書痴肉林・蟄居汎読記

佐野白羚の古い雑文の一部を(たぶん)定期的にひっそり掲載します

アンドリュー・ソロモン『真昼の悪魔(うつの解剖学)』(堤理華・訳 原書房)

アンドリュー・ソロモン『真昼の悪魔(うつの解剖学)』(堤理華・訳 原書房
 
そもそもうつ病というのは何もので、現場ではどんな治療方法が現に行われていて、どんなふうな歴史を持っているのか。大部のこの労作はそのあたりをばっと辿ってみせる。こういうの、あるようでなかったな。せいぜいあっても、こんな治療法がありますよ、とか、こんな症状の時は医者に相談しましょう、という精神科医による安直なアドヴァイス風のものだった。そこにはしばしば、「つべこべいわず医師に相談しろこの素人め」という傲慢な魂胆がみえみえだった。もちろん医者にみてもらうという判断は間違っていない。ある種の「精神疾患」に対して薬物療法が好ましいことを示す調査は、たしかにある(はずだ)。れっきとした「肉体の病気」なのだからちゃんとした医者に診てもらうべきだという理由は、私の様な人間にもよく分かる。
 
けれども人間という動物がなんで「鬱」に見舞われなくてはならないのかを知りたい一読者としては、おおいに不満ののこるものであった。わたしはとかく、現象の根元に今直ぐ迫りたいという種類の人間なのだ。細々とした治療プロセスよりも、いつからこういった症状が確認されていて、人間はどういうときに自殺してしまうのか、そのそもそもの原因はどこに帰するべきなのか、そこがズバリと知りたい。この本はそんな観点も巧みに取り入れてあるから、ことごとの切り口も面白い。進化や政治や貧困との関わりも見逃せない問題であろうし(9、10、11章)、実際の「うつ病」患者に対するインタビューも多いので、机上の空論に傾かない。著者のフットワークは実によいのだ。マルクスもそうだけれど、物を書いて人に指針を示すような人間は本来こうでなければならないのだな。こんなのを読むと、「人間というのは実に悩み深い生物ですね、なぜこんな悲しい素質を持った生物が何千年も生き残ることができたのだろうか、自殺することもなしに」と思ってしみじみ嘆息するのを我慢できなくなる。けれど、面白いのは主として下巻であって、上巻の薬などの話は時代の推移に取りのこされがちの分野だから今更読んでも得る物がない。
 
そもそも私は鬱病というものが抜本的に療治可能なものとは信じていない。これは個人的な実経験でもある。思えば「既存世界」そのものが迷いに迷って行く先を決めかねているんだから、一個の人間にそんな治療ができるはずがないのだ、と観念している。こんなことはしかし、思索以前に分かることだ。システムや既存宇宙が何かしら病んでいなければ、個としての生物は病まないだろう。「個体」は、最初から最後まで「世界」から独立しえない、極めて文脈依存性の強い意識者であるからだ。この類推は飛躍ではないだろう。
 
第一に人間という生物は自分が何者であるのかも分っていない。この既に始まっているらしい「世界」(「そのようにあり、そのようにあり続けている世界」)のことを何も知らない。ここが何処であって何のためにあるのかも知っていない。これはやっぱり不気味な経験である。このことを考えると、私でも息苦しくなって不整脈状態になる。そんな絶望的無知を強いられた生物個体が安定していられるはずがないだろう。人間は頭の天辺から小指の爪先まで、謎の塊なのだ。マス・オブ・ミステリーである。何も分からない、何も分からない、何が分からないのだろうということさえ時として分からなくなる。本当に何も分からないのだ。私だけが馬鹿なのではない。人間の細胞のひとつひとつには「謎」という字が深く刻印されているのだ。

なぜ「何ものか」が存在しているのかという謎、「世界」がこうやって推移していることの謎、過ぎ去った「過去」がどこに集積しているのかという謎、個体にとっての死が何であるのかという謎、自分の自由意思など本当にあるのかという謎、何故人間は他者を裁きたがるのかという謎、なぜ自分の子どもでなければあそこまで冷淡になれるのかという謎、この不思議で不気味な有機体が形成された謎、この残酷で不確実な世界でなぜ人間が敢えて子孫を残してきたのかという謎、「パチンコ」の電飾文字の一つが欠けるときに何故よりによって「パ」の字が選ばれてしまうのかという謎、すべてが謎のまま古代から今に至るまで問われ続けているのである。鬱病という心的現象を起こさせる大本を一つだけ特定するとすれば、それはこの「謎」が誘発させるところの問答無用の不安感に違いない。もうただそこにあるというだけで怖いのだ。やりきれないのですね。息苦しくなる。生きているという感覚そのものが既に悪寒にふるえている。これは詩的言語でも扱い兼ねる凄絶の心境で、木石たりえない殆どすべての生物個体が実はこの不安感を根底に持っている。生きるということはこの絶対零度の不安に戦慄しながらも敢えてそれから目を逸らす技術を体得し続けるということなのだ。人間は、それだから、悲しい。
 
鬱病というのは結局は人類の業病なんだ。中世の「白昼の悪魔」もチャーチルの「黒い犬」も、その根はおよそ同じところにある。この病はどこにでもある。ありふれた狂気、というよりも、ありふれた正気というべきものだ。そうだな、正気なんだよ。彼彼女らは正気すぎるのだ。「どうせ馬鹿なら踊らにゃ損損」的な作法を軽視しすぎたのだ。ありていにいえば、鬱状態は、素面(しらふ)に近い。眼前世界の悲喜劇をありのままにみてはいけないのだ。自分が必死に集めているものが灰燼に帰している光景など考えてはいけないし、周囲の最も親しい人々さえ自分の「死」とは全く無関係であることを、あまり考えすぎてはいけないのだ。この宇宙はことによると同じことばかりを繰り返しているのではないかという悪夢的発想も可及的遠ざけておかねばならないし、自分が食べている豚肉や牛肉がどんなプロセスで出来上がるのかもあまり生々しく考えない方がいい。そんな具合に、世の中には深く考えたくない事実がごまんとある。けれども先天的にうつ病に親しい人々は、気がつけば、そういう問題をとめどもなく考えているものだ。なぜというに、彼彼女は正気だからだ。ほかの有象無象よりも僅かばかり正気であるからだ。
皺を刻み過ぎた全ての大脳が初めから抱えている時限爆弾が他ならぬこの鬱病である。生物的要因や心理的要因、ストレス説、遺伝説、いろいろな用語法でいろいろの語り方があるけれども、やっぱりその大本は、存在世界の「ひずみ」、最初から避けられない分裂状態にある。
何もかも謎だから何もかもが狂っているのである。何もかもが狂っているから何もかもが曖昧に霞んでいる。よく見えない。この見えない日常がずっと存在する。人間の心は、そんな日常のまやかしの安定性の上にある。
だからですね、どうせ愚昧で狂っているのだから、せめて少しでも苦しくない狂いかたをしたいですね。陽気に狂いたいものです。
 
自身が深刻な患者でもあった著者は、最終的には「うつ病」を肯定的に捉えている。それは、彼が取材した女性の一人の「楽園を見付けるために地獄を通り抜けて来たの」という言葉の取り上げ方からでも、充分に分かる。けれども、いくら楽園を見付けるためとはいえ、何故なそんなに苦しまなければならないのか、私にはどうにも分からない。そんな肯定心理の背後には、彼女自身が苦しんできたという事実にする、ある種の代価請求衝動が控えているように思えてならない。「私はこんなに苦しんだのだから、ほとんど苦しんでいない人よりもずっと大きな報酬をくださいな」という具合だ。全ては無駄ではないという自己激励の有効性は、たしかに万人に妥当する。この世の中で、後悔をそのまま歪曲しないで受け入れることの出来る人間は、思いのほか少ない。カードから何まで入れた財布を駅で落としてしまって見つからないと知った時に生ずる後悔は、必ず「教訓」か何かにしないではいられない。全く偶然の事故死さえ慣例的に「犠牲」と呼ばれる。その死が共同体の何ならの利益に寄与していると言わんばかりに。
何に付け人間には、「生身の不幸な事実」に「意味」なり「価値」を付与しないではいられない生得的な気質がある。病気など元来治ってもともとであり、短い生涯そんなものに関与しないのが最上なのだけれど、大きな病気でカネも時間もいっぱい失った人間はおおむね、その損失自体に何らかの運命的含意を読み取ろうとする。「大病したおかげで人の苦しみが分かるようになった」とか「癌のお蔭で人にやさしくなったとか」、なかにはちょっと無理なんじゃないかなと思わせるものもある。苦しみを「絶対悪」としている私には、こういうセリフはぜんぶがぜんぶ欺瞞にしか聞こえない。おいおい苦しみは病気以外ではあるだろう、そんな痩せ我慢はしないでもっと病気を呪えよ、こんな病気をあなたに与えた世界を先ずは呪えよ、とか思ってしまう。あるいはこの人には赤い血が通っているいるのかなと思う。切ればほとばしる鮮血。辺り一面唐紅、これじゃ講談だよ。そういえば『死の瞬間』で死への五段階とか説いていたキューブラー・ロスも、晩年脳梗塞で倒れた後はいろいろと世界を呪っていたに違いない。乱暴な結論ですが、不幸な目にあって「世界」を呪わない人間は、ちょっと変だということです。変というよりも、人間離れしています。人間なんかどんなに恵まれていても、不平不満呪詛猜疑憎悪不機嫌不愉快倦怠の缶詰みたいなものだから、もっと負の情念を発露させたほうがいい。底の方に渦巻くヘドロを。もうどうしようもないんです、人間は、生物は、意識を持って存在してしまっているということは。こそ初期設定ともいうべき苦しみ、その痛みかた、神経の細さ。必然的なアンバランス、よるべのなさ、飢え方、満たされない欲望、死への不安、社会的暴力、嫉妬心、どうしようもないのだ。諦めるというのは諦めるということさえ諦めるという話は、至言と思う。出口なしという観念がこれからの人間には必要なのかもしれない。
私もよく三十歳近くまで生きられたなとつくづく思う。著者のソロモン(旧約聖書的な名前だな)、そのことは、よく知っている。経験しなくても、人間の心がどれだけ脆弱で、こわれやすいかを(本当ははじめから壊れている)、知っている。人間は知らないうちに暴力的な日常世界に投げ込まれた惨めな糸くずに過ぎないのだから、その糸くずに相応しい悩み方をしないでは生きられない。考える糸くずは悩み多き糸くずでもある。銀河系から見れば所詮糸くずの悩みだけれども、糸くず自身にとってはとても支え兼ねる分量のものである。無理を続けると、いけない。無理は「鬱病」になって報いてくる。
 
今回はもう何だか締りが悪いけれど(いつもそうか)、この辺で区切りをつけます。
 

 

真昼の悪魔〈下〉―うつの解剖学