書痴肉林・蟄居汎読記

佐野白羚の古い雑文の一部を(たぶん)定期的にひっそり掲載します

エミリー・クレイグ『死体が語る真実』(三川基好・訳 文藝春秋)

文春の海外ノンフィクションは入手しやすい上に労作揃いなので、私のお気に入りリストに登録されるようになって久しい。本書の特異な主題もまた興味に尽きない。

なにしろ「白骨死体のプロ」と称される女性が書いた本だから、冒頭から最後まで穏やかでは済まない。バラバラになって発見された惨殺死体や、蛆のわいた腐肉を分析する上でのコツについて淡々と語るこの著者の肩書は、法人類学博士となっている。 彼女がケンタッキー州にいたころの主な仕事は、「骨や手足の断片や焼け焦げた死体などを分析して、死因と身元を明らかにするための情報を提供し、ときには生前の姿を再現すること」だった。起承転結のはっきりした低俗な刑事ドラマとは違って、実際の現場で発見される「死体」は大抵、見るも無残な状態にある。身元も不明なら死因も不明、事態は人びとが想像するよりもずっと混沌を極めている。身の毛もよだつなどという月並みの表現ではどうにも弱すぎる。彼女の仕事は、そんな凄惨な事件現場に残された残骸や骨を丹念に仕分けたりしながら、事件の内実を類推・報告することだ。

著者はなかなかの変人であるようで、幼少の頃から父の医学書や解剖図に心を引かれ、また、動物の骨を回収して骨格を復元させないではいられない奇妙な趣味を持っていた。それだから、「正体不明の骨の山を検分したり、分析にまわされてきた死体の血まみれの膝を解体したり」することは、苦痛であるどころか「人生最大の楽しみ」であり、人体の骨や腱の形状や機能をつぶさに観察できることは「はかりしれない喜び」であるそうだ。 多かれ少なかれ、人体への解剖欲は、誰のなかにも潜在している。人体の内部は人間にとって最も近くて最も遠い。大半の人は今も脈打っている自分の心臓を直接見たことはないし、蠕動運動している自分の消化器官を肉眼で覗いたこともない。体の内部を見てみたいという気持ちが起るのは、むしろ、知ることを欲する動物であれば、当然の成り行きだ。 彼女はなかでも極端な例だ。その並外れた知識欲は、一般の生理的不快感を軽く凌駕している(*)。

*【駆け出しのころに彼女は、ある手術に立ち会って、人肉の焦げる臭いに驚いた。その臭いを何とか人に説明すべく拵えた表現が面白い。「腐った魚と豚の脂身と古い靴をフライパンで炒めておいて、そこに焼きたての焦げたトーストを放りこんだにおい」。理科の実験でよく出て来た「腐った卵の臭い」というくらいまでは何とか分かるけれども、これでは皆目伝わらない。けれどもそれが表現不可能の異臭であることだけは、よく分かる。現代の人びとはそうした「死の臭い」を日常空間から遠ざけてしまったのだろう。ことによると生きている心地の乏しい世界は、生々しい「死」が視界から遠ざけられている世界なのかもしれない】

読中、所々痛感したのは、「死」と「死体」が互いに似て非なるものであるということだ。「死」という語はどうかすると観念的に傾くけれども、「死体」は厳然たる生の事実だ。それは有無をいわせぬ「物質」だ。それは、ただあるというだけで、あらゆる観念遊戯に終止符を打つ力を持っている。「死」についての抽象的な思索は哲学者や宗教家の領分だが、「検死」や「解剖」はどこまでも即物的な営みで、想像や感傷を挟み込む余地を与えない。自分の「死」を信じていない人間も、他人の死体を目の当たりしながら、その確信を保つことは出来ない。

死後の経過時間を推測するのにウジムシが利用される次第や、骨を通してみた白人と黒人の相違などは、この本を読んではじめて知った。残骸の頭蓋骨から顔を復元する試み(復顔)についてもかなり詳しく書かれている。当然ながら、実際に見られる骨や内臓は、医学書のカラーページで見る程わかりやすいものではない。死体はひとつひとつ固有の特性を持っている。教科書の図解がそのまま通用するほど単純ではない。医学イラストレーター(著者の前職)が必要とされるのは概ねそのためだ。医学イラストレーションには人体の構造がより細かく描かれている。外科医はそれに参照しながら人体にメスをいれるのだ。

余談だけれど、「死体」と聞くと私は、何故だか「禁じられた遊び」の埋葬シーンを思いだす(*)。あの哀切な調子のギター演奏が頭に響いて止めることができない。

*【これは一九五一年発表された。ルネ・クレマンが監督し、主演の女の子がブリジット・フォッセー、男の子がジョルジュ・プージュリー。予算の関係で音楽はナルシソ・イエペスのギター演奏だけ(それも単一のテーマ)。 全体を通して華やかなギミックもなければ、特段優れた俳優が出演しているわけでもないこの作品を、私は殊のほか気に入っているので、語りだすと多分一冊の本になるだろう。この作品の魅力は、ひたすら押しつけがましくない点にある。 というのも、戦時下にある子どもたちが動物死体の埋葬ごっこに熱中するという筋で映画をつくるなら、大抵はそこにブラックユーモアの香気を与える誘惑に駆られるものだが、幸いにもこの作品はそうした方向には流れていない。これは、よく人々が評するような「反戦映画」などではなく、頑是ない子どもたちを中心に据えた一つの「理不尽映画」ではないかと思う。すくなくとも当時の私はそう観た。 戦争というものは、数万単位の規模で死者を統計に組み込んでいく歴史現象だ。ひとりの死は悲劇だが百万人の死は統計に過ぎないと言ったのは確かスターリンだが、「禁じられた遊び」の埋葬遊戯はそんな「死」のインフレ時代への純真無意識の反応となっていて、そこに政治的なプロテストが食い込んでいない分、いよいよ「やり切れない」理不尽を浮き彫りにするのである。男の子が動物墓地に飾る十字架を近くの墓から失敬するくだりなどは、常識に凝り固まった観衆を随分当惑させる。 一人では生きられない人間の不安定さ、日常の中の離別、惨劇、存在しているというだけで免れることができない理屈以前の不幸、痛みの気配が、この映画の基調を成している。如何にも救いがなく、どうにもやり切れないのだ。 再び孤児に戻った女の子が群衆のなかを叫びながら駆けていく最終シーンを見たとき、私は、胃の底に希釈した塩酸を流し込まれたような感覚を味った(こればかりはコーヒーの飲み過ぎの為ではない)。この言うに言えない切なさを出来合いの「反戦観」にしか回収できない評論家は、何か決定的なものを掴み損ねているような気がする】

次いで思いだすのは、仏教絵画のいわゆる「九相図」(九想図)だ。野外に打ち捨てられた人間の死体が腐敗の末に白骨化してゆく過程を九段階に分けて描いたもので、その念の入ったリアリズムは、現代人の眼にも優しいとは言えない。多くのものは鎌倉時代から江戸時代にかけて描かれたものというから、荒れ狂った世相を相当に反映しているのかもしれない。 死者を(いずれは復活する)朽ちざるものとして見る伝統的なキリスト教とは違って、通常、仏教は死体には何の興味も希望も持たない。所詮現世の肉体など仮の肉衣に過ぎないのだ。私の思うところでは、そうした冷めた死体観は、現代の解剖学的死体観とは、本質的には何も変わらない。江戸時代後期に人体を解剖した蘭学者の精神にも、そうした側面があったのではないかと思う。

今一度「死体」を通して自分の奇妙な生を確認するのも、悪くはない筈だ。私は自分の死体を想像するのが好きだから、この手の本は当面手放したくない。

死体が語る真実 (文春文庫)