書痴肉林・蟄居汎読記

佐野白羚の古い雑文の一部を(たぶん)定期的にひっそり掲載します

ピーター・バーンスタイン『リスク(神々への反逆)』(青山護・訳 日本経済新聞社)

ピーター・バーンスタイン『リスク(神々への反逆)』(青山護・訳 日本経済新聞社

(表紙絵はレンブラント。イエスがいるから、たぶん聖書から取材されたもの。こうやって見ると表情がかなり細やかに描かれています)

今日いろいろのところで耳朶に触れる「リスク」とは、元来何であるか。そして「リスクを管理する」とは何をすることなのか、それはどのような失敗や理論に裏付けられているのか、そもそも数字とは何か(数字がなければオッズも確率もありえない)、桁数表示に至極不便なローマ数字をヨーロッパ人が十三世紀まで使い続けたのは何故なのか(セクシーで簡潔なアラビア数字が既に伝えられていたにもかかわらず)。そもそも確率とは何か、そもそも統計とは、賭博とは、正規分布とは、「大数の法則」、「平均的人間」、予測可能性、投資信託、不確実性、投資活動の未来。

欲張りで恐れ知らずの著者は、リスクを取り巻くあらゆるトピックに飢えたイノシシみたいに体当たりする。見方をかえれば、「リスク」研究を通じて人間という動物を逆照射する試みといえるな。「未来を統制下に置くためにはどのようにすべきか、という点について非凡な考え方を提示してきた人々」(まえがき)の列伝という性格も強い。

とてもでないけれど主題のスケールが大きすぎて、著者の正気を疑いたくなる。それはよくわかる。いったいに大きなテーマを掲げた本のなかには杜撰なものが多いのだ。エンゲル係数が高めの人々にとってはこんな得体の知れない本を買うこと自体に損失可能性が伴う。 けれども結果からいうと、大変に勉強になりました。三菱の二色鉛筆マーキングとダイソーの付箋でいっぱいの痕跡本が出来上がった。二十年近く前の本なのに常に新しい(よくある評言だな)。きっと、全体の七割程度はリスクを巡る歴史と群像の記述であるから、経年劣化もまた緩やかなのだ。参考文献も豊富だから、情報も手堅い。 むかしから大著は大悪である、なんていうけれども、私みたいなズブの素人が途中で投げ出さなかったくらいだから、なかなか良質なのだと思う。すくなくとも「人類とリスクの歴史」を俯瞰する分には、他の類書にはない大胆さがあって面白い。

それにしても、人間が常に何かを賭けつづけて来たこと、常に「最悪」を計算にいれて賭けつづけてきたことに、私はいたく感動を覚えたものだ。人間は現状の富に満足しない。香辛料貿易も保険料設定も設備投資もベンチャー企業融資も、かんがえてみれば、なにかしらの損失可能性を含んでいる。大きなリターンを得るためには、大きなリスクを引き受けなければならない。リスクは人間のダイナミックな投機活動に付き物なのだ。とすればそのリスクをどんな具合に極小化するか、どんな具合に計量可能にするか、そこが課題となってくる。 「複数の卵を同じ籠にいれるな」という種類の世界中にある素朴なコトワザも、実はリスクマネジメント思想の本質をついているのだ。このような本を読んでいると、有効な法則の大部分は現場の不確実極まる実務経験から生まれたのだなと大いに納得する。

大著ゆえ読みどころはずいぶん沢山ある。

特に第三章「ルネッサンスの賭博師」のジロラモ・カルダーノ(一五〇一~一五七六)のくだりだけでも、一読の価値がある。 なんでかって、その業績のわりには案外知名度が低いからですよ。カルダーノは医者で数学者(今日風の職業名でいえば)。彼は『算術の大技法』という本を書いて、二次と三次方程式の一般解法を発表した。三次方程式の解法については近年別の人物によるものと言われているけれど、一般にそれは「カルダーノの式」と呼ばれている。ともかく数学史ではかなり重要な人なのだ。このカルダーノが実は筋金入りのギャンブラーであって、チェスやトランプ、サイコロ遊びまで、賭けごとなら何でもやった。インテリかつギャンブラーという破天荒な人物条件は、後年の小説家が好みそうな題材です。彼は偶然のゲームに本格的な分析を加えて発表した史上最初の人物であると、著者は書いている。その自伝『我が人生の書』では、サイコロ賭博の経験や解析を語り尽くした挙句に、「ギャンブルの最大の利益は、それをやらないことで得られる」と結論している。それをいっちゃお終いよ、というくらい拍子抜けする真実。 ここでドストエフスキーの『賭博者』のある一場面を思いだした。

「あなたは大胆だ! あなたは実に大胆です」彼らはわたしに言った。「でも、必ず翌朝、できるだけ早くお立ちなさい、さもないと、きれいさっぱり負けてしまいますよ……」(原卓也・訳)

賭けごとで重要なのは「引き際」なんだろうな。「最初からしない」という選択が、もし無いのであれば。

『ブリタニカ国際百科事典』では、リスクを「自然現象や人間の行為が、人間の生命、財産、生存環境などに損害を与える恐れがあること、あるいはその恐れの大小のこと」と定義しています。 この可もなく不可もない定義に照らしてみたとき、生きるということはおよそ「リスク」とは切り離せなことなのだと分かる。しみじみ。津波とか地震の天災もそうだ。こんなものは現今の科学的知見では制御できない(予想に毛が生えたくらいのことは出来るかもしれない)。火災もそうだ。偶然の火事でうまく焼け太ることが出来る人なんか、あまりいない。病気もそうだ。病気の原因は誰もがかかえている。「明日のいまごろも確実に生きている」という人間は地上にはいない。もっと極端にいうと一分後でも一時間後でも分からない。家にいない方がいいが収入源としては欠かせない亭主がいつ心筋梗塞で死ぬのかも、家族には分からない。いつダンプに轢き殺されるかも分からない。勤めている会社が来年まで存続しているのかも分からない。会社をつくるのもリスク行為(ほとんど持続しない)。貧乏人が小口で株や社債を買っりするのもリスク行為(ほとんど騙される)。教育投資も結婚もリスク行為(ほとんど成功しない)。元本が保証されている国債も、国が潰れればおしまいだ(いつまでもあると思うな親と国)。 そもそも絶対に安全な資産運用や会社経営などかつてあった例がないし、絶対安心の人生なんか最初からないのだ。

世界には銀行にお金を預けることにも慎重な人々がたくさんいる。そもそも銀行を信頼していないから。紙幣を信用できない人もある。 金(きん)みたいな正貨と兌換できる紙幣ならともかく、結局はただの紙切れに過ぎない日本銀行券(不換紙幣)が当たり前みたいに通用しているのも、思えば不思議なことだ。「人びと」がこの銀行券を「確実」に受け取ってくれるという確信が、そこにあるようだ。 不換紙幣ばかりを持ち続けることがリスク行為である場合もあるのか。この問題はいずれ掘り下げるべきでしょう。

今の時代にかかわらず、生きている人間は、なにかしらのリスクを引き受けなければならない。リスクを積極的に引く受けているのは、企業や株主や機関投資家や貿易商だけではないのだ。いろいろな金融商品やいろいろな保険商品が生活の場に浸透している現代では、リスクは極めて身近なものになっている。

著者によると、riskという言葉はもともと、イタリア語のrisicareに由来している。これは「勇気をもって試みる」という意味だ。それだからriskは運命というよりも「選択」を意味している。損失を最小限におさえるための、出来るだけ自由な選択。選択技術。そういわれると旧来のリスク観が刷新されそうだ。

人生や社会がこれほど不確実なものであればこそ、その構え方にも自由な慎重さが要求される。いまのリスクマネジメント分野の洗練された知見の数々は、そうした構え方が段々発展してきたものなのだ。

リスクの歴史をざっと眺めてみると、たしかに、人間の「英知」をたくさん拾うことができる。しかしそれを知れば知るだけ、ますます「不確実性」の浸透力に圧倒されてしまう。そして、あらゆるリスクが完全に回避・制御できる時代が来るとすれば、そこに人間は必要なのか、いろいろの考えが絶えず刺激される。

リスク〈上〉―神々への反逆 (日経ビジネス人文庫)