佐野白羚の文筆武者修行

佐野白羚による随想ならびに読後録(「蟄居汎読記」「書脈録」)を不定期掲載

セオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』(宮本陽吉・訳 集英社)

セオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』(宮本陽吉・訳 集英社

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(ものすごい顔写真だな。鬼気迫るという言い方がぴったしくる。文学者の写真というのは、いったい、険しい顔をしていた方がよっぽどサマになる。時々尊大にポーズを取っているのもあるし(すぐ思いつくのはユゴー)、芥川龍之介とか太宰治みたいに自己陶酔気味に写っているのもある。どう写っていても大抵は不満でないのだけれど、社会啓蒙ポスターとか代議士の饅頭本にあるみたいにヘラヘラした文士写真は、どうしても我慢ならなくなる。いますぐネス湖に沈めたくなる。読者を馬鹿にするなと思う。物書きというのは少なくとも善良で健康な一市民の臭いを出してはいけないのだ。アウトサイダーの気振りくらいは必要なんだ。これは昔からの常識だ。どうせ載せるなら、往年の五木寛之みたいに、恰好だけは意識してほしい。作家は大体、恰好よくないと駄目なんだ。笑顔の阿呆みたいな「著者近影」を見ると、それだけで読む気がしなくなるからね)

悲劇、トラジェディ、大分聞き慣れてはいるけれど、これはそもそも何であるか、という問題が最初に発生する。この問題は些末事などではない。というのも、そもそも二十世紀以降の文明世界に「悲劇」などが残存しているのか、というある根深い問いかけと否応なしに直結してくるからである。

周りの詳しい人に訊いてみて分かったことは、古代ギリシ語での「悲劇」の語源は「ヤギの歌」であって、これは、ディオニュソス祭祀の行事から分化して後に独り立ちしたものだということだ。ディオニュソスは酒と豊穣をつかさどる神で、神話では人びとにブドウの栽培を教えたと伝えられている(だからワインを飲む人は全てこの神の恩恵に与していることになる)。元来の出自はトラキアマケドニアであるらしく、集団性狂乱や陶酔に至る秘儀の中心にある神だったけれど、ギリシア世界に伝播してオルフェウス秘儀などと接触反応を起こしながら、段々冥界とのつながりが強調されるようになって、ヘレニズム期以降、ディオニュソスの秘教が大いなる熱狂を生み出すことになった。 いまでは、ディオニュソスの名は、熱狂と混沌の象徴みたいになっている。ニーチェは音楽などの芸術創造の一類型である「ディオニュソス的」という概念をこしらえて、知性的で調和ある造形を志向する「アポロン的」なるものと鮮やかに対比させた(『悲劇の誕生』)。こうした構図は、美学の分野では、なかなかの地位を占めている。ただ私にはその手の観念論争は、どうでもいい。

それで、ギリシア悲劇の話に戻ります。いったい古典悲劇に登場する人物はほとんど神や英雄に近い存在であって、屁をこいたりマスをかいたりする生身の凡人ではない。そんな神憑りの人物がある運命なり宿命に翻弄されている様子を、ソフォクレスアイスキュロスのような当時の売れっ子劇作家たちは巧みに表現する。高揚した独自の韻文体を惜しみなく使って。

多少粗雑な見方かもしれないけれど、悲劇の精髄は、「神々や英雄でさえ没落するのだ、いわんや人間をや」というふうな深大な諦念にある。この諦念を呼び起こされることで、人は、ある種の人生フラストレーションを逆説的に緩和させることができる。眼前にありあり演じられる神々の破滅劇は、どんな哲学者たちのどんな言説よりも一層迫力と浄化作用に富んでいて、人々を黙らせる。打ちのめされてマットに沈んだボクサーの恍惚にそれは似ている(それが数瞬であるにしても)。 演劇経験は実に、このようでないといけないのだ。賢しらなレトリックではなく、劇的なスペクタクルを前にした神話的追体験においてはじめて心は異世界に入り込む。侵入するといった方がいい。「ここ」とは異なった世界。「ここではない何処か」。冥界への最大の入り口は、陶酔にあるのかもしれない。知的陶酔(哲学的直観、神秘主義)でも薬理的陶酔(LSDベルリオーズ)でも詩的陶酔(演劇、文学)でもいいのだけれど、ともかく世俗性の「正気」をひきずっていては、どうしても冥界に踏み入れえないのだ。冥界は「正気」を嫌う。冥界と連絡しているディオニュソス(バッコス)が主として「酒の神」、陶酔する神であったことは、けっして偶然ではないと思う。その天井知らずの昂揚感の「うち」に、異界の秘密がある。演劇性陶酔の場所は、「ここではない何処か」感に満ち溢れている。 真面目に運営されるべき実利社会がこの種の陶酔を遠ざける理由が、それで分かる。 概して、悲劇は「荘厳な運命の賛美」を生命とし、喜劇は「軽薄な人間性の風刺」を生命にしている。前者は陶酔、後者はアイロニー。前者は情動性、後者は知性。前者がワーグナー風であるなら、後者はロッシーニ風(フランス料理ではない)。

神々をさえ破滅させる「宿命」、この宇宙の逃れ難い過酷な運命、この前提図式が悲劇の根幹をなすものとするなら、たとえば、既に高度産業化して久しい二十世紀前後のアメリカにおいても、これは有効なのか。「近現代」は「悲劇」にふさわしいのか。近現代に生きている人間にとって、これはなかなか面白い問題設定と思いませんか。

ドライサーの『アメリカの悲劇』が刊行されたのは一九二五年。当時大変に高評を博した。今日ドライサーの膨大な著作物のうちでまともに読み継がれているのは、この作品くらいでしょう。大半の人は他作品を知らないと思う。 彼はもともとセントルイスで新聞記者をしたり安い売文業に関わったりしてきたので、殺人や強盗の事件をかなり身近な立場でみることができた。感傷を排して綿密に事物を報告する文章技法も、その頃に自然と身に付いた。ときどき巷間を賑わす出来事があれば関連の記事を切り抜いてスクラップにしていた。そうした関心や作業の蓄積が、『アメリカの悲劇』をはじめとする彼の社会派小説群の土台をなしたであろうことは、想像にかたくない。

アメリカの悲劇』の直接のモデルとなった事件が一九〇六年にあって(ジレット=ブラウン事件)、これについては既に詳しく語れているけれども、私は、そうした細かい創作背景がこの作品を読むうえで別段重大のことであるとは思っていない(この作品の研究論文を書こうとしている人はきちんと調べてほしい)。けれども本作ヒーローのクライド・グリフィスが生きた時代背景については、一応頭にいれておいてもよさそうだ。いま注意して読んでみる限り、作品のなかには直接年号は出てこないが、巻末に付録された年譜から推し量るに、だいたい十九世紀末から二十世紀初頭にかけてと見当がつく。この頃のアメリカは、いまのアメリカもそうであるように、貧富の格差が実に大きく、下流層にはぶすぶすと陰気な上昇志向が絶えず燻っていた。クライド・グリフィスの、しばしば滑稽にさえ見えてくる野心は、けっしてフィクショナルなものではないとも言えるのだ。 たしかにこの血気盛んな若者の行為や考え方は、あまりにも「みみっちい」。「悲劇」の渦中に置かれた人物としては、この男、どうしようもない程に卑小で、どうしようもない程に人間的なのである。だから途中から相当に鼻持ちならなくなってくる。なぜだろう。たぶん、彼の心の葛藤内容が想像以上に非英雄的であるからだ。もうちょっと言い方を変えれば、彼のそうした葛藤は、私にはあまりにも分りやすい。手に取るように分かる。誰の心にでもあるクライド・グリフィス性が自ずと彼に同情を寄せるからだ。大いに、激しく。それが軽く不愉快なのである。同類嫌悪とまでは言わずとも(というのも私はクライドほどの野望を担えないから)、好んでフォローしたいとは思えない野望、俗物の萌芽をありありと見せられて、段々奥深いところにある羞恥心がうずきだす。 読み手はしばしば文学作品のなかに理想を求めるようだ。理想の人物類型や「あるべき姿勢」を、知らないうちに求めている。そういうなかで、自分のなかのもっとも卑小な部分を、不意に見せつけられてしまう時がある。それも克明に。

一例をあげれば、駆け落ち後に捨てられて妊娠してしまった姉の苦境を聞きながら同時に自分の出世を案じるくだりなど、私は大いに情を同じくしてしまう。けれども、やはり不愉快なのだ。クライドの単純な姉思いを多少なりとも信じていた読者は、そこのところで、実利志向というものの乾いた本性を嫌でも知ることになる。 この自己閉鎖的な葛藤の様子は、他のどんな悲劇調の描写よりも、クライドの孤独を物語って余りあるように思う。 家族と言えでも他人であって、経済主体としての「個」となった人間は、どうしても孤独を抱えてしまう。こうした孤独は、資本中心社会が多分に成熟して、はじめて表面化したものでしょう。アメリカのように階層の流動性が無ではない社会であれば、クライド風の孤独は、どこにでも見ることができる。孤独は、現状への不満とそこからの離脱願望によって倍化される。ここに悲劇がある。孤独の幾何級数的増大の原理がある。

クライドの度重なる愚行、その情けなさ、俗臭、その孤独こそ、近現代の「悲劇」の本質を成しているのだな。クライドの野心は、美々しい高邁性を欠いている。明らかに欠いている。カンザスシティでホテルのベルボーイをしたり、叔父との人脈を利用してカラー工場に務めたりしながら、いろいろのトラブルに巻き込まれて終には電気椅子にまで至る彼の「運命」は、本当のところ、古典的な意味での「悲劇」の名には値しない。すこしも。それに、『罪と罰』のラスコーリニコフと違って、クライドには救いは訪れない。終結部のマクミラン師への告白も決定的な救済には結びつかない。現代の悲劇は、不完全燃焼の悲劇である。 終始政治的な野心の具になっている裁判が延々と続くところにも、救いのない俗臭が満ちている。弁護士の職業上の励ましも、法廷の野次も、おなじくらい虚しい。一見感動を呼び起こす、クライドの母親の奔走もまた痛ましい。 このように、『アメリカの悲劇』は、限りなく虚しくて限りなく痛ましい現実世界の一大叙事詩であり、ここでは、およそ神性とは無縁の野心が時代の手のひらの上で空回りしているだけだ。

思えばこの長大な物語は、粗末な伝道風景から始まり粗末な伝道風景で終わる。グリフィス家の子どもたちの上昇願望は結局何一つ報われていない。いったい誰が幸せな結末を迎えたのか。 ヒロインのロバータ(女工)にしてもおよそ「純粋」とは程遠くて、古典的なヒロインとしては好まれない、あまりにも実利的な思惑を示しすぎたせいで、最後は死ぬことになった。

誰もが生きることに必死である世界では、卑小な悲劇以外は、生まれない。 ことによるとドライサーは、かなりの皮肉を込めて、この作品を、「悲劇」としてのかもしれない。「実世界の悲劇など、所詮、このようなものですよ。卑小な欲望に染まった卑小な人間が卑小な現実のなかで卑小に破滅していくだけです」。現代の悲劇は、こういうもの。人間はもう貨幣と生活の尺度でしか測れなくなっている。

ついでながら、現代の悲劇性は、木下恵介の映画『日本の悲劇』(一九五三)にも濃厚です。この作品からもなかなか強いショックを受けました。ややもすれば埋もれがちの作品だから、折に触れてどうしても紹介したくなる。

結論。 現代にも「悲劇」ある。神ならぬ人間の経験する悲劇は概して社会的悲劇であって、その背景には、共同体から切り離された経済主体による、「落ち着きの無い思惑」が絶えず渦巻いている。「個」である人間が「個」のまま悩んだり、苦しんだり、何かを企んだりしている。

「自分の生活はこんなものではあってはならない。ほかの少年たちはこんなふうじゃない」(一章)

「もし世間でうまくやっていこうと思うのなら、他人に可愛がられなきゃいけない――好感を持ってもらえるような振る舞い方や口のきき方をしなければならないと、クライドは生まれて初めてそう気がついた」(四章)

「ロバータの背後には、青春を台無しにした孤独で切り離された歳月が積み重ねられ、それは最近郷里を訪れたせいでいっそう鮮明になっていた」(三一章)

生きている限り、人間は「当事者の呪い」から自由になれない。不満の呪い、痛みの呪い、上昇志向の呪い、嫉妬の呪い、欲望の呪い、虚栄の呪い、保身の呪い、生物の呪い、裁きの呪い。 生きるということは、色々な火の粉をくぐりぬけながら何とか死ぬ場所を探し続ける、呪いの旅路なんですよ。

もう知っているよ、何をいまさら、というふうに言われそうですが。

世界文学全集〈63〉 ドライサー アメリカの悲劇 1 (1978年)

世界文学全集〈64〉 ドライサー アメリカの悲劇 2  (1978年)