書痴肉林・蟄居汎読記

佐野白羚の古い雑文の一部を(たぶん)定期的にひっそり掲載します

水原紫苑『桜は本当に美しいのか(欲望が生んだ文化装置)』(平凡社)

水原紫苑『桜は本当に美しいのか(欲望が生んだ文化装置)』(平凡社

 

往年の落語家シリーズばかり聴いていた頃、桂米朝三遊亭圓生(六代目)かのどちらかの演ずる「百年目」のなかで、花見見物客を眺めている旦那がさりげなく桜に苦言をもらすところがあった。「もうそろそろここを移りましょう、桜はどうも下卑ていけません」と大体こんなふう。桜を見れば学齢前の子どもでも綺麗と言わねばならぬようなこの国で、こんなセリフはいかにもダンディに響くじゃないか。それもただ自分の審美感情を滔々とまくしたてるのではなく何気なく呟いてみるところが、よっぽど粋なのだ。「無粋な連中ですね」とははっきり口に出さない。商家の洗練された旦那というのはやはり只者ではないなあと過分な幻想を抱いた次第である。
ところで、この旦那の見ていた桜は、すくなくとも山の中にポツンと自生している山桜ではなかったはずだ。それは、園芸品種化されてそこらじゅうに植えられていた「俗世間」の桜だったに違いない。いわゆる「桜並木」というやつだ。その下で酒を飲んで浮かれ騒ぐという風習は、江戸の時分からあったみたいだ。例の旦那はただ付き合いで岸部まで寄ってみただけのようで、だからこそあの距離感を保っている。この距離感が何とも涼し気なんだなあ。勿論この話の主人公は自称堅物の番頭だけれど、この旦那もいい味を出しているんだ。もうなんかこのまま「百年目」論に突入したい気分だな。
 
ともかく日本には、桜に対するある種の審美的不文律のようなものが空気のように存在していて、これが対象に対する眼差しを良くも悪くも歪めてしまっている。判断停止といってもいいか。「花は桜木人は武士」なんて物言いは、冗談でないなら愚の骨頂ですよ。あんなにもぞろぞろ集団で花見(桜見)に行くのも、やっぱり変だ(桜なんかろくに見ないにしても)。もっと粋な遊びもありそうだけれど、粋な人間はそもそも集団で酔っ払いながらうろちょろしない。一人くらい海岸に漂着するクラゲやイカをみながら酒を飲んでいるのがいてもいい。そしてクラゲにはときどき変な注射針が刺さっている。近所の子どもが遊んでいたのだ。桜よりはずっと素敵な情景です。とかく花というものには、どこか退屈でいやらしいものがある。そうだ、花はいやらしいのだ。ある種の感性に対して気恥ずかしさを与えないではおかない。種類次第では毒々しい。あれは言ってしまえばこれ見よがしの生殖器官であって、花見というのは取りも直さず集団で植物の剥き出しのペニスを鑑賞しながら呑んだり食ったりする下品な奇習に過ぎない。
といっても、綺麗な花は綺麗ですね。私は人の庭に咲くノウゼンカズラはむかしから好きです。花と言えば、まずこれです。これは夏の石垣とよく合いますね。桜については野中に一本だけ侘しく佇んでいる風情はいいけれども、あんなふうに自己顕示欲いっぱいの桜が寄せ集って川沿いを占拠しているような景観は、落語の旦那と一緒で嫌だな。濡れた窓ガラスに張り付いた汚い花びらなんかを見ると、人間を馬鹿にするなといいたい(椎名誠の調子で)。今年も咲いてしまってすみません位の腰の低さが花の美しさには必要なのだ(もっとも桜はすぐに散るから、そこだけは素晴らしい)。動物もそうだな。生きていてすみません位が一番なんだ。生物なんか存在しているだけで必ず何かを圧迫しているんだから。生き物って、本当にずうずうしくて嫌だよね。
 
「いや本当にこの植物好きなの?」
「うん、そういえば野暮で俗っぽい花ですな」
 
ってな遣り取りが時々あってもいいよ。本当に美しいと感じる人の心ももちろん大切だけれども、その美意識を無条件に一般化させないでほしい。なかには花というもの自体が嫌いな人だっているんだから。いやらしくてね。

こうやって桜の開花予想がにぎにぎしく報じられる時節になると、やはり、どうしてこんなふうに桜ばかりが「もてる」のかを考えたくなる。日本のポップスは相変わらず桜桜と歌っているようだし、広告のような印刷媒体や店内デコレーションの演出にも桜の花びらが必ずと言っていいほど登場する(現在愛飲しているリプトン紅茶のパッケージにまで桜の花があしらわれている)。
私見では、日本人にとって桜というものは、単なる一つの植物名ではなく、日常会話をかわすときの無難な話題現象であり、また、季節を実感するための確かな指標なのである(サクラ前線)。要するに「桜」は、あらたまって嘆美するような対象である以前に、何か根の深い文化的合意のうえに成り立った美的記号であり、この権威ある記号に対して人々が接するやり方は、例えば「富士山」や「和歌」や「夏目漱石」という文化記号に対するそれと同型のものであるといえる。接合性が従来より弱くなってきた共同体ほど、その共同体の一体性を確認するための文化記号に、なにかしらの欲望を投入する。この欲望は、物質的欲望とは異なり、ほとんど意識されることがない、極めてナショナルで漠たる感覚である。この「記号への欲望」は、「美意識」という、一見主観だけが支配しているような部門でさえ、例外ではない。もっというなら、ナショナルな意識にかかわらず、人間というものは、つねに何かしらの結束観念に飢えている。県民の鳥とか県民の花なんていう詰まらない事例はもちろん、世の中の無数の企業シンボル、マーク、プロスポーツチーム、沢田研二のファンクラブからカルト映画愛好会まで、枚挙にいとまがない。こんなのは全て、結束観念の力学なしにはありえないのだ。こうした観念のために、偶然形成されたような共同体が、あたかも「運命共同体」であるかのように思えてくる。「日本人」というものは「桜」を愛で「富士山」を誇りに思うものだ、という具合に(もちろんそんなはずはない。北陸に住んでいる人間にとって「富士山」など日本の「象徴」ではありえない)。これはさすがに単純化しすぎるけれども、こういったような「判断に対する記号の介入」は、日常風景をみわたせば、そこらじゅうにみつかる。どうかすると「わび」とか「さび」を知ったかぶって云々したがる人が出てくるのも、これで説明できる。つまり個人の「嗜好」は常に共同体の「嗜好」と響き合っている。めいめいの趣味判断も、共同体がいつのまにか定着させた審美判断や思考様式からは自立していない。

「桜」への集合的美意識が「日本人」の本質を規定しているのだという、そんな自覚がどこかにあるようだ。「渋沢栄一」や「福沢諭吉」が近代日本の守護神と化しているように、日本人は「桜」という植物を共同体の結束記号にまで昇華させた。この「桜」をめぐって「国民」(民族)が共有してきたイメージの沈殿物を思いきって浚渫してみれば、その変遷過程や実体がいくらかは掴めるというものだ。

本書のねらいはそこにある。未開拓に近い分野ゆえ詩論の域を出ていない観こそあるものの、この本の着眼点は興味に満ち溢れている。ひねくれたタイトルからは、著者がひそかに桜を嫌っているかのような印象を抱きかねないけれども、そうではなくて、著者はむしろ、桜に対して殆ど身体化しているといってもいい共同体的反応様式に、一人の歌人として疑問を呈しているだけだ(彼女は短歌の実作者でもある)。それはまた、「美しい」と思う経験は本来何であるのかという観念的な問題と向き合うことでもある。そういえば大昔に、美しい「花」がある、花の「美しさ」なんてものはない、みたいなことを書いていた文芸評論家がいた気がする。「美しい」というのは、どんなふうにして決まるのか。「美」の実在があるからか、美しいと反応したがる主体があるからか、あるいは両方の共鳴作用があるからか。これから何につけ「美しい」と思ったときに、ふと反省することにしよう。「本当にそれは美しいか」「本当に自分はそう感じているか」「習慣的にそう言っているだけではないか」
 
 古事記日本書紀万葉集、王朝文学、西行、能、歌舞伎、松尾芭蕉、軍歌、近代文学、戦後歌謡曲、こうやってインデックスをつらつら眺めてみると、日本人の桜への偏愛心情の底には間違いなく文化的(つまり人工的)な「美意識」が介入していることが分かる。「桜」というイメージに人生の悲哀や恋情を過分に仮託してきた脈々たる詩的伝統がある。植物学でいう「バラ科サクラ属」の一品種ではなく、ほとんどイデアといってもいいような詩的イメージだ。日本文学史で「花」といえばその大部分が桜を指しているというのは、どこまでが本当か分からないけれども、すくなくとも私が「花」という言葉に接したときは、たしかに桜のような映像が思い浮かんでくる。「花」の一字は限りなく桜的イメージと結びついている。
井伏鱒二が訳した唐詩の五言絶句の一節に「花に嵐のたとえもあるさ さよならだけが人生さ」というのがあったけれども、この「はな」の喚起するイメージも、私にとっては、やはり桜だ。それは、夜の嵐の間に花びらを散らせる桜大木の情景と半ば不可分である。こんなふうに、桜をさほど好きでない人間の想像領域にも、この文化的イデア関係は喰い込んでいるのだ。
どの時代から「桜」が定番(紋切り型)の詩的素材になり、どの時代から「はかなさ」や「高貴さ」を表象しえるようになったのか。国文学にかなり精しくならないと、何も語れないね。
例えば『万葉集』で最もよく詠まれている植物は萩で141首、次が梅で118首、桜は八番目に過ぎないから、この詩集が編纂されている年代では、桜はまだ主役級の花ではない(勿論既に栽培されていたし、人々もよく知っていたはずではあるが)。
この研究主題に必要な文献量を思うと気が遠って眠くなる。そうでなくたって眠いのに。でも一生飽きないテーマではあるでしょう。

 

 

桜は本当に美しいのか: 欲望が生んだ文化装置 (平凡社新書)

 

桜は本当に美しいのか: 欲望が生んだ文化装置 (平凡社新書)