佐野白羚の文筆武者修行

佐野白羚による随想ならびに読後録(「蟄居汎読記」「書脈録」)を不定期掲載

能登路雅子『ディズニーランドという聖地』(岩波書店)

能登路雅子『ディズニーランドという聖地』(岩波書店

ディズニーランドは実に悲しい所と思う。「ディズニーランド」と発音してみただけで何か索漠たる気配に胸倉をつかまれて動悸が早まってしまう。

きっと世界でこれほど悲しい場所は田舎のパチンコ屋と深夜のドン・キホーテくらいのものではないかな。ディズニーランドのことを考えるときになんでこんな気分にならねばならないのかを、いまなかなか微細に書きだせないでいる。これは自分が思っている以上に入り組んだ情緒なのだ。けれどもこの巨大で多幸症気味の空間に充満している陽性分子が人間存在の深刻な悲哀と表裏をなしていることだけははっきりしている。ウォルト・ディズニーの直観は、同時代人の仮面性のニヒリズムと意識下の幼児化願望の在り様をむんずとつかんでいた。それがそっくりそのまま自分の願望でもあったから手に取るように分かったのだ。

人間とりわけアメリカ人は、ニセモノでも張りぼてでも何でもよいから、とにかく塵芥の苦労を忘れさせる何かが欲しかった。金でもセックスでも酒でも薬でも喧嘩でも西部劇映画でも満たせなかった欲望とは、映写された夢をただ見ることではなく、その夢に直接参入することだった。薄汚い実人生から何となく目を逸らすことのできる場所。過ちも抑圧も管理体制も無い「夢の世界」を、実在する身体そのもので生きることだった。外部に具現化されたファンタジーの場所に自分の体を置くという経験は、アニメーションでも活字でも与えられないものだ。ウォルトは自身の創造してきた夢物語を実世界にまで拡張しようとした。

喋るネズミやアヒルたちが無尽蔵に笑顔を振りまくこの「魔法の王国」の内側からは、ごみごみしい雑居ビルも住宅団地も石油プラントも殆ど視界に入らない。ここはアンチ日常の異世界である。それでいて模造ジ ャングルから海賊の跋扈するカリブ海まで、擦り傷ひとつ負うことのない疑似冒険が保証されている。俗世間では生産現場の部品にしかなれない労働者も、笑顔と快活が国是であるこのディズニー王国のなかでは、金さえ払えば誰もがVIPになれる。(「すべてのゲストはVIP」とは、ディズニーランド初期からの接客方針だ)。

そしてそこはまた、「古き良き」アメリカ像のノスタルジーに浸ることのできる、アイデンティティ確認の場所でもある。既に失われてしまったマーク・トゥウェンの物語世界や西部開拓時代の英雄が、エンバーミング 処理されたレーニンの亡霊ように沸々と出現する。民族も財産も年間所得も教育水準も違う人びとが、ディズニーランドという閉鎖的な虚構経験のなかで一つになり、はじめから存在さえしていない「純アメリカ」の記憶を集団幻視するのである。

ともかく、ディズニーランドの成功の背後には、ウォルトのビジネスセンスやキャラクターたちの魅力だけには決して還元できない、もっと特別な共同願望があるように私は思うのだ。


しかしこんな壮大無類の構想を、ウォルトはどんな経緯で得たのだろう。ディズニーワールドを特段好んでいない私なんかも、それは大いに興味のあるところですね。本書では、彼が少年時代を生きたアメリカ中西部の厳しい気候や家庭事情などを辿りながら、彼がいかに満たされない子ども時代を送ったのかが素描されている。父のイライアスはピューリタン的な厳格さと粗暴さを併せ持った男で、ディズニー一家は生計をたてるのに並々ならぬ苦労の連続だった(貧困はホレーショ・アルジャー式の立志伝には不可欠の要素です)。ウォルト・ディズニーは四男だったけれど、後に共同経営することになるロイ以外の兄たちはみんな父の専横に耐えかねて家を出ていった。そんな貧しく過酷な世俗経験を経て来たので、奔放な子どらしい諸々の欲求は当然抑圧されねばならず、そうした不満の蓄積が後のディズニー世界の源流を成したと言っていい。
私はよく言うのですが、空想や理想や妄想を生涯個人的な次元でしか弄べないのが凡人であるとすれば、それらを外的世界に受肉化させることができるのが天才ではないでしょうか。ウォルトの躊躇するところを知らないその空想具現力は、ほとんど超人のそれと言っていい気がする。ウォルトはその点で紛うかたなく天才だった。うん、この人のやったことを真似するのは余人には難しすぎる。彼は空想を空想だけで終わらせない人間、その類まれな執念深さをいつも活力源にしているような人間だった。このくらいの徹底性は、うだつのあがらない人間にあってはたぶん狂気とみなされるだろう。せいぜいがバルザックの人間喜劇に出てくるような偏執狂扱い。

ウォルトは自分の野望に「魔法」のかける術を知っていた。


その「魔法」は二〇世紀の地球を様々なやり方で染め上げた。
一九二八年に「蒸気船ウィリー号」が封切りされて、これはアニメーション映画では最初のトーキー作品だったわけだけど、同時にこれはミッキーマウスの事実上のデビュー作でもある。もともとモーティマーマウスと名付けられていたこのイタズラネズミは、ディズニー夫人の発案で改名されたらしい(信じるか信じないかは別です)。
なにしろ不潔の害獣イメージのついたネズミをあれほどの世界的人気キャラクターにしてみせたのだから、ディズニーの魔法は只事ではない。二流俳優あがりの大統領や戦争気違いみたいな大統領の名前は知らなくとも、このディズニーキャラクターを知らない人は殆どないくらいだから、大した知名度と思う。もはやミッキーマウスは歴史上もっとも成功したキャラクターのひとりだ。このネズミのデザイン商品をみたことのない人間が日本にいるでしょうかね。俗世間から完璧に孤立した仙人でもない限り、そんなことはありえない。これは実は大変なことなんですよ。アンチ・ディズニーの人びともそのところだけは認めぬわけにはいかない。

 

アニメーション映画の作成で大成功をおさめ、超越的野心の虜になったウォルトの次なる目標は、「地上で一番幸せな場所」を巨大施設というかたちで具現化することだった。

世界初のディズニーランドは、一九五五年(日本では保守合同という政治的エポックを画す年)、カリフォルニア州ロサンゼルス郊外のアナハイムに、一七〇〇万ドルを費やして開設された。はじめはウォルトの突飛な机上空論に過ぎないと思われていた案が実現するまでには紆余曲折があったようで、たとえば資金繰りのために、ABCと番組制作契約を結んだりしている(ABCはテレビ業界への進出において、当時の二大ネットワークだったNBCCBSに遅れをとっていた。それだからどうしてもディズニーの人気イメージが欲しかった)。
その後、一九七一年にはフロリダ、一九八三年には東京、一九九二年にはパリ、二〇〇五年には香港、二〇一六年には上海に開園した。しかしこんなどこにでも書いてあるような沿革を繰り返して何になる。つまりディズニーの空想がついに世界を股にかけたということだ。


私はやっぱりこの聖地を虚しく思う。適合する言葉がなかなか見つからないけれど、ここにはヒロヤマガタの絵に充満しているあの狂躁性に似た何かがある。それが呼吸を浅くする。仮に世界全体がディズニーランド化したら窒息してしまうだろう。人間は無菌空間には居場所を持てないし、恒常的なパレードのなかでも生きられない。人間にとって、俗世間もアンチ俗世間も、「耐えがたい場所」には違いない。やりきれないけれども、これはもうどうしようもないことだ。

私はしばしばディズニーランドの光景のなかに、人間の畸形な幼児化願望の一端を見るのだ。人間の不安も孤独も虚ろさも、こんな窮屈でまやかしの演出空間で救えるはずがない。けれども何かこの行き場のない潜在憂鬱を慰撫せんとして、人間は倦まずに娯楽の新形式を開発してきた。この遊園地もそんな産物のひとつに過ぎない。

よく思うのだけれど、「願望充足」の場所は絶対に華々しくあってはならないのだ。飾り立てられてはならないのだ。というよりも、そういうのは、市場からの提供に依存し過ぎてはいけないのだ。かなり舌足らずなのだけれど、不安なり欲望は可能なだけ自分固有の方法で満たしたい。集団で同じ陽気な夢物語に浸るようなやり方は、どうしてもインチキくさい。薄っぺらい。自己欺瞞度が高過ぎる。それに結局もっと空しくなる。

ディズニーランドではどこを振り向いても満面の笑顔がある。感情労働のプロがつくる完璧な笑顔、それだけに無理のある笑顔。これでは笑顔の飽和状態で、もはや何の含みもみあたらない。笑顔は元来、未知の他人に自分が敵ではないことを示すための表情記号であるから、笑顔笑顔笑顔ではいけないのである。

着ぐるみのキャラクターたちの無差別底抜けの陽気さは明らかに現代的ニヒリズムに根差している。人々は程度の差こそあっても躁病を患っている。この除菌済みのファンタジー施設が大成功する世界というのは、どう考えても、グロテスクなのだ。

人間はかくも過酷な場所にいる。

 

それにしても、ディズニーランドはユートピアというためにはあまりにも俗世間に酷似しているようだな。アルコールを禁止したり、キャスト(従業員)の接客教育をいくら徹底させたところで、やはりあの嫌な人間臭に覆われているのだ。第一、世俗を忘れるために来ているはずのこの場所には、「混雑」という最も世俗的な現象が支配しているじゃないか。金を払った恋人たちや親子は、ただひとつのアトラクションのためにどれだけの行列を我慢しなければならないのか、愉快だった気分を徐々に害されねばならないのか、考えただけでもやりきれなくなる。ここが俗世間なのかアンチ俗世間なのか、日常なのかアンチ日常なのか、もう分からなくなる。でもどっちでもいい。どっちも同じくらい「やりきれない」のだからね。

 

「人間の願望はその人間の悲しみを測る尺度である」と言ったのは、誰だったのか、忘れました。だいぶん前だから。でも至言ですね。いまに及んで、ようやくその深意がつかめました。

ディズニーランドの成功は、もっといろいろなことを物語っている。ディズニーに直接関係しない分野についても、いろいろなことを物語っている。さらに考察めいたものを深めたいけれども、そういうのはもっと別のところでやってみよう。

しかし、花粉の時期は、いやですね。

 

ディズニーランドという聖地 (岩波新書)