書痴肉林・蟄居汎読記

佐野白羚の古い雑文の一部を(たぶん)定期的にひっそり掲載します

ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一・訳 集英社)

「存在の耐えられない軽さ」。巷には、こんなタイトルをもじったものがおびただしくある。 本人は得意になっているのだろうけれど、実にまずい。凡庸極まるね。

いきなりニーチェの「永劫回帰」(*)だ。 文豪のなかには、こうした「哲学風エッセイ」を物語のところどころに挟みたがる人たちがいる。 トルストイの『戦争と平和』が一部に不人気なのは、たぶん(周期的に開陳される)彼の抽象的な歴史観が素朴な読者(ロマンチックな)を辟易させてしまうからかもしれない。性格はずいぶん違うけれども、(私の好きな)ロベルト・ムジールの『特性のない男』などはそうした例の極北かもしれない。地の文も会話文もやけに理屈っぽく難解で、作者の思想や理念が作中人物よりも先に前面に出て、しかも饒舌ときている。

*【彼の根本思想のひとつで、あらゆる存在は意味も最終的な目標も無く、永劫に繰り返されるのだが、この円環運動をあえて生きようとする者は生の絶対的肯定に向かう。この宇宙が永遠に繰りかえす、という世界観は、古代ギリシアピュタゴラス学派やヘラクレイトスにも見られるが、ニーチェはその回帰思想に道徳性を付与したとされる。 私は「実在的」な「原子」を基本単位(使いたくない言葉だけれど「唯物論」)とする世界観は自ずとこうした考え方に向かうものだと考えている。というのも、こうした前提のもとでは、世界の現象は原子の特定の結合と無関係では考えられないからだ。「いま清水克之がパソコンに向かってミラン・クンデラにまつわる雑文をしたためている」という現在認識が現象化するには、「数え切れないが有限の原子」が「ある特定の結びつき」をしなければならない。その「原子」群がそうした結びつきをするのは稀な出来事ではあるけれど、「時間」(ここでは素朴な意味で)は無制限であるから、結局は無限回その現象は起こりうる。論理的には明快で、中学生でも同様のことはよく考えている(「生物」がなぜ存在しているのか、という問いに対する各科学者の説明も総じてこうした原子観に基づいている。有機的な原始スープ説であれ、鉱物説であれ。というのもここでは、どれほど複雑に自己複製し続ける分子のパターンも原子結合の所産と見なされているからだ)。 ニーチェ永劫回帰は、直観的にそうした点を捉えたものだろうと思う。 「一切の諸事物のうちで、走りうるものは、すでにいつか、この小路を走ったに違いないのではないか? 一切の諸事物のうちで、起こりうるものは、すでにいつか、起こったり、作用し、走り過ぎたにちがいないのではないか?」(吉沢伝三郎・訳『ツァラトゥストラ』「幻影と謎について」) そしてあらゆる回帰に絶望しながらも「英雄」はそれを受け入れる、と。蛇を噛み切るように】

クンデラも観念的な字句を割合好むほうらしいが、限度をわきまえている。読者がどのあたりでウンザリするかをよく知っているのだ。

ところで、ミラン・クンデラチェコ事件と切り離して考えることは難しい。 ことにここで取り上げた作品の舞台背景は世のいうところの「プラハの春」騒動となっているので、なおさらこのことは強く感じられる。

チェコ事件」は、一九六八年、「人間の顔をした社会主義」を提唱していたドプチェク第一書記の下で自由化政策(*)が推し進められていたチェコスロヴァキアに対して、ソビエト連邦・東欧軍が軍事介入したというものだ。ドプチェクは、当時首相だったチェルニークら改革派とともに逮捕され、KGBの監獄に連行された(その後、なんとか釈放はされる)。 武力行使を以て民主化を抑圧したソ連当局は、その事件の後、世界的な批判に晒されることとなった。この政治介入は、「共産党一党独裁体制を守るためなら暴力をも辞さない」というソ連側の強い意志表明でもあったが、結果的に独裁体制の「もろさ」を露呈することとなった。 非共産圏にあるソ連支持者も、これには裏切りを感じないわけにはいかず、国際世論におけるソ連離れの大きなキッカケになった。

*【具体的には検閲廃止や政党復活、市場経済方式の導入などの改革。こうした民主化の動きはチェコだけで起こったものではない】

ソ連の当時のボスはアメリカンジョーク(*)でも度々登場するブレジネフで、この今ではすっかり悪役をあてがわれている政治家は、スターリン批判で有名なフルシチョフ失脚後に就任した。 共産国総本山のソ連当局としてはチェコのマイウェイ政策を座視しているわけにはいかなかった。連邦構成国の離反を一つでも許せば、統率がきかなくなると判断したからだ。あのブレジネフ・ドクトリン(制限主権論)は、この軍事介入の後に出された苦しい弁明に過ぎない。

それにしても、ソ連にとって軍事介入は碌な結果をもたらさない。チェコ事件の約十年後、ソ連アフガニスタンを侵攻によって自滅を速めた。 防衛ならいざしらず、この類の軍事介入が功を奏することなどあるのかと、素人目にも問いたくなる。

*【こういうジョークをきいたことがある。 ブレジネフ第一書記がソ連から誘拐され、その誘拐犯から脅迫の電話があった。「いますぐ百万ドルを払え。払わなければブレジネフをおたくの国に返すぞ」】

ミラン・クンデラは、一九二九年、チェコスロヴァキアモラヴィアの中心都市ブルノで生まれた。 ワルシャワ条約機構軍の占領で終わりブレジネフの傀儡フサーク大統領の「正常化」政策が続けられる時代に、この作家は様々な圧迫を受け、結局は出国を余儀なくされる。 彼は七九年にチェコスロヴァキアの国籍を剥奪され、八一年にフランスの市民権を得ている。メレジコフスキーやソルジェニーチィン同様、体制側から追放された作家の一人だ。ロシアを中心とした共産諸国のように政治的地殻変動が極めて烈しいところでは、そうした亡命知識人に事欠かくことはない。

ちょっと話は変るけれど、巷には「亡命文学」と称されているジャンルがある。 政治的・民族的(「人種」的)あるいは宗教的な理由で祖国を追われた人々によって書かれた文学作品のことで、もうこうした人々の特集だけで何ダースものアンソロジーや叢書が組めるほど濃い分野と言える。 古くはフランス革命からナポレオン時代にかけてのシャトーブリアン、スタール夫人、ナポレオン三世治下でのヴィクトル・ユゴー(この人は筋金入りの共和主義者だからナポレオン三世を徹底的に批判した)、ロシアのツァーリ時代のゲルチェン(ナロードニキ思想の先駆)、ナチスドイツ時代の豊かなユダヤ人文学(私の大好きなヘルマン・ブロッホとか)、日本人にも人気のあるトーマス・マンなんかもそうだ。

こうした政治的な翻弄を経験した作家には、不思議な筋の強さがあるように思う。「体制」というものを「政府」としてしか捉えられない庶民派作家にはない、ある種の悲壮な反骨性がある(私の考えでは、本当に問題を孕んでいるのは、めいめいの「当事者・意識」に他ならない。「体制」というものは全てこの所与の立場に基礎づけられている)。 戦前の日本でのプロレタリア文学にも、ごつごつして不器用だけれど異様な迫力が一部にはある。 伝統的に多くの世代の一部の若者がクロポトキンバクーニンの著作に惹かれるのは、どうしてなのか。ゲバラのTシャツを着たり、マルクスエンゲルスを読んでいるふりをしたりするのはどうしてなのか。幸徳秋水大杉栄があんなに「かっこよく」見えるのはどうしてなのか。 人は潜在的に眼の前のシステムや慣習をぶっ壊したいと欲望しているからではないか。 抑圧的なものや、対立、欠乏、暴力への反動。すぐに触れる「俗悪」なるものへの反発。太文字の「否」を表明すること。

とりあえず私はそういうもの全部ひっくるめて「大いなる不満」と呼んでいる。

「人類愛」だとか「貧困撲滅」というような抽象的な題目を唱えることからは生まれてこない「否!」を、紙と筆だけで表出するのは並大抵のことではない。 何が「体制」か。「体制」という言葉は、今日では何の含みも持たない。「体制」は巨大で「悪い」ものなのか。政治的支配と思考様式の支配を区別することはできるのか。既にあるものは当たり前の何かとなっている。 存在への同化。愚鈍化。馴致化。耐え難いほどの間抜け化。 私が敬愛してやまない埴谷雄高ならこういいそうだ。

「体制」とは既に存在している全てのものだ。

空間も体制なら、管理された感性も体制だ。日常ももちろん体制だ。自然も同様。 ことに日常は俗悪なものだ(これが非難ではないのは、俗悪と日常は切り離せないことによる。最早やそれを感じている主体を探すことが困難であることもそうだ)。

俗悪なものの根源は存在との絶対的同意である。 では何が存在の基礎であるのか? 神? 人間? 戦い? 愛? 男? 女? (『存在の耐えられない軽さ』千野栄一・訳)

俗悪(キッチュ)なものは続けざまに二つの感涙を呼びおこす。第一の涙はいう。芝生を駆けていく子供は何と美しいんだ。 第二の涙はいう。芝生を駆けていく子供に全人類と間隙を共有できるのは何と素晴らしんだろう。 この第二の涙こそ、俗悪(キッチュ)を俗悪(キッチュ)たらしめるのである。 世界のすべての人々の兄弟愛はただ俗悪(キッチュ)なものの上にのみ形成できるのである。 (同書)

我々は(私は、ではない)、作中の主人公トマーシュの愛人サビナのように、「私の敵は共産主義ではなくて、俗悪(キッチュ)なものなの」と叫ぶことはできない。自分のなかにもそのキッチュなものが既に入り込んでいるからではなく、何がキッチュなものであるのかが分からないからだ。 雑誌でも敬礼でも出産祝いでも元大物プロ野球選手のスキャンダルを追跡する人々でも国歌斉唱でも銀行でも自動車でも結婚式でも何でもいい。 校門や歩道橋にはこんな横断幕がある。「みんなで助け合おう」「大きな声であいさつを」「うつくしい街づくり」繁殖する美辞麗句。「~を忘れない」「誰もが助け合える社会を」「命の尊さ」「めぐまれない子供たちに募金を」「所詮この世は男と女」(!) 「私はこの方法で三百万円を稼ぎました」「人生の意味」「額に汗して働こう」(吐き気を抑えなくてもいい) はじめから飼いならされているはずの感情はどこにも逃げ場がない。

何が俗悪で、何が俗悪でないか。 そもそも「俗悪であることが悪いことなのか」 「俗悪への型通りの反発こそ俗悪ではないのか」

すきまなく善意だけでなりたつことを建前とする集団や組織、運動にときとして戦慄をおぼえるのはなぜだろうか。それらは黙契生成の温床ではないか。すきまのない善意はおそらく死刑の存続を願わぬふりをして、そのじつ、こよなく願っているのではないか。 (辺見庸『たんば色の覚書』)

とどのつまり、クンデラによるこの作品から私は、キッチュなるものについて考える動機を得たばかりだ。 なんの解説にもなっていないだろうけれど、なにかしら所感らしいものにはなっていると思う。 解説というものの胡散臭さを知るのにプロ野球の実況中継を見るには及ばない。私どもは経験からそれを知っている。 クンデラを読むのにクンデラ以外の人物はいらない。 ちなみに訳者の千野栄一氏は、岩波新書の知る人ぞ知る名著『外国語上達法』の著者でもある。

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

佐藤春夫『田園の憂鬱』(新潮社)

『月と六ペンス』のストリックランドは、モームゴーギャン(フランスの後期印象派の画家)の生涯に想を得てつくりだしたものだ。その真否や細部の程はともかく、あくまで伝説上ではゴーギャンはヨーロッパ文明を否定してタヒチ島に避難したことになっている。 世の中には擬似ゴーギャン的逃避願望を弄んでいる人が少なくない。 都会を逃げたい、あらゆる束縛を脱して自由になりたい、鮨詰めという表現では鮨に無礼ではないかというような通勤電車を逃れ出て自分探しの旅に出たい。こんなふうな一昔前の青臭いロックンローラーでも恥ずかしくて叫べないような「内なる声」は、どの時代のどの階層にも一定の割合でみられるのかもしれない。 殺伐とした都会や日常のルーティンを抜け出して静かな場所に身を置いたのはいいけれど、今度は自分の存在そのものに由来する倦怠や神経症に煩わされるという悲喜劇的なケースも間々ある。これを「田園の憂鬱」と呼んでもいいだろう(*)。都市も田園も逃亡者をかくまってくれるところではない。

*【「人生というものは、果たして生きるだけの値のあるものであらうか。さうして死というものはまた死ぬだけの値のあるものであらうか。彼は夜毎にそんなことを考えて居た。さうして、この重苦しい困憊しきつた退屈が、彼の心の奥底に巣食うて居る以上、その心の持主の目が見るところの世界萬物は、何時でも、一切、何處までも、退屈なものであるのが当然だといふ事――さうしてこの古い古い世界に新しく生きるといふ唯一の方法は、彼自身が彼自身の心境を一転するより外にない事を、彼が知り得た時、但、さういふ状態の己自身を、どうして、どんな方法で新鮮なものにすることが出来るか。」(佐藤春夫『田園の憂鬱』)】

つまるところ、人間はどこにいても倦怠(これは空虚感の一種)からは自由になれない。倦怠は職業的なストーカーだ。CIAのベテラン諜報員もその通信講座を希望したくなるくらいその「しつこさ」は凄まじいものだ。

倦怠というこの危うい情緒はあまりに人間的な性格のもので、人間である以上はこの倦怠に感染するリスクをはじめから抱えている。 動物園の檻の中にあるチンパンジーは時々マスターベーションをするというけれど、あれは退屈だからというより、それが「快楽」だからだろう。チンパンジーやフジツボが倦怠の末に自殺したという報告を私は知らない。それが「人間」との決定的な違いだ。というのも、人間は単に退屈であるというだけで自分のコメカミを銃弾でぶち抜くことができるからだ。 換言すれば、倦怠とは「存在への食傷」ということになる。食うこととのアナロジーはこの際、自分が思っている以上に適切かもしれない。人間は世界に食われながらも同時に食っているからだ(誤解しないように。「人を食う」「一杯を食う」「大目玉を食う」「隣国を併呑」「食うか食われるかの時代」などというような言葉遊びをしているのではない)。

「日常」に食傷する、存在しているものに倦厭する。人間(=現在意識)は「単にそこにある」という「生の凍った肉」を消化することはできない。だから解凍したうえで加熱し料理する。香辛料もたっぷりかける。こうした比喩は面白いけれども全ての人に通用しないという難がある。ある程度具体的にいいたい。まずはたとえば「世界」を耐えられるものとするために、眼前の既存のムードに「滑り込む」必要がある(普通ここで努力はいらない。「そこから」抜け出すことの方が遙かに大変だ)。「自分の人生には意味がある」と自分に思い込ませるために様々な物語を作り出す必要もある。二四時間、一週間、年間行事、馴れ合い、そのうち「人生」という虚構が既成事実のように見えてくる。世代生産(ある生物が別の個体を生むこと。遺伝子の盲目的作用)や各種の馬鹿馬鹿しい儀礼や因習に重要な意味があるように思えてくるし、そうするのが当然だというような認識さえ生じる。そうなれば「世界」は一応耐えうるものになる。何か秩序らしいものを感じるからだ。一貫した「価値」「意味」を信じることができる。

倦怠の病原菌は突然侵入する。運命交響曲のように勇壮なリズムを伴うものではない。ねちねちした腹黒い宦官のように忍び足でそれは巣食う。 倦怠に憑かれている人間は、その倦怠が無限に続くことを恐れる(そのうえそうであることを疑わない)。 倦怠を持て余している人間にとっては何が起こっても問題ではない。自分が甚大の被害を受けた時さえ、「またか」の一言で一切を済ませることができる。 「地下鉄でテロがあって大変だよ」「またか」 「俺の父親が昨日死んだんだ」「またか」 「シンガポール取引所日経平均先物はどうなった?」「またか」 「地震だよ」「またか」 「借金で首がまわらない。もう死にたいよ」「またか」 「裏の火山が噴火したよ」「またか」 「早く逃げろよ、このままでは死んでしまうぞ」「またか」 「花は咲く花は咲く」「またか」 「さっきドナルド・トランプが暗殺されました」「またか」 「あの作家は紅茶を飲み過ぎて気が狂ったんだ」「またか」 「もう死んだんですよあなた、寝ている場合ですか」「またか」 「スマップが解散しましたよ」「またか」 「北朝鮮から中距離弾道ミサイルが飛んできます」「またか」 「安倍晋三の愛人が発覚しました」「またか」 「邪馬台国の九州北部説が立証されたました」「またか」 「シリアでクーデターが起きました」「またか」 「マイケル・ジャクソンジョン・レノンポルポトが実はまだ生きてるようです」「またか」 「プーチンが発狂したいみたいです」「またか」 「ロッテが倒産しそうです」「またか」 「警察庁の発表する日本の年間自殺者数は実は間違っていて、本当は十五万人なんです」「またか」 「最後の審判が眼の前です」「またか」 「ローマ法王ダライラマの弟子になるようです」「またか」

倦怠は「またか」を以て始まり「またか」を以て終わらない。 ここまで極端に戯画化しなくてもよさそうだけれど、重度の倦怠となればこうしたやりとりもありそうだ。 自分の肌感覚では、近頃、この「またか」病の患者が一段と増えているように思う。 口には出さずとも「またか」と内心で呟いている。あの疲れた無名の人々は。 これは悪い事でも好い事でもない(そんな価値判断は意味をもたない)。 結局のところ、「またか」で済ますことができるからだ。

佐藤春夫について書こうと思ったけれども、どうでもよくなった。

今日も何かが起こるはずだ。なにか新しいことが起こるに違いない。 何か新しいこと。見たこともないもの。というより「人間的ではない何ものか」。 憂鬱とも倦怠とも遙かに縁遠い何ものか。新世界。空想よりも遠い。 こんなことを考えない人間はいない。

狂った世の中で気が狂うなら気は確かだ。けれどもこの「狂った世の中」を「狂った時代」と解してはいけない。そもそもどうして世の中、この世界、宇宙、「自然」はここまで居心地が悪いのか。リア王のいう「阿呆ばかりの世界」が何であるかはともかく、血の巡りの悪い日常は残酷で落ち着きがない。どうしてこうなった。どうしてこうした意識者が発生したのか。 まだはっきりした研究はない。 狂った果実は狂ったナイフでしか切ることはできない、というような詩的言句に陶酔している場合ではない。 どうにもならない。どうにもとまらない。とまらない、とまらない。かっぱえびせんフンボルト言語学ゲーテ、ミュッセ、ピカチュウ、赤いふんどし。世界にはいろいろなものがある。

「人生は、退屈という自習監督に見張られた教室みたいなものだ、そいつはしょっちゅう僕らをうかがっている、なんとかしてなにごとかに熱心に打ち込んでいるふりをしなくちゃならぬ、さもないと、そいつがやってきて頭をどやしつける。」 (セリーヌ『夜の果ての旅』生田耕作・訳 中央公論社

人間はどこにも居場所を持たない、というのが正解だろう。 悲惨というより、馬鹿馬鹿しい存在だ。 芋焼酎を五合ほど飲んでへべれけに酔っ払っても、そんなものを美化する気にはなれない。

「人間とは倦怠の末に自殺できる唯一の動物である」 これほど名誉な定義は他にないと思う。道具を使う、とか、言葉をつかう、などというような夜郎自大な自己主張よりも遙かに洗練されている。ある種のレミング集団自殺とはわけが違う きっとこの定義は真だ。 とはいえいずれこれが反証されても構わない。私はもう人間のことなどうでもいいから。いわゆる「知的好奇心」など微塵も持てない。 それでも「組織的な暴力」には絶対に反対するけれども。 人間嫌いと反暴力は意外と両立するものなのだ。

「愛は世界を変える」という類の無神経で下品なフレーズ(あなたがこれを眼の前で言われたら腐ったドリアンを顔面にぶちあてて歯の二三本でも折ってやるといい。それが公衆衛生のためだ。もう二度とその口は開かないだろう)があるけれども勿論これは正しくない。 世界を変えるのはむしろ末期の倦怠の方だ。狂った情熱はここからでないと成長しない。 そして繰り返すけれども、この倦怠の勢いは近頃とみに目立ち始めている。

やはり、これは悪くないことだ。

田園の憂鬱 (新潮文庫)

ラヴァット・ディクソン『グレイ・アウル』(中沢新一/馬場郁・訳 角川書店)

イギリスのヴィクトリア朝時代(一八三七~一九〇一)は通常、議会政治や商工業の目覚ましい発達と広大な植民地支配(主にインド)によって、「大英帝国」最盛期をなすものとされている。栄華の極め振りが凄まじかっただけにその衰亡の程もまた顕著に演出されることとなった。最近偶然手にしたアーロン・L・フリードマンの『繁栄の限界 1895年~1905年の大英帝国』(新森書房)には、ヴィクトリア朝時代からエドワード朝時代にかけての大国衰亡の過程(主に産業力と海軍力)がなかなかよく書かれているので、ついでながら、物好きで暇のある人には一読を奨めたい。「月満つれば則ち欠く」とか「驕る平家は久しからず」などという古典調のセンチメントではどうにも回収できない生々しい失墜劇が愉しめる。一体人間というものは衰退していく人物や文明のなかにある種の美的快感を見出すらしく、ローマ帝国の衰亡も貴族の零落もそうした感慨を措いては眺められないようになっている。

永遠に続くものはない、というふうな紋切り型のセリフ(それにしても旧約聖書の「コヘレトの言葉」は誰が書いたのだろう)を誰もが口真似するけれども、このことを肌身で感じ取るのは案外難しい。年齢を重ねるだけ賢くなるようでないようだ。こうしたことは、直に感じるには生々し過ぎることなのかもしれない。新しい四〇型のプラズマテレビを買おうという人は、それがいずれ廃品回収業者の手に渡ることを普通は念頭に置かない。あたかも自分も電化製品も永遠に生き続けるかのように想定しなければ楽しくもなんともない。赤ん坊がやがて死ぬために生まれてくるわけではないのと同様、商品もただ捨てられるために生産されるわけではない。いずれは、という思考は概して人間の消費心理に水をさすだけだ(勿論、いずれは吸収され排泄されるビフテキが虚しいというわけではない。いずれはポンコツになって鉄くずに戻るハーレーダビッドソンが空しいということでもない)。

そういえば、さだまさしに「天然色の化石」という歌があって、私はむかしこれが随分好きだった。詞の筋は概ねこういうものだ。 デパートの恐竜の化石店にいる「ぼく」は、どうして化石はいつも同じ様に灰色だったりするのだろうと陰鬱な感傷に浸っている。もっといろいろな色があったはずだと。赤や黄色があったっていいじゃないかと。思えば自分もやがて化石になる。そうなったとき、かつての地上にいた「人間」のことを未来の動物はどう知ってくれるだろうかと。肌の色が違うというだけで傷つけられた人間のことを知るだろうか、恋人同士の僕らがこれほど愛し合っていたことも。 どこかこんなふうな流れだったように思う。いかにもこのテーマにそぐなっている。ともあれ、滅びたあとの自分を姿を想定することは困難だ。

一面、いずれは無に帰するからこそ、眼前の世界が愛おしくなることもある。 恋人の横顔にかじりつきたくなるのは大抵そういうときだ。歌人がどこかで、ある瞬間の情緒的沸騰を写し取ったものが短歌だと言っていたのを思いだした。

なつかしき 冬の朝かな 湯をのめば 湯気やわらかに 顔にかかれり(『悲しき玩具』)

寒い室内で湯気が頬をなでるこのどうにも言われぬ心地。何が懐かしいのか知らないのに懐かしい。こういう情緒は冬の朝にしか起こらない。こんな妙に恍惚的な懐かしさは、無に帰した後の世界に身を置いているから得られるのかもしれない。だから懐かしいのだ。 恥じらいもなく「花が好き、自然が好き」(こういうときの自然は何を指しているのかも分からない)と言って回る人間を私は信用しないけれども、癌による余命宣告を受けた患者の眼に映ずる日常風景が余人のものとは大分異なりうるだろうことは疑わない。決して甘ったるいことではなく、自分がもう長くは生きていはいないという緊張感が彼彼女の眼差しに刹那愛を与えるのだ。 ある作品のなかで伊藤整は、自然などが本当に美しく見えるのは老人だけだ、と凡そこんな風なセリフを人物に言わせていたけれども、それはよく言えている。差こそあれ、老人は潜在的に自分の死を予感している。死は一切を奪う(信仰にもよるけれど)。これが風景の見納めだ、という気分になるのかもしれない。若いころはウンザリしていた人物や風物も妙に懐かしく見えるのだろう。かつて癇癪持ちだった人間が年を重ねるごとに角がとれて丸くなってくる理由は大体そのあたりにある(その逆も多くあるけれど)。老人があまり眠らないのも、それがあまりに自分の死の予感と重なりすぎるからと言えそうだ。 老人のことはこのあたりにして、ヴィクトリア朝時代に戻りたい。

性道徳や生活規律が比較的厳格であったと報告されているヴィクトリア朝時代は、時としてぶっ飛んだ奇人を輩出することでもよく知られている。 不気味なほど無意味な詩を書きながら子供の写真を撮ったりして一生を独身で過ごしたルイス・キャロルや、第一次大戦でアラブ反乱軍を率いオスマン帝国軍へのゲリラ戦を挑んだ考古学者T・M・ロレンス(後にアラビアのローレンスと呼ばれ『知恵の七柱』の著者)はそうした奇人たちの一標本に過ぎない。

本書の主役であるアーチー・べレイニーも、そうした数あるヴィクトリア朝奇人に列なる人物で、全く引けをとるものでない。 中産階級出の生粋のイギリス人である彼が、インディアン(*)に憧れるあまり、ついには「グレイ・アウル」と自ら称して、インディアンに成りきってしまったという。それだけでも尋常一様の奇人でないことがわかる。ロマンではなくて事実の話なのだからいよいよ興味に尽きない。稀有な生涯、と淡白に言い収めてしまうにはあまりに稀有に過ぎるだろう。

*【「インディアン」という呼称はコロンブス一隊の誤解に根差していて、また一部では軽侮的な含みを持つとされているので、今日では一般にネイティブ・アメリカンと呼ぶようになっている】

彼の場合、それは単なるコスプレ趣味でもなければ、文化人類学者のフィールドワークでもない。事実上、彼は祖国に見切りをつけた。体質的に彼はアウトサイダーだった。規律や理不尽な上下関係を受け付けない気質を持っていた。 幼少時から面倒をみてくれた叔母エイダ(母親はまるで駄目な母親だった)の事細い指示も、彼の気質をますます研ぎ澄ますことにしか役立たなかった。 「アーチ-はエイダの期待に添うような良い子にはなれなかった。心につぎつぎと浮かぶ空想を音楽に託したり、人生の夢を強く抱くことで、年頃の少年の葛藤を難なくやりづごした。頭のなかにはインディアンのことしかなかった。いやすでに心はインディアンになりきっていた」(第三章) 既にインディアンになると決めた彼は、体を鍛えたり、寒くて堅い床で寝ることを自分に強いたりもした。 やがて彼は海を渡ってインディアンの森に入る。そして「インディアン」になった。並みの成りきりではない。罠猟やモカシン(北アメリカのインディアンが柔らかい鹿皮で作った履物)づくりまで、現地の人々に優るとも劣らないほどの順応ぶりだった。

あんまり書きすぎて、その詳しい顛末を知る喜びを奪う罪つくりなことはしない。

こうした自らのアイデンティティをかなぐり捨てられるような人間に変な憧れを抱くのは私だけではないはずだ。奇人を生み出す「風土」、というより時代だったのかもしれない。日本にかつて南方熊楠宮崎滔天のような「破天荒」な人物はいた。けれども相互同質化の傾向の強い戦後の「市民社会」では、そうした変な人物は単なる「怪しい隣人」でしかない。子どもを学校に通わせるのを拒否したり税金の支払いを拒否する人物は笑い事では済まされない。 彼らが窮屈を感じるのは当然といえる。 国を出てもまた国。霞を食って生きられない似非仙人たち。 けれども、アーチ-のようなアウトサイダーが躍動できる地はもう殆ど残されていないのかもしれない、などという感傷は禁じておきたい。 世紀末のダンディが自分の産業史的役割をこれ見よがしに否定することで自我を昇華させたように、彼は、陰りが見え始めていたとはいえまだ帝国気分の残っていたイギリスを飛び出して時代に逆らった。 もっと逆らうのもいい。逆らうに値するものがあれば。 本当は誰もが爆発したい。ちっぽけな不発弾ばかりがごろごろ転がっているなどと笑われるな。

狂気なしに生きる者は、自分が思うほど賢者ではない(『ラ・ロシュフコー箴言集』二宮フサ・訳)

グレイ・アウル―野生を生きた男 (角川文庫)

グレイ・アウル―野生を生きた男 (角川文庫)

谷崎潤一郎『文章読本』(中央公論社)

ある教師によると、口は達者で愉快な人物なのに、作文となるとたちまち軽度の緘黙状態に陥る生徒が、一クラス(あるいは一学年)に必ず二三人はいるということだ。今昔を思い返してみると、作文の居残り組というのは毎回決まっていた。統計をとったのではないけれど、圧倒的に男子が多いようだ。彼らは何かを大きく羞じているようだった。名前だけ書いて、あとは何も書かない。ちょっと前の元気はどこへ行ったという気にさせる。漢字を知らないのではない。それに原稿料がかかっているのでもないし、虚名のへぼ作家のようにアイディアに窮したわけでもない。それなのに、自分の文章を書き綴ることに、平均以上の重圧を覚えているようなのだ。こうした身近な事例は、文章表現と発話表現の違いを雄弁に語っている。

文章を書くことは恥をかくことだ、という風な、下手な韻を含んだ箴言があった。宿題の作文から大学の修士論文まで、また、文芸誌の小説作品から研究をまとめた出版物まで、一度でも書かれて公にされたものは容赦なく衆目にさらされる。なかには「高等」な批評もあれば重箱の隅をほじくるような粗捜しもある。作者の眼からみて途方もなくとんちんかんな受容もある。プラトンが『パイドロス』の後半で熱心に論じているように、「言葉というものは、ひとたび書きものにされると、どんな言葉でも、それを理解する人々のところであろうと、ぜんぜん不適当な人びとのところであろうとおかまいなしに、転々とめぐり歩く」(藤沢令夫・訳)。書き手から独立した文章が書き手に反逆することも少なくない。 クラスに一定数はある作文恐怖症の子どもは、直感的に、文章のそうした反逆を恐れているのかもしれない。「私」や「僕」と書いたときの軽い分裂感覚に謂れのない羞恥心を覚えるのだ(文章家とナルシシズムは切り離せないと私が確信している理由はこの辺りにある)。

「話すこと」と「書くこと」の間にある隔たりは、無視しようにも無視できない。文章化された漫才や落語はちっとも面白くないし、幸田露伴作品の朗読が耳に馴染みやすいわけでもない(所々理解困難でさえある)。文章には文章特有の言句運用があるし、それに、話すときには、周囲世界を共有している相手が眼の前にいる。言葉が浮かばなければ指さしでも一応の疎通がはかれるし、表情や身振りの補助言語も許されている。 書き言葉となると、一切の指示関係をより具体的にしなければならない。誰が、何に対して、どのように、いつ。事の細部を正確に伝えるのは容易なことではない。生の会話であれば、冗長な繰り返しや気まぐれな前言修正もある程度許容されるけれども、文章ではそうはいかない。書くとなると、話すような調子では間に合わないことが多くある。 誰もがそれなりに話すことは出来ても、誰もがそれなりに書くことはできない。書くことは、通常思われている以上に<難しい>。ある種の事を論ずることは、ほとんど人間の生理的限界を超えているといってもいい。この痛感はどこから来るのだろう。

こうした痛ましい気づきは、中学生以来、本質的には何も変わっていない。これまで私は人と話すように文章を書いたことなど殆どなかったし、これからもないと思う。 たしかに文章作法を説いた俗書の四割方は、文は話すように書けと繰り返している。事実文豪や名文家と称されている人たちの多くも似たようなことを言っている。けれどもそうした助言を額面通りに受け取って文を作ってみると、甚だ不細工で要領を得ないものが出来上がる。話すように書かれた文章が必ずしも読みやすい文章であるわけではないし、ましてそれが「好文章」になるわけでもない。

「話す通りに書く」ことと「話すように書く」ことは、互いに似て非なるものだ。 国会の速記議事録や三文小説の無神経な会話文であればジャーゴンでもスラングでもそのまま文字にすればいいかもしれないけれども(「藤川打たれて負けちったなぁ」)、谷崎のいう「音楽的効果」や「視覚的効果」を少しでも重んじる書き手なら、そう安直な書き方はなかなかできない(してはならない、とは言っていない)。人と話すような調子で多層的な事実や思考内容を表現するのには、どうしても限界がある。小説にしても、一部の書き手は、方言や若者言葉をどんどん盛り込んで時代を写しとったつもりでいるけれども、ことはそう単純なものではない。こうした思い違いの根には、例の「話すように書け」の俗論が潜んでいる。 勝手な趣味判断かもしれないが、私は、これ見よがしに「方言」が散りばめられている文章には、うんざり感を隠しきれない。大分まえに長塚節の『土』を五分の三くらいまで読んだところで急に嫌になったのを覚えている。肌に合わない何かがあった。文字で起こしただけの「方言」は、博物館の日本狼の剥製や縄文土器と同じで、およそそこから生き生きした生活臭を汲み取ることは難しい。ネイティブな話者が音読するのでもない限り、その抑揚や語調まではとても再現できないのだから、小説作品の「方言」など中途半端なパフォーマンスでしかない。方言での見世物的な露出趣味は安っぽいテレビ企画か同郷コミュニティだけに限ってほしい。

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谷崎潤一郎による文章読本は、書かれてから八十年近く経ついまも広く読み継がれている(三島由紀夫川端康成丸谷才一井上ひさしなどと、いろいろな人がいろいろな調子で書いているけれども)。これは今でいう一般向け実用書の性格をもったものなので、それを考え合わせれば実に大変なことだ。大抵の実用本は一年以上書店に並べば成功したものと言えるけれども、本書は改版を重ねながら半世紀以上も書棚に座を占めている。一時期だけ世の話題に挙がる本には偶然の要素も絡んでくるが、何十年も読まれている本となるとそうはいかない。当然、受容するに足る何かを含んでいるから読まれるのだ。

なんどか通読してみて先ず気にならないではいられないのは、彼の大胆ながら淡白な国語観だ。いくら文筆の同業者や専門家を読者に想定していないとはいえ、よくそこまで言い切るなと思わせる箇所がそこら辺にある。

たとえば彼は、日本語の語彙は貧弱で文法も不完全だが、それを補って余りある長所も多くあり、日本語の書き手はそれを活かすようにしていかねばならない、と概ねこんなことを一章のなかで書いている。地球上の何千ともいえる言語のなかで、私が最も不自由なく使いこなせる言語は日本語だけなので、語彙や文法構造にまつわる小難しい議論に介入することはできないけれども、日本語の表現の弱点を語彙や文法のなかに見出そうなどとは、これまで夢にも思ったことがない。谷崎国語観の代表的規則ともいえる「文法に囚われないこと」にしても、現代の感覚から見ればかなりずれている。日本語が西欧語に比べて非論理的だとか正確ではないという彼の達観は、一部の文芸世界には適応できても、一般化するとお粗末な自虐趣味でしかない。彼の(あるいは当時の教養層)の西欧諸語に対する過剰な意識がその背景にあることを割り引いたとしても、一連の文法軽視の作法はどうにも受け入れがたい(外国語に関しては、谷崎は英文をある程度嗜む程度だったから、彼の素人じみた比較言語観など信頼するには及ばない)。充分な工夫と注意さえあれば、どんな言語でも、それなりに「論理的」な文章はつくることはできる。ベンガル語で法律文書を作成できるし、フィリピノ語で壮大な形而上学も展開することもできる。曖昧さや不正確さを単に「国語」の構造だけに帰するのは、頭脳の怠慢というべきだろう。いったい世の中には、自国の言語や文化を特殊化しないではいられない井蛙が多くある。たわむれで言っているうちはいいけれども、なかには青筋を立てて主張するのもあるので、注意が必要だ。それは概して、自分たちの言語は他に比べて優れているという夜郎自大の極と、他に比べて欠陥だらけだという卑下の極に分かれる。後者の卑下傾向は、思想や技術面で膨大な知識を外国から輸入した日本では特に顕著とされているけれども、一方で、その反動的な再認識も無視できないほど大きい(志賀重昴から「クールジャパン」)。「個性」とか「伝統」というものを年々信用できなくなってきた私は、当然、言語のなかに特殊なものなどないと見込んでいる。

このように些か問題含みの谷崎国語観だけれども、「朦朧派」「平明派」や「漢文脈派」「和文脈派」といった分類は素直に面白かった。源氏物語西鶴からの引用解説も、国文学に相当通じていないと出来ないことで、このところはさすがに文豪の貫録を示してあまりある。 あと、送り仮名やルビや引用符についての著者の見解も随分細かいので感心した。作者が想定していない読み方を防ぐための工夫などは、実際に著述で身を立てている人間にとっては、どうでもよいことではない。

蛇足をひとつ。 いつか私は、「色々な人」と「色々の人」の間のちょっとした差異について考えたことがある。格助詞の「な」と「の」。これらは特段使い分けられているものではないけれども、漱石あたりの頃には、この二つの用法は同じくらい多く見られる。今は自然と「な」に統一されているようなので、「の」の好きな私としては残念ではある。一つよりも二つあったほうが豊かな感じになるので、私は好きだ。あんまり無軌道では困るけれども、言語表現はやはり、様々の使い方があったほうがいい。

文章読本 (中公文庫)

ブライアン・スウィーテク『移行化石の発見』(野中香方子・訳 文藝春秋)

為事空間と生活空間が八割がた同じだと、一年に二度くらいは熱心なキリスト教系の布教者が訪れてくる。大抵は人の良さそうな二人組の中年女性で、毎回カラフルな紋切り型のイエスが描かれた退屈なパンフレットを携えてくる。私は物好きというか赤の他人との遠慮のない雑談を趣味にしているので、そういうときは息抜きかたがた数十分ほどお喋りに熱中することにしている。そうしているうちに目の疲れも幾分かはとれるし、様々な異質な思考内容をみることも出来て一挙両得というわけだ。 五年ほど前の一月ごろ、底冷えのする雪のなかだったけれども、例によって二人の布教者が夕方ごろに尋ねて来た。ぱっとみて、アメリカ起源で聖書の記述にかなり忠実な宗教組織に属する人らしいと判断した。そして、一人のリーダー格の老婆が細々とした調子で「神の世界創造」について一くさりの講義をしていった。「エホバの証人」の存在をはじめて知ったのだ。

ここで素朴に驚いたのは、彼女らが心から「神の創造」を信じていることだった。相手が「正しい」とか「正しくない」とかいう判断を下しているわけではない。けれども、日本の中流家庭で特段「聖書」とも関わらずに育った一人の青年にとって、その信仰内容はかなり「ぶっとんだ」ものに映った。私が、「ユダヤ教」以来のセム一神教の思想や歴史を確認しなけれなならないと思い立ったのは、だいたいそのあたりからだ。そのころには私は、どれほど歴史の重みを持った「信仰体系」に対しても、相対的に眺めることしかできなかった。けれども、かたちを変えながらもヨーロッパ史のみならず世界史上に多大な影響をふるい続け、いまもそれなりにふるい続けているこの宗教系列を理解しないでは、現在の世界情勢や思想史を俯瞰することは出来ないということだけは、確信していた。一部の民族紛争の絶えない地域では、宗教と政治勢力はしばしば不可分でさえあるからだ。

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通常『創世記』と呼ばれている資料では、「神」は、一日目に「光あれ」と絶叫して光をつくり、二日目に「水のなかに大空あれ、そして水と水とを分けよ」と言い放って空をなし、その調子のまま五日目に鳥や魚をつくり、六日目に「地を這うものすべて」を(類ごとに)つくり人(男と女)をつくったと記されてある。 当時私は、アダムとイブが楽園を追放される一連の神話については、国内外のどれほど敬虔な信者たちもおよそ「比喩」以上には捉えていないのだろうと即断していた。しかし色々の調査をみてみると、福音派の「キリスト教原理主義者」の多いアメリカでは、いまでも聖書の語る「種ごとの創造」を字義通り信じている人は、かなり多数にのぼるらしい。二〇〇九年のある調査によると、「進化論を信じるか」という質問に対して「信じる」と答えた人は、だいたい四〇パーセントほどだった(もし実際になされた質問がこの通りなのだったとしたら、それはかなり漠然としたもので即座に信用できるものではないとは思うが)。

宗教的世界観の根本に直結するこうした問題を、大部分の日本人はなかなか理解しえないだろう。セム系啓示宗教の諸々の観念は、当然ながら、日本の生活世界には殆ど食い込んでいない。勿論日本にも「人知を超える」何ものかへの畏怖はあるし、信心もある。念仏踊りも加持祈祷も、何かしらの信仰心をその背景にみなければ、説明がつかない。けれども、(正統派の)ユダヤ教イスラム教やキリスト教に見られるような厳格な「唯一神」や、「創造説」に相当するものは、古代の日本(その周辺地域)には多分なかった(*)。 とはいえ、ユダヤ教の「メシア」待望によく似た発想が、あの弥勒菩薩信仰のなかにはあることだけは、軽く指摘しておきたい。何でもこの菩薩は釈迦入滅から五六億七千万年後に仏となってこの世に出現するそうだ(『弥勒下生経』)。この具体的で気の遠くなる古代インド的年数設定が、「科学的」に啓蒙されていない衆生の耳に生々しく響いた時代が確かにあったのだろう。

*【古今東西のあらゆる成熟文明・文化圏には必ずといっていいほど「民族神話」や「建国神話」といったものが見つかる。ローマ帝国からマヤ文明ネイティブアメリカンからエスキモーまで、自分たちやこの国が「どうして出来たのか」を説明する大枠のフィクションが見つからない場所は殆どない。 これはつまり、ごく荒っぽく考えるなら、当時の権力当事者が、統括する共同体の自己同一性を確実ならしめるために行った、何ともあっぱれな「起源」創作だ。『古事記』上巻の神代の物語も典型的な建国神話となっていて、「気象未だあらわれず」という混沌具合の記述などは『創世記』の冒頭に似ていなくもないけれど、素人目にも決定的に異なっていると見えるのは、日本の古代神話の場合では、そこに絶対的な何ものか(神)の意志が介入しないで、自ずから「乾坤初めて別れ」た点だろう。それだから、古来西欧や東欧で発達したような体系的組織的な「神学」のような試みは、当然、「日本」には生まれなかった。「日本」では、宇宙創成の原点に「神の意志」など微塵もありはしないからだ。】

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「聖書」と「科学」の確執については主題が尽きないのだが、やがて本の話にはいろう。ともかくいま念頭に置いておきたいことは、聖書の記述に全実存を投入しているような人々にとっては、近代以来の「科学的知見」などは、邪で騒々しい新参者でしかないということだ。科学・哲学と宗教権威の不調和は、何も進化学説において最初に表面化したわけではない。 ガリレオ・ガリレイが宗教裁判にかけられて地動説の放棄を迫られた例や、自然哲学の説に接近しすぎて「異端」扱いを被ったジョルダーノ・ブルーノの例は、氷山の一角に過ぎないのだろう。組織化された伝統ある巨大宗教(この場合はカトリック)というのは、既に守りの姿勢にはいって久しいので、大抵の場合、新しく提出された宇宙観に対しては警戒を怠らない。自分たちの同一性の確信や盤古たる権威を揺るがしかねないような新奇性は、そこでは歓迎されない。もはや正しいとか間違っているとかいう話ではないのだ。宗教的共同体であれ政治体制であれ、組織は例外なく腐敗するものだが、その腐敗の第一段階は、ある「不都合な真実」への意図的な盲目化から始まる。これは科学実験の領域でも疾うに指摘されていることだけれど、人間の認知機構というのは大変奇妙なもので、たとえば、自分が長年構築してきた学説や思想に都合の悪いデータがみつかると、殆ど無意識のうちにそれを排除してしまう。心理面でも、人間は大概自分の劣等感情の根にあるものを自分にさえ打ち明けられないし(私はこれを「根源欺瞞」と呼んでいる)、打ち明ける準備にさえ普通は耐えられない。

そうした「不都合」な観念が人間の最も内的な信仰領域に食い込んでくるなら、どうなるだろう。推して知るべしだ。 原初の単純な形態から次第に現在の生命に変化したという「進化論」の大枠の考え方は、神によって現在の姿のまま生物が創造されたと考える原理主義傾向のキリスト教徒の「常識」に、真っ向から逆らった。ルネサンス以降から近代初期にかけて非常な影響力を持った、「存在の大いなる連鎖」という宇宙観が、まだ人びとの心の奥に根強く残っていたのだ。この宇宙観は、万物は壮大なヒエラルキーに組み込まれていて、それらは連続してやがて完全な何ものか(あるいは神)に至るというものだ。これは、古代ギリシャプラトン的世界観を新解釈することを通して徐々に形成された、極めてヨーロッパ的な思考様式なのだ。

一時期支配的だったこの世界観を通してみれば、個々の生物や植物は、そのかたちのまま神によって創造されたことになる。『創世記』をもう一度みてみると、「ノアの箱舟」に避難するくだりにおいても、一つがいの動物たちは「類」ごとに持ち込まれている(7・21)。この「類」は不変の類であって、変化する類ではない。海から這い上がって鳥になったり巨大な蜥蜴になって暴れ回ったりするような「類」ではない。ナックル歩行していたサルが直立歩行をはじめる「類」ではない。このように、伝統的なキリスト教宇宙観では、個々の生物は初めから本質規定されていた。キリンはキリンだし、象は象。オランウータンはどこまで言ってもオランウータンで、人間はあくまで人間だ。めいめいはそれ以上でもそれ以下でもない。福音派などに根強いこうした認識枠を掴み損なうと、二〇世紀中ごろになっても米国の一部の地域で「進化論」を教えられなかった(教えにくかった)理由を、その実情に即して汲み取ることが困難になる。

著者のブライアン・スウィーテクが本書を書くことを思い立った背景にも、「宗教的無思想」の大方の日本人にはおよそ解し難いある経緯があった。ラトガーズ大学に所属していた頃に小学校五年生の教育実習をすることになって、クジラの進化について教える準備をととのえていたところ、そこの校長から「面倒を起こすようなことはやめてほしい」と横やりが入ったらしい。我々なら、これを時代錯誤の極みとして一笑に済ませられようが、例の聖書原理主義がかなり濃厚に残存しているアメリカのなかでは、「進化論の教育」は法廷沙汰に発展するほどデリケートな問題なのである。生物種は一個一個神が創造したものだし、ヒトとサルの間に系統的な関係など絶対にありえない(中世のキリスト教徒にとって、サルは「罪深き人間」の成れの果ての象徴だった)。

「移行化石」というのは、端的にいうと、古代の動物と現生動物の移行期を示す化石のこと。ダーウィンは『種の起源』(一八五九年 *)のなかで、生物の変異性や適応、生存競争、自然選択、適者生存といった、以後の科学進路を決定付けるような着想や概念を、膨大なデータを引き合いにだしながら仔細に論述したわけだけど、この「進化」仮説を証拠づけることには成功していなかった(ちなみに『種の起源』のなかでは、進化evolutionという言葉は使用されておらず、変形による派生Descent with modificationと表現されている)。

*【知の系譜に関心のある私として大変に興味深いのは、このなかで展開されているダーウィンの主要な学説は、同国の経済学者T・マルサスの『人口論』(一七八九年刊)から相当強い影響を受けていることだ。マルサスはこの本のなかで、人口増加は幾何級数的であるのに必要物資は算術級数的にしか増加しないから、過剰人口のための貧困は不可避であるというふうな悲観論を展開したことで記憶されている(いまではすっかり時勢遅れで殆ど参照されることはないけれど)。 あと、公正を期するために忘れてはならぬことは、当時、生物の進化機構に気がついたのはダーウィンだけではないということだ。科学史上ではダーウィンの名前の影に隠れてしまったが、A・ウォレスという優れた博物学者がいる。二人はあらかじめ互いの着想の共通点を確認し合い、一八五八年、リンネ学会で連名でその論を発表した。もしウォレスに先駆けてにダーウィンが学会で自説を発表していたら、彼は今ごろ相当悪名高くなっていただろう。科学史では同時期に「偉大」な発見したせいで確執関係を深めた例が少なくない。私などは、微分積分をめぐってライプニッツニュートンとの間で起こった大人げない喧嘩をすぐに思い浮かべてしまう。】

  何しろ著者渾身の大著であるから、私の読後感も大きく書きたいことは山ほどあるけれども、あまり長くなるのも嫌なので、もうそろそろ締めくくろう。結局のところ本を読むのが一番早いのだから、せいぜい私は、基本的な予備知識を冗長で要領を得ない調子で述べ立てることに甘んじたほうがいいのだ。

序章では、二〇〇九年に発見され、「ヒトとサルとをつなぐ最古の化石」としてジャーリズムの世界を賑わせた四七〇〇万年前の霊長類の化石が、実はキツネザルの近縁種に過ぎなかったという最新事情(二〇一〇年当時)を紹介しながら、メディア時代の科学の浅はかさを批判する。いわゆる「ミッシングリング」という言葉の背景にある「存在の大いなる連鎖」についてもある程度詳述されている。私は、この章からだけでも得るものが随分あった。 科学であれ哲学であれ、学問というものの極まるところには「我々は何処から来て、いったい何者なのか」という問いがある。自分の祖先を遡っていけば何ものに行き着くのかを知りたがらない木偶の坊など、私はいないと思う(そう信じたい)。

一章「化石と聖書」には、「ダーウィン以前」の時代では「化石」がどのように見られていたのかが書かれている。面白いのは、鮫の歯のくだりだ。当時はこれを、月のない夜に空から落ちてきたものだと説明されていたらしい。化石が死滅した生物の痕跡であるという認識が定着しはじめた後も、それらを洪水の遺物とみなす考え方が学会の主流であったらしい。それほどまでに、その時代の観念は聖書と切り離せなかったのだ。

二章では、現生種や化石を入念に観察したうえでダーウィンは、生物が世界(環境)への適応か不適応によって「進化」するという説を、自信満々に提示した。けれどもその説にはいまひとつの証拠が欠けていた。「移行化石」である。たとえばキリンであれば、現生種のそれよりもちょっぴり首の短い種類の化石が見つかっていいだろう、という話だ。ダーウィンが『種の起源』を出版した一九世紀後半では、まだ「移行化石」は現在ほど多く発見されていなかった。決定打となる物的証拠が不足していたのである。 この章ではヴィーグル号(英海軍の測量船)で世界を巡っていたころのダーウィンの姿が生々しく描写されている。「日曜だけ仕事をしてほかの日は好きなだけ鳥を狩ったりナマコの研究をしたりできるから」という理由で司祭になることも考えていたようだから、思えば呑気な話だ。私も財産家に生まれれば純粋な思索と著述活動にのみ専心できたのだから、やはり持つべきものは豊かな「家」であって断じて他のものではない。

この調子で逐一概要を書き連ねるつもりはない。後は読んでもらいたい。 三章から九章までは、主として、ヒレから指への移行、哺乳類の起源、クジラ、羽毛を生やした恐竜、ゾウ、ウマ、ネアンデルタール人などについて紙数が当てられている。図も豊富で、文献もしっかり提示されている。全体を通じて、進化は一直線ではなく、多様に分岐した系統をなしているということが再三説かれている。

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こうして絶滅した古代生物の記録を立て続けてよんでいると、どうにも底なしの感傷に沈んでしまう。絶滅しない生物などは、およそありえないのだから、せめて人間は最大限の快楽を生活の中から得続けるべきなのだろう。私は割合早くから反₋世代生産を標榜してきた人間の一人だから、原則として「人間は(意識者として)生まれてこないのが最良で、生まれてしまったからには出来るだけ早く死ぬか、生涯に被る苦痛を最小限に抑えるように生きるのが次善」だと信じて疑っていない。数万年後か数百万年後に「現生のホモサピエンス」の骨や化石を拾い集めている「生物X」の姿を、私は容易に思い浮かべることが出来ないけれども、その「生物X」が現生のホモサピエンスよりは愚鈍ではない何ものかではあってもらいたい。哲学の全ての問題は片づけられているかもしれない。宗教は科学に吸収されているのかもしれない。意識と肉体の分離が克服されているかもしれない。あらゆる苦痛の根が葬られた存在形態に到達しているのかもしれない。 人間は偶然、「苦しみ」の意識を発達させすぎた。複雑な感性や文明装置を得るために、人間は途轍もない代償を支払って来た。そのせいで一部の人間は、自らの手で自分を殺めるくらいにまでなった。「人生は涙の谷」だと、厭世家は昔から飽きもせずに言い続けて来た。この文句ほど「人間的」なものはないし、普遍的な自己規定はない。どれほど割り引いてみても、人間が苦しみの塊であることを否定する人はないだろう。人間という種は、あとどれくらい地上に残るのか、そんなことはどうでもいい。私の気まぐれな見積もりでは、あと五百年くらいが精々のところだ。逆立ちして腕立て伏せをしてみても、この窮屈さが何百年も持続するとは思えない。自分たちの拵えた装置に呑み込まれるかもしれない。 ともあれ、いずれ自分たちも絶滅して化石になるだろうと言うこうした淡い未来空想は、現生の人間に妙な活力を与えうるものだ。人間も、やはり、過渡的な何ものかでしかない。完全でもなければ不完全でもない奇妙な何物か。考える葦。裸の猿。

書物というものは、こうやって浮き世の問題を無限に相対化してしまうので、やはり到底手放すことはできない。 移行化石の話から随分遠くに来たものだ。

移行化石の発見 (文春文庫)

エーファ・マリア・クレ―マー『世界の犬種図鑑』(古谷沙梨・訳 誠文堂新光社)

先週酒の席で盛り上がった話題のひとつに「犬」があった。たとえばそれは、犬にまつわる「美談」が枚挙しえないほど報告されているのに対して、猫のそれについては極めて微々たるものだというもので、穏やかだった酒の場はすぐさま談論風発に及んだ。 たしかに、樺太犬のタロー・ジローや忠犬ハチ公みたいな大衆好みの物語には鼻持ちならない美化と創作が混入しすぎていて、私などは、そうしたものはただ失笑するためにのみあるような気さえするのだが、いずれにしても伝統的に人々がそうした「犬美談」に馴染んできたということだけは疑えない。世界中にはこの手の逸話や伝説がありふれていて、犬が家畜化されている圏域でこういうのはいくらでも見つかるはずだ。ゆうに一書を成すにあまりあるほどだろう

ところで、ある男が、ダンディの「反民主主義」的姿勢を示す特徴のひとつに「猫好き」があると、大体こんな趣旨のことを言っていた。猫はわがままで労働を嫌い個人主義者で美を好み隷属を嫌がり貴族的でどこか神秘的でもあるというのが、当時の世紀末パリの一般的な見方だったようだ。 実家にもむかし平凡な犬が暮らしていたけれども、もう死んで十年近く経っていて、いまは老いた猫が一匹いるだけだ。家には盆と暮れにしか帰らないが、なるほど犬と猫は大分違う。あつくるしいほど舌を出して尻尾を振って駆け寄ってくるあの犬特有の愛嬌が、猫にはない。概して猫は自分が構ってほしいときにしか近づいてこないのだ。その点では「貴族的」なのかもしれない。 いろいろ調べてみると、いまのイエネコはリビアネコというのを飼いならしたものとされている。古代エジプトには既にネコの家畜化があったというけれど、多く使役犬とは違って直接人間にこき使われる存在ではなかったみたいだ。これは勝手な想像だけれども、ネコは鼠をとったりするから、大人しいのを何匹か放し飼いにしていた程度のことだったのだろう。それがやがて愛玩種となり、シャムネコとかペルシャネコと呼ばれるようになった。

こうしてみると猫の一般化的な「特性」は、犬のそれとは鮮やかな対照をなしている。ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』(草思社)の第九章「なぜシマウマは家畜にならなかったのか」のなかでは、ユーラシア大陸と北米で飼育化されたオオカミが犬の祖先であるとして、飼育種化によって「家畜犬」が本来のオオカミからどのようにかけ離れていったのかを確認している。グレートデンのように元のオオカミよりも体が大きくなった犬種もあれば、ペキニーズといった「愛玩種」にみられるような、はるかに小型化(弱小化)した種もある。短足化したダックスフントも家畜化の結果(ドッグレースではおそろしく不利だ)だし、大胆にも無毛化した犬もいる。人間が白テリアとブルテリアを交配作出したブル・テリア(イギリス)に及んでは、容貌が醜悪過ぎて、もはやそのなかにオオカミの面影は見ることが出来ない。

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家畜犬と言っても、その活動分野によっていろいろの呼び名がある。 猟犬では、セッターやコッカ-スパニエル(主に鳥猟)、テリアやビーグル(獣猟)がいる。コリーやシェパードのような牧羊犬・護羊犬もいれば、今回の地震でも出動したはずの災害救助犬(バーニーズマウンテンドッグなど)もいる。暖かい室内で人間嫌いの主人の溺愛を受けるためだけに生育される役立たずの「愛玩犬」(コンパニオン・ドッグ)もいれば、麻薬探知犬と呼ばれる選り抜きの職業犬もいる。

人間(すくなくとも日本人)にとって、犬は異質な者ではない、生活圏を何百年も共にしている伴侶といってもいい。そのことはイヌという字を含んだ言葉の数からもわかる。植物名などの接頭辞によくある「イヌ」は、似て非なるものであることを示すものだし(イヌ蓼、イヌ山椒)、犬侍とか犬死に、犬の川端歩き、警察の犬(まわし者)、犬の糞なんていう罵倒表現はいくらでもある。こういうのは、犬の人間に対する寄与を思えばなかなか不当のものと言えそうだけれども、見方を変えれば、それだけ身近な存在であるということでもある。そういえば江戸時代には白犬は次回人間に生まれ変わるという俗信があったようだ。

犬の図鑑をこうやって眺めてみると、人間がますます嫌な動物に見えてくる。でも犬にはなりたくないよ。

世界の犬種図鑑

藤原新也『僕のいた場所』(文藝春秋)

もともと私は他人の写真というものを好きではなくて、素人の旅行写真など重度の不眠症患者にアクビを促すためにのみ存在しているものと思っていたくらいだから、当然、旅に際してカメラを持つことも殆どない。どこに行っても写真を撮るに値する光景などなかったというのもあるけれど、それよりも、カメラが一般に普及して何十年も経った現在、カメラを首からぶら下げて「観光地」(思い出商品)に犇めいている人間たちが虚ろな動物に見えてきて、いきおいカメラそのものが俗悪なものに思えてきたのだ。カメラにはなんの責任もない。 ところでカメラをもったサルたちは、近頃では、飲食店でこれから食う料理を写真に収めている。自分の口に入れるよりも先にレンズに食わせるのだ。このサルたちは、どうせ料金を払うのだから、ついでにイメージとしても取り込んでおきたいのである。しかし、この興味深い現象については、ここで掘り下げる余裕がない。

             

日本にカメラが舶来して間もないころの写真を通して見ていると、総じて面白い観察が得られる。下級武士であれ丁稚であれ花魁であれ、ほとんど笑顔をつくっていない。おそろしく表情に乏しいのである。これは通夜で撮った写真だと言われても疑うことができないくらいだ。私などは、太宰治が『人間失格』の冒頭で少年期の大庭葉蔵に当てた形容を思いだした。

畏友に聞いてみると、当時はカメラの原理上露出時間が長かったので(*)、笑顔を何十秒も維持することは顔面の筋肉に負担がかかることから、笑顔写真が極端にすくないのだろうと言った。 尋ねておきながら、私は直感的に、これは違うと思ったので、自分で考えることにした。 理由はもっと単純で、きっと、そもそも当時は、カメラに向かってスマイルをつくる合意事項などなかったのだ。有象無象がファインダーをのぞきこむ現代とは違って、当時の写真はずっと高価で、それを撮る行為は厳粛なことだった。 たとえば、武士の写真のなかには、やけに不機嫌に見えるのがあるが、それはおそらく単純に、このほうが威厳を感じさせるからだろう。「男は三年に片頬」というほど極端ではなかったにしても、上に立つ武士があまりヘラヘラしていては周囲に示しがつかない、という自己規律が当時強く残っていたのは、多分本当だろう。当時の侍がまだ支配階級に属する身分だったことを思えば、そう考えるのは如何にも道理にかなっている。明治維新後の元老や天皇の写真でも、愉快そうなのは殆どない。権威と笑顔は、およそ水と油なのだ。すくなくとも日本では。

*【ダゲレオタイプは約二分、湿式タイプは約二〇秒と、ものの本にある。すくなくともその間はじっとしていなければならないのだ。そうなると、「待っている間のイライラ論」も俄かには斥けがたい。十秒以上スマイルを維持すると、たしかそれは不自然なものになる。疑うなら鏡に向かってやってみればいい。入念の表情訓練を受けている俳優でもないかぎり、自然なスマイルを一定時間維持するのは、なかなか困難だ。首相時代の菅直人の職業的スマイルのように過労の色が段々滲んできて、どうみてもイビツに見えてくるのだ】

勿論それだけではない。科学的マインドが庶民レベルにまで根付いていない当時、まだカメラは異様な機械に見えたはずだ(どうしてこれほど写真の発明が遅かったのか、という問いを立てる科学史家がいるほど、カメラの仕組みは素朴なものであったのだけれど)。 いつだったか、樋口一葉が同級生たちと写っている写真をみて、どうにも不思議に思ったのは、彼女らがみんな手の甲を着物の裾に隠していたからだ。すこし調べてみると、写真をとると手が大きくなるとかいう俗信が当時流布されていたそうだ。彼女らがそれを本当に信じていたのかはともかく(*)、撮影に際しての作法がある程度定式化していたのは事実だろう。

*【かつての「迷信」について考えるとき、注意しなければならないのは、当時の人びとが必ずしも本当にその風説を信じているとは限らない点だ。たとえば一九六六年の出生率が低い理由は、勿論人びとの「丙午」(この年に生まれた女性は夫を殺す)への忌避感情にあるわけだが、かりに出産を見送った当人たちが信じていなくとも、将来の娘の縁談の場でなんらかの不都合に被るかもしれないと見越すのなら、結局「時代」はそうした「迷信」を間接的に受容したことになる。つまり「自分は迷信だと確信しているが、他人はそう思っていないかもしれない」という対他的スタンスが、皮肉なことに、「迷信」の根拠を作り上げているのである】

もとよりカメラに向かって笑顔をつくる作法が定着したのは、いつごろからなのだろう。カメラをいじりだしたサルが互いの平凡なツラを撮り合うようになってからだろうか。 履歴書や運転免許証の写真で笑顔を撮った例は、あまり聞かない。逆に選挙ポスターやフェイスブックでは無表情の方がはるかに少ない。公私の別と言えば、それまでだけれども、このことは、もっと調べてみると面白いだろう。

カメラ大衆時代は、めいめいの表情管理の作法にどういう影響を与えたのだろう。「カメラを通して見た自分の姿」と「自分が自分について思い描いている姿」の差異を、カメラ大衆時代にある我々はとことん知っている。

おうおうにしてプロ意識の高い写真家は、俗な笑顔を撮りたがらない。そんなものは往来で何百ダースも得られるからだ。 たしか土門拳だったか、各界の大立者の貌を撮る一連の作品のなかで、谷崎潤一郎の自宅に伺って写真をお願いした際、文豪が終始上機嫌だったのでいまいち自分の欲しいような風格が現れず、撮影の段でわざとモタモタして彼に不機嫌な顔をつくらせた、と大体こんなふうなことを書いていて、当時それがなかなか面白い事と思った。

藤原新也も「写真家」ということになっているけれども、私はこの本で、彼がとてもいい文章を書く人だと、素朴に感心した。時代批判のキツイ文章作者を発見したのである。 濃度が高く、えがらい文章を書ける人を、私は好きだ。ことに「平成幸福音頭」と「社畜電車」の文章は痛快で、二三度読んでもまだ愉快だ。 この表紙の写真は、きっと俳優の笠智衆だろうか。かなり晩年の、それも後姿なので、はっきり分からない。小津安二郎映画のお父さん役でしか彼の事を知らないけれども、私はあの朴訥な感じの演じ方が好きだった。あんなふうな燻し銀の俳優はなかなか今では受容されないだろうな。ピコ太郎か何かしらないけれど、パイナッポオペンとかいっていればいいのだ。

一体写真だけパチパチとる人間に碌なのがいない(巷をみてもそれは明らかだ)。優れた文章も書けて一流なのである。

しつこいようだけれど、藤原新也がこんなにいい文章を書く人とは思っていなかった。退屈な外国写真を撮りまくっている放浪者気取りとしてしか見ていなかった。イメージの固定というのは、やはり、こわい。彼の他の本も、探しだそう。よっぽど気に入った。

僕のいた場所 (文春文庫)

エミリー・クレイグ『死体が語る真実』(三川基好・訳 文藝春秋)

文春の海外ノンフィクションは入手しやすい上に労作揃いなので、私のお気に入りリストに登録されるようになって久しい。本書の特異な主題もまた興味に尽きない。

なにしろ「白骨死体のプロ」と称される女性が書いた本だから、冒頭から最後まで穏やかでは済まない。バラバラになって発見された惨殺死体や、蛆のわいた腐肉を分析する上でのコツについて淡々と語るこの著者の肩書は、法人類学博士となっている。 彼女がケンタッキー州にいたころの主な仕事は、「骨や手足の断片や焼け焦げた死体などを分析して、死因と身元を明らかにするための情報を提供し、ときには生前の姿を再現すること」だった。起承転結のはっきりした低俗な刑事ドラマとは違って、実際の現場で発見される「死体」は大抵、見るも無残な状態にある。身元も不明なら死因も不明、事態は人びとが想像するよりもずっと混沌を極めている。身の毛もよだつなどという月並みの表現ではどうにも弱すぎる。彼女の仕事は、そんな凄惨な事件現場に残された残骸や骨を丹念に仕分けたりしながら、事件の内実を類推・報告することだ。

著者はなかなかの変人であるようで、幼少の頃から父の医学書や解剖図に心を引かれ、また、動物の骨を回収して骨格を復元させないではいられない奇妙な趣味を持っていた。それだから、「正体不明の骨の山を検分したり、分析にまわされてきた死体の血まみれの膝を解体したり」することは、苦痛であるどころか「人生最大の楽しみ」であり、人体の骨や腱の形状や機能をつぶさに観察できることは「はかりしれない喜び」であるそうだ。 多かれ少なかれ、人体への解剖欲は、誰のなかにも潜在している。人体の内部は人間にとって最も近くて最も遠い。大半の人は今も脈打っている自分の心臓を直接見たことはないし、蠕動運動している自分の消化器官を肉眼で覗いたこともない。体の内部を見てみたいという気持ちが起るのは、むしろ、知ることを欲する動物であれば、当然の成り行きだ。 彼女はなかでも極端な例だ。その並外れた知識欲は、一般の生理的不快感を軽く凌駕している(*)。

*【駆け出しのころに彼女は、ある手術に立ち会って、人肉の焦げる臭いに驚いた。その臭いを何とか人に説明すべく拵えた表現が面白い。「腐った魚と豚の脂身と古い靴をフライパンで炒めておいて、そこに焼きたての焦げたトーストを放りこんだにおい」。理科の実験でよく出て来た「腐った卵の臭い」というくらいまでは何とか分かるけれども、これでは皆目伝わらない。けれどもそれが表現不可能の異臭であることだけは、よく分かる。現代の人びとはそうした「死の臭い」を日常空間から遠ざけてしまったのだろう。ことによると生きている心地の乏しい世界は、生々しい「死」が視界から遠ざけられている世界なのかもしれない】

読中、所々痛感したのは、「死」と「死体」が互いに似て非なるものであるということだ。「死」という語はどうかすると観念的に傾くけれども、「死体」は厳然たる生の事実だ。それは有無をいわせぬ「物質」だ。それは、ただあるというだけで、あらゆる観念遊戯に終止符を打つ力を持っている。「死」についての抽象的な思索は哲学者や宗教家の領分だが、「検死」や「解剖」はどこまでも即物的な営みで、想像や感傷を挟み込む余地を与えない。自分の「死」を信じていない人間も、他人の死体を目の当たりしながら、その確信を保つことは出来ない。

死後の経過時間を推測するのにウジムシが利用される次第や、骨を通してみた白人と黒人の相違などは、この本を読んではじめて知った。残骸の頭蓋骨から顔を復元する試み(復顔)についてもかなり詳しく書かれている。当然ながら、実際に見られる骨や内臓は、医学書のカラーページで見る程わかりやすいものではない。死体はひとつひとつ固有の特性を持っている。教科書の図解がそのまま通用するほど単純ではない。医学イラストレーター(著者の前職)が必要とされるのは概ねそのためだ。医学イラストレーションには人体の構造がより細かく描かれている。外科医はそれに参照しながら人体にメスをいれるのだ。

余談だけれど、「死体」と聞くと私は、何故だか「禁じられた遊び」の埋葬シーンを思いだす(*)。あの哀切な調子のギター演奏が頭に響いて止めることができない。

*【これは一九五一年発表された。ルネ・クレマンが監督し、主演の女の子がブリジット・フォッセー、男の子がジョルジュ・プージュリー。予算の関係で音楽はナルシソ・イエペスのギター演奏だけ(それも単一のテーマ)。 全体を通して華やかなギミックもなければ、特段優れた俳優が出演しているわけでもないこの作品を、私は殊のほか気に入っているので、語りだすと多分一冊の本になるだろう。この作品の魅力は、ひたすら押しつけがましくない点にある。 というのも、戦時下にある子どもたちが動物死体の埋葬ごっこに熱中するという筋で映画をつくるなら、大抵はそこにブラックユーモアの香気を与える誘惑に駆られるものだが、幸いにもこの作品はそうした方向には流れていない。これは、よく人々が評するような「反戦映画」などではなく、頑是ない子どもたちを中心に据えた一つの「理不尽映画」ではないかと思う。すくなくとも当時の私はそう観た。 戦争というものは、数万単位の規模で死者を統計に組み込んでいく歴史現象だ。ひとりの死は悲劇だが百万人の死は統計に過ぎないと言ったのは確かスターリンだが、「禁じられた遊び」の埋葬遊戯はそんな「死」のインフレ時代への純真無意識の反応となっていて、そこに政治的なプロテストが食い込んでいない分、いよいよ「やり切れない」理不尽を浮き彫りにするのである。男の子が動物墓地に飾る十字架を近くの墓から失敬するくだりなどは、常識に凝り固まった観衆を随分当惑させる。 一人では生きられない人間の不安定さ、日常の中の離別、惨劇、存在しているというだけで免れることができない理屈以前の不幸、痛みの気配が、この映画の基調を成している。如何にも救いがなく、どうにもやり切れないのだ。 再び孤児に戻った女の子が群衆のなかを叫びながら駆けていく最終シーンを見たとき、私は、胃の底に希釈した塩酸を流し込まれたような感覚を味った(こればかりはコーヒーの飲み過ぎの為ではない)。この言うに言えない切なさを出来合いの「反戦観」にしか回収できない評論家は、何か決定的なものを掴み損ねているような気がする】

次いで思いだすのは、仏教絵画のいわゆる「九相図」(九想図)だ。野外に打ち捨てられた人間の死体が腐敗の末に白骨化してゆく過程を九段階に分けて描いたもので、その念の入ったリアリズムは、現代人の眼にも優しいとは言えない。多くのものは鎌倉時代から江戸時代にかけて描かれたものというから、荒れ狂った世相を相当に反映しているのかもしれない。 死者を(いずれは復活する)朽ちざるものとして見る伝統的なキリスト教とは違って、通常、仏教は死体には何の興味も希望も持たない。所詮現世の肉体など仮の肉衣に過ぎないのだ。私の思うところでは、そうした冷めた死体観は、現代の解剖学的死体観とは、本質的には何も変わらない。江戸時代後期に人体を解剖した蘭学者の精神にも、そうした側面があったのではないかと思う。

今一度「死体」を通して自分の奇妙な生を確認するのも、悪くはない筈だ。私は自分の死体を想像するのが好きだから、この手の本は当面手放したくない。

死体が語る真実 (文春文庫)