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佐野白羚の文筆武者修行(「蟄居汎読記」「書脈録」)

九三八堂の佐野白羚による随想ならびに読後録を定期掲載

デズモンド・モリス『マンウォッチング』(藤田統・訳 小学館)

お盆で実家に戻った折読み返してみて、やっぱり面白いと思ったのはデズモンド・モリスだ。(刊行後半世紀近く経つので)いまではやや賞味期限切れの観もあるあの『裸のサル』(一九六七年)の著者。この人は一般向けに実に面白い本を書いている。『サッカー人間学』とか、あと本書の姉妹篇ともいえそうな『ボディウォッチング』とか(私は読んでいない)。

『マンウォッチング』は、ヒトの体や仕草を動物行動学者の観点から入念に観察したもので、ポップなタイトルとライトな表紙デザインの割には一一の分析が相当突っ込んでいて(聖域なし)、多分どんな階層のどんな人間が読んでも膝を打つこと頻りだろう。

ことさら面白いと唸ったのは、下巻の「転移活動」の章。要するに緊張した時に生じる代理動作のことだが、よくよく反省すれば誰にでも身に覚えがある。初対面だったり、あるいはまだよく慣れていない人と喫茶店で向い合っているときにやたらとスパスパ煙草を吸ったり、コーヒ用のスティックシュガーの袋を何重にも折りたたんで蛇腹状にしている人があるけれども(これ以上畳みきれなくなると渋々戻す)、「転移活動」とはつまりあれだ。内的葛藤にそわそわを隠しかねている喫煙者にとって必要なのはニコチンだけではないわけで、ポケットから煙草を出したり火を付けたりするという動作もまた重要になってくる(双方が喫煙者であれば互いにとって好都合となる。火を分け合いながら相互の不信感を解きほぐせるからだ)。

もしこうした必要動作がなければ「手持無沙汰」になってしまって、遅かれ早かれ相手の眼を必要な程度に見なければならない。およそ見ず知らずの人と視線を交わすことは「きつい」。 当人がどのくらい自覚しているかはともかく、人間は常に社会的な緊張状態にある。見たことの無い人は全て敵とはいかなくとも、不穏な外的存在なのである。こうした対人不安はヒトという動物においては普遍的だ。一見神経の太そうな実業家や人を食ったような寄席芸人も、他者に対してはやはり相当に身構えている。登壇して誰の記憶にも残らないお説教を垂れ流す校長先生でも、政府の仏頂面した官房長官でも、教会の牧師でも、事情はそう変わらない。今日の我々はヒトラーの演説を映像でじっくり見ることが出来るけれども、彼がその内的なオドオドを隠しきれていないのは誰の眼にも瞭然としている(そういえばウォーターゲート事件中の記者会見に臨んだニクソンの手は明らかに震えていた)。石原慎太郎がぱちぱちまばたきをしたり、喋っている最中の西村博之がやたらと体を動かすのも、興味深い事例。

フランス文学者の多田道太郎は『しぐさの日本文化』(これは大変に良い本だね)のなかで、そもそも生身の不特定多数者との交渉は人間の生理的限界を超えたことではないかと嘆息していたけれど、この一文で私は著者の内実に入り込めた気がした。それはそうだ。一体この世界のどこに「傍若無人」な人間がいるだろう。自分が他人の眼差しのもとにあることを殆ど気にしないような人間は、ちょっと想定できない。気違いを装っている患者が崖の危険性を「正しく」理解しているように、恥も外聞もないように生きている人間も他人の眼差しを忘れていない。傍若無人をなんとか演じているだけだ。 だから、見知らぬ人びとの前でソワソワするのは、彼彼女が「繊細」で「臆病」だからではない。人間であるからだ。もちろんその程度や隠し方には個体差があるけれども、それらが、人間という動物の極めて基本的な反応であることには変らない。ソワソワオドオドビクビクほど人間的な所作はないのだ。

人間行動の本を読むと、その眼差しをすぐ自分に向けてしまう。 私は、口唇に何かを含むのは好きだけれども、喫煙癖はない。だから、初対面で人と向き合うときのそうした常套的緊張緩和手続きを何か別の所作で補わなくてはならない。女性が自己愛撫によく利用するような長い髪の毛もない。弄ぶほど豊かなヒゲもない。耳たぶをつまんだりする癖もなさそうだ。チック症のような瞬きもない。貧乏ゆすりは見苦しいので無理をしてでも抑止する。 してみると袖や鼻先でもいじくっているのかもしれない。分かった。そういえば私は、散歩のときでさえ、手ぶらで外出していない。『ピーナッツ』のライナスがいつもお気に入りの毛布を持ち歩いているように、折りたたんだり伸ばしたりできるような「何か」が手元にほしいのだ。それはメガネ拭きでも布袋でも何でもいい。とにかくこうしたものがないと妙の落ち着きが得られない。あたかも武具を忘れて戦場にあるような不安に駆られる。しかしそうした所持物が手の内にあるだけで、いざというときに身を隠せるような気がするのだ。

いまこうしたことを考えてみただけでも、人間の心許なさを再度痛感する。 「人間とは何か」などと大仰な題を持ち出すよりも先に駅前を行き交う人びとをぼんやりと眺めている方が、ときには面白い。 何かを言うたびに鼻をすする人、手の甲を鼻下にあてがう人、足の組みかた(左足が上か、右足が上か)、不遜にお釣りの受けとる人。玩具の水飲み鳥みたいにペコペコ頭を下げて名刺を渡している人。自分の股間ばかりさわっている人。いつも顎を撫でている人。風邪でもないのに咳払いばかりしている人。スマートフォンを片手で「器用」にいじりながら髪に手櫛をかけている女子高生。俺の縄張りだといわんばかりに足を広げてベンチに腰掛ける男子高生。生きていてすみませんとばかりに隅っこの方で丸くなっている人。

生きにくさ云々以前の、「そこにある」という途方も無い居心地の悪さ。所在無さ。不愉快。虚しさ。周囲世界に何とか溶け込もうと、ヒトは無意識裡にもがいている。そのもがきのバリエーションは、ヒトに至っては見渡せないほど豊かで切ない。

マンウォッチング〔文庫〕 (小学館文庫)