佐野白羚の文筆武者修行

佐野白羚による随想ならびに読後録(「蟄居汎読記」「書脈録」)を不定期掲載

諏訪哲二『なぜ勉強させるのか?(教育再生を根本から考える)』(光文社新書)

 

 

 

なぜ勉強させるのか?  教育再生を根本から考える 光文社新書

なぜ勉強させるのか? 教育再生を根本から考える 光文社新書

 

 諏訪哲二『なぜ勉強させるのか?(教育再生を根本から考える)』(光文社新書

光文社新書もときどきおやっと思わせる本があるね。八割くらいはタイトルからして読む気もなくなる代物だけれど、百に三つくらいは膝を打たせるものがある。若い教育学者がスクールカーストを論じたのもあったし(当時は参考になった)、ほら、さおだけ屋は何とかとかいう本もたしかこの新書からだったと思う。あれは結局何が面白かったのかな。まあいいか。
 
教育再生論とか教育哲学なんか、がんらい全うな人間が興味を持つようなテーマじゃない。私は、教育行政の中枢部から発表される言語を未だに解読することが出来ないから、新聞が読めない。また、教育問題を語る人々の、あの取ってつけたような賢しらさが、私は好きではない。何よりあの脂ぎった有識者たちの流暢な語り方がときどき我慢できない。どうかすると夜回り先生とかカリスマ予備校講師のタレントじみた物言いの方がいい。政策立案者が教育の事を語るとき、まっとうなことを言っているように思えるときでさえ、嫌な気分になる。嫌な気分を通り越して、空しい気持ちになる。「生きる力」とか「他人を思いやる心」とか「国際競争に勝てる人材を育てる」というような悪趣味な理念語法は、すくなくとも、三回以上繰り返すべきではない。私は彼らに、オーウェル的なニュースピークではなく、ちゃんとした自己固有の溌剌たる日本語で語ってほしいと思う。頭の中はちゃんとした具体案で一杯なのだろうから。文科省諮問会議のお飾りみたいな論者がそんな新言語を繰り返せば繰り返すだけ、言葉がもっと空虚に響くようになって、国民を軽いニヒリズムに浸らせる(たぶんこのニヒリズムによる全体的思考停止こそ支配者層の目的とするところなのだ)。世の中には聞くだけで虚しい気持ちになる言葉が沢山ある。そのことに鈍感である人間だけが、そんな言葉を垂れ流す。慣例化された言葉というのはかくも人間を虚しくさせることが出来るのだ。
 
こうした大文字の国策的教育論だけが紙面に乱交するなかで、人間の根本を忘れていない教育思想も勿論ある。もともと教員だった諏訪哲二さんの筆になる本書は実にいろいろの要所を含んでいて示唆に欠かないけれども、あえて本書からの引用でまとめてみれば、こういうことになる。
 
「真に知的な働きかけをするためには、まず教師や親が、子どもたちに対面しているとき、経済的なレベルの固執から抜け出ていなければならない。「学ぶ」や「生きる」が経済的利益を離れ、換金できないひとの崇高な価値として、再構成されていなければならない。」(八章)
 
「人間の知的能力の可能性というのは、私たち一人ひとりの内部に元から在るのではなく、その外部の社会にあるのです。その外部(「知」の体系や文化やルール)を取り込んで文化的身体になっていくことが、勉強の目的なのです。これはひとの身体の成長のような、内発的なものではありません。勉強することは、ひとの内部と外部(文化)が衝突を繰り返し、ひとの内部に外部の構造が定着していくことでもあるのです」(エピローグ)
 
著者にとって、「勉強」というプロセスは単なる知識の習得でもなければ虚しい点取り合戦でもない。まして国家の繁栄に寄与する産業戦士の育成などでは絶対にありえない。
 
勉強(学習)は何よりも先ず、人間の生物的な「ありのまま」を否定する冒険であり、社会的に期待されている「あるべき自分」への変化に他ならない。そうした自己改変は、かならずしも快適ではない。生まれ落ちたままの「欲望の塊」であるほうが、むしろ「人間らしい」とする向きもよく分かる。けれどもそんな人間像は、最初から最後まで虚構以外の何ものでもないのだ。どんなにあがいたって、人間はもう「野生」を生きてはいない。人間は骨の髄まで「社会化」されている。このシステムとしての社会の何かしらの部門に嫌でも身を置かねばならない。人間というのは、何かしらのものに自らを適応させないでは生命個体を維持できないのだ。「教育」もそんな社会の一部門であって、そのあるべき役割は、子どもが「ありのまま」の自分を一旦否定する契機を積極的(強制的)に与え、それを出来る限り熱心に助けることだ。その外からの働きかけは、口で言うほど容易な試みではない。予めあらゆる葛藤要因をはらんでいる。様々な教育トラブルが、(教化の勉強だけすればいい)塾ではなく(制度としての)学校で起こる所以はそこにある。とまあ、詳しいことは本書で。
 
また著者は長年の教師経験から、子どもの中には、知的能力や学習適正において、ある種の先天的な格差があることを肌身で知りぬいている。出来ない子は出来ないし、出来る子は出来る。これは世間が思っている以上に多くの事実を語っている。著者は決して単純な能力決定論者などではないだろうが、勉強に関する限り、子どものなかに最初から存在している能力差については、拍子抜けするほどあっさり認めてしまう。「勉強が苦手な子もやれば皆出来る」というよくある欺瞞論法から最大限距離を置く教育者は、案外少ないかもしれない。熱っぽい教育者や間抜けな親たちは、なんとかそうした「悪しき傾向」を「矯正」しようとする。どんな手で? もうみんなやっているからみんな知っている。たとえば学校の勉強で好成績を取ることが後の経済的成功へのステップになるとか、他人よりも幸福な人生を送ることができるとか、いろいろ子どもの耳元でささやく。魔女みたいに。こんなささやきは確かに汚らわしいけれど、勿論ここで知っておくべきことは、ほとんどの子どもにはそんな卑小的のインセンティブ戦略は通用しないという厳然たる事実だ。そんな「大人のリアリズム」は子どもの脳には響かない。だいたいそうしたことを説いている大人たちの大部分が経済的成功者などではないし、「幸福」そうにも「賢こそう」そうにも見えない。彼彼女たちは、自分の不甲斐なさを教育投資で補おうとしている点で、子どもを自分の思い通りになるペットとしてしか見ていない。試験結果を叱って子どもに殺される父親の存在は、子どもが自分の思い通りになると勘違いしてしまった愚かさに対して支払う過大な罰金みたいなものだ。
 
ともあれ、小さいころからまじめにコツコツ勉強できること自体がひとつの能力であり、そうした能力は当然ながら全ての生徒に備わってはいない。それは教師や親の力量で何とかなるものでもない(もちろん例外もある)。あんな硬い椅子にすわって長時間「授業」を受け続けることが子どもにとって生理的に難しいであろうことは、誰でも理解できる。後の受験レースにいたっては更にイビツで不健康な忍耐力が要求されるわけだが、それについては今は触れない。ともかく、学習においては、あきらかに個体差が歴然となってくる。 このどうにもならない個体差を度外視して教育を語るのは、無意味である以上に危険なことだ
 
この著者が他の脂ぎった教育評論家と特段違って見える点は、ひとえに彼が「勉強」や「教育」の目的を、超実利的な観点から見ていることだ。それは、「知」の探究だ。それは、コンビニに行けば貨幣と等価交換できるような商品ではない。ある特殊な学習作法を身に付けなければ得られない「知」である。著者は、「根源的に己れの個体性を超える普遍なるものを求めて」いくための契機が「学習」であると言う(四章)。こうして字面だけを眺めていると、ドイツの観念哲学を思わせるような壮大な議論だけれど、私は、彼の言いたいことはよく分かる。いわゆる勝ち組・負け組の経済的尺度でしか他者を評価できない「みみっちい大人」たちの「しみったれた」論理に染まらないで、もっと根源的な動機から知を求めるのが本当の在り様だ。子どもはある種の大人が思っているほど「知的好奇心」に満ちてはいない。けれども、精神が根底から揺さぶられて知を渇望する契機は、条件さえそろえば、誰にでも起り得る。著者は深く立ち入ってはいないけれども、この人間という悲しい社会動物は、たとえどんな無気力状態にあっても、ふと「そもそも論」に打ちのめされてしまう。「そもそも何故なのか」で締められる問いは、他のいかなる経済的インセンティブや社会的必要よりも人間を虜にする。生涯を通してこの問いの虜になれないような縁なき個体は、この際論の外である。そんな腑抜けた生き物はここで言及するに値しない。いずれにしても、こうした「そもそも論」に足をすくわれてしまうことは、知的人間の証明でもある。「そもそも論」との対峙は無論過酷である。
 
「そもそも人はなぜ学ぶのか」という種類の問いに即答できる人間は、五大陸の中にはいない。「なぜ人を殺してはならないか」「なぜ人間が宇宙に存在しているのか」という問いと同じくらい、その奥行きは果てしない。オックスフォード大学の哲学教授に聞いても無駄ですよ。そんなことに得意顔で応えられるような人間は全て気違い宗教者か、そうでなければ無学者だから。答えられない問いに向かって雄弁に語ることほど浅薄な作法はない。あらゆる「教養」は、人間が如何に何も知らないかという途方も無い失望に裏付けられている。
 
世の中には、「答えることの出来ない問い」がおびただしいほど転がっている。「何故」の答えに対して無限の「何故」を重ねられる問いを、私は「超越的設問」と呼んでいる。そうした超越的設問への最も最適な態度は、ある種の謙虚な思考停止か、そうでなければ、身の程も知らない探究であって、その探究欲こそ、本当の学習の目的なのだ。労働市場への知的訓練課程などでは断じてない。
 
勉強の目的をこの「そもそも論」への逢着とするのは、間違っていない。そして、この問いに応える言葉を見つけ出すための学習過程は、生涯続く。世慣れた初老も一年生の子どもも、こうした「そもそも論」の前では屈辱の沈黙を強いられる。既存の世界システムの中で無理やり自分を改鋳し続けながら、そもそも何でこんな世界を生きているのだろうと、人は問い続けなければならない。それだから自殺は好ましくない。自殺は多分、問いの中断でしかないからだ。どうせ分からないなら、永遠に考え抜こうではありませんか。そもそもなぜこんな教育論なんかに関わっているのか。
 
 
この本は第一次安倍内閣のころに出版されたようで、「百マス計算」で有名な陰山メソッド批判や政府の教育改革などについては旧聞に属するけれども、内容の眼目は五十年以上経過してもまだ有効でしょう。グッピーの糞みたいに散らばっている教育論文よりも、むしろこっちの方を読んでほしいです。

 

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「人を思いやる心」とか「先の見えぬ社会を生き抜く能力」とかいうすり切れた理念を何の恥じらいもなく繰り返すあの例の調子に至っては、その理屈の成否にかかわらず、むかしから肌に合わないのだ。文科省の教育改革案におもねているだけのこんな俗物連なんか本来いてもいなくてもいいのだ。