎⇒「ユーモアが絶望的に足りない」

池波正太郎⇒「ブックオフで中高年者が買いあさっている」

村上春樹⇒「スパゲティとジャズ」

深沢七郎⇒「陽気なニヒリストを演じるのに途中からちょっと無理していた」

武者小路実篤⇒「読むこと自体がジョーク」

石原慎太郎⇒「作者が長生きしすぎて作品は風評被害

新田次郎⇒「国家の品格のパパ」

埴谷雄高⇒「あっはとぷふい。文庫本でしか読んでいない人は負け組」

開高健⇒「行動派作家を気取ることの滑稽さを身をもって証明」

梶井基次郎⇒「本物の文学」

井上靖⇒「名前を聞いただけで退屈になる数少ない小説家」

志賀直哉⇒「長編は最悪」

太宰治⇒「文学青年は誰もが一度は真似したがるけれど誰も成功しない」

松本清張⇒「テレビドラマの原作者」

谷崎潤一郎⇒「もう最後の文豪とか言うな」

永井荷風⇒「歯並び」

泉鏡花⇒「日本文学上級者向け。高校生なら読んでいるだけで尊敬される」

上林暁⇒「知る人ぞ知る」

川端康成⇒「芸術的文体のおかげで辛うじてエロ作家のレッテルを免れる」

大江健三郎⇒「ウヨクからは読む前から攻撃される。本多勝一からは読む前から文体を攻撃される」

吉村昭⇒「堅実派。良識派。人に推奨したり買い与えたりするのに無難」

樋口一葉⇒「誰もが読んでいるふりをしているが実は誰も読んでいない」

安部公房⇒「失踪」

小林多喜二⇒「売れるからといってそこまで文庫化されたり言及される価値はない」

江戸川乱歩⇒「発禁」

五木寛之⇒「このごろでは洗髪問題しか言及されない」

椎名誠⇒「それを模倣した文体が出版界を汚染した」

星新一⇒「中学校の朝読書」

城山三郎⇒「男男男、暑苦しい」

遠藤周作⇒「硬派な純文学キャラと軟派なエッセイキャラのギャップを自ら演出している感じが平凡」

北杜夫⇒「同上」

島崎藤村⇒「まだ上げそめし前髪」

 

途中から面倒くさくなってきた。一見おそろしく下らない遊びだけれど(二見三見しても変わらないか)、人間昂揚しているときは何でも存分に楽しめるから不思議なのだ。こんなのでも適任の相手さえあれば、案外消閑の具になる。各人の嗜好や偏見が現れ出るだけではなくて、なかば偶像化されている作家たちをその祭壇なり神棚なりから無理に引きずり降ろす快感も堪らないし、その作家を巡る世間のステレオタイプが爆砕されたり逆に可視化されたりする様子も愉快極まる。寸言だけに、罪が無い。遊びだから多少とも笑えるなら何でもいい。外国作家版も場を熱くすること請け合いですね。

 

それで、前置きが長くなったけれど、今回取り上げる島尾敏雄などは、このゲームに添ってみれば、およそどんな具合に形容できるだろう。さしずめ「悩み大き文士」というところでないか。

たとえば神経病みの妻との不穏な生活を記録した『死の刺』を読んでみれば、全面「心労」そのものである。傍観者として読んでいるだけでこっちが先に参ってしまう。スティーブン・キング流のスリラーであれば怖い怖いといいながらもそれなりにハラハラドキドキを堪能できる。『死の刺』は終始一貫して形而下の関係問題の毒を吸い取ったものだから、ファンタスタティックな飛躍がない。機械仕掛けの神、デウスエクスマキナにおいそれと頼れないものだから、作中の人物は救いを求めてもがき続けるだけなのだ。

この文章と文章の間の、心許なくも粘着質な接続感は、冗長、陰鬱。自分の苦悩をおいかけて同じところをひたすら回り続ける。そのうち、それ自体が目的と化したような妻のヒステリーの叫びと混ざり合って、一触即発の張り詰めた気圏を醸し出す。「狂気」くらい「人間味」のあるものは他にない。

『死の刺』だけではないよ。この人はいったい悩み過ぎる。苦しみ過ぎる。いつも神経を擦り切らして骨の髄まで疲弊している。気鬱飽和度が常人に比して高すぎるのだ。不完全な人間はがいして悩み多きものだけれど、彼くらい年百年中悩んでいると、さすがに身心が堪らない。

本作『日の移ろい』は、その心塞ぐ日々の底で、作者が自分の心の変化を微細に観察し続けた記録となっている。作家の「日記」というものは大抵公開を前提にするものだから、読者を意識した巧妙な筆遣いがときどき芝居がかって見える。けれどもそれはそれで各人勝手に割り引いて読めばいいのだし、自分の為だけに綴った日記が必ずしも「真実の生の記録」である道理もない。

ブログには「ウツ日記」という一大ジャンルがあるのだが、この「悩み多き文士」の日記を貫いている鬼気迫る懊悩とその消化プロセスを見るにつけ、自分や他者による「苦悩の表出行為」がいかに拙劣なものであるかを痛感せざるをえない。肝心なのは凝視し続けることなのだ。リア王か何か忘れたが、かつて、「苦しみ自身が苦しい苦しい言いだすまで耐えよう」みたいなセリフに肺腑を滅多打ちにされたことがあった。島尾的苦悩睥睨術はこの境位に立つことから漸く始まるらしい。

いやいや、苦しむの大変なことだね。

 

 

日の移ろい (中公文庫)

 

 

田澤耕『物語 カタルーニャの歴史(知られざる地中海帝国の興亡)』(中央公論新社)

たとえば「知られざる~」とか「驚異のOO」「実録! XX」「必見!ーー」のようなすっかり大衆メディアに定着した「表紙語法」は、いまだに多大のハニカミと道化精神なくして使えない。

「極上の味!」とか「究極のマグロ」というふうな看板を自分から掲げているお店は、そんな常人的なハニカミを超越したところにあるのではくて、たんに開き直って不感症になっているだけなのだ。このところ巷には何につけ「!」が多すぎるのですよ。感嘆符過剰警報発令中なのです。こんなのいつごろからなのかな。この数学の確率問題にしか似合わないマークをただ付加するだけで伝え手の情熱を余すことなく表現できるとはよもや思ってはいないだろうけれど、ともかく拙劣無粋です。現代はよほど叫びたがっている。無内容の癖にやたらうるさいのだ。頭のなかでいますぐ粛清したい。

「俺のこの情熱を分ってください!!!」「奇跡の名盤、復刻!!」「佐野眞一 待望の新刊、本日発売!!」「あたらしい国づくりに向けてどうか皆さまの御支持をいただきたい。このツイート拡散希望!!」とか書かれてあるのを見ると、それだけでもう暑苦しくなって、胃の底がムカムカしてきて、奴らをいますぐ業務用の冷凍庫に押し込んでロックしたくなる。もっと冷静になって自分の言葉を語れ、この馬鹿者。体育界系の飲み会じゃないんだぞ。

「!」がありふれている。町中にもメディア言説のなかにも。味噌でも糞でも「!」で片づけられているうちに、やはり受け手もだんだん不感症になって、一個の「!」程度では何のインパクトも受けなくなる。そこで「!!」が出てくる。「!!」に不感症になったら次は「!!!」が出てくる。それにも不感症になったときにはじめて技巧的な文案に復帰する。下手人は「!」だけではない。宣伝広告の文句も芸の無い大仰さを離脱して、言葉の綾やデザインの妙で勝負をしてほしいもんです。

思うに、ある文章のなかでいくつ「!」が使用されているかを知るだけで、その書き手の「間抜け度」を計量予測することができる。これは実に明快な指標でしょう。僕自身これまで「!」頻度の高い文章で為になったものなど一つもないと思うから、この指標の効果は拳を振り上げて保証する。「!」過剰の文章は信用しないこと。

 

で、なんだっけ。もともとビックリマーク(正式名はエクスクラメーション・マーク)断罪論でなくて、題名が恰好悪いって話か。ここの副題にある「知られざる」なんかも実に常套化した用法で、中身は素晴らしいのだけど、それだけに勿体ない。古今東西、本の題名なんてのはマーケット意識過剰の編集者が一任で決めてしまうのだから、ぶつぶつ文句を言ってもはじまらないのだ。なぜなのだろうな。「知られざる」か。型通りであるがゆえに恥ずかしいのではなさそうだ。型通りでもさして恥ずかしくない物言いは殊の外いっぱいある。「~と言わざるをえない」なんてのはまだハニカミ度はさほど高くない(使いたくないけれども)。「大なり小なり」(多かれ少なかれ)、よく使うけれども、実はこの型は嫌いです。「~によれば」「言を俟たない」「~以上でもなければ~以下でもない」「言うまでも無く」「~を認めるに吝かではないが」、こういうのも野暮の骨頂だね。こんなのを三行置きに使っているのにロクな奴はいない(これだけは確言できる)。うん、無意識のうちに使いまくっている「野暮語法」を早く卒業したい。この支配からの卒業。夜はYouTube尾崎豊を見る。

 

ねちっこい言葉論評はもういいから、カタルーニャ。発音にいろいろあるみたいだけど、いちばん多いカタカナ表記は、カタルーニャ

いま渦中のカタルーニャとは何であるか。けれどもカタルーニャ自治州の選挙結果とか現在進行形の時事問題より、まず歴史が知りたい。日本人にとってガウディとかパブロ・カザルスとかピカソとかダリのイメージしか湧かないバルセロナの履歴書を急いで閲読したい。もっというと、そもそも民族とは何か、国家とは何か、独立とは何か、自治州とは何か、スペインはなぜカタルーニャの「独立」を容認しないのか(そしてEUも)、いろいろな謎が脳裏を行き来する。二〇〇〇年発行の本だけれど、大部分が百年以上前の出来事の叙述だから、新書特有の「おい何だか情報が古くてやり切れないぞ」という感じはしない。あと著者は歴史学者ではなくて、カタルーニャ語の博士みたいだ。カタルーニャ語の本をたくさん書いている。いいね。カタルーニャ語。勉強している人の話すら聞いたことがない。僕はカタルーニャ語スペイン語もイタリア語も知らない。ロマンス諸語は何も知らない。動機があれば勉強するかしらね。たぶんしないだろうな。意思疎通の必要性や快楽に繋がらないと人は言葉など絶対に覚えない。むかし幾つかの外国語を「熱心」にやってみて痛感したのだ。とどのつまり、語学において大切な要件はただひとつ、「必要」なのだ。いくらTOEICなんかで高得点をめざそうとしても、動機なき勉強は持続しない。「具体的にある人物に何かを伝達したい」という必要上の動機ほど強いものはないのだ。だから言葉をどうしても覚えたければ、Facebookなんかで外国の「知りあい」と繋がって議論や喧嘩でもし合う方が方がはるかにいい。動詞の不規則変化表と首っ引きでブツブツ言っているよりも、感覚が早く掴める。言い方が分からなければ、その都度調べればいいだけだから。この不安定ながらも生き生きした「対人感覚」を欠いた机上の語学は、結局血にも肉にもならない。いや本当ですよ。なんの力にもならない。不毛なだけ。もうウンザリするほど不毛なのだ。馬鹿正直にder、die、 das とか繰り返した末にニーチェの一冊でもまともに読める様になった人が、いったいどれくらいあるのか、知りたいものです。全ては「眼の前の動機」なんですね。僕はホリエモンは何となく好かないけれど、たまたまどこかで好い事言っていたのに遭遇した。人間は生来怠け者で中弛みしやすい生き物だから、「遠い目標」など絶対に持てない。せいぜい目に見える範囲の細かい目的をクリアしていくだけなのだ。だからいずれ第二のイチローになりたい人は今日の素振りメニューのことだけを考えていればいいし、第二のビル・ゲイツのなりたい人は今日か明日の課題とだけ真剣に向き合えばいい。細かい中間目標のない大きな目標など、いらない。というより不可能なんだ。なぜか。一時間先のことさえ人間には分からないからです。そもそも生きている保証など僅かもない。明日あると思うこころのあだざくら。今日の苦労は今日だけでじゅうぶん、これはなんか違うな。遠大な目標なんかいりません。目前の計画達成にのみ専心していればいい。しかしこんな安い勉強啓発本みたいな語調、書いていてすごく嫌だな。ま、じぶんに言い聞かせたい。また脱線した。でも人生の大半は道草にある。

 

かつてカタルーニャはイタリアから遠くギリシアまでの地中海世界を支配した大帝国だった。現在は、一九七九年以来、スペイン北東部の自治州に過ぎない。カタルーニャの歴史は、カルル大帝時代の辺境伯領にまで遡ることができるけれど、そこまで掘り下げるのは西洋史マニアくらいで、ふつうはだいたい、アラゴン王国に統合されながも独自の文化を維持して地中海貿易で繁栄した、一二世紀以降の事柄が中心となる。スペイン王国が統一した後(一五世紀末)は徐々に衰微していくのだけれど、カタルーニャ勢力の中央への反発は根強く、反乱も少なくなかった。ようするにこのころから既に中央政府と対立していたわけだ。

面倒臭いから、ここで猛ダッシュで近現代にまで下る。一九三一年の「共和国宣言」が出され、一九三四年には完全独立をはたすべく革命を起こすのだけど失敗した。ここで後に「スペイン内乱」(一九三六~一九三九)と呼ばれることになる物凄い内紛が勃発する。対立図式はさほど複雑ではないのだ。反ファシズムの「人民戦線政府」に対して、国内では保守派が、国外からはイタリアファシストナチスドイツが手助けした武装反乱。フランコという強靭な精神に恵まれた軍人のクーデターなどが口火を切り、もう大変な騒ぎだった(ムッソリーニヒトラーとは違って、こいつがまた長生きするんだ)。スペイン内乱の内情については、自らも国際義勇軍として参加したジョージ・オーウェルによる『カタロニア賛歌』に詳しいから、読んでみてください。岩波の赤にあったと思う。ビッグブラザーもいいけれど、あれもいいよ。

カタルー二ャに関していうと、そのフランコに逆らう勢力がカタルーニャ方面に多かった。だから自然とそこは人民戦線政府の重要拠点になった。結果はもうみんな知っている。人民戦線政府は打倒され独裁政治がはじまる。反フランコ勢力の中心地であったカタルーニャが、フランコの存命中にどんな扱いを受けたかは、想像するにあまりある。

 現在はカタルーニャ語カタロニア語)の使用と自治権は認められているが、マドリード中央政府とは常に折り合いが悪い。バスクもそうだけど、その歴史を辿ってみても、なぜこれほど独立志向が強いのか、傍観者にはなかなか理解できない。経済関係やアイデンティティ歴史観といった出来合いの問題設定だけでは括れない何かがあるのか。

そもそも分離独立するためには、どんな「手続き」がありうるのか。何を以て「正当」とするのか。なんらかの国際的な「前提」はあるのか。よくよく調べてみると面白そうです。

たとえばかつてバングラデシュが大変な流血沙汰の末にパキスタンから分離独立に成功したけれど、同じ「独立」といっても、地域ごとに事情が微妙に違う気もする。ソ連という醜怪なリヴァイアサンが崩壊した後に次々生まれた独立国も、それぞれちょっとずつ違う。民族や宗教、地勢、歴史、生産事情、人口比率、世界中全ての地域はそれぞれおそろしく違いあっている。おもえば「民族」という言葉さえ粗すぎるし、実は使い勝手もよくない。

 

「独立」という言葉が紙面を踊るたびに、人はなにもかもを分かっている振りをしてしまうけれども、実は「独立」という現象についてまともに調査したことも思索したこともない。なんだか言葉負けしてしまっている。無知を痛感する機会さえ与えられない。池上彰もそこまでは人びとに教えてくれない。ひたすら自分の手足と頭脳だけで掘り下げろ、だ。

「複雑な世界情勢」とか何とか決まった文句を繰り返すより、もう少し世の中にありふれている種々の概念の見直しに集中した方がよさそうだ。カタルーニャ云々以前の前に、僕はそもそも「国民国家」というものを理解していない。「帝国」とか「民主主義」とか「国家安全保障」とか簡単に言ったりするけれど、いざそれについて問われれば口が凍り付いてしまう。ひどく残念だ。不勉強を恥じる、という気持ちさえ起らない我が身の薄っぺらさを大いに恥じる。

 

おのれの無知を知れ、ということです。

 

物語 カタルーニャの歴史―知られざる地中海帝国の興亡 (中公新書)

岩田重則『「お墓」の誕生(死者祭祀の民俗誌)』(岩波書店)

「見渡す限り、お墓が続いています。一体この霊園には何千、何万の人が眠っているのだろう。ただ何々家の墓、とだけ刻まれたお墓はもちろん、生前どんな人だったのか和歌が刻まれたものもあり、思わず立ち止まってしまったけれど、夢という一文字が大きく彫られているお墓もあった。空地になっている一隅は、家名の書かれた木札が並んでいて、まるで宅地予定地のように整然と仕切られている。」

 

墓の本の話だから、唐突墓の引用から切り出したのだけど、古今東西、引用から文を書き起こす奴にロクなのがいない。ちょうど巻頭にやたらエピグラフを並べまくる作家にロクなのがいないのと同じ。これはいわば禁じ手なのだ。断わりもなく長々と人のフンドシで一人相撲しやがって、この野郎。まあいいんですよ、これは李良枝の短編「あにごぜ」の一節ですよ。もう忘れ去られている人です。このくだり、秀逸無類の名文というほどではないにしろ、シンプルながら薄味の利いた好文章ではあると思う。それにしても「宅地予定地」、整然と区分けされた霊園を喩えるのに何と適切だろうかね。そう言われると、現代のお墓は秩序度が高い。じゃあいつ時代に比べて、なのか。問題の所在はここにある気がする。

 

ざっくりと根源的に、墓とは何か。遺骸や遺骨を葬り、その人の霊を祀るところ。grave、tomb、墓所、塚、墳墓、いくらでも続けられる。墓についてはその形態の変遷や文化的な位置づけについて、案外知るところが少ない。というよりもがんらい知ろうとする情熱が起らない。いったいに墓というのは地味で詰まらないものなのだ。こんな妙なものが存在しているのにはそれなりの心情的合理的共同体的歴史的理由があるのかもしれない。毎年の家族での慣例の墓参りのたびに、じぶんがいま何に対して手を合わせているのかが分からなくなって、止め処もない思索に耽ってしまう。墓自体は加工された物質に過ぎない。花崗岩か何か知らないけれども。遺骨に対してか。それも物質に過ぎない。ここで墓参者は何を感じるべきなのか。「何を」拝んでいるのか。

かりに死者を思いだすだけなら他にいろいろ簡便な方法があるだろうし、迎え火によって先祖の霊が到来しているのであれば、わざわざこんな無粋な墓石などに手を合わせる必要もない気もする。仏壇にも、あるいは盆棚と呼ばれているものにも(僕は直接見たことがない)、何かしらの起源があり、その歴史があるはずだ。この新書は一応そこんとこあらあらと書いてくれているから、勉強になるよ。

 

無知まるだしの素人考えに違いないのだろうけれど、古来からの先祖崇拝云々とかいう民俗学的理由の前に、年に二回、正月と盂蘭盆会の時くらいは実家に帰省しなさいよという、なんらかの配慮機能の方が今日では大きな意味を持っているのではあるまいか。こんな国民的行事というか風習でもなければ実家に帰りにくい人びとがたくさんいる。すごくいる。特に会社や連勤自慢の大好きな野暮な男たちのなかに多い。

そういうなかで、盆と正月だけは、数百万人単位の民族内大移動を無理やり促す「大いなる助け舟」になっている。

そうでなかったら大都会の生産人口の大半は「故郷」に帰る口実をついに失ってしまう。慶事や弔事でもない限り。

それでもいいよという乾いた人も当然あるだろうけれど、ときどきは故郷に帰りたくなるのが地方出身者というものだ。くさっても故郷、むしろ愛憎相半ばする場所であればこそ、故郷といえるのかもしれない。みずからすすんで帰る場所ではないけれども、たまには帰ってきなさいと言われれば帰ってみたくなる故郷。「忙しいのに面倒くせえな」とかぶつぶつ言いながらも人々は存外素直に帰る。まだ待つ人がいる故郷に帰る。渋滞という鉄の大河を乗り越えて。いやちょっとポエムに走りすぎでしょうあなた、気味が悪い。誰だったかな、ふるさとは遠きにありて思ふもの、そして悲しくうたふもの、なんて歌った哀れな助平作家がいた気がする。

現代は通信インフラにも送金にも不自由しない。スグカエレチチキトクの時代はまだ人間同士のフィジカルな隔たりが即ち心の隔たりだった。いまは違う。車はほとんど一人が一台持っているし、東京から金沢まで新幹線なら半日を要さない。

電子メールもあるしスカイプもある。FacebookTwitterもLINEもある。人びとにとっては、死別以外は離別のうちに入らない。

ジョン・レノンの流儀でもってイマジンしてみる。近い将来マーク・ザッカーバーグ的野心が完璧に達成されて交通網が数倍拡大向上したならば、世界中の人間同士の物理的隔たりがある面においては無くなる。これはものすごいことだ。もう「北国の春」の情緒なんか誰も理解できなくなる。駅で泣きながら抱擁しているアベックなど昭和の記憶に遠のてしまう。各自のデバイスを通して常に遠隔対面可能ならば、一時的別離の哀感などあってないようなものだ。そういえばここ十年、ホームシックという言葉をあまり耳にしなくなった。

 

こうした空間極小化の潮流が盂蘭盆会特有の「日本的霊性感覚」を希薄化させている、という見方もできなくはない。僕自身にしてみても、毎年盂蘭盆会の期間は一応実家に帰るけれども、いま先祖が到来しているなという臨在感覚は持てない。どうしても。こればかりは個人の気質にも依るのかもしれないけれど、大部分の人が漫然とある種の社会的惰性によって、とりあえず帰省しているに過ぎない気がする。つまり特別な感傷に耽るための精神的条件が欠けている。ハレの日とケの日の区別も殆ど無意味になっているから、日常はおわりなき「客観的時間経過」以上ではなくなっている。宇宙はこのまま乾いた時間を永久に刻み続けるだけなのか。

 

そういえば、都会のなかで故郷へのノスタルジーに浸る趣味は現代にもありふれている。やたらに故郷を恋しがる奴もまだ結構いる。

北国の春」タイプの望郷歌謡はきっと、どこか人々の琴線にふれる何か普遍的な成分があるからこそ名曲化したのだ(さらに中国大陸にまで渡って)。ところで別の種類の甘酸っぱいノスタルジーもある。田舎と大都会に別離した恋人同士が互いへの想いを馳せる、「木綿のハンカチーフ」型だ。僕はかねがね、戦後のノスタルジー歌謡はごく大づかみに言って、「北国の春」タイプと「木綿のハンカチーフ」タイプに類別できるのではないかと考えている。これに関しては閑なときにもうすこし掘削したいですね。

 

閑話休題、ともあれですね、きょうびにあっては、墓も墓参りもあまり重大特殊な「精神性」を含ませていないのだ。これだけは間違いない。すくなくとも僕の見るところでは。あるいは最初から墓などその程度のものだったのかもしれない。

日常どこにでも存在している墓は、謎に満ちている。ちょっとした墓学に手を染めても損はない。どうせ誰もがやがて死んで焼かれて遺骨になるのだから。死を忘れるな、ですね。生きていることは無限に虚しい。死ぬことも虚しい。こんなことを考えていることも虚しい。

 

日本の、それも現代の墓事情を見てみると、その大部分が、いわゆるカロート式石塔となっている。近代の行政努力で「火葬」が一般化したので、死んだ人がそのまま埋葬されている墓は日本には殆ど存在しない(法律上、「土葬」の制度はある。ただし地域別に種々細かい条件がある。興味あれば「墓地、埋葬等に関する法律」参照。僕は難しいこと知りません)。

カロート式、聞きなれないけれども、現代の墓学においては極めて重大の用語なのだ。ようするに死者の遺骨を納める石室だな。我々の平生見慣れているタイプの、あの頭部の平坦な角柱型石塔の下部には、たいていのこのカロート(屍櫃)が備わっている。この様式は思いのほか時代が浅い。だいたいこうした石塔そのものも古くてたかだか四〇〇年を遡れるに過ぎない。それにむかしは個人の戒名を個々の墓に刻んでいたのだけれど、しだいに現代風の「先祖代々墓」に移行していった。著者は石塔の本格的な浸透は近世後期以降だと踏んでいる。

ともすれば人は錯覚する。すごく大昔から今と同じ風なお墓が存在していたのだとつい考えてしまいがちだけれど、墓の推移は常に現在進行形なのだ。百年以上の前の墓様式と平成現在の墓様式はだいぶん違う。現在ではお墓の大半は石材産業によって供給されている。そして一九九〇年代移行、その生産拠点は中国に移行しており、中国産製品のシェアが著しく増大している。商品としての「お墓」事情は日々時代の様々な要因によって変動を余儀なくされている。

いずれにしても、古来からの民俗的墓制は明らかに解体しつつあって、味気ない角柱型石塔による先祖代々墓として、現代の「お墓」は要領よく画一化されている。このことは、市場原理で「お墓」商品が生産・供給され続けていることと切り離しては考えられない。

 

私見だけれども、人生いろいろなのだからお墓もいろいろあっていいと思うのだ。もちろん墓参りの方式もいろいろあっていいです。

近世幕藩体制によるキリシタン禁圧の産物ともいえる寺檀制度は、現代にも様々の面で色濃く残っているのだけど、これなんかもよく思うとイビツです。墓や墓参りが詰まらない理由は、ひとつやふたつではないみたいだな。

そもそも墓とは何か、根本から考えて出直してみたいものです。

「お墓」の誕生―死者祭祀の民俗誌 (岩波新書)

シーナ・アイエンガー『選択の科学』(櫻井祐子・訳 文藝春秋)


 

奇妙なくらい大胆な表題だったから、この本を「選択」したわけだ。近所のブックオフ。人でいっぱいだ。なんでこんなに人がいるのか分からない、この阿呆みたいな暇人どもは何しに来ているんだろう、と一人一人がみんな頭のなかで思っていることでしょう、さしづめ。大衆というのは、「自分だけは愚鈍な大衆に属していない特別な人間なのだ」と思っている個人の寄せ集めですから。現在日本では二十代の九〇パーセント以上の人間がスマートフォンを所有している。SNS利用率は三十代でも八割を超えている。街で見かける彼彼女らの大半が歩きながらタッチパネルをこすっているのは、この猛烈な普及率からしか説明できない。それでいながら一人一人のユーザーの内心に分け入ってみると、自分の消費選択や行動様式がよもや統計上の「その他大勢」に単純回収されているとは思っていない(思いたくない)。「自分がこのiPhone8を購入したのは、あの薄っぺらいミーハー連中がこぞって騒いでいるからではない、何しろスペックが気に入ったし、審美的にも素晴らしい製品に違いないと判断したからだ」とか何とか御託を並べて、自分の消費選択の「凡庸さ」を固有の合理的動機に還元しないではいられない(この種の滑稽な消費心理の変質性は、たとえばメルセデスベンツのヘビーユーザーのなかにも村上春樹の熱心な読者のなかにも見られる)。

ここに社会の不思議がある。妙がある。個人現象と集団現象の妙な力学。この「その他大勢」問題については本書第三講に展開されているので、気になればそこだけでもつまみ読んでみてはどうか。

 

かえりみると僕は「選択・意思決定」がよっぽど苦手なのだ。古本屋に出向いて予算内で数冊本を買おうというとき、必ず数冊諦めねばならないものが出てくる。そうなると内心にわかに急き立ち、悪い動悸が打ち背中には脂汗が滲んでくる。入手したい本の候補のなかから何かを斬らねばならぬというこの切迫した「ソフィーの選択」的窮境に耐えられない。これは「脳」のある部位の過剰作動によるものだと思う。たかだか数冊の本でこれなのだから先が思いやられますね。

それにそうした苦しみは古本屋に限らないのだ。スーパーで同じ値段の複数の総菜パンのなかから一つだけ選び取るときも同じ。家電量販店で電子辞書を選ぶときも。実はこうした下らない文章をいい加減につくっているときも、その形容詞や熟語のためにいちいち脳を消耗させているようだ。ここはカタカナがいいか、句読点の配置は適切か、という具合に。

まさに人間は、その取るに足らないライフサイクルのなかで無数の選択を強いられている。泣きながら生まれて来た無力な個体は、随時選ばなければ生きていけない。志望校、友人、転職先、市長選、行きつけの飲み屋、情報、新幹線のなかで読む雑誌、ツイッターのフォロー、ブログサービス、賃貸住宅、これから聞くラジオ番組、連休の旅行先、マクドナルドでのポテトのサイズ、生涯の伴侶から子どもの名前まで、人の世は選択だらけだ。たとえばフジツボとかオランウータンとかマロニエなんかは一体どのくらいの頻度と濃度で日々の選択をこなしているのか、しりたい。今日は陽射しがいいから目一杯栄養を生産しようとか、あの木の実を取ると奴がうるさいから今回は諦めよう、とか案外ごちゃごちゃ意思決定しているのかもしれない。

終末医療現場ではしばしば生きるか死ぬかのシリアスな選択も余儀無くされるし、検察や裁判官は年中他人の人生を左右する選択を迫られている。離婚した夫婦は「親権」の選択をめぐってとことん揉める。国のトップの外交政策判断が国家の趨勢を決定することもある。選択する人間はなんらかの面でギャンブラーたらざるをえない。

ああ選択って、大変ですねえ。偉い人たちも凡人たちも、日々選択に気骨を折っているのだ。僕は選択で疲労したくないという理由だけで時々死に憧れる。

同じ量の秣に挟まれた驢馬はどちらかを選ぶことができず餓死してしまう、という出典不明の「ビュリダンの驢馬」の寓話は、一見荒唐無稽ではあるけれども、二者択一の場面での自身の困惑焦慮を思えば、無邪気に笑えない気もする。かくも選択は困難なのだ。


自由に物事をチョイスすることは生物の「本能」であり、また人間があらゆる希望を語るための条件でもある、なんてことを言われると、つむじ曲がりの哲学者はほくそ笑みながら多分こんなふうなことを能弁に語る。
そういうのは「自由の選択」の即物感覚に過ぎなくて、「自由の選択」などではありえないのではないですか、そもそも生物は自分が生まれてくることや自身の遺伝因子など最も重大な諸条件を「選択」することができない。ある個体の趨勢はより巨大な歯車運動によって最初から決定されているのではないですか。カルヴァン的な救済予定説もラプラスの悪魔の仮設も、とどのつまりは同じような絶望的宇宙観に根差しているような気も時々します。人間は畢竟何も選んでいないのですよ。既存の環境に支配されながら惨めに生きている無価値な生物群に過ぎません。
「人間の頭ってものは、なに一つとして新しいものなんか考え出せるもんじゃない、そんな風にできているんだよ。外から獲た材料を利用するだけの話なんで、意志の力で動いたりするんじゃない。自分で自分を支配する力なんか、もちろんないし、その所有主にだって命令する力はない」(晩年のペシミスト化したマーク・トゥイン『人間とは何か』中野好夫・訳)


「自由に選択している感覚」と「自由に選択すること」は、違うようで同じようで、どうにもならない問題のようだ。僕の意見では、哲学上の厄介至極の諸問題をやたら日常に持ち込むのは得策ではない。自由に事物を選択していると確信している個体のある行動が実は「既に決定されていた」としたところで、当の個体が自由感覚を生きているのであれば、それは「自由選択」なのだ。なにかが自由であるとか自由でないというのは反証不可能な命題同士のぶつかり合いであって、ようするにこのままでは自説に固執した形而上学的議論を越えられない。アンチノミ-、二律背反の隘路に行き着くだけだ。ただそうした議論は面白いので、やるならアテネの学堂でやってほしい。事実現象して止まない人間社会を説明するのに重たすぎる問題だ。ヨーグルトの成分を調べるのにヨーグルトの語源やその歴史的経緯まで洗い出す必要はない。問題のスケールとフェイズをその都度意識し直さねばならない。

 

生存上明らかに安泰な動物園の生き物が野生の動物よりなぜ短命なのか、コカコーラ社がサンタクロースを宣伝マンに仕立て上げた経緯、豊富な選択肢が購買意欲を刺激するわけではない旨、 投票行動と投票用紙のカラクリ、消費者から見たミネラルウォーターと水道水の違い、小売店などで主力商品をニッチ商品の売り上げが上回る、いわゆる「ロングテール現象」の話、一九八〇年代から一九九〇年代初めにかけてカナダはたばこ税を急激に引き上げて喫煙率は四〇パーセントも減少したが、一方で闇市場が隆盛してしまい深刻な社会問題となったことなど、興味に尽きぬ事例多数。

のんきに読んでいても目から鱗、ひとつ大いに学問しました。

選択の科学 コロンビア大学ビジネススクール特別講義 (文春文庫)