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 九三八堂の文筆武者修行(「蟄居汎読記」「書脈録」)

九三八堂の佐野白羚による随想ならびに読後録を定期掲載

加藤尚武『ジョークの哲学』(講談社)

ジョークとは何か。 ジョークらしいものを終日垂れ流す人々は少なくないけれども、ジョークについて「そもそも論」を立てる人は思いのほか少ない。 そのへんの辞書を開いてみると、ジョークとは冗談や洒落のことだと淡白に書いてある。それでは冗談とは何であって洒落とは何であるかと続けざまに問う。そうなると、なんだか急に難しい話に聞こえてくる。原理論はとかく厄介なものなのだ。

この本で議論されているみたいに、いざジョークのなかに哲学的厚みをみようとすると、かえってジョーク特有の軽妙な味わいが損なわれてしまうのではないか、という危惧も分からなくもない。けれども読後の印象として、感心すること頻りだった。ジョークにを通しての人間学が可能であることを思い知ったのだ。

著者によると、洒落はジョークの震源地らしい。 例はいっぱい思いつくけれども、実にくだらない。

「牛を返せよ」「もー返すよ」 「カラオケ」を「空の桶」 クリントン大統領とクリキントンの間の抜けた類似性が、クリキントン大統領という言葉遊びになる。 ホリエモンの愛称も、「ドラえもん」との関係なしには何の意味を持たないし面白味もない。 江戸時代から伝わる古典的小噺として、「向かいの家に囲いができたね、へえ」というのがあるけれども、これも歴としたジョークである。アイゼンハワー大統領の好感度を高めるための有名な選挙スローガン「アイ・ライク・アイク」もジョーク(ライクとアイクの音韻的相似性がポイント)。 カーター大統領が自分の庶民性をアピールするために愛用した「私はフォードです、リンカーンではありません」も素晴らしいジョーク(念のために説明しておくと、ここでは大統領と自動車が重ねられている)。

もちろんこうした語呂合わせの類だけがジョークではない。 ちょっと小骨混じりのブラックユーモアやピリ辛の教訓小話なども、広義のジョークとなる。

「勤勉とは充足への恐怖である」とか「軍備とは無駄におわることを期待される唯一の公共支出である」みたいな寸鉄人を刺すものもいいですね。

ほかに例はいくらでもあるけれど、やや知的と思ったものの内で、たとえばこのいうのがある。

A「スイスに海軍省があるんだってねえ」 B「なに、スイスには海がないじゃないか」 A「だってさ、ソ連に文化省があるくらいじゃないか」

これは明らかに冷戦期の西側諸国が拵えたジョークだろうね。これがステレオタイプ的か否かは別にしても、ソ連の印象のなかに何か殺伐たる文化的貧困性を感じ取っていた人々が多くあったのは事実と思う。 これと同じパターンのジョークなら何ダースでも苦労なく作り出せそう。

こんな具合に、素朴な語呂合わせの運用ゲームは世界中どこにでもあり、そのパターンの複雑さは計り知れない。偉い上流紳士から安月給の中年親父まで、誰もが一度は洒落を聞いたことがあるし、また口にしたこともある。

こうした洒落感覚の発露のなかに人間の本音が現れ得ることは、たぶんに考えられる。

「仏ほっとけ神かまうな」なんて実に語呂のいいコトワザがあったけれども、ここに日本人の宗教的リアリズムの一端がうかがえるなどと考えるのは少し穿ちすぎかな。

ところで、人生など所詮ジョークだよ、というふうなことを発する人が結構あって、私もそんな粋なセリフをいつかは嘯いてみたいものだけれど、考えてみれば、この命題には相当の無理が付き纏っている。というのもですね、そもそも、ジョークというものはある種の類比や相似性を前提にしないと生きてこないものなのだ。考えるまでもないけれど、「人生」や「宇宙」はあらゆる類比を絶した総体性である。それは、較べるものがないくらい、あらゆる事物事柄を包み込んでいる、手のつけようのない「所与条件」なのである。こうしたものは、およそジョークの対象にはなりにくい(まずならない)。ジョークの対象にならないばかりか、本来、指示代名詞の対象にさえ成らないのだ。「それ」とか「これ」と示し得る限定事象ではないのである。 それゆえ「人生など所詮ジョークさ」式のセリフは最初から破綻を強いられている。 それにですね、そんな無頼派気取りのセリフを発しながら、進んで自分の人生をジョーク化してしまえる人が一体どのくらいいますか。「人生などジョークに過ぎない」のであれば、突然自衛隊に乱入して総監を監禁しアジテーションを一くさりぶった挙句に切腹してしまうくらいの酔狂があってもいいはずです。けれども当然ながら、威勢のいいことを言う人々の殆どは相変わらず小市民的保身にかまけていますよね。それでいいのですよ。所詮人生などジョークではありえないのだからね。人生はジョークで締めくくるのには痛みが多すぎる。

この「人生」やこの「宇宙」が決して軽いジョークで済まされえない事こそ、人間の抱える最大の悲劇を端的に表していると言えるのだ。

最大のジョークさえ人生の煩悶を救済す力になりえない。これが本当のところです。

ジョークの哲学 (講談社現代新書)

ダン・ローズ『コンスエラ 七つの愛の狂気』(金原瑞人/野沢佳織・訳 中央文庫)

言うまでもなく、巷に狂気はありふれている。 人間が生きるということは、狂気を生きるということだ。 多少の狂気なくしては、人間など一時間だって生きられない。 世界は一塊の終わりなき悪夢でありますから。

狂気といっても、俗悪な狂気もあれば、人畜無害の狂気もある。

たとえば酔っ払いという狂気はうんざりするほど平凡だ。だから放っておこう。

嫉妬や喧嘩という狂気も、やはりいい趣味とはいえない。 (そうした狂気も集団レヴェルになると大義となるようだから面白い)

人畜無害の狂気の筆頭は、マニアと呼ばれるものだろう。 牛乳瓶のフタや読めない外国語書籍の蒐集に生涯大金を投じ続ける狂気は、いと愛すべきものだ。

私が好きなのは、愛の狂気だ。 といっても、互いの頬をつねったりしながら喋々喃々と夜を過ごすような、甘ったるいものではない。 もとより不合理千万な恋愛感情をその極限にまで高めたような、そんな狂気の発動が好きだ。 大部分社会的要因で説明できそうな「心中」や「駆け落ち」は、どこか生ぬるい。 狂気の悲恋は、それが虚構であればあるだけ美しい。

どんなものが狂気の悲恋といえるか。 このダン・ローズの短編集に出てくる人物が、そうした狂気を遺憾なく体現してくれている。

チェロを弾く一人の女性に恋い焦がれて、自らチェロになりたいと願望し結局そうなった男を描いた「ヴィオロンチェロ」は、甘くて綺麗でありながらシュールな怪奇性に満ち溢れていて、私の趣味にはとてもよく合う。 狂気を通りこしたところにある結末は、自分で読んで受け止めてほしい。 見様によっては、朝起きたら巨大な虫になっていたというあの話よりも不気味だ。

表題作の「コンスエラ」は、本当の意味で愛されたいという女性の願望の極致を描いたもので、いかにも虚構には違いないけれども、この心理は程度の違いはあっても男女ともに広く見られるものだと思う。

たとえば、金やステータスによって「愛されている」男はしばしば、自分が乞食にまで落ちぶれても連れ添う女性が変わらずに愛してくれるだろうかと不安を抱く。 一方、ある種の女性は自分の肉体の美しさや高価なアクセサリーだけではなく、「私自身」を愛してほしいと思う。加齢とともに幾重もの小皺ができて何を着ても体型の変化を隠し通せなくなった自分を、かつてと同じように愛してほしいと願う。 「私がおばさんになっても」とかいう流行歌があったけれど、このような「不変の愛」を他人に求める心理傾向は、かつて肉体的な美しさを誇っていた自己愛性人間にほど強く見られるものだ。 しかし、この「私自身」というのはクセモノだ。カントの「物自体」ではないけれど、そんなものは普通認識できない。 人間というのは何よりも身体のことだから、その身体とは独立した人格領域を想定してそれを愛することは、なかなか出来そうで出来ることではない。 身体の物理的特性を度外視して、人間が人間を把握することは出来ない。恋情というものは身体に対する直観に基づいている。 鼻の高さ、目の配置、色、その声、肌のにおい、髪の毛の色、こういうもの全体がひとつの色気となって、ひとりの人間を表現する。 だから、「内面」などいう抽象的なものは、さしあたりは無視してもいい。内面というものの想定が有効であるにしても、それを表現身体と切り離して考えることは難しい。 すくなくとも「色気」や「愛情」というものは、人びとが思っている以上に「目に見えるもの」に依存している。

「コンスエラ」の作品としての美しさは、人間には本来不可能な精神的愛情を、あたかもそれが私たちにも可能であるかのように描き切っているところにある。

コンスエラ―七つの愛の狂気 (中公文庫)

大澤武男『青年ヒトラー』(平凡社)

歴史の「常識」においてはヒトラーは負のレッテルにまみれているので、彼の中に人間味や友情感覚があったことを実感するのは並大抵のことではない。 けれども彼も人間であって、超人でもなければ悪魔の使者でもない。多感な少年時代もあったし青年時代もあった。恋もしたし失意のどん底さえ経験した(それも凄まじい失意のどん底を)。アドルフといえども反ユダヤ思想を鼓吹しながら生まれて来たわけではない。誰もがそうであるように、無力な生命個体として泣きながら生まれて来た。 それゆえ、その生い立ちをしることは、彼の近現代史上の途方もない役割を知る上で、きわめて重要のことだ。

この本は主として、ナチ党に入党するまでのヒトラーをやや駆け足で検証してみせる。よく知られているように、彼はドイツで生まれたのではなく、オーストリアのブラウナウというイン川沿いの町でうまれた。ここは古都ミュンヘンを擁するバイエルン州に隣接している。いまでもヒトラーの生地として訪れる人は後を絶たないけれど、現地の人の心情は余程複雑だろう。「オーストリア人はベートーヴェンオーストリア人と主張し、ヒトラーをドイツ人と主張する」というふうな悪言をどこかで聞いたことがあるけれども、その真否はともかく、こんなことを言いたくなる人が国内にあるのは本当と思う。ヒトラーの名は現代では殆ど悪の代名詞だからな。スターリン毛沢東のような功罪相半ばしている権力怪物とは訳が違う。「アドルフ・ヒトラー」をはじめナチス的なあらゆる事物は、問答無用に否定されるべきものなのだ。思考停止と言われようが、彼彼女らは冷静にヒトラーなるものを再考しようとはしない。

だからですね、まずはアドルフ・ヒトラーのことを知りましょうよ。 ところで彼は生まれた一八八九年はどんな時代だったのか。ウィーンで何を考え何を見聞したのか。クビツェクという親友と意気投合できたのは何故なのか。美術学校の試験に二度も落ちたことや、死と隣り合わせの軍隊活動は彼の世界観に何を教えたのか。我が闘争の脚色はどの部分にあるのか。絶滅させたいくらいユダヤ人を憎んでいたというのは、本当なのか。もしそうであるなら如何なる経験が彼の憎しみを掻き立てたのか。共産思想へのシンパシー本当にあったのか。不遇の時代、彼はどんな種類の本を読んで、何を考えていたのか。そもそもなぜそこまでワーグナーに傾倒していたのか。彼は一体何を夢見ていたのか。 ヒトラーに関してはこれほど興味が刺激されるのは、彼くらい個人の観念によって歴史を騒がせた人間は、他にいないからだ。多くの歴史学者は、ヒトラーが絶対刑権力を握らなかったならば、あれほどのユダヤ人虐殺はまずありえなかったと言う。反ユダヤ思想は以前からあった(一九〇三年四月のウクライナでのポグロムはことに有名)。けれどもそれがアウシュビッツ的惨劇になる必然性は、どこにもなかった。せいぜい一部の反動的不満のくすぶりでしかなかった。

この本でも指摘されているけれども、ヒトラーは労働者や農民によるユダヤ人への潜在的な不満を焚きつけることで、最大限政治活用することに成功したのだ。生活の困窮に大なり小なりのルサンチマンを抱えている民衆は、ヒトラー一流の扇情的弁舌の下に進んで騙され、一致結集したのである。 無知で貧乏な労働民衆が愚かなのは仕方ないにしても、ここまで劇的に感化される例も珍しいのではないかな。あるいはそれほどヒトラーのカリスマ性が際立っていたのか。芸術家に成り損なった男が政治家として大成功する、という話は歴史上類例があるのだろうか。誰か調べてほしい。

ヒトラーの研究は今日では汗牛充棟の体を成しているけれども、なかには彼をひたすら悪人に仕立てようと躍起になるあまり、事実検証を怠っている例も少なくない。 死後六十年以上経過するのに、彼はいまだに掴みがたい「政治家」のままだ。 歴史の文脈の中で彼を追跡しようとするなら、あらゆる先入主をしばらく捨てないといけない。鵺的人物とか世紀の悪人とか言って誤魔化している場合ではない。 歴史家の仕事は断罪でもなければ啓蒙でもない。膨大な一資料を渉猟しながら、ともすれば伝説化しがちなその人間的実体を、僅かでも再現することだ。

その点で本書には、人間としての初心で神経質で夢見がちの青年ヒトラーの面影がよく現れていた。権力の絶頂にありながら昔の親友を招待するヒトラーや、ヒトラー家のホームドクターであったブロッホユダヤ人)にだけは迫害の手を伸ばさなかったヒトラーの姿は、たぶんに厚情的にみえる。それだけに彼の命令によって成されたあらゆる所業には戦慄してしまうのだ。この極端な両面性に。

ある種の政治的世界観は、見ず知らずの「その他大勢」に対しては、かくも冷酷になれるらしい。あるいはヒトラーの心が特別事例に過ぎなかったのか。本当のところ、まだ分からないのだ。

青年ヒトラー (平凡社新書)

石井淳蔵『マーケティングの神話』(岩波書店)

洗濯用コンパクト洗剤「アタック」(花王)や日立製作所の洗濯機「静御前」のようなヒット商品の裏には綿密なリサーチやマーケティング理論があると思われがちだが実はそうではない。市場に厳密な理論などは本来通用しないものだ、と概ねこんなことが議論されている本で、「新しい商品はこうやって売り込め」というふうに自分の華々しい成功譚をゴーストライターの筆を通して垂れ流す「俺に見習え本」でもなければ、「サーベイリサーチの極意」を律儀に伝授してくれる類のノウハウ本でもない。

ホンダや日産の人気車種や過去のヒット企画(「不思議、大好き」のコピーで有名なエジプト展)など、聴き馴染んだ事例が各章に引かれてあるので、その過度に込み入った議論には参与できなくとも、国内外のマーケティング史上の目立った出来事を大雑把に追跡した気分にはなれる。 全体を通じて注釈も密で、余程注意しないと論点そのものを喪失しそうになるけれど、著者の視線の先にはある共通した問題意識があることだけはよく分かる。マーケティング分野にかかわらず、合理的思考や実証主義的アプローチには自ずと限界があることを著者は前もって確信しているようだ。 株式市場や金融相場を「見通す」ことは不可能とされている理由も一緒に考えたくなる。 後半はレヴィ・ストロースやガダマーやマルクスの「労働価値説」まで飛び出してきて、どうかすると学をてらっているようにしか見えなくなる点もあるものの、このあたりは学者だからどうにも仕様がない。学者には学者特有の文体がある。「~的」とか「~性」みたいな硬質な抽象術語を重ねに重ねて自説を組織していくのが彼らの商売なので、読みやすさなどは二の次となる。つまるところ学者というのは日常的な臭みを持ちすぎた言葉をあまり好まない人たちなのだ。そこのところを汲み取ってやらねばならない。

この本は差し詰め、次のようなことを考えている人に相応しい。

そもそもマーケティングとは何か。「無数の商品のなかでなぜ特定のものが選ばれて類似した他のものが売れないのか」を問いに答えることは可能なのか。人間はなぜ消費するのか。「何」を消費するのか。「交換」「競争」とは何か。「科学」という営みはマーケティングと言えるのか。 反面、自社製品を売りこみたい人には何の役にも立たない。

余談になるけれども(私の書く文章など終始余談といえる)、キティちゃんのご当地グッズを熱心に集めている知人をみて素朴な好奇心を刺激されたことがある。キティちゃんのデザインが配されているだけで他には何のとりえもない商品群に「いい大人」が大枚をはたいているのだから、傍目には面白い。キティちゃんを抜きされば、それらは粗末なメモ用紙であり単なる一枚のハンカチに過ぎない。キティちゃんだけが商品の「価値」を倍化させている。商品の直接的な有用性だけでは、こうした収集熱を説明することはできない。シャネルの香水やルイヴィトンのバッグに心惹かれる心理も、このキティちゃん熱の心理と大して変わるものではないだろう。そもそも消費する人間は常に、「純粋な物的効用」(肌を覆う服や喉の渇きを潤す水のような)以上のものを潜在的に求めている。「単なる自動車」や「単なる水」(*)が市場に殆ど出回っていないことからも、それはよく分かる。

*商品としての水(それにしても水が商品になったときには如何に想像力豊かなSF作家たちも驚いただろうし、資本主義体制のディストピアを想像する材料にも事欠かなかっただろう)には、見ずに必ず何かしらの謳い文句が付いてくる。「六甲のおいしい~」とか「海洋深層の~」とか。

人間の「消費活動」のなかには、コアラがユーカリの葉を食ったりパンダがある種の笹を好むこと以上の「嗜好・要求」がある。「生きるため」とか「本能」で説明できることではないようだ。

それでもこの奇妙な哺乳類に特別な地位を与えてはならない。

マーケティングの神話 (岩波現代文庫)

ブラックウッド他『怪奇小説傑作集Ⅰ』(平井呈一・訳 創元推理文庫)

怪奇小説のアンソロジーで、殆ど知られていないものから半ば名作化したものまでいい按配に寄せ集められている。全部で五巻構成らしいけれど、私はこのⅠとⅡしか読んでいない。平井呈一の訳文が些か古風でしかも凝ってもいるので、この手の作品集にあまり食指が動かされなかった私もつられるように読みいってしまった。傑作集といいながらも中々渋い作品も取り上げているので、結構に気に入った。

「夜が明けた。文目もわかなかったものが、しだいに鳩羽色になり、やがて赫奕たる光の壮観が空いっぱいにひろがりだしてきた」(E・F・ベンスン「いも虫」)

こんな具合の文章に私は小さな興奮を覚える。「鳩羽色」など今の人はほとんど使わないし、使ったところで気取り屋と思われるのが落ちだ。「髪は烏の濡れ羽色」なんていう艶っぽい文句も、いつまで通用するか分からない。私は、世の中に氾濫している「国語的亡国論」の類を一笑に付する冷めた人間ではあるけれど、「言語」が一人の人間の思考様式や表現内容と不可分であることは疑っていない。考えが薄っぺらいな、と思う人は、大抵自分の言葉に注意を払っていない。ひとつの言葉の余白や奥行きや曖昧性にも殆ど関心を持っていない(これは自戒の為に言っているのだ)。

           *

幽霊(あるいは怪奇現象)とは何か、という切り口の問いはある種の曖昧性と煽情性を帯びてしまうので、ものごとを真剣に考えようとする人間の間では殆ど話題にされることがない。 筋金入りの唯物論者はそれを困憊した大脳組織の写し出す幻影のせいにするだろうし、碌な科学的素養もないその平信徒は何となくそうした論理で全部説明されたような気になる。

思えば、人間はむかしから、周囲の「見えない力」を各自の文化的フィルターを通して何とか表象しようと努めて来た。ギリシアの古代神話に出てくる膨大な神々も「死」や「天空」「海」「風」などを擬人化(人格化)したものだろうし、神社や山にも理屈では説明のつかない臨在感(そこには特別な何かがあるという感じ)がある。夜のまっくらな道が恐怖心を起こさせるのはそこに奇妙な潜在性を認めずにはいられないからだ(足元が不確かで躓くのではないか、とか、追剥にあうのではないかという具体的な恐れではない)。暗くて何もみえない世界は魑魅魍魎がうごめいている風になる。科学的教育の有無はこの際あまり力を持たない。

「何かが出そうだ」という周囲世界のつくりだす気配は、人間(現在意識者)の知覚面での見通しの浅さと無関係ではないようだ。 あらゆる不明瞭なものが白昼の下で照らされてあれば、朽ちた紐も蛇にはならないし、落ち武者が枯れ薄を亡霊と見まがうこともない。光に乏しい世界は事物の輪郭を曖昧にさせるだけではなく、人間の連想・誤認傾向を否応なしに助長する材料にも事欠かないので、自分にとって異質な空間を演出する。異質なものは親しんでいないものということだから、自分はそうした異質性にどうしても身を預けることはできない。

人間が「死」に対して漠然と抱く不安の情緒も、この身を預けがたい何かへの「適切な」反応ということができそうだ。天然痘も眠気も日射病も、また、癲癇も山鳴りも地震もみな異質極まる経験に違いなかった。 (煎じ詰めれば生命個体として「生まれること」そのものが不気味で暴力的な経験だ。フロイトの異端的な弟子であるオットー・ランクの労作『出生外傷』(みすず書房)の焦点は、この異様な経験に置かれている)

人間は常に異質なものに囲まれていて不安が絶えなかったので、それらを親しみやすい何ものかに変換しないではいられなかった。手っ取り早いのは、世界の物語化だ。 人間らしい形質をもっていて、ときに悲劇をときに喜劇を演じる神々に、そうした不気味な現象の「原因」や「意味」を帰するなら、人間にとって世界は限定されたものになる。自分の出処にもある程度の確信が持てるし、死後の世界も全くの未知領域ではなくなる。

伝承・伝説・民話の類はこうした臨在感なしでは生じようがない。自分自身が到底溶け込むことができないような異様な外部、惰性に逆らう「そこに何かが」感。 世界方々で作られ、今も作られ続けている怪談話・怪奇小説の類も、そうした心理的土壌があってはじめて理解できるものになる。

人間は、異質なものを拒みつつも同時にそれに惹かれもする。ついにはそうした怪異物語は娯楽化してしまった。 欧米のおびただしい幽霊小説から日本の怪談噺まで、ここ二百年ほどの間に作り出された作品数はそれこそ枚挙にいとまがない。子供も大人も怖がることが大好きらしい。 私の子どもの頃に「木曜の怪談」というテレビ番組があったけれども、子どもにとってはあれは実に怖かった。今日では書店に行けばホラー小説など何百冊でも手に入る。ツタヤにいけばホラー映画を借りられる。そういえば一時期、ゾンビを打ちまくるという仕様のホラーゲーム(『バイオハザード』はその種のゲームの古典だろう)が流行した。

「恐怖は人間の最も古い、最も強い情感だ」(H・P・ラブクラフト) これまで何万回とも引用されて来たこうした格言は、どれほど斜に構えようとも間違っているとは思えない。自然宗教神経症も恐怖の感情を度外視しては一言も語れないと私は思っている。「理性」「科学的実証法」「懐疑論」など恐怖に比べればまだケツに殻を付けているような小僧っ子に違いない。

哲学では「実在」という言葉を粗末には使えない。だから、「幽霊の有無」なんてテーマで話が盛りあがるとき、毎回私はどうにも歯痒い気持ちになる。 こうしたとき、まずはその由緒ある問いの荒っぽさを見直してもらいたいのだけれど、そうすると話が急に味気ないものになる。「実在する」ということがどのような存在内容を示しているのかを明らかにしないまま、この問題に立ち寄ることは出来ない。多少は出来たところで酒の席の与太話以上には発展しないだろう。冒頭でも言ったように、幽霊や怪奇現象が世間では一過性の話題にしかならない理由は押し並べてこの辺りにある。

随分前にデボラ・ブラムの『幽霊を捕まえようとした科学者たち』(文春社)をみたが、ここには、当時最高水準の科学的素養や教養を誇る人びとが如何にしてポルターガイスト霊媒術にのめりこんでいったかがよく描かれているので、科学者と怪奇現象の繋がりに興味のある人には一読を奨めたい。

そういえば、シャーロックホームズの作者としてしか殆ど記憶されていないコナン・ドイルも大量の怪奇小説を残している(凡作が目立つというのが本音だけれども)。それだけでなく彼は晩年は心霊術擁護の為に講演活動等で東奔西走していた。医者でもあり、また明快な論理的思考能力にも恵まれた彼が超自然現象に惹かれ続けていたという事実は、あまりにも多くの暗示を含んでいるので、取り急ぎの安易な判断を下せない。

私自身は終始一貫、「世界」を異様なものとして捉えているようだ。日常は本来、そこにあるだけで驚異に値する何事かと言える。こうした経験に慣れてしまうと、あらためて「問う」ことの重みが失われてしまう。最後にはそもそも何が異様なことなのかも分からなくなる。視野狭窄した眼の前には、曖昧でふてぶてしい既成事実だけが残る。 知らずのうちに、人はこうやって自分を「世界」に馴致化しようと努めてきた。思考あるいは「改めて問う」ということは、こうした抗いがたい馴致化の過程に先ずは逆らうことであって、他ではない。

通俗的な怪奇小説のなかにも思索を促す素材は多くある。 怪奇な日常を怪奇な眼差しで見つめなおする契機を、そうした作品群は、それとなく与えてくれる。

怪奇小説傑作集 1 英米編 1 [新版] (創元推理文庫)

中村計『甲子園が割れた日』(新潮社)

松井秀喜はほとんど毎年金沢市に来て、様々な恒例イベントを真面目にこなしている。星陵高校(松井の出身校)の山下さん(もと監督にして松井の「恩師」(引用符なしでは使いたくない言葉だ)と面会するシーンはローカル放送の定番といってもよく、石川県人には説明不要の風物詩だ。

松井ファンではないが野球愛好者の一人である私も、割合近くからその姿を「拝見」して、満足したことがある。当時既にヤンキースに在籍していた彼をナマでみたのは初めてだったので、現実感がなかった。スーパースターの周りにはとかく人が金魚の糞の様について回るもので、サインペンと色紙をもった野球少年がキャッキャッと小猿のように騒いでいた。 一昔前、石川県出身で「誰にでも」通用するビッグネームは二つしかない、と友人が自嘲気味にいっていた。 森喜朗松井秀喜だ(根上町というところも同じ)。 石川県では「喜」という字を子供に付けると大物になるのかもしれない。 そんなことは、どうでもいい。

九二年の高校野球での「松井五打席連続敬遠」はひとつの「事件」、というより、ある問題提起を促した。 意見は二分三分した。 「事件」というのは、星陵の唯一の主砲である松井秀喜が全打席で歩かせられたというものだ。 五打席目の敬遠中には観客席からは野次が響き渡り、レフト席からは「くそくらえ」というようなメガホンも投げ入れられた。勝利した明徳義塾の校歌斉唱中に帰れコールが沸き上がった(当の松井はほとんど意に介さぬ風を装っていた)。 高校野球に残酷な悲劇は付き物だけれど、この種の「事件」はそう多くはない。

「高校球児たるもの正々堂々と勝負すべきだ」式の観客側の「野球美学」に立った単純な否定論もあれば、「ルール違反ではないのだから騒ぐようなんことではない、試合は勝たなければ意味がない」というクールな観点もあった。 高校生離れした松井を敬遠するのは理に適っているが、四打席目くらいは勝負してもよかったという折衷論のようなのもあった。

こうした意見は全て、「当事者」の置かれた立場を度外視しては語れない。評論家も新旧のOBも、めいめいが自分の「野球観」に則って安易な判断を下す。

松井の打撃を見たかっただけの中立的な観客はこの「敬遠」策を美学的に好まないだろうし、メガホンを球場に投げ入れて「否」を表明した星陵サイドも当然その戦略をよくは受け止めない。

明徳義塾の監督・馬淵史朗は名将として知られていたが、この試合のために一時期高校球界のヒールを演ずることになった。高校には抗議の電話が殺到し、脅迫まがいの手紙も届いた。明徳側の投手がベンチ上の変な観客から金網越しに「殺すぞ」と野次られることもあった。

それにしてもあの連続敬遠のために松井秀喜は伝説のスラッガーとなった。松井の存在そのものがひとつの脅威だったのは確からしい。当時の映像を見ても、体格などでは説明の出来ない威圧感がある。 あの敬遠に反発した人々は往々にして、「そこまでして勝ちたいか」といった類の決め台詞で明徳義塾を批判する。「美しい負けなどはない」といわんばかりに、明徳側は切り返す。

この議論はいまどうなっているのか。 どうしてあれほど話題をさらったのか。 五度も歩かせられた松井をホームに返すことの出来なかった五番打者の苦悩。 監督の敬遠命令を忠実に守った投手(とはいえ彼もこの策を当然のものだと思っていたそうで、特段傷を負っている様子もない)のその後。 どうしても松井にバットを振らせたかった山下監督の声。 明徳義塾高校の練習風景。意外と我が儘だった高校時代の松井

イチロー清原和博長嶋茂雄王貞治以外の野球選手を知らない様な人には、あまり面白くないトピックかもしれないが、すこしでも野球戦術や心理に関心のある人にはなかなかお奨めの一冊だ。

甲子園が割れた日―松井秀喜5連続敬遠の真実 (新潮文庫)

ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一・訳 集英社)

「存在の耐えられない軽さ」。巷には、こんなタイトルをもじったもの、がおびただしくある。 本人は得意になっているのだろうけれど、実にまずい。凡庸極まるね。

いきなりニーチェの「永劫回帰」(*)だ。 文豪のなかには、こうした「哲学風エッセイ」を物語のところどころに挟みたがる人たちがいる。 トルストイの『戦争と平和』が一部に不人気なのは、たぶん(周期的に開陳される)彼の抽象的な歴史観が素朴な読者(ロマンチックな)を辟易させてしまうからかもしれない。性格はずいぶん違うけれども、(私の好きな)ロベルト・ムジールの『特性のない男』などはそうした例の極北かもしれない。地の文も会話文もやけに理屈っぽく難解で、作者の思想や理念が作中人物よりも先に前面に出て、しかも饒舌ときている。

*【彼の根本思想のひとつで、あらゆる存在は意味も最終的な目標も無く、永劫に繰り返されるのだが、この円環運動をあえて生きようとする者は生の絶対的肯定に向かう。この宇宙が永遠に繰りかえす、という世界観は、古代ギリシアピュタゴラス学派やヘラクレイトスにも見られるが、ニーチェはその回帰思想に道徳性を付与したとされる。 私は「実在的」な「原子」を基本単位(使いたくない言葉だけれど「唯物論」)とする世界観は自ずとこうした考え方に向かうものだと考えている。というのも、こうした前提のもとでは、世界の現象は原子の特定の結合と無関係では考えられないからだ。「いま清水克之がパソコンに向かってミラン・クンデラにまつわる雑文をしたためている」という現在認識が現象化するには、「数え切れないが有限の原子」が「ある特定の結びつき」をしなければならない。その「原子」群がそうした結びつきをするのは稀な出来事ではあるけれど、「時間」(ここでは素朴な意味で)は無制限であるから、結局は無限回その現象は起こりうる。論理的には明快で、中学生でも同様のことはよく考えている(「生物」がなぜ存在しているのか、という問いに対する各科学者の説明も総じてこうした原子観に基づいている。有機的な原始スープ説であれ、鉱物説であれ。というのもここでは、どれほど複雑に自己複製し続ける分子のパターンも原子結合の所産と見なされているからだ)。 ニーチェ永劫回帰は、直観的にそうした点を捉えたものだろうと思う。 「一切の諸事物のうちで、走りうるものは、すでにいつか、この小路を走ったに違いないのではないか? 一切の諸事物のうちで、起こりうるものは、すでにいつか、起こったり、作用し、走り過ぎたにちがいないのではないか?」(吉沢伝三郎・訳『ツァラトゥストラ』「幻影と謎について」) そしてあらゆる回帰に絶望しながらも「英雄」はそれを受け入れる、と。蛇を噛み切るように】

クンデラも観念的な字句を割合好むほうらしいが、限度をわきまえている。読者がどのあたりでウンザリするかをよく知っているのだ。

ところで、ミラン・クンデラチェコ事件と切り離して考えることは難しい。 ことにここで取り上げた作品の舞台背景は世のいうところの「プラハの春」騒動となっているので、なおさらこのことは強く感じられる。

チェコ事件」は、一九六八年、「人間の顔をした社会主義」を提唱していたドプチェク第一書記の下で自由化政策(*)が推し進められていたチェコスロヴァキアに対して、ソビエト連邦・東欧軍が軍事介入したというものだ。ドプチェクは、当時首相だったチェルニークら改革派とともに逮捕され、KGBの監獄に連行された(その後、なんとか釈放はされる)。 武力行使を以て民主化を抑圧したソ連当局は、その事件の後、世界的な批判に晒されることとなった。この政治介入は、「共産党一党独裁体制を守るためなら暴力をも辞さない」というソ連側の強い意志表明でもあったが、結果的に独裁体制の「もろさ」を露呈することとなった。 非共産圏にあるソ連支持者も、これには裏切りを感じないわけにはいかず、国際世論におけるソ連離れの大きなキッカケになった。

*【具体的には検閲廃止や政党復活、市場経済方式の導入などの改革。こうした民主化の動きはチェコだけで起こったものではない】

ソ連の当時のボスはアメリカンジョーク(*)でも度々登場するブレジネフで、この今ではすっかり悪役をあてがわれている政治家は、スターリン批判で有名なフルシチョフ失脚後に就任した。 共産国総本山のソ連当局としてはチェコのマイウェイ政策を座視しているわけにはいかなかった。連邦構成国の離反を一つでも許せば、統率がきかなくなると判断したからだ。あのブレジネフ・ドクトリン(制限主権論)は、この軍事介入の後に出された苦しい弁明に過ぎない。

それにしても、ソ連にとって軍事介入は碌な結果をもたらさない。チェコ事件の約十年後、ソ連アフガニスタンを侵攻によって自滅を速めた。 防衛ならいざしらず、この類の軍事介入が功を奏することなどあるのかと、素人目にも問いたくなる。

*【こういうジョークをきいたことがある。 ブレジネフ第一書記がソ連から誘拐され、その誘拐犯から脅迫の電話があった。「いますぐ百万ドルを払え。払わなければブレジネフをおたくの国に返すぞ」】

ミラン・クンデラは、一九二九年、チェコスロヴァキアモラヴィアの中心都市ブルノで生まれた。 ワルシャワ条約機構軍の占領で終わりブレジネフの傀儡フサーク大統領の「正常化」政策が続けられる時代に、この作家は様々な圧迫を受け、結局は出国を余儀なくされる。 彼は七九年にチェコスロヴァキアの国籍を剥奪され、八一年にフランスの市民権を得ている。メレジコフスキーやソルジェニーチィン同様、体制側から追放された作家の一人だ。ロシアを中心とした共産諸国のように政治的地殻変動が極めて烈しいところでは、そうした亡命知識人に事欠かくことはない。

ちょっと話は変るけれど、巷には「亡命文学」と称されているジャンルがある。 政治的・民族的(「人種」的)あるいは宗教的な理由で祖国を追われた人々によって書かれた文学作品のことで、もうこうした人々の特集だけで何ダースものアンソロジーや叢書が組めるほど濃い分野と言える。 古くはフランス革命からナポレオン時代にかけてのシャトーブリアン、スタール夫人、ナポレオン三世治下でのヴィクトル・ユゴー(この人は筋金入りの共和主義者だからナポレオン三世を徹底的に批判した)、ロシアのツァーリ時代のゲルチェン(ナロードニキ思想の先駆)、ナチスドイツ時代の豊かなユダヤ人文学(私の大好きなヘルマン・ブロッホとか)、日本人にも人気のあるトーマス・マンなんかもそうだ。

こうした政治的な翻弄を経験した作家には、不思議な筋の強さがあるように思う。「体制」というものを「政府」としてしか捉えられない庶民派作家にはない、ある種の悲壮な反骨性がある(私の考えでは、本当に問題を孕んでいるのは、めいめいの「当事者・意識」に他ならない。「体制」というものは全てこの所与の立場に基礎づけられている)。 戦前の日本でのプロレタリア文学にも、ごつごつして不器用だけれど異様な迫力が一部にはある。 伝統的に多くの世代の一部の若者がクロポトキンバクーニンの著作に惹かれるのは、どうしてなのか。ゲバラのTシャツを着たり、マルクスエンゲルスを読んでいるふりをしたりするのはどうしてなのか。幸徳秋水大杉栄があんなに「かっこよく」見えるのはどうしてなのか。 人は潜在的に眼の前のシステムや慣習をぶっ壊したいと欲望しているからではないか。 抑圧的なものや、対立、欠乏、暴力への反動。すぐに触れる「俗悪」なるものへの反発。太文字の「否」を表明すること。

とりあえず私はそういうもの全部ひっくるめて「大いなる不満」と呼んでいる。

「人類愛」だとか「貧困撲滅」というような抽象的な題目を唱えることからは生まれてこない「否!」を、紙と筆だけで表出するのは並大抵のことではない。 何が「体制」か。「体制」という言葉は、今日では何の含みも持たない。「体制」は巨大で「悪い」ものなのか。政治的支配と思考様式の支配を区別することはできるのか。既にあるものは当たり前の何かとなっている。 存在への同化。愚鈍化。馴致化。耐え難いほどの間抜け化。 私が敬愛してやまない埴谷雄高ならこういいそうだ。

「体制」とは既に存在している全てのものだ。

空間も体制なら、管理された感性も体制だ。日常ももちろん体制だ。自然も同様。 ことに日常は俗悪なものだ(これが非難ではないのは、俗悪と日常は切り離せないことによる。最早やそれを感じている主体を探すことが困難であることもそうだ)。

俗悪なものの根源は存在との絶対的同意である。 では何が存在の基礎であるのか? 神? 人間? 戦い? 愛? 男? 女? (『存在の耐えられない軽さ』千野栄一・訳)

俗悪(キッチュ)なものは続けざまに二つの感涙を呼びおこす。第一の涙はいう。芝生を駆けていく子供は何と美しいんだ。 第二の涙はいう。芝生を駆けていく子供に全人類と間隙を共有できるのは何と素晴らしんだろう。 この第二の涙こそ、俗悪(キッチュ)を俗悪(キッチュ)たらしめるのである。 世界のすべての人々の兄弟愛はただ俗悪(キッチュ)なものの上にのみ形成できるのである。 (同書)

我々は(私は、ではない)、作中の主人公トマーシュの愛人サビナのように、「私の敵は共産主義ではなくて、俗悪(キッチュ)なものなの」と叫ぶことはできない。自分のなかにもそのキッチュなものが既に入り込んでいるからではなく、何がキッチュなものであるのかが分からないからだ。 雑誌でも敬礼でも出産祝いでも元大物プロ野球選手のスキャンダルを追跡する人々でも国歌斉唱でも銀行でも自動車でも結婚式でも何でもいい。 校門や歩道橋にはこんな横断幕がある。「みんなで助け合おう」「大きな声であいさつを」「うつくしい街づくり」繁殖する美辞麗句。「~を忘れない」「誰もが助け合える社会を」「命の尊さ」「めぐまれない子供たちに募金を」「所詮この世は男と女」(!) 「私はこの方法で三百万円を稼ぎました」「人生の意味」「額に汗して働こう」(吐き気を抑えなくてもいい) はじめから飼いならされているはずの感情はどこにも逃げ場がない。

何が俗悪で、何が俗悪でないか。 そもそも「俗悪であることが悪いことなのか」 「俗悪への型通りの反発こそ俗悪ではないのか」

すきまなく善意だけでなりたつことを建前とする集団や組織、運動にときとして戦慄をおぼえるのはなぜだろうか。それらは黙契生成の温床ではないか。すきまのない善意はおそらく死刑の存続を願わぬふりをして、そのじつ、こよなく願っているのではないか。 (辺見庸『たんば色の覚書』)

とどのつまり、クンデラによるこの作品から私は、キッチュなるものについて考える動機を得たばかりだ。 なんの解説にもなっていないだろうけれど、なにかしら所感らしいものにはなっていると思う。 解説というものの胡散臭さを知るのにプロ野球の実況中継を見るには及ばない。私どもは経験からそれを知っている。 クンデラを読むのにクンデラ以外の人物はいらない。 ちなみに訳者の千野栄一氏は、岩波新書の知る人ぞ知る名著『外国語上達法』の著者でもある。

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

佐藤春夫『田園の憂鬱』(新潮社)

『月と六ペンス』のストリックランドは、モームゴーギャン(フランスの後期印象派の画家)の生涯に想を得てつくりだしたものだ。その真否や細部の程はともかく、あくまで伝説上ではゴーギャンはヨーロッパ文明を否定してタヒチ島に避難したことになっている。 世の中には擬似ゴーギャン的逃避願望を弄んでいる人が少なくない。 都会を逃げたい、あらゆる束縛を脱して自由になりたい、鮨詰めという表現では鮨に無礼ではないかというような通勤電車を逃れ出て自分探しの旅に出たい。こんなふうな一昔前の青臭いロックンローラーでも恥ずかしくて叫べないような「内なる声」は、どの時代のどの階層にも一定の割合でみられるのかもしれない。 殺伐とした都会や日常のルーティンを抜け出して静かな場所に身を置いたのはいいけれど、今度は自分の存在そのものに由来する倦怠や神経症に煩わされるという悲喜劇的なケースも間々ある。これを「田園の憂鬱」と呼んでもいいだろう(*)。都市も田園も逃亡者をかくまってくれるところではない。

*【「人生というものは、果たして生きるだけの値のあるものであらうか。さうして死というものはまた死ぬだけの値のあるものであらうか。彼は夜毎にそんなことを考えて居た。さうして、この重苦しい困憊しきつた退屈が、彼の心の奥底に巣食うて居る以上、その心の持主の目が見るところの世界萬物は、何時でも、一切、何處までも、退屈なものであるのが当然だといふ事――さうしてこの古い古い世界に新しく生きるといふ唯一の方法は、彼自身が彼自身の心境を一転するより外にない事を、彼が知り得た時、但、さういふ状態の己自身を、どうして、どんな方法で新鮮なものにすることが出来るか。」(佐藤春夫『田園の憂鬱』)】

つまるところ、人間はどこにいても倦怠(これは空虚感の一種)からは自由になれない。倦怠は職業的なストーカーだ。CIAのベテラン諜報員もその通信講座を希望したくなるくらいその「しつこさ」は凄まじいものだ。

倦怠というこの危うい情緒はあまりに人間的な性格のもので、人間である以上はこの倦怠に感染するリスクをはじめから抱えている。。 動物園の檻の中にあるチンパンジーは時々マスターベーションをするというけれど、あれは退屈だからというより、それが「快楽」だからだろう。チンパンジーやフジツボが倦怠の末に自殺したという報告を私は知らない。それが「人間」との決定的な違いだ。というのも、人間は単に退屈であるというだけで自分のコメカミを銃弾でぶち抜くことができるからだ。 換言すれば、倦怠とは「存在への食傷」ということになる。食うこととのアナロジーはこの際、自分が思っている以上に適切かもしれない。人間は世界に食われながらも同時に食っているからだ(誤解しないように。「人を食う」「一杯を食う」「大目玉を食う」「隣国を併呑」「食うか食われるかの時代」などというような言葉遊びをしているのではない)。

「日常」に食傷する、存在しているものに倦厭する。人間(=現在意識)は「単にそこにある」という「生の凍った肉」を消化することはできない。だから解凍したうえで加熱し料理する。香辛料もたっぷりかける。こうした比喩は面白いけれども全ての人に通用しないという難がある。ある程度具体的にいいたい。まずはたとえば「世界」を耐えられるものとするために、眼前の既存のムードに「滑り込む」必要がある(普通ここで努力はいらない。「そこから」抜け出すことの方が遙かに大変だ)。「自分の人生には意味がある」と自分に思い込ませるために様々な物語を作り出す必要もある。二四時間、一週間、年間行事、馴れ合い、そのうち「人生」という虚構が既成事実のように見えてくる。世代生産(ある生物が別の個体を生むこと。遺伝子の盲目的作用)や各種の馬鹿馬鹿しい儀礼や因習に重要な意味があるように思えてくるし、そうするのが当然だというような認識さえ生じる。そうなれば「世界」は一応耐えうるものになる。何か秩序らしいものを感じるからだ。一貫した「価値」「意味」を信じることができる。

倦怠の病原菌は突然侵入する。運命交響曲のように勇壮なリズムを伴うものではない。ねちねちした腹黒い宦官のように忍び足でそれは巣食う。 倦怠に憑かれている人間は、その倦怠が無限に続くことを恐れる(そのうえそうであることを疑わない)。 倦怠を持て余している人間にとっては何が起こっても問題ではない。自分が甚大の被害を受けた時さえ、「またか」の一言で一切を済ませることができる。 「地下鉄でテロがあって大変だよ」「またか」 「俺の父親が昨日死んだんだ」「またか」 「シンガポール取引所日経平均先物はどうなった?」「またか」 「地震だよ」「またか」 「借金で首がまわらない。もう死にたいよ」「またか」 「裏の火山が噴火したよ」「またか」 「早く逃げろよ、このままでは死んでしまうぞ」「またか」 「花は咲く花は咲く」「またか」 「さっきドナルド・トランプが暗殺されました」「またか」 「あの作家は紅茶を飲み過ぎて気が狂ったんだ」「またか」 「もう死んだんですよあなた、寝ている場合ですか」「またか」 「スマップが解散しましたよ」「またか」 「北朝鮮から中距離弾道ミサイルが飛んできます」「またか」 「安倍晋三の愛人が発覚しました」「またか」 「邪馬台国の九州北部説が立証されたました」「またか」 「シリアでクーデターが起きました」「またか」 「マイケル・ジャクソンジョン・レノンポルポトが実はまだ生きてるようです」「またか」 「プーチンが発狂したいみたいです」「またか」 「ロッテが倒産しそうです」「またか」 「警察庁の発表する日本の年間自殺者数は実は間違っていて、本当は十五万人なんです」「またか」 「最後の審判が眼の前です」「またか」 「ローマ法王ダライラマの弟子になるようです」「またか」

倦怠は「またか」を以て始まり「またか」を以て終わらない。 ここまで極端に戯画化しなくてもよさそうだけれど、重度の倦怠となればこうしたやりとりもありそうだ。 自分の肌感覚では、近頃、この「またか」病の患者が一段と増えているように思う。 口には出さずとも「またか」と内心で呟いている。あの疲れた無名の人々は。 これは悪い事でも好い事でもない(そんな価値判断は意味をもたない)。 結局のところ、「またか」で済ますことができるからだ。

佐藤春夫について書こうと思ったけれども、どうでもよくなった。

今日も何かが起こるはずだ。なにか新しいことが起こるに違いない。 何か新しいこと。見たこともないもの。というより「人間的ではない何ものか」。 憂鬱とも倦怠とも遙かに縁遠い何ものか。新世界。空想よりも遠い。 こんなことを考えない人間はいない。

狂った世の中で気が狂うなら気は確かだ。けれどもこの「狂った世の中」を「狂った時代」と解してはいけない。そもそもどうして世の中、この世界、宇宙、「自然」はここまで居心地が悪いのか。リア王のいう「阿呆ばかりの世界」が何であるかはともかく、血の巡りの悪い日常は残酷で落ち着きがない。どうしてこうなった。どうしてこうした意識者が発生したのか。 まだはっきりした研究はない。 狂った果実は狂ったナイフでしか切ることはできない、というような詩的言句に陶酔している場合ではない。 どうにもならない。どうにもとまらない。とまらない、とまらない。かっぱえびせんフンボルト言語学ゲーテ、ミュッセ、ピカチュウ、赤いふんどし。世界にはいろいろなものがある。

「人生は、退屈という自習監督に見張られた教室みたいなものだ、そいつはしょっちゅう僕らをうかがっている、なんとかしてなにごとかに熱心に打ち込んでいるふりをしなくちゃならぬ、さもないと、そいつがやってきて頭をどやしつける。」 (セリーヌ『夜の果ての旅』生田耕作・訳 中央公論社

人間はどこにも居場所を持たない、というのが正解だろう。 悲惨というより、馬鹿馬鹿しい存在だ。 芋焼酎を五合ほど飲んでへべれけに酔っ払っても、そんなものを美化する気にはなれない。

「人間とは倦怠の末に自殺できる唯一の動物である」 これほど名誉な定義は他にないと思う。道具を使う、とか、言葉をつかう、などというような夜郎自大な自己主張よりも遙かに洗練されている。ある種のレミング集団自殺とはわけが違う きっとこの定義は真だ。 とはいえいずれこれが反証されても構わない。私はもう人間のことなどうでもいいから。いわゆる「知的好奇心」など微塵も持てない。 それでも「組織的な暴力」には絶対に反対するけれども。 人間嫌いと反暴力は意外と両立するものなのだ。

「愛は世界を変える」という類の無神経で下品なフレーズ(あなたがこれを眼の前で言われたら腐ったドリアンを顔面にぶちあてて歯の二三本でも折ってやるといい。それが公衆衛生のためだ。もう二度とその口は開かないだろう)があるけれども勿論これは正しくない。 世界を変えるのはむしろ末期の倦怠の方だ。狂った情熱はここからでないと成長しない。 そして繰り返すけれども、この倦怠の勢いは近頃とみに目立ち始めている。

やはり、これは悪くないことだ。

田園の憂鬱 (新潮文庫)