書痴肉林・蟄居汎読記

佐野白羚の古い雑文の一部を(たぶん)定期的にひっそり掲載します

渡辺一史『こんな夜更けにバナナかよ』(文藝春秋)

さだまさしは「療養所(サナトリウム)」という歌で人生そのものがひとつの病室だと熱唱し、辺見庸は人間は一人残らず病人だとあの険しい顔で喝破している。 うん、直感的にも、それはそうだろう。そんなことをドヤ顔で主張されると、何をいまさらという反省がこみ上げてきて、鬢のあたりが痒くなってくる。

病気になってはじめて健康のありがたみがはじめて分かるという風な人生訓があるけれど、そういう「健康」さえ、ある程度譲歩された健康だろう。慢性関節リュウマチに苦しんでいる人から見れば過敏性腸症候群の患者は健康に映るかもしれない。不眠症に悩んでいるだけの人は、うつ病末期の人から見れば「健康」に見える。何が言いたいかって、日常的に使われる「健康」には、大幅な妥協があるということ。「健常者」「障害者」、「病気」「健康」の間に線引きするのは、簡単なようで簡単でない(私は障がい者という表記にはまだ慣れていない)

そういえば、WHO憲章には、こんなことが書いてある。 「健康とはただ疾病や傷害がないだけでなく、肉体的、精神的ならびに社会的に快適な状態であること」

そんな理想的健康に恵まれた人間は、地上にはいない。いたとしても人間の形はしていないだろう。マイクを搭載したセルロイド人形に近い何かのような気がする。もちろん内臓なんかない。人間を病気の缶詰とすれば、内臓はその内容物に違いないから。

「健康」という言葉は、明治期にhealthから訳された言葉らしい。誰だろう。連想のままに書くけれども、ドイツ語から「衛生」という言葉を作りだしたのは長与専斎という人物で、たぶん森鴎外ではない。長与専斎って誰、という人が、結構いるかもしれない。あの小説家の長与喜朗のおとっつぁんだ。『竹沢先生と云ふ人』を書いた人。いまどき読んでいる人はかなりの好事家だろうね。理想に陶酔するお坊ちゃま集団とか揶揄されることも少なくない白樺族のひとり。要するにもう忘れられてもいいような人。日本近代文学史におけるひび割れた骨董品。言いすぎかな)。     なんで健康のことなど考えているのか。健康とは何か、という切実な問題を前にしたからだ。今日では、健康という語は、平和とか民主主義という言葉と同じくらい内容空疎で曖昧俗悪な響きを内に含んでいる。健康保険、健康生活、健康マニア、健康管理、健康麻雀。文珍師匠の枕を拝借するなら、「健康の為なら命もいらない」という猛者もいる。

本ノンフィクションの中心人物・鹿野靖明(四三歳で亡くなった)の半生を知ると、その「健康」という曖昧概念が突然ある異様な湿気を帯びてくる。 彼は、筋ジストロフィーという、筋肉が次第に変成萎縮していく遺伝性の難病をかかえていた。いろいろなところで取り上げられているからか、近頃では、病名だけはそれなりに認知されてきているみたいだ。当然病気のすべてが解明されているわけでない。

詳細は読んでほしいのだけれど、重度の「障害者」である彼は、あえて民間のボランティアの協力で生きる「イバラの道」を選んだ。 渡辺氏によるこの労作は、そうしたボランティアの現場をなかなか入念に報告したものだが、たぶん読んでいない人はこの段階で既に「ああ、巷によくある美談ものね」とため息をついて軽いウンザリ感に包まれてしまうだろう。「生きる勇気をもらった」とか「生命の尊さを学んだ」という類の、およそ毒にも薬にもオブラートにもならない「模範的」言辞で溢れかえっている、そんな二十四時間テレビ式の薄っぺらいヒューマン・ドラマを想定してしまうに違いない。

本書にはそうした趣はない。

その程度のものだったら、私などは短気だから、数ページ目を通しただけで市役所前のリサイクル・ボックスに叩き込んで別の本を読み始めていた。感動など、私は、したくない。感動はただの結果であって目的ではないのだ。涙はいらない。映画にしろ小説にしろドキュメンタリーにしろ、日夜「公の感動」が大量に生産されて不当廉売されているこのお涙超大国(巧妙な洒落になっているね)で、どうして今更そんな安価な模造パールを求める必要があるだろう。 渡辺氏のこの報告書には、そうした誤魔化しがない。私の大嫌いな、あの低級なビルディング・ロマン特有の感傷臭ささが、殆ど感じられない(嫌な部分はあったけれども)。

ボランティアを希望する学生たちの心理的挫折も生々しく書かれているし、関連するトラブルや喧嘩の数限りない逸話も面白い。それにしても、全面的な介助に依存しなければならない鹿野晴明の並外れた「わがまま」や「生きることへの執念」には、正直のところ驚嘆させられた。けれどもすぐに、プライバシーが皆無なうえに基本的な自尊心を維持するのが極めて困難であるという肉体的・心理的限界条件が、彼のもともと激しやすい心をますます鋭敏にしている、と私は察したのだ。母親の保護なしでは生きられない乳児の自己主張と、それはどこか似ている(考えてみれば、人間という動物はおおむね、無力状態に始まって無力状態に終わる。要介護状態にある老人がミキサー食を口に運んでもらっている光景をみていると、どうしても乳児や被介護老人のそれと二重写しになる。オムツをはめ、髪の毛は抜け、言葉も明瞭性を失っていき、大抵はわがままになる。老人と乳児の間に違う点をひとつだけ挙げるとすれば、それば、老人の方が赤ちゃんよりも明らかに薄汚くて、自然な保護感情がくすぐられないことだ。それだから痛々しい虐待事件や放棄も少なくない)。

他者なしでは文字通り一日も生きられない、という無力感は、その人の人格にどう作用するのか。 生きるのが極めて困難な条件下にある彼が、あれほど生命を漲らせているという事実を、私のような体質的ペシミストは、どう受容すればいいのだろう。 このように意志と肉体の分離した状態を生きている冷厳たる事実を非当事者が「理不尽」などと称して嘆いたふりをするのは随分簡単なことだけれども、本を読み終えたいまの私には、それがいかに浅薄な芝居であるかがよく分かる。死と隣り合わせなのは誰だって同じだが、鹿野靖明にとってそれは決して抽象的なものではない。もし深夜に医療機器が故障したら、もし必要なボランティア人員が集まらなかったら、発作が起こったら、そう考えるだけでパニックに襲われる(私も人の紹介で筋ジストロフィーの患者を何度か訪ねたことがあるけれども、彼はパニック障害を持っていると言っていた)。その恐怖は一通りではない。

鹿野という男は、何かにつけて安易に「尊厳死」の発想を持ち出す現代風潮へのアンチテーゼを引き受けているふうにも思えた。次々入れ替わる若いボランティアを独裁者さながらにこき使い、プレゼントが気に入らないと他のに代えてくれと要求し、不快であればすぐさま喧嘩腰になる彼の自我の強さは、読中ひどく乱暴に映ったけれども、指先一つ自由に動かせない彼の無力感を汲みとって反省してみれば、それももっともなことのように思えるのだ。 「生きたいのに生きられない人がいるのに」という種類の干からびたセリフを吐き散らす以外に能のない感傷屋には到底想像さえ出来ないような途方も無い彼の執念。この際、これを「本能」といってもいいだろう。この執念は、いまでも、私の脳裏を離れない。恐怖と不愉快と憤激に裏付けられた、自暴自棄一歩手前の、反逆。この本は決して「心温まるヒューマンストーリー」ではなく、突然の難病に身体的自由を剥奪された男の悲痛のドキュメントである。

読者はおそらく、社会的弱者として一方的に介助されるだけの「障害者」像の見直しを強いられる。受け身なだけでなく、自ら「こうして欲しい、ああして欲しい」と口うるさく要求し、嫌な目にあうと「それは不愉快だ」とはっきり主張できる、極めて主体的で強かな「もの言う障害者」の存在に、一再ならず目を見開かされることだろう。

タイトルは、夜更けに突然バナナを食いたいとリクエストしたエピソードから取られている。夜更けとバナナという取り合わせが妙な滑稽感をつくる。出来過ぎているから、たぶん編集者の提案だろうな。

こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち (文春文庫 わ)