佐野白羚の文筆武者修行

佐野白羚による随想ならびに読後録(「蟄居汎読記」「書脈録」)を不定期掲載

ジャン・ヴォ―トラン『グルーム』(高野優・訳 文藝春秋)

現代フランスの妄想文学。こんなのをパルプノワールとかいうらしい。フランス語でノワールは暗いとか黒い。そういえば映画マニアから「フィルムノワール」っていうジャンルの話をを延々聞いたことがある。見たことないけれど。私はフランス映画では「禁じられた遊び」しか知らない。そしてこれしか好きではない。小説の話をしよう。

私はこういう種類の書き物は、結構好きだね。大好物ではないけれど。 夫婦の絆とか戦国武将の勇気みたいな陳腐極まる主題を飽きずに使いまわしている例の小説群よりは何十倍も好きです。 いったい文学は劇薬であってほしいよ。読んでいる人間の心をささえる園芸支柱を数本へし折るくらいの魔力は欲しいな。数本だけだよ。全部は困る。ともかく何かひっくり返してほしいという被虐嗜好がある。道学者の受け売りでは何も変わらない。「おっしゃることはごもっとも」以上のものが欲しい。 そうはいっても所詮は活字、社会や宇宙の構造をひっくり返す力はない(それが出来たらダダ詩人や埴谷雄高みたいな「文学英雄」が歴史を新しく作り変えているはず)。私もそれはよくわかっているよ。 「現実」というのは、ひとつの真っ白な謎を擁している。これは社会科学的な語彙だけでは把握しきれないし勿論哲学的・宗教的語彙だけでも不十分だ。この真っ白な謎平面を、人間は、妄想のボディペインティングで飾り立てていく。そうですね。前置きが長いですね。

ハイムという青年教師が学校で生徒による「いじめ」にあって、母親と二人で引きこもり生活をしている。この教師崩れの内攻青年は世界全体を憎悪するあまり、リビドーの大半を妄想世界に投入する。自分を〈アルゴンキン・ホテル〉なる所に雇われた一二歳の接客係に見立てて、その周囲世界を高密度に再構成し(全面刷新といってもいい)、そのなかで好き放題に行動している。家族関係に深刻な問題をかかえた子どもが空想上の友人(イマジナリーフレンド)と仲良くするというケースは児童心理学の世界でもよく報告されているけれども(私もそんなフレンドを持っていた)、作中の元教師青年は既に「いい大人」だ。その類の想像力が枯渇し切って詰まらない無害のホワイトカラーになりきっていていい年頃だ。けれども彼は徹底して妄想世界でホテルボーイを演じ切る。彼は最終的に現実世界に「犯罪行為」をしてしまい銃弾で蜂の巣にされる。感動的な音楽とエンドロールで締められる筋の物語ではない。でもルーゴンマッカール叢書のような陰鬱さとはちょっと違う。陰鬱でありながら作中の発想が奔放過ぎるのだ。舌を刺すスパイスが質量ともに筋の暗さを凌駕している。だから痛快なのだ。

それに登場する人物がみんな歪んでいる。色情症のマゾ女、ごみだらけの部屋で死ぬのを待っている老人(ビングという。私は彼を気に入っている)、引きこもりの妄想息子のいいなりになっているだけの哀れな老母(日本にも数万単位でいるよ)、ベトナム戦争中に少女を強姦しようとして塩酸をかけられ失明した元兵士。まともな人間がいないという点では、いかにも小説らしい(とはいってみても、私は「まとも」の何たるかを未だに知らない)。

そのくせ全体は戯画的に彩色されている。キツイ笑いも引き出そうとするし、粋なセリフも少なくない。こんな狂気色濃厚の物語が文庫本で四五〇頁くらい続くのだ。よい子と善良な市民は読んじゃダメ。こんなの読むシンナーみたいなものだから。 空想的行為がはからずも主人公を犯罪行為に駆りたててしまうという筋そのものは大して珍しくないと思う。知っているだけでも数十はある。こんなケースは「現実世界」でもよく見られるでしょう。万事に猜疑的である余り周囲の誰もが暗殺者に見えて権力パラノイアを来してしまうとか(独裁者は殆どこの種の病気にかかっている)、逆に全ての人に愛されていると勘違いしてしまうとか(特定の人物に関するものを被愛妄想という)。

人間という心理的に極めて不安定な生物にとって、妄想という行為は概ねプラスに作用することの方が多い(なかでも最も扱いにくい妄想の一つに「空想や妄想とは無縁な自分」というものである)。宗教や政治的理想なんか九割がた妄想みたいなものだ。 あと、「あの子いまこっちをみて微笑んだ、俺に気があるな」「自分だけは交通事故など起こさない」「自分の妻や母親だけは私のことを愛してくれているだろう」「自分だけは肺がんなどにならないだろう」「私は子供に嫌われていない」「テレビの羽生結弦は私に向かって微笑んでいる」「最近、木村拓哉にストーカーされているみたい」(被愛妄想) こんな種類の妄想を欠いて人は愉快に生きられない。人間が愉快に生きるために必要なのは例の三大欲求の充足と並んで妄想欲求である、というのが私の積年の持論です。

ちなみ妄想ってのは、「裏付けのない確信」のこと。もっと広げてみれば、「確信をさえ必要としない対人的・対世界的前提認識」ということになる。根拠のない判断による主観的信念は全部、妄想に属する。厳密にいえば、「明日も太陽が昇る」とか「他者も自分と同じように自我を有している」という種類の判断の多くも主観的信念の産物に過ぎない。「われ思う」の「われ」さえ疑う人もいるしね。とかく哲学者は体質的に何でも疑う。

こうした味付けで仕上げられた小説の怖いところは、「現実」は結局妄想や空想を養分にしないと自立できない、ということを図らずも浮き彫りにしてしまう点だ。事実、ヒトラーの抑圧されたルサンチマン妄想がベルサイユ体制下のドイツで見事に爆発したのだし、秋葉原事件の犯人の脳裏で起こった瞬間沸騰的な殺意も彼の被害妄想傾向なしには発生しえなかった。 強力な組織的妄想はしばしば現実を激しく侵す。暴動も迫害も、何か、過剰な心理的反応なくしてはありえない。個人単位では微量な妄想成分も、集団レベル、大衆レベルでは大変な力になる。集団心理の方向性は、概して個々の人間の不満状態に影響されるものだ。

ともかく、妄想は、ふつう我々が考えられている以上に、「現実」を浸食しているのだ。 だいたい妄想が機能不全であれば恋愛など成立しえない。理想など誰も語れない。ナルシシズムもありえないし、神経症外来も閑古鳥がなく。人生における対人トラブルの大半は対人妄想なしには説明できないだろう。共同体の集団幻影も、過剰な妄想成分が固定したところに出来上がる。「私たち」とか「我々」なんて書くときの、あのちょっとした違和感、気持ちの悪さは、たぶん、こうした妄想を知らないうちに自覚しているからだろう。

私はへいぜいアパートの隣人のささやかな咳払いさえ許容しかねているのだけれど、こうした心理的な苦しみも、「奴が自分に嫌がらせをしているのではないか」という先行妄想なしには起こり得ない。冷静に考えれば、それは(音声チックであれトゥレット症候群であれ)生理的偶然の現象に過ぎないのだから。悪意などはあるはずないのだ。 一体私は、音に関する限り、被害妄想に駆られやすい。車のクラクションも夫婦げんかも私の聴覚器官は耐えられない。偶然の雑音はとても許容できないのだ。これまでそれがもとで何度トラブルに巻き込まれたか分からない。

主観的信念によれば、人間が生きるのは植物よりも数段難しい(そういえば昔読んだ車谷長吉の小説に大体次のような遣り取りがあった。「おじちゃん世界で一番難しいことって何?」「それは生きることだよ」) それだから人間の妄想の余白は植物よりも広いしその密度も格段に大きい。原則として、妄想なしでは人間の精神は安定を欠くのである。南無阿弥陀仏を唱えていればきっと地獄に落ちないと取り敢えず信じておけば、生きている間は発狂しないで生きられる。自分は社会経済的な階級や教養レベルや容姿において平均よりもちょっとだけ上であろうと信じていれば、自尊心はある程度満たされる。こうした方法的妄想の蓄積が、彼彼女の心的平衡をがっしり支えているのだ。そんな事実を踏まえれば、この世界で最も幸福な人間は最も自分の妄想を育て上げた人間ということにある。自分を取り巻くこの「腐った世界」を、最も華やかで厚みのある妄想で飾り立てる能力を先天的に有している人間ということになる。これからの時代、ほどほどの経済力と強大な「妄想力」を持った人間が一番生きやすくなる。たぶんこれは私が思っている以上に真実を言い当てているだろうな。なんだかんだ「おめでたい奴ら」ほど幸せなやつはないよ。「おめでたい奴ら」は自分が馬鹿にされている事実さえ生産的な運動エネルギに変換できる稟性を持っているのだから。

仮に、精神病棟のベッドを一歩も出ないで自らを世界の神や皇帝だと思っている人があるとすれば、彼の自己充足感はそう簡単には壊せない(実際、世界には自称ナポレオンや自称「天皇落胤」が数百人いる。自分を世界の救世主だと確信している人も数千人はいる。断言しますよ。というのも私は「そういう傾向の人」を直接知っているから)。

外に出ないで、内にこもる。そうすれば、きっと、人は、自分を相対化しないで済む。人間は傷つくと小さな完結した宇宙に逃避する(こんな言い方は好きではないけれど)。人は自分を相対化させる要因がなくなった自己完結宇宙の実現を、心のどこかで夢見ているのかもしれない。イッセー尾形という一人芝居の役者を知っていますかね。私彼のこと大好きなんです。あの人のブラックコメディに、立小便のためにビルとビルの隙間に入り込んで出られなく筋のものがあるの。最初は足掻いたりもがいたりするんだけれど、そのうち力尽きて諦めてしまって、その狭い空間にあることに満足してしている自分を発見する。「もがき」から「安心」に到るあの瞬間、もちろんそこで客席から笑いが起こるのだけれど、この笑いはなかなか意味深長。曰く言い難い笑いだ。極度に狭い空間に安住する心と「引きこもりの心」には何か通底するものがある。

「そうだろうと思ったよ。だがな、ハイム、前にも言ったはずだが、おまえは外には出ない方がいい。家にこもっていればこもっているほど、調子がいいんだ。たとえ、紅茶のカップを前に、家から一歩も出なくたって、世界旅行はできるものだからな。ビールは?」(高野優・訳 二七)

極楽往生」とか「無階級社会」という言葉がなぜ過去の人々を惹きつけてきたのか、いまでは多少分かる気がする。そういうのは全部引きこもりも発想なんだよな。完璧な、不安定要素の取り払われた、「歴史の終焉」に人間は憧れ続けて来た。ビルとビルの間の静かな閉所よりもずっと安定した「世界」。全てが完全な秩序のもとにある世界。「これ以上自分を変化させることのない宇宙」。熱力学的に系のエネルギーが最低になるとされる温度は、絶対零度(マイナス二七三・一五度)。安定は冷え切ってもいるのだ。ええ、今の話とあまり関係ありません。 いずれにしても、そういう自己完結した安定世界を指し示す言葉の数々は、「現実よりも現実的」に響く。人間を陶酔させる色気を放っている。

いろいろ書きましたが、とどのつまりは、人間は妄想を消費しないでは生きられない生き物である、ということ。 いやあ小説っていいですねえ(淀川長治です)。

グルーム (文春文庫)