書痴肉林・蟄居汎読記

佐野白羚の古い雑文の一部を(たぶん)定期的にひっそり掲載します

藤原新也『僕のいた場所』(文藝春秋)

もともと私は他人の写真というものを好きではなくて、素人の旅行写真など重度の不眠症患者にアクビを促すためにのみ存在しているものと思っていたくらいだから、当然、旅に際してカメラを持つことも殆どない。どこに行っても写真を撮るに値する光景などなかったというのもあるけれど、それよりも、カメラが一般に普及して何十年も経った現在、カメラを首からぶら下げて「観光地」(思い出商品)に犇めいている人間たちが虚ろな動物に見えてきて、いきおいカメラそのものが俗悪なものに思えてきたのだ。カメラにはなんの責任もない。 ところでカメラをもったサルたちは、近頃では、飲食店でこれから食う料理を写真に収めている。自分の口に入れるよりも先にレンズに食わせるのだ。このサルたちは、どうせ料金を払うのだから、ついでにイメージとしても取り込んでおきたいのである。しかし、この興味深い現象については、ここで掘り下げる余裕がない。

             

日本にカメラが舶来して間もないころの写真を通して見ていると、総じて面白い観察が得られる。下級武士であれ丁稚であれ花魁であれ、ほとんど笑顔をつくっていない。おそろしく表情に乏しいのである。これは通夜で撮った写真だと言われても疑うことができないくらいだ。私などは、太宰治が『人間失格』の冒頭で少年期の大庭葉蔵に当てた形容を思いだした。

畏友に聞いてみると、当時はカメラの原理上露出時間が長かったので(*)、笑顔を何十秒も維持することは顔面の筋肉に負担がかかることから、笑顔写真が極端にすくないのだろうと言った。 尋ねておきながら、私は直感的に、これは違うと思ったので、自分で考えることにした。 理由はもっと単純で、きっと、そもそも当時は、カメラに向かってスマイルをつくる合意事項などなかったのだ。有象無象がファインダーをのぞきこむ現代とは違って、当時の写真はずっと高価で、それを撮る行為は厳粛なことだった。 たとえば、武士の写真のなかには、やけに不機嫌に見えるのがあるが、それはおそらく単純に、このほうが威厳を感じさせるからだろう。「男は三年に片頬」というほど極端ではなかったにしても、上に立つ武士があまりヘラヘラしていては周囲に示しがつかない、という自己規律が当時強く残っていたのは、多分本当だろう。当時の侍がまだ支配階級に属する身分だったことを思えば、そう考えるのは如何にも道理にかなっている。明治維新後の元老や天皇の写真でも、愉快そうなのは殆どない。権威と笑顔は、およそ水と油なのだ。すくなくとも日本では。

*【ダゲレオタイプは約二分、湿式タイプは約二〇秒と、ものの本にある。すくなくともその間はじっとしていなければならないのだ。そうなると、「待っている間のイライラ論」も俄かには斥けがたい。十秒以上スマイルを維持すると、たしかそれは不自然なものになる。疑うなら鏡に向かってやってみればいい。入念の表情訓練を受けている俳優でもないかぎり、自然なスマイルを一定時間維持するのは、なかなか困難だ。首相時代の菅直人の職業的スマイルのように過労の色が段々滲んできて、どうみてもイビツに見えてくるのだ】

勿論それだけではない。科学的マインドが庶民レベルにまで根付いていない当時、まだカメラは異様な機械に見えたはずだ(どうしてこれほど写真の発明が遅かったのか、という問いを立てる科学史家がいるほど、カメラの仕組みは素朴なものであったのだけれど)。 いつだったか、樋口一葉が同級生たちと写っている写真をみて、どうにも不思議に思ったのは、彼女らがみんな手の甲を着物の裾に隠していたからだ。すこし調べてみると、写真をとると手が大きくなるとかいう俗信が当時流布されていたそうだ。彼女らがそれを本当に信じていたのかはともかく(*)、撮影に際しての作法がある程度定式化していたのは事実だろう。

*【かつての「迷信」について考えるとき、注意しなければならないのは、当時の人びとが必ずしも本当にその風説を信じているとは限らない点だ。たとえば一九六六年の出生率が低い理由は、勿論人びとの「丙午」(この年に生まれた女性は夫を殺す)への忌避感情にあるわけだが、かりに出産を見送った当人たちが信じていなくとも、将来の娘の縁談の場でなんらかの不都合に被るかもしれないと見越すのなら、結局「時代」はそうした「迷信」を間接的に受容したことになる。つまり「自分は迷信だと確信しているが、他人はそう思っていないかもしれない」という対他的スタンスが、皮肉なことに、「迷信」の根拠を作り上げているのである】

もとよりカメラに向かって笑顔をつくる作法が定着したのは、いつごろからなのだろう。カメラをいじりだしたサルが互いの平凡なツラを撮り合うようになってからだろうか。 履歴書や運転免許証の写真で笑顔を撮った例は、あまり聞かない。逆に選挙ポスターやフェイスブックでは無表情の方がはるかに少ない。公私の別と言えば、それまでだけれども、このことは、もっと調べてみると面白いだろう。

カメラ大衆時代は、めいめいの表情管理の作法にどういう影響を与えたのだろう。「カメラを通して見た自分の姿」と「自分が自分について思い描いている姿」の差異を、カメラ大衆時代にある我々はとことん知っている。

おうおうにしてプロ意識の高い写真家は、俗な笑顔を撮りたがらない。そんなものは往来で何百ダースも得られるからだ。 たしか土門拳だったか、各界の大立者の貌を撮る一連の作品のなかで、谷崎潤一郎の自宅に伺って写真をお願いした際、文豪が終始上機嫌だったのでいまいち自分の欲しいような風格が現れず、撮影の段でわざとモタモタして彼に不機嫌な顔をつくらせた、と大体こんなふうなことを書いていて、当時それがなかなか面白い事と思った。

藤原新也も「写真家」ということになっているけれども、私はこの本で、彼がとてもいい文章を書く人だと、素朴に感心した。時代批判のキツイ文章作者を発見したのである。 濃度が高く、えがらい文章を書ける人を、私は好きだ。ことに「平成幸福音頭」と「社畜電車」の文章は痛快で、二三度読んでもまだ愉快だ。 この表紙の写真は、きっと俳優の笠智衆だろうか。かなり晩年の、それも後姿なので、はっきり分からない。小津安二郎映画のお父さん役でしか彼の事を知らないけれども、私はあの朴訥な感じの演じ方が好きだった。あんなふうな燻し銀の俳優はなかなか今では受容されないだろうな。ピコ太郎か何かしらないけれど、パイナッポオペンとかいっていればいいのだ。

一体写真だけパチパチとる人間に碌なのがいない(巷をみてもそれは明らかだ)。優れた文章も書けて一流なのである。

しつこいようだけれど、藤原新也がこんなにいい文章を書く人とは思っていなかった。退屈な外国写真を撮りまくっている放浪者気取りとしてしか見ていなかった。イメージの固定というのは、やはり、こわい。彼の他の本も、探しだそう。よっぽど気に入った。

僕のいた場所 (文春文庫)