読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

佐野白羚の文筆武者修行(「蟄居汎読記」「書脈録」)

九三八堂の佐野白羚による随想ならびに読後録を定期掲載

大島洋一『芸術とスキャンダルの間 戦後美術事件史』(講談社現代新書)

大島洋一『芸術とスキャンダルの間 戦後美術事件史』(講談社現代新書

 

要するに日本の戦後美術史のゴタゴタ事件簿。
芸術ってそもそも何というふうな疑問を首から下げて読むと良い感触が得られるね。贋作をつかまされた当事者でなければ笑って読める。欲の皮の突っ張った奴もたくさん出てくるから。しかめっつらした文人墨客の真贋論争も書物化されれば滑稽に映る。「具眼の士」もこの程度かって思いながら読んだ。
             
             

「芸術家」と聞いて瞬時に想起される定型像の通り相場はおそらく、体制秩序の埒外で勝手なことをしながら「美」とか「絶対」なるものをとことん追求している変な人たちというもの。そういう認識は多分、半分正しくて半分間違っているんじゃないかな。

半分正しくないというのは、歴史的に見れば、音楽につけ絵画につけ大部分の「芸術家」は当時の貴族なり宗教的権威なりの公的・民間パトロンに寄生しないととても糊口をしのげなかったわけで、凡庸で妙に上品ぶったあの夥しい肖像画や、既に忘却の淵にある数知れないカンタータ室内楽曲の存在理由もそうした事情なしには説明できない。もうちょっと遡っても、中世あたりの「芸術家」は今日でいうところの「職人」みたいなもので、何とか工房とか看板を立てて集団で「制作」に当たっていた(祭壇画とか)。無名有名を問わず、資金力豊富な注文主や庇護者がいて初めて「商売」になるわけだ。レオナルドダビンチも転々と職を渡り歩いている。「芸術は爆発だ」とか「根源的自我の解放」などと小児的な叫びをあげて好き放題に暴れ回る芸術家像はロマン主義運動以降に定着したものだと思う。硝子の破片の上で血みどろになって転げ回った挙句豚の内臓を観客席にまきちらしてみたり、元世界的バンドミュージシャンが前衛芸術家の妻と肩を組んで撮った全裸写真を世界に公開したり、餓死するまでの犬の様子を写真に取り続けたりする動物虐待なども何か「芸術」らしく見える今日からは想像も難しいけれども。いい加減「過激なパフォーマンス」に飽き飽きしましたよね、僕だけか。三島由紀夫の騒動も、あれは真剣にやったことなのかな。あれ程器用な知性に恵まれた人物が「国を憂える」ことなど本当に出来たのか。なんだか命懸けの自己表現という風にしかみえない。

ともあれ表現は何でもありだという無際限に自由な風潮がかえって「芸術」の幅を狭めている気がする。このごろは何につけ「抒情」性が鬱陶しくなってきた。シューマンとかショパンの感傷優位の曲を聴いた後にバッハのゴールトベルク変奏曲や平均律クラヴィーア曲集などを聞くと、そこにかなり成熟したものを感じて肺腑がじいんと鳴る。型や形式や秩序が必ずしも作品のポテンシャルを圧殺するわけではないんだな、と。表現形式の自由なんか所詮子どもの物言いじゃないか。ヒッピーじゃないんだから。

ところで今日的(一昔といった方がいいかな)なデカダンスっぽいステレオタイプの芸術家像は、貴族階級の勢力が衰えて中産階級が勃興してきた十九世紀以降の話だと僕はみています。そのころには宗教的権威も以前よりはゆるまってきた。要するにブルジョア階級が肥え太ってきて「芸術愛好家」とでも呼べそうな粋人が時代の表街道に現れはじめた。ベートーヴェン(一七七〇~一八二七)の頃になると、もう既にそんな階級の芸術愛好家が芸術家の資金援助者になっている。何々公爵とか何々伯爵だけではなくて、ちょっとした裕福な商人とかね。それでも芸術家渡世は難しい。もっと後になって出てくるゴッホなんか弟の経済的援助がなかったら多分部屋で孤独死しています。「芸術家」の貧乏と生活不器用は半ば宿命ですね。彼らは「国の富」の増大に何の寄与もしていないから、「認知」されない限り身の置き場もない。文化的生産者など本当はいてもいなくてもいいわけだから。創作者の経済的自立というのは詰まる所自分や自分の作品を商品市場に出すことに他ならないので、どうしてもその段階で「媚び」が入り込む。体制に対していくらでも柔軟に対応できるポップアートの類ならいざ知らず、とても世間人の拍手を得られそうもない創作活動をしている「生産的部外者」にとって、自由市場のそうした壁は厚くて残酷だ。

ある種の「媚び」を「迎合」といってにべもなく否定する人も少ないないけど、あれはどうなのだろう。それにしても「アーティスト」という言葉が安くなったね。株価急落だよ。オリコンチャートを独占するアイドル集団の「アーティスト」もいれば黴臭い部屋で誰の眼にも触れない油絵を描いている「アーティスト」もいる。誰もが映画をつくり、音楽をつくる。短歌を作り絵を描く。アマチュアでも何でも、何かを作る人はみんな「アーティスト」を名乗る。こういう「アーティスト」のインフレ傾向も悪くないけれど、自分ばかりが作るだけでなくて他者の作品に関心を向けましょうよ。本当によく出来た古典作品とかに。自閉的な「アーティスト」には碌なのがいない。シェークスピアを知らない演劇人や、バルザック源氏物語も碌に読んだことのない「小説家志望者」など悪質なジョークに属します。偶然嫌いかもしれないが、一応能力に恵まれた先達なのだから全身で学びましょうよ

「世間の節穴などに俺の芸術を解るか」という芸術家にありがちな狷介孤高性も、誰もが囚われている市場的誘惑の産物なんだろうね。だってそんな頑固者も世間に認められるが早いか急に娼婦然と態度を一変させて人格的に軟化するでしょう。そしてやがて紫綬褒章なんかもらって皇居前でヘラヘラ写真に写る。こういう間抜けな「大御所化」って心底嫌だね。野党の無名時代に急進的主張を繰り出して気炎を上げまくっていた代議士が政権奪取後に急にお行儀のいいポピュリストになってしまうあの感じよりも数等胸糞悪い。梅棹忠夫のいう様なアマチュアリズムの作法(特に金銭的無報酬)を守るためには、なんらかの物質的な基盤が欠かせない。ひとむかしまえだとある種の有閑貴族がアマチュアリズムに徹することができた。ライプニッツとかキェルケゴールとかは商売で著述していたわけじゃないでしょう。だからあんなに何でも追究できた。芸術も思索も本当はアマチュアリズムが最良なのです。気兼ねしなくてもいいから。豪商やカトリック教会の庇護を受けながら蓄財や聖書の悪口はいえない。表現枠が所属先によって最初から拘束されてしまうのは悲劇だね。けれども生活に窮するようでは、どうしてもどこかに依存しないといけない。依存するとやはり自分の作りたいものと作らねばならぬものとの間に乖離がうまれる。無所属が最良なのに無所属であるためには一定の資産が欠かせない。これは「表現者」の陥る典型的なジレンマですね。生活基盤を持たないほとんどの「芸術家」は、そこんとこで苦しむんです。詩を作るより田を作れって。きっと無理でしょう。大半は社会不適合者だから。「芸術家」はきっとGDPとかGNPの担い手にならないで何かを追求したい。国家の生産部門の一翼を担わない完全な部外者でありたいのだ。

         
なんだか馬鹿馬鹿しい騒動ばかりだけれど、やっぱり巻き込まれた当人たちはさぞ神経をすり潰しただろうね。こんな主題を扱った新書ならいくらでも買う。美術史ものがあれば、ほかにも読みたいな。世の中の胡散臭い側面にもっと光をあてましょう。

日本陶芸界最大の贋作事件として知られている「永仁の壺」事件(加藤唐九郎)は言うにおよばず、前衛芸術家・荒川修作昭和天皇コラージュ版画事件、三越の古代ペルシア秘宝展スキャンダル、佐野乾山論争、北大路魯山人棟方志功の贋作、ロートレックの「マルセル」盗難事件、どれもこれも「人間の業」噴出過剰だ。
一九八二年の三越の事件などは、はじめて聞いた。たぶん年齢のせい。当時生きていれば多分知っていた。こんな面白い事件なんだから追いかけたはずだ。天下の三越が鳴り物入りで開催したペルシア秘宝展のほとんどの出展物がニセモノだった。あのころの上層日本人なんてのは金は沢山持っているけれど鑑識眼では節穴同前だったから、外国の悪徳美術商にとってはさぞ「いい鴨」だったのだろうね。こんな事件は全体のほんの一部なのかもしれない。たまたま表面化してしまっただけで。そんな事件の詳細を知ってしまうと、古代展など行く気がなくなる。もともと私は古代の遺物などに関心はないのだけれど。気質だろうかね。滅びたものは滅びたものに任せておきなさい。

贋作議論についても、私は、随分前から馬鹿馬鹿しさを禁じ得ない。専門家以外の者にとってそれがニセモノであろうが本物であろうが、どうでもいことだ。世の中には「好い作品」と「駄作」しかありません。本物そっくりに真似て海千山千の画商たちの眼を欺く悪党もまた天晴れなトリックスターではないかね。それだけのリスクを負っているんだから。長期的にみたらとても割に合わないよ。

それにもとをただせば人生何もかもがニセモノなんです。今の宇宙も贋作です。

 

芸術とスキャンダルの間――戦後美術事件史 (講談社現代新書)