書痴肉林・蟄居汎読記

佐野白羚の古い雑文の一部を(たぶん)定期的にひっそり掲載します

エドモンド・シャルル=ルー『ココ・アヴァン・シャネル』(加藤かおり他・訳 早川書房)

マリリン・モンローが寝る前にシャネルの五番を纏っていたという都市伝説があったけれども、いずれにしても、シャネルと聞くだけで何か垢ぬけたものを感じてしまう。シャネルという響きの中に野暮で無粋な成分を見付けることはできない。シャネルスーツ、シャネルスタイル、この名前はこれまで世界中の都市を一人歩きしてきた。 けれども、私は商品としてのシャネルでなく人間としてのシャネルに関心があって、とりわけ当時としては異様なほどに勝気なその性質に注目している。生ぬるい馴れ合いからは生まれてこない強烈な創造的自己表明を、彼女の中に見ないではいられないのだ。

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ガブリエル・シャネル(一八八三~一九七一)は、コルセットの要らない服をデザインするなどして従来の服飾形態を打ち破りながら、ヨーロッパに一大モード帝国を築いた。 決して裕福な出自でなかった事とも相まって、いまでは立志伝中の人物になっていて、伝記の類だけでも十指に余るほど書かれている。 それなりに信用できるものを読んでみると、私は必ず、彼女の「孤独」に突き当たる。おそらく彼女には、終生「親友」など一人もなかった。あるいは、彼女の「要求」を満たせる人間などいなかったというべきかもしれない。あれだけ華やかな社交界にあって、芸術家仲間や各界の大立者と親交しながらも、彼女は終生孤独感を持て余していた。一体心から人を信用することは誰にも難しいけれど、シャネルの場合では、生来の気質も加わってか、そのことが極めて困難だったのだ。 幸福とは言えない生い立ちの為かあるいはその並外れた自尊心の為か、私にはおよそ分かるはずもないけれど(*)、ともかく彼女はその本質において、全てのものに「ノン」を叫ぶ女であった。それはしばしば、「愛されたいという激しすぎるほどの生命の欲求にかられて言ったノン」だった(ポール・モラン『シャネル』中公文庫)。 彼女はまた、人間に頭を下げるのが嫌いだった。ぺこぺこして、卑屈になり、自分の考えを曲げたり、人の命令に従ったりすることを本性から嫌った。スカーレット・オハラを地で行くような硬骨性が、シャネルの芯にはあった。こうした強気の女が世間の馴れ合いに堪えられるはずがない。

*【よく知られているように、彼女には体質的な虚言癖があって、大変な伝記作家泣かせだった】

成功者の周りには往々キャンプ場の蚊のような小物がたかって、時代のシンボルの威光に与ろうとする。晩年のシャネルが呟くには、金を借りにくる吸血昆虫もあれば、特ダネ記事を書きたがる売文昆虫もあった。それらの虫けらは、成功者が頂点にある間は、競うようにして取り巻く。けれども威光に陰りが見え始めたり、派手に落魄したりすると、人々は引力の法則にでも従うように、その元を離脱する。彼女もかつての勢いを失ったときに、そのことを痛感した。 この種のことは、いつの時代でも同じだ。たとえばゾルゲやマタハリ(どっちもスパイ)の生涯を辿ってみても、人間がいかに薄情で現金な動物であるかが、よく分かる(もちろん私の少ない経験からも)。人間や組織は、保身の為なら、かつての愛人であろうが「献身者」であろうが、平気で切り捨てることが出来る。絶頂を極めた人間ほど人間関係の浮薄さを知り抜いているものだ。政治家や経営者に特有のあの「疲れた眼光」は、そうした人間論的達観と無関係ではないと思う。極端に言うと、生きている人間など誰一人信用ならない。

この本でも書かれているシャネル晩年の一層強い孤独感は、独裁者の孤独感とどこか似通っている。きっと彼女は、周囲に寄ってたかってくる誰もかもが腹に一物ある小物に、ブランド化した彼女の名前から利を得ようと企む追随者に見えた。中にはシャネルその人に親愛感を覚える人もいただろうが、シャネル自身が既に人間を見離していた。彼女はその名声に引き換え、孤独を貫いて生きた。あたかも孤独が自分の成功を裏付けているというふうに。 シャネルのように孤独を肌身に感じながらも世界を躍進する生き方は、誰にでも出来ることではない。彼女のダンディズムがいまの私には随分恰好よく見える。 窮屈な時代に必要なのはシャネル風の「奔放な自尊心」、あるいは、あらゆる死後硬直に「ノン」を言い渡せる苛烈さなのだ。

ココ・アヴァン・シャネル 上―愛とファッションの革命児 (ハヤカワ文庫 NF 350) (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

ココ・アヴァン・シャネル 下―愛とファッションの革命児 (ハヤカワ文庫 NF 351) (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)