書痴肉林・蟄居汎読記

佐野白羚の古い雑文の一部を(たぶん)定期的にひっそり掲載します

伊丹十三『ヨーロッパ退屈日記』(新潮社)

すでに物故した人ですが、「マルサの女」なんかの映画監督としてよく知られている伊丹十三が若いころ綴ったエッセイがこれ(どうでもいいと思いますが彼は大江健三郎の義兄でしたか)。

「随筆」と「エッセー」の違いなど、深く考えたことがないけれども、あえて乱暴に定義線を引いてみるなら、随筆の方が文学色が強くて、エッセーの方は格段に洒脱ですね。そういうのは肌感覚と思う。すくなくとも散文度においては、後者の方がずっと高い。

分りやすいように、実例を挙げますか。寺田寅彦とか森鴎外の身辺雑記は全て随筆です。 当然、昭和軽薄体の椎名誠とか群ようこの文章は全てエッセーです。 具体的にどう違うのかといわれるとすこし応答が難しいのだけれど、ともかく、読中感が違うのですよ。随筆には本音をまだ押しとどめている文人臭さというか、形式美のようなものが色濃く残っている。漱石なんかもユーモラスで飄々しているのだけれど、やっぱり明治の文人の臭いをまとっている。文語体も多用されるからな。散文表現の術がいまほど垢抜けしていなかったのだ。 時代が時代といえば、それまでだけれど。

ところで、「散文度って何か」と思うでしょう。 この「散文度って」の「って」のなかに既に高散文度の程が示されています。 散文は本来、韻文の対義語としてありますが、私はこれをもっと広い意味で受け取るのです。 たとえば文語体のなかにいきなり俗な口語体が入り込んだりする書き方も、たぶんに「散文的」です。整合性とか一貫性ほど、エッセーと縁遠いものはない。エッセーは感覚本位であって、格式や気品に重きを置かない。 エッセーは一応は誰もが気楽に読める文章形式を採用しているから、肩が固くなる書き方はいけないのだ。これは特定の専門家しか対象としていない博士論文を書くよりも、数等難しいことだ。 わかりますか。軽妙で面白い文章を書くのは、実に根気と技量を要することなのですよ。 一見馬鹿馬鹿しいだけの日記エッセーも、案外筆を捻って書かれていたりする。

読者をいつもニヤリとさせるエッセイストがいるとする。実に阿保らしいことを淡々と語る人気の文体。そのエッセイストが白紙の原稿用紙を前にして頭ばかり搔いてフケを散らしている姿を、想像できますか。連載に追われる小説家ならまだしも、エッセイストが文の推敲に身をやつしている姿は、素朴な読者には想像しがたい。けれども、文章を書くということは、やはり大変なことです。すさまじく脳を疲弊させることです。一人以上の人間に読まれるということは、大変に恐ろしいことです。たかが読み捨てのエッセーじゃないか、といったところで、その読み捨てる人々の数が数万単位であるとしたら、つまらないものはとても書けない。つまらないことを書くにしても、そのつまらないことをどうしかして面白くかかなくちゃならない。最初の一行から最後の一行まで、なんとか引っ張って読ませないといけない。これがいかに困難なことか、想像できますか。 いまこの雑文は既に千五百文字になんなんとしているけれども、ここまで一行も飛ばさずに読んでいる酔狂な読者など、まずほとんどいないと言っていいでしょう。千五百文字といえば、四百字詰めの原稿用紙だとだいたい四枚くらいですね、わずか四枚でさえ、こんな有様なんだ。まことにエッセイストの気苦労は推して知るべしですよ。

しかしやはりエッセイストは楽屋裏の苦労を読者にさとられてはまずいのだ。

伊丹十三も、ふざけていない。パスタの茹で方とかスポーツカーの運転とか洋服の着こなしをキザで小憎らしい調子で語りながら、けれども筆運びでは少しもふざけていない。どうして分かるのか、と思いましたね。 それは分りますよ、簡単なことです、読んでしまったからですよ。つまらなかったら、読者というものは実に淡白だから、最初の数頁で見切りをつけます。大衆小説であれエッセーであれ、今日の読者はみな消費者ですからね。おいしくないものは買わないし食べない、不当に高い日用品も買わないし使わない。 興味をさそわれなかったら、読まないのです。ふつうの読者は。分りますよね、きっと。伊丹十三の信者とか知人であれば別ですが、伊丹寿三のさしたる愛好者でもない私が通して読んでしまったということは、あらかた面白かったということです。どこかどんな具合に、という人は、読んでみてください。

彼は、ふざけている調子を一つもふざけないで書くのだな。ちょうど落語家の小噺が真剣に語られるように、あるいはコメディアンのさりげないギャグの裏に相当の思案があるように。そうえいえば漫才師のヤスキヨも実はとてつもない数の稽古を重ねていたと聞きます。観客にアドリブと思わせるようなギャグも、実は入念に練られた型であることが多い。

そう考えてみると、エッセーをエッセーたらしめる条件はすべて、伊丹十三のなかに見付けることが出来る。

最後はそんなことを並べながら締めよう。

ひとつめは、既にいいましたが、口語体が幅をきかせて、天衣無縫の妙味がある。

ふたつめは、これが一番重要なことですが、著者の個人的嗜好や主観的美学が、ウンザリするほど語られている。伊丹十三の一貫した高踏派ぶりは既に芸といってもいいでしょう、。

みっつめは、現代批評というか時代風刺の香辛料がほどよく、時々強すぎるくらいに利いている。

よっつめは、カバーデザインから挿絵まで全部自分が手掛けていること。

いつつめは、上質のユーモア、たとえ話の奇抜さ。読者をもてあそぶような遊び心。旺盛な挑発心。

むっつめは、そこで饒舌に語られている見識や経験談が、実生活に役に立つのか立たないのかが未だに判然としないこと。

ちなみにこの人には他に、『女たちよ』と題されたこれまた高品質のエッセーもあります。 本作に幾分でも魅了された人には是非推奨したいものです。ちっとも面白くなかったよという野暮天には恐らく縁の薄い話ですが。

ヨーロッパ退屈日記 (新潮文庫)