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佐野白羚の文筆武者修行(「蟄居汎読記」「書脈録」)

九三八堂の佐野白羚による随想ならびに読後録を定期掲載

山際淳司『スローカーブをもう一球』(角川書店)

 

 

山際淳司スローカーブをもう一球』(角川書店

 

「スポーツ」の中核をなす三大要素は、「ルール」と「遊戯性」と「競争性」、もう一つ加えるなら「限界挑戦性」ではないか。「遊戯性」や「ルール」を欠くとただの乱闘や殺し合いになりかねないし、「競争性」を欠くと馴れ合いの生ぬるい暇つぶしに終始する(それでも構わないという向きはあるだろうけれど)。「限界挑戦性」というのは、さしあたり記録への執念と言ってよいでしょう。記録はその記録方法や機器精度の変遷と無関係ではないので、絶対な客観性などは先ずありえず、演技系のスポーツでは尚更その観が強まってしまうけれども、事実スポーツを報ずる現場では、ウサイン・ボルトが百メートルで世界新記録を出したとか、イチローの日米通算安打数がピート・ローズを超えたとか、ルーマニアのコマネチが十点満点を七回も出したとかいうトピックがあまりに大大と扱われるので、一般の人びともそれにつられてつい盛り上がってしまう。

私が思っている「限界挑戦性」は、そんな公的記録の類でなく、もっと主観的なものだ。どういえばいいか難しいのだけれど、たとえば、ヘミングウェイの「老人と海」という中編作品がありますね。不漁続きで元気のなかった老漁師サンチアゴが二日二晩の死闘の末に巨大カジキを仕留めるというだけの単純明快な物語。あの死闘のさなかにサンチアゴが感じる「充実感」が、それに近い。海で繰り広げられた老人と魚の格闘など、実際誰も見ていません。その誰もみていないなか限界をどこまでも越えて行こうとするあの鬼気迫る老人の姿、自分の力量の超限界的をどこまでも突き破っていくあの凄まじい情念。ここにスポーツにおける「限界挑戦性」の一端があるように思う。最後には帰港の途次に食い荒らされた巨大カジキの骨だけが残るのだけれど、老人にとって唯一価値があるのはそうした残骸ではなく、あの限界到達感だけなのだ。残骸はそうした出来事があったということを示すだけの証拠であり、結局単なる「記念物」、金とか銀のメダルに過ぎない。スポーツの目的はスポーツそのものであり、その行為の絶対無報酬性のゆえに尊いのだと。はからずもヘミングウェイはスポーツ的マインドの精髄を描破していたのだ。

 

「スポーツ」とは一体何かという本質論はちょっと手に余る。歴史をかなり深くまで掘り返さないといけないし、「遊び」の機構や共同体についての分析も欠かせなくなる。誰か代わりにやってほしいね。
なぜに人々があれほどスポーツで絶叫したり感泣したりするのか、という問題も中々考えるに足る問題です。現代では、スポーツの結果次第で誰かが生贄に捧げられたりするわけではない。たしか南米のどこかの国のゴールキーパーが敗退を決定させるようなオウンゴールをしたために帰還後ファナティックな男性ファンに射殺されたという事件が昔あった気がするけれども、この場合明らかに射殺した人間の頭が狂っていたわけで、こんなことは普通おこらないのだ(容易に比較できないけれども、そうした心理的倒錯は、ジョン・レノンを銃殺した犯人や美空ひばりに塩酸をかけた病的崇拝少女の心理に近いのかもしれない)。

ともあれ、競技の当事者は別にして、競技の成り行きそのものがオーディエンスの物質的利害を決定づけることは殆どありえない。国家の浮沈にも無関係。にもかかわらず競技経過の様々な起伏は観る人間の臓腑を急騰させたり寒からしめたりする。何でそうなるのか。

                
あえて踏み鳴らされた大通りを利用して考えてみるなら、スポーツの喚起するあの激しい情緒は、アリストテレスの古典悲劇理論でいうところの「カタルシス」反応に通じるものがありそうだ。カタルシスという語は元来「排泄」「浄化」という意味で、特別厚ぼったい詩的ニュアンスを含んだものではない。「生身の人間」はなにかと感情の鬱積をかかえていて、糞詰まりの犬同様の不愉快感につつまれている。スポーツ観戦の引き起こす落胆や激情、歓喜といったものは、多少の差はあれ観戦者の心に劇的な還流運動をもたらす。これがしばしば精神的鬱積を切り崩す。自身は全く安全な場にありながら、あたかも(ぶしつけにも)選手自身の「運命」を勝手に引き受けた気になってカタルシスに与れるのだ(だから『マクベス』を見ているうちに王の運命に情緒移入してしまうこととあまり変わらない。ただ随分違うのは、スポーツの場合は演劇よりも「運命の自由度」が大きいという点だ)。

運命加担の対象は、ウェイトリフターでもありうればスプリンターでもありうる。ともかく彼彼女らの「限界への挑戦」や「勝利への執念」への心理的移入が果たせればそれでいいのだ。

この短編集でも扱われている「江夏の21球」(*)が今でも空襲体験さながらの熱っぽさで語り継がれているのは、語り継ぐ当人たちが江夏的運命を身体レベルで共有しているからに他ならない。そうした「過分」な心情的コミットメントがなければ、スポーツ現象はふつう(それがどれほどの奇跡的内容を持っているとはいえ)「伝説」にはならない。松井の五打席敬遠や「悲劇のエラー」といったものが今日でも怒りや憐憫の情なしには語られないのはそのためです。

 

*一九七九年十一月四日のプロ野球日本シリーズ第七戦、近鉄バッファローズ広島東洋カープで、カープ側の抑え投手・江夏豊が九回の守りに投じた21球のこと。フルベースの極限ピンチのもとで打者たちを抑えたその配球駆け引きは後にプロ野球史に語り草となった。といっても著者の山際淳司がその主たる仕掛け人なんだけれども。

 

もちろんあらゆる「スポーツ経験」(観ることやプレイも含めて)がこのカタルシスに寄与するとは限らない。中途半端な負け方や失敗によって事態が数倍悪化することも往々ある(実際のところスポーツカタルシスはそう高頻度にあるものではない)。けれども、いわゆる「スポーツ観戦」の旨味をそうした悲劇性に見る視点も、私はありだと思う。古代ローマ時代のコロセウムは内容を変えながらも、社会機能においては現代にもかなり引き継がれているとみていい。

競技は、まったなし言いわけなしの、結果が非常に雄弁になる世界だから、当然、「不本意」の結果によって競技場を去る選手たちの背中には、ある種の悲劇的な哀愁が付きまとう。その背中を見て、傍観者にすぎない間抜け面のオーディエンスは、どこか「人生」の縮図を感じとらずにはいられないのだ(仮に負けた当人は内心あっけらかんとしていて、今夜のFacebookの更新内容を頭に思い描いているだけであるにしても)。

「縮図」とは何だろう。

 

「最高のコーチが最高の選手を育てるわけではない」

「世の中に確実な勝利はない」

「努力の量が必ず栄光に繋がるわけではない」

「応援団の規模が応援チームを勝利に導くわけではない」

「才能だけでは勝てない」

 

その試合のためだけに重ねて来た努力が一瞬のフライングで瓦解したり、通常ならありえないミスでチームが惨敗したり、ともかくスポーツというのはそうした「悲劇」に満ち満ちている。

夏の甲子園」が日本の風物詩になれたのは、出場機会の限られている球児たちを襲う「現場の理不尽」が何かしらサラリーマンたちの同情を喚起したからではないですか。主観的な努力が実際面に報われなかったり、ほんの小さな過ちが重大な結果を招いたりする点では、高校野球も「生産現場」もあまり変わらない。思えば、高校野球では監督のサインは絶対命令みたいなもので、しかもアンパイアに対する抗議も極めて少ない(規則上できないことはない)。要するに高校野球の試合現場には「人間的不条理」が渦巻いている。負けた者はいつまでも球場に居続けることはできない。涙は球場外で好きなだけ流せと言うドライな空気さえある。運営側にとってそうした涙は一度ならずみてきているから、そう珍しくはないのだ。間もなく次の試合が始まる。

外野の凡エラーでサヨナラ負けした高校生たちが呆然自失のうちに礼を済ませて砂をかき集めているあの痛ましい情景のうちには、「悲劇」というさっぱりした言葉には収まりきらない何か生々しい「縮図」が見え隠れする。「今日が駄目なら明日がある」式の慰めが一切通用しない高校野球特有の、生傷に砂利を噛んでいるような痛み、青すぎる空にそのまま消えてしまうそうな恍惚の脱落感。その後のロッカールームでのやり取りや遠征バスのなかの雰囲気に想像力を及ぼす勇気が、あなたにはありますか。ある時から私は、高校野球が直視できなくなりました。だから観ていません。試合の成り行きによっては、内臓が本当に痛んでくるからです。

話はかわりますが、高校野球が最も国民の関心を集めるのは、スポーツ特待生を全国からかき集めているような悪役常勝校が予想通り優勝旗を手にする瞬間ではなく、優勝するとは思われていなかった地方の公立高校が番狂わせに優勝する瞬間である。このアンチ常勝校的な日陰者の反骨心はそのまま、アンチ大企業・アンチエリート的なメンタリティーとも響き合って、そうした部分が高校野球の面白さを担保しているのではないか。少なくとも高校野球に限らずスポーツというものは並べて、観客本意ではなく競技者本位である(あたりまえ)。「あそこまでして勝ちたいかね」などという憎まれ口は所詮、競技の非当事者の言い草です。観る者と参加する者とでは、これほどまでに電圧差が出てしまうんですね。時間や体力面での投入量が違いはすなわち、「執念の質」の違いでもあるということだね。「美しい負けざま」とか「健闘」みたいな解釈は、結局、傍観する人間たちの取り澄ました感傷に過ぎないわけだ。


競技当事者とオーディエンスの違いはあっても、スポーツにはスポーツだけの「痛み」がある。プロスポーツの世界であれば、また別の悲哀も起ってくる。ボクシングも棒高跳びも、その現場には深い失意と執念が轟いている。

たとえば、本短編集に収録されている「背番号94」は、期待されて巨人軍に入団した投手が数年後バッティングピッチャーになって生活しているというもの。大筋を聞いただけで悲しいリアリティが滲んでくるでしょう。実話ですからね。


生きるのは難しい。人間にとってこれほど難しいことはない。スポーツカタルシスは、そんな底なしの溜息と無関係ではない。人間の心理補償機構は複雑だね。二九歳になってつくづくそう思う。

スローカーブを、もう一球 (角川文庫)

スローカーブを、もう一球 (角川文庫)

 

 

 

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 基本的に「競技そのもの」は政治的商業的領域の埒外にある(はずだ)。阪神が優勝してみても阪神ファンの資産運用がよくなるわけではないし、内村航平北島康介の金メダルが取りも直さず日本の実質的国益に繋がるわけでもない。

この短編集の「八月のカクテル光線」でもそうだけれど、たとえば高校野球

真面目に観戦すればするほど辛くなってくる。