佐野白羚の文筆武者修行

佐野白羚による随想ならびに読後録(「蟄居汎読記」「書脈録」)を不定期掲載

ティモシー・ライバック『ヒトラーの秘密図書館』(赤根洋子・訳 文藝春秋)

扇情的大胆な邦題が妙な誤解を与えかねないけれども、こうした趣向の本としては最後まで結構面白く読めた。せっかくの識字能力を積極的に活用しない人はともかく、多くの人は自分だけの「プライベートライブラリー」を持っている。短い生涯のうちで貧弱な脳髄しか持たない人間が直接経験できることなどたかが知れているのだから、書物から何ごとかを吸収しようとしない人間の頭はどうしても狭小になる。というよりも、人間は元来知るということに途轍もなく飢えた動物なのだ。「どうしてこのようなことになったのか」、「どうしてこれがそこに存在しているのか」という問題を死ぬまで問い続けることのできる執念の動物なのだ。計算のさなかに殺害されたというアルキメデスの戯画的な逸話や、麻酔薬の試験内服妻で妻を失明させた華岡青洲の逸話などは、人間の知識欲の一端をよく物語る。

一面、知ることは半ば所有することで、「貴重な知識」「秘密」を握っていることは、何かしらの点で広く問題を見渡せる視野を得る(あるいは、得たような気になる)ことでもある。「情報」の価値が国際的に重視されるようになったのは、わりあい最近のことだ(各地の金融市場の速報などが商売になると認識されはじめたのは、ロイター通信の創始者P・J・ロイター(一八一六~一八九六)の頃からで、この通信社は二〇世紀初めまでの間、この分野で独占的な地位を占めていた。おそらく、各都市に分散していたユダヤ系ドイツ人は、情報が金になることを肌身で知っていたのだ)。

いずれにしても、「知る」という欲望のなかには、実利的な面もあれば、まったく実利的でない面もある。「知識」や「情報」は、所有者の裁量に始めから委ねられている。 本書は、ヒトラーの蔵書と読書歴という切り口から、彼という人物の一端を見ようとするものだ。彼は努めて功利的読書にこだわる男だった。 その辺にいる善良な市民の蔵書内容など少しも興味をそそられないけれども、あの第二次世界大戦の大きな一因をつくり二〇世紀に巨大な痕跡を残した一国家指導者の愛読書となると話は別だ。近代ヨーロッパに噴出したこのアクの強い「個性」は、何をどのように読んで育ったのか。 何もヒトラーに限らない。ビスマルクであれナポレオン一世であれムッソリーニでれピョートル大帝であれ近衛文麿であれ、「歴史上の人物」の思想形成に影響を持った書物となると、どうしても無関心になれない。人びとは強い関心を向ける。一冊の書物が、こうした人物(そしてその取り巻き)の政治判断や政策決定に何かしらの影響力を持っていないとは限らない。私などはそう考えてしまうからだ。

書物には書物固有の運命がある。

私はかつてトマス・カーライルの『衣装哲学』に打ちのめされたものだけれど、彼の本は戦後にあってはおそろしく不遇らしい(一応主要な著作は翻訳はされているし、著作権の切れたテキストを無料公開しているサイト・グーテンベルクプロジェクトで主著の原文を読むこともできる。もの好きな人はぜひ)。たぶん彼の英雄崇拝思想が時代のファシズム体制のなかで大いに活用されたからだろうけれども、それだけで殆ど読まれなくなるには惜しいくらいのコクが彼の文章の内にはある。ともあれかつては大変広く読まれていたのだ。今では前振りなしでは引用もできない。そういえば、ヒトラーは彼の手になる『フリードリヒ大王』を随分好んで読んでいた。カーライルの文の調子にはどこか異様な気迫がある。

ヒトラーはその生い立ちと気質のせいで知的コンプレックスの非常に強い男だったから、猛烈な読書によってなんとかそれを補おうとした。ここで私はどうしても毛沢東を思いだす。やはり彼も熱心な読書家だった。水滸伝批判は有名だし、田中角栄が訪問した際には意味ありげにも『楚辞集注』を送っている(これについては俗説を含めて多様な会解釈がある)。長く侍医をつとめた李志綏によると、彼はベッドの上でよく古典の解釈を繰り広げていた(『毛沢東の私生活』)。古代中国の統治論や戦略論が現代にどのくらい適用できるのかは知らないけれども、一国の長である以上は常に万事学ばなくてはならぬという気概はあったのだろう。ただし彼は外国語が読めなかった。マルクスエンゲルスもレーニンも系統立ててまともに読んでいない。

広汎でありながら極めて恣意的なヒトラー流の読書作法は、大統領と首相と党首の全権を束ねた「総統」という強大な権力と結びつくことで、大なり小なり現実世界に具体的影響を及ぼした。横町の隠居の無害な読書作法と決定的に異なってくるのは、その点においてである。カーライルによる伝記でいうところの「並外れた人物」に自らがなろうとしたのだ。

彼は読書というものを、「自分が元々抱いている観念という「モザイク」を完成させるための石を集めるプロセス」にたとえている。目次なり索引を最初に読んで、自分の世界観に利用できる情報を意識的に探し出すのだ(我々の方ではこうした態度を伝統的に、「牽強付会」とか「断章取義」などと読んでいる)。それだから彼の思想的初期設定は書物によって覆されることはなかった。ただ無骨に武装されるだけである。本来自由に発想するための読書を単なる補強手段としてみていなかったのは、残念なことと思う。彼の読書作法がもっと柔軟なものであれば、などと考えてしまう。

彼はおよそ一万冊以上の蔵書を持っていたとされているものの、当然ながら、全て読まれたわけではない。彼は学者ではないし、そんな時間もない(読書は時間がなければできない)。ヴァルター・ベンヤミンがあるエッセイでいうのには、だいたい人は自分の蔵書の十分の一くらいしかちゃんと読んでいないそうだ。この見積もりにはそれなりの根拠があるようだが、私の肌感覚では、おそらく、十分の二くらいである。千冊の蔵書があれば、そのうちでしっかり読んでいるのは、せいぜい百冊から二百冊くらいだろう。すくなくとも所有している本のすべてに目を通している人はいない。もしそういう人があれば、それは虚栄から出た嘘だ(ときどきテレビに映る学者の背景にはよく厚い洋書のびっしり詰まった本棚があるけれども、彼がそれらすべてをしっかり読んでいると思ったら大間違いだ 。あれはただ彼彼女の発言を権威づけるために利用されているだけだ。誰でも知っているか)。

それにしても、一国の指導者ともなると頼んでもいないのに方々から献本されて、蔵書が自動的に膨らむものらしい(当然、書籍購入費にも事欠かない)。羨ましいと言えば実に羨ましいが、じっくり読む余裕と忍耐力ないのは、やはり不幸なことだ。

もうそろそろご飯が炊けそうなので、話は飛躍する。

ヒトラーの述懐によると、彼が最初に熱中した本は、カール・マイ(一八四二~一九一二 当時の少年少女に愛された国民的作家)の冒険小説『砂漠への挑戦』だった。そして『ロビンソン・クルーソー』『ガリバー旅行記』『アンクルトムの小屋』に並んで、『ドン・キホーテ』を世界の傑作に位置づけている。彼もまたギュスターヴ・ドレによるあのロマン的な挿絵に魅了された素朴な読書人だった。こうやって彼の月並みな読書歴に触れて見ると、ヒトラーが等身大の人物に思えてくるから不思議だ。後に悪の象徴として語られる「独裁者ヒトラー」のイメージとは、どうしても重ならない。

政治家となる決意を固めると、彼の読書は一層生々しいものになっていったようだ。マーキングだらけの本もある。 古典的な歴史書、都市計画の書、マディソン・グラントなるアメリカ人による優生学の本、アーリア人種の使命を説いた本、ニーチェヒトラーはあまり彼の本が好きではなかった。というよりも彼には哲学的センスが絶望的に欠けていた)、ワーグナーの芸術論、ヴァチカンによるナチス分断工作の「告発本」、今でもよくあるようなオカルト本、反ユダヤ思想を鼓吹する書、有効な戦術を説いた書(彼の蔵書の半数は軍事関連だった)。

まだいろいろ言いたいこともある。 けれども、ぎゅっと一言に圧縮させて言うなら、良きにつけ悪しきにつけ書物は人間に指針を与えうるということだ。書物は人に行動の根拠を与え、判断の裏付けを与える。ひとりの人間(あるいは集団でもいい)の宇宙観、政治観、人間観を、知らないうちに形作る。 「聖書」は今でも多くの人々の救済観や死生観を根本から規定しているし、アラブ諸国ではコーランと法律は切り離せない。ケインズの論文はいまだに政府投資が必要とされる際に言及される。『アンネの日記』は迫害されてきたユダヤ人への同情を世界規模で集めた。『アンクルトムの小屋』は南北戦争の一因とされている(いや本当かい)。 「ふざけるな。書物なんかで歴史や人生が変わってたまるかい」などと反発してしまう反面、たしかに、書物の発言力や呪術が無視できない場面も少なくない。「書物が時代をつくる」というのはやや過大評価のきらいがあるけれども、「たかが書物」とは言えない書物も歴史上多くある。そして重要なことは、そうした書物が必ずしも普遍的な知を提供するものではないことだ。現在「古典」とされている書物群のなかには、(私の眼からみて)ずいぶん下らないものが多くある。怪しいものもある。偏見に満ちた本もあるし、誇大妄想気味のトンデモ本も多くある。それでもある時代のなかで「書物の知」は大きな潮流を形成しかねないのだ。

アドルフ・ヒトラーの「民族観」や「政治観」は、その時代の知的風潮や経済事情とは明らかに切り離せない(環境や集団は「個体」に先行する)。そして、そうした物事は、時の書物の中に刻印されている。ヒトラーがどこまで「時代の子」であったかは、彼が影響された書物をよく踏査することで、ある程度までは分かるだろう。為政者と書物の関係は、もっと詳しく研究されてもよさそうだ。

(そういえば手塚治虫ヒトラーファンだったみたいですね。画家くずれでルサンチマンまみれの男が最高権力者にまで上り詰めるなんて人生は、たしかに稀有です。凡人よりも悪党のほうが興味に尽きない分、書く人間としては好ましい)

ヒトラーの秘密図書館 (文春文庫)