佐野白羚の文筆武者修行

佐野白羚による随想ならびに読後録(「蟄居汎読記」「書脈録」)を不定期掲載

サイモン・ウィンチェスター『博士と狂人(世界最高の辞書OEDの誕生秘話)』(鈴木主税・訳 早川書房)

サイモン・ウィンチェスター『博士と狂人(世界最高の辞書OEDの誕生秘話)』(鈴木主税・訳 早川書房
本質的なことではないけれども、訳者の名前、ちから、と呼ぶみたいだな。情けないことに読めなかった。調べてみると、ちから、というのは、上代奈良時代あたり)に民から上納される貢物(租庸調)の総称で、律令制のもとでは、主税寮という役所もあった。ひとつ勉強になりました。
主税さんはともかくとして、この本はいわゆる「小説よりも奇なる」実話を多く含んでいて、自分で買って読むに値するものだ。
OEDですよ。この略語でちょっといい気分になれる人は、なかなかの英語好きかもしれないな。私は昔ランダムハウス社の浩瀚な英語辞典を愛用していたけども、OEDのスケールはその比ではない。日本でOEDに匹敵できる巨大編纂物があるとすれば、おそらく諸橋轍次さんの『大漢和辞典』くらいだろうな。あれは熟語数ではたしか50万を超えていたはずだ。もう三葉虫の化石みたいな古語がごろごろ展示されているわけだから、諸橋さんも粋人である。一体いくらするのよ、これ。だいたい有名なわりには現物も所有者もみたことがない。ついでにもうひとつ、後世への影響という面から見れば、大槻文彦さんの『大言海』も忘れがたいですね。ちなみに私は大正か昭和初期かに出版されたぼろぼろの『言海』を所有していて、私の部屋にくる訪問者が必ずこれを見せられていた時期があった。紙なんか雑に触るとパリッて割れそうだからまるで使い物にはならないけれど、まあひとつの骨董品だね。そういえば森鴎外の『伊沢蘭軒』のかなり古いのもあるのだ。真珠湾奇襲よりずっと古いころに発行された感じのやつ。けれどもあれはパリってならないから通常に読めた。岩波書店の紙はなかなか良質ということです。閑話休題
なんたってOEDだ。ODAではないよ。いまは発展途上国を援助している場合じゃない。OEDを解体するとOxford English Dictionary。41万以上の項目を含んだこの言語宇宙の刊行が始まったのは、1884年。それから数十年かけて編纂された。初版では十二巻、第二版では二十巻にも及ぶ、世界最大規模と権威を誇る英語辞典だけれども、最も注目すべき点は、そのほとんど偏執狂とも言えるくらいの語源追求性と用例採集にある。言葉はその史的側面が何よりも大事なのだとする編纂方針が前面に出ているのだ。
ためしに殺人者という意味のMurderを調べてみると、普通の英語辞典でもお馴染みの発音記号と品詞表示の後に、古代ゴート語やスコットランド語、ギリシア語、前期チュートン語などと語形上どんな関係があるのかを、縷々綿々延々続々と説明される。思わず、いやあなた、そこまで遡って知りたい人が地球上のどこにいるのかね、というふうになりそうだけれど、世の中には酔狂な好奇心や探究心のかたまりみたいな人もたくさんあるので、そこは心配には及ばないのである。だいたいにおいてこうした学者たちの研究はパンやガソリンを作り出すのに何の役にも立たないけれども、ホモ・サピエンスたるものこうした何の役にも立たない知識体系を蔑ろにするようではいけないのだな。何の役にも立たない探究心に身を託せる点で、人間はほかの動物たちとは一線を画している。探究欲は人間知性の本質と思う。 
本書主人公のジェームズ・マレー博士(一八三七~一九一五)は、こんな恐ろしい辞書編纂事業の中心にいた人物で、もう想像に難くないけれども、やはり並並ならぬ博識の士でもあった。十五歳のときにはフランス語、イタリア語、ドイツ語、ギリシア語の実用的な知識を体得していただけではなくて、当時の教育を受けた子供たちがそうであった如く、ラテン語まできちんと会得していた。要するに早熟の井筒俊彦が十人くらい束になったような天才であったわけだ。彼の知識欲はとどまるところを知らず、地球儀を見付けて地理勉強にいそしんだり、地元の植物や地質について独学したり、森羅万象あまねく吸収していった。知の巨人にふさわしいそうしたエピソードの数々は、それだけで痛快無類。
そうやって、貧困のなかでも自力で言語界の第一人者になった彼は、ついにOED編纂主幹を務めるまでになった。
本書にはもうひとり主人公がいる。「博士と狂人」の狂人の方だ。W・C・マイナー。セイロン生まれ。外科医。曲折あってアメリカの南北戦争に軍医として北軍に入隊するが、ある不合理な出来事にまきこまれて気が狂う(戦争は非日常だから、本当は気が狂わない方が狂気なのだ)。どんなことかといえば、命令でアイルランド人の脱走兵に焼き鏝を押したのである。それ以来彼の言動に狂いが見え始める。曲折あってヴィクトリア朝時代のロンドンに渡る。軽い妄想症にあったマイナー博士は、アイルランド人の民族主義者に付け狙われているとして、あかの他人を誤って射殺してしまう。いよいよ精神異常と診断され入院。その場所で、オックスフォード英語辞典編纂に着手しはじめたマレー博士の助力要請の話を知る。古い文献を読みこんで特定の単語の用例をひたすら集め報告するという作業だ。とても閑でないとできない。辞書編纂のプロジェクトは極めて地味な忍耐作業を要するのだ。狂気でありながら頭脳は高いマイナー博士にとってこの話は最高の暇つぶしになるし、また学問世界への多大な貢献にもなる。
マレーとマイナーの共同活動はこうして始まった。
しかし辞書というのは実に不思議な書だね。何千頁にもわたって最初から最後までひたすら言葉の意味や用法が示されている。むかしから辞書読みが好きで現在では引かない日はまずないくらいのヘヴィーユーザーである私からすれば、辞書はただの道具にとどまらぬ特別の伴侶といったふうだな。辞書という参照基準がなければ不安で仕様がない。それだから辞書編纂の当事者には大いに敬意を抱くものだし、またその生態に対する興味も尋常ではないのだ。辞書編纂者はおしなべて創的であり過ぎてはならないと思う。サミュエル・ジョンソンがoats(カラス麦)を「穀物の一種で、イングランドでは馬の飼料だがスコットランドでは人が食べる」と記述したような遊びは、本格派の辞典では多分好まれない。辞書は可能なだけ厳密で客観的な書き方でないと、広汎な権威を獲得できないのだ。
どんな種類のどんな規模のものであれ、辞書編纂は気の遠くなる事業だね。かりに私が著名な国語学者としてですよ(金田一春彦のような)、あるとき大きな出版社から辞書を編纂してくださいと依頼されたら、たぶん断るね。その前途遼遠の作業工程を思うだけで物凄い無力感に貫かれてしまって、気が変になる。間違えて請け合ってしまってもすぐにこんなことやっていられるかって投げ出すに違いありません。飽きっぽくて人生に虚無感を持っているような人間に、辞書作りなんか絶対にできない。どうせ死ぬのになんで、と思うと全てが駄目なんだな。この傾向は世の中すべてにあてはまる。慢性化した虚無感からは、建設的なものは生まれない。
この場を借りて古今全ての辞書編纂者のために深い感謝の意を表したい気分がパンパンに膨れ上がっている。あなたがた黒子の努力がなければ、私など一行たりともまともな文章をつくることができませんから。いや本当。
ともすれば人は忘れがちだけれど、約四〇〇年前のシェイクスピア時代には、今日風の整った英語辞書はなかったのだ。きっと彼は常に自分の使っている言葉に確信をおけなかったに違いない。シェイクスピアが非常に欲しかったはずの「ありがたい辞書」が、現代には満ち溢れている。にもかかわらず我々の辞書に対する態度ときたら、ひどいものではありませんか。
もっとそこにリスペクトがあってもよいのではないか、と私はいま思うわけだ。辞書は自然に発生する種類のものではないのだからな。
この知的集成物の背後には猛烈な執念と血涙がある。嘘だと思うなら何か辞書をつくってみなさい。それで気が遠のいてしまうのなら、少なくとも辞書に敬意を払ってほしいね。辞書供養なんかもあって当然だよ。

博士と狂人―世界最高の辞書OEDの誕生秘話 (ハヤカワ文庫NF)