書痴肉林・蟄居汎読記

佐野白羚の古い雑文の一部を(たぶん)定期的にひっそり掲載します

ロベルト・ヴァルザー『ヤーコプ・フォン・グンテン』(藤川芳郎・訳 集英社)

先週、何かのきっかけで、ふとロベルト・ヴァルザー(スイス 一八七八~一九五六)を読んだ。

「若いカフカが強く影響された作家」というレッテルの下で、一部ではカルト的な敬愛を集めてきたヴァルザーだけれど、私もこの作品に広がる瘴気にやられて軽い後遺症を得た経験がある。何とはなしに読みはじめると、相当内臓に応える。何かに喩えるなら、それは、異国の阿片窟で闇鍋をつつくのに似ている。鬼が出るのか蛇が出るか。しかし人間しか出てこない。 終始一貫、彼の語りのなかに「救い」がない。「救い」というのは得てして干からびた自己欺瞞の帰結でしかないことを、彼は心底から知っている。

私の思う所では、文学の目的は、ひとつの「呪い」か「夢想」を如実に表出することにある。この任に堪えないものは一切を閑文字として切り捨ててもいい。 およそ「眼の前の世界」は、「人間」に考えられる限り「最悪」のものだから(*)、この「最悪」の世界に「人間」(いま・ここ)はどのような反抗を示せるか、ここに文学のギリギリの生存価値がある。文学は雅な美文を書き連ねる有閑趣味などではないし、また、現在する社会の「矛盾」をありのままに記録する媒体でもない。すくなくとも私にとってそれは、餓死寸前の放浪者が最後の希望を寄せる蜃気楼のようなもので、「世界はこうあるべきだった」という憤怒の夢想がそこに脈打っていなければならない。あるいはそれは、「此処でない何処かへ」の根源願望といってもいい。ところで、この悲痛極まる願望の秘密は、それがはじめから挫折しているところにある。その「何処か」には人間の居場所はない。「何処か」は夢想対象以上ではないのだ。「救い」の本質は、それが到頭見いだし得ない点にのみある。 「此処ではない何処か」ヴァルザーやカフカは、ここにある矛盾を心臓を以て理解していた。

*【「苦しみ」が問答無用に「絶対悪」であることを詳述する余裕は、今はない。けれどもこれは緊密な議論に値する問題なので、いずれ濃密に取り上げねばならない。 いずれにしても、「善」というのは概して消極的な価値概念であって、ごく単純にいうなら、それは「苦しみが現前していないこと」に他ならない。あらゆる「苦しみ」は如何なる「意味づけ」によっても中和されない部分を、常に内に含ませている。「苦しみ」は「それでもそれがあってよかった」と済ませられるようなことではないのだ。「苦しみ」が絶対悪であると考える以上、私はそれを構成させている社会的・歴史的条件をあらゆる面から否定しなければならない。「苦しみ」は弁護不可能な被告人なのだ】

作品設定は、そう入り込んだものではない。 架空のベンヤメンタ学院に寄宿している五六人の生徒と先生が数名出てくるだけで、全体の物語りは一人称の「日記」形式で進行する。ここには「人に仕える人間はいかに振る舞うべきか」を教える授業しかない。この学校は、高望みすることのない召使いを養成するためにのみ存在している。それだから、ここの生徒たちはみな、自分たちが如何に取るに足らない人間であるかを自覚させられる。彼らは、社会を下から支える人間の美徳だけを学べばいいのだ。 こうした設定の寓意をあれこれお喋りするのは野暮に思える。「人の役に立つ人間になれ」「社会に奉仕せよ」などと四方に吐瀉物を投げかけている人物の大部分は、多かれ少なかれ、このベンヤメンタ学院の教師と同じフロアに立っているのでないか。「労働力」「生産人口」「社会人」という類の用語群もおよそ得体が知れないので、近頃の私は殆ど使わなくなったけれど、周囲の人たちは特段気にならないみたいだ。一体口にするだけで胃がむかつきを催すような言葉が、世の中には多すぎる。「就職活動」とか「賃金労働」と呼ばれている現象は言うに及ばず、「人生の目的」「恩返し」「ふれあい」「絆」 耳触りのいい言葉には、何か言い難い不潔さが付きまとう。ヴァルザーのように感じやすい人間は、あらゆるもののなかに「ベンヤメンタ的」な何かを暗に感じ取る。彼は無性格な人間にはなれない。 「世界を征服するつもりでいるこの小僧め、いいか、世間、つまり外の世界に出たあとではじめて、職につき努力し格闘するようになってからはじめて、大海のように果てしない退屈、単調な生活、孤独が君にむかって大口をあけてあくびをするだろう」

この作者の凄みは、その異様なまでの神妙性にある。世の平凡な厭世作家のようにピイピイ泣き言を書き連ねる悪趣味ほど彼から縁遠いものはない。 彼にあっては、絶望の中にも一定の節度が保たれている(こうした静観を装った作法の中にこそ彼の叛逆心が息づいているのだ)。 「世間というものは病弱で感じやすい人間にたいしてはおよそ信じられないほど乱暴で高圧的で気まぐれで残酷」(藤川・訳)であること、そして、ある種の人間にとっては人生など「落胆と恐怖をもたらす不快な印象とがつなぎ合わされた鎖に過ぎない」ことを、語り手は生々しく直観している。けれども彼はそうした陰鬱な自覚を堅持しながらも実に奇妙な達観を得ている点で、他の愚鈍なメソメソ小僧連とは一味違う。 作品終盤に、作者の基本的なスタンスを窺わせて余りある告白が見いだせる。 「僕は人生を呪ったりはしないだろう、呪ったりするには、人生はとうにあまりにも呪うにふさわしくなっているだろうから、またもはや悲しみも感じないだろう、とうに悲しみをその激しい痙攣も一緒に底の底まで感じとり感じきってしまっているだろうから」。

総じて掴みどころのない鵺的作品だ。けれども、読み方に規格を設けるには及ばない。 文学は、めいめいがめいめいの感じ方で受容するものだ。先日、外山滋比古の『異本論』をたまたま読んで余程感心したのだけれど、そのなかで彼は、書写や翻訳や十人十色の受容を通して初めて「古典」が生まれる次第を力説している。読者の理解がなければ書物は残らないのだ。書物は自分だけで育って自存できるものではない。「このように読まなければならない」という規律は、普通、作者さえ知らないのだ。

ところで、外国の文学作品で設定が寄宿生となると、私などはどこか同性愛的な色合いを求めたくなる。この作品にも、やはり、そうした要素がある。同性愛は生殖機能が関係してこない分、とても美しい関係に思える(淀川長治が「男と男のいる映画」を特段好んでいた理由は総じて、そのあたりにあると私はみている)。

生涯を通じて「統合失調症」と切り離せない作者のことだから、さぞグロテスクな幻覚描写に満ち満ちた内容だろうと踏んでいたものだけれど、存外にその筆致は冷静・緻密であったがために、終始ウンザリさせられることがなかったばかりか、所々の微毒を含んだ語りの調子に随分引きずり込まれてしまった。 そのムードの一片を示したいので、最後にいくつか並べてみよう。

「もともと世間で成功を収めようと努力している人間はみんな恐ろしいほど同じ顔をしているのだ」「僕たちの目はいつでも思想のいっぱいつまった虚空を見つめている」「僕は、どんな類いであれ強制というものが基本的に好きだ、というのも、さきざき規則違反をする楽しみを与えてくれるから。もし命令とか義務がこの世の中ではばをきかせていなかったら、僕は退屈すぎて死んでしまうだろう、飢餓感と不満にさいなまれるだろう」

こうした、観念的で抑制のきいた独白を通して、作者は、自分の「呪い」に形を与える。語ることがそのまま彼の内面となる。むにゃむにゃしているようで実は如何にも筋が通っていて、不思議な快感を起こさずにいられない。

いま、ヴァルザーはもっと真剣に読まれてもいい。もちろん読んでどうにかなるものでもないのだけれど。

集英社の世界文学全種版では、カフカの「審判」「変身」も併録されている)

世界文学全集〈74〉カフカ.ヴァルザー (1979年) 審判 変身 他 ヤーコプ・フォン・グンテン