佐野白羚の文筆武者修行

佐野白羚による随想ならびに読後録(「蟄居汎読記」「書脈録」)を不定期掲載

エーファ・マリア・クレ―マー『世界の犬種図鑑』(古谷沙梨・訳 誠文堂新光社)

先週酒の席で盛り上がった話題のひとつに「犬」があった。たとえばそれは、犬にまつわる「美談」が枚挙しえないほど報告されているのに対して、猫のそれについては極めて微々たるものだというもので、穏やかだった酒の場はすぐさま談論風発に及んだ。 たしかに、樺太犬のタロー・ジローや忠犬ハチ公みたいな大衆好みの物語には鼻持ちならない美化と創作が混入しすぎていて、私などは、そうしたものはただ失笑するためにのみあるような気さえするのだが、いずれにしても伝統的に人々がそうした「犬美談」に馴染んできたということだけは疑えない。世界中にはこの手の逸話や伝説がありふれていて、犬が家畜化されている圏域でこういうのはいくらでも見つかるはずだ。ゆうに一書を成すにあまりあるほどだろう

ところで、ある男が、ダンディの「反民主主義」的姿勢を示す特徴のひとつに「猫好き」があると、大体こんな趣旨のことを言っていた。猫はわがままで労働を嫌い個人主義者で美を好み隷属を嫌がり貴族的でどこか神秘的でもあるというのが、当時の世紀末パリの一般的な見方だったようだ。 実家にもむかし平凡な犬が暮らしていたけれども、もう死んで十年近く経っていて、いまは老いた猫が一匹いるだけだ。家には盆と暮れにしか帰らないが、なるほど犬と猫は大分違う。あつくるしいほど舌を出して尻尾を振って駆け寄ってくるあの犬特有の愛嬌が、猫にはない。概して猫は自分が構ってほしいときにしか近づいてこないのだ。その点では「貴族的」なのかもしれない。 いろいろ調べてみると、いまのイエネコはリビアネコというのを飼いならしたものとされている。古代エジプトには既にネコの家畜化があったというけれど、多く使役犬とは違って直接人間にこき使われる存在ではなかったみたいだ。これは勝手な想像だけれども、ネコは鼠をとったりするから、大人しいのを何匹か放し飼いにしていた程度のことだったのだろう。それがやがて愛玩種となり、シャムネコとかペルシャネコと呼ばれるようになった。

こうしてみると猫の一般化的な「特性」は、犬のそれとは鮮やかな対照をなしている。ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』(草思社)の第九章「なぜシマウマは家畜にならなかったのか」のなかでは、ユーラシア大陸と北米で飼育化されたオオカミが犬の祖先であるとして、飼育種化によって「家畜犬」が本来のオオカミからどのようにかけ離れていったのかを確認している。グレートデンのように元のオオカミよりも体が大きくなった犬種もあれば、ペキニーズといった「愛玩種」にみられるような、はるかに小型化(弱小化)した種もある。短足化したダックスフントも家畜化の結果(ドッグレースではおそろしく不利だ)だし、大胆にも無毛化した犬もいる。人間が白テリアとブルテリアを交配作出したブル・テリア(イギリス)に及んでは、容貌が醜悪過ぎて、もはやそのなかにオオカミの面影は見ることが出来ない。

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家畜犬と言っても、その活動分野によっていろいろの呼び名がある。 猟犬では、セッターやコッカ-スパニエル(主に鳥猟)、テリアやビーグル(獣猟)がいる。コリーやシェパードのような牧羊犬・護羊犬もいれば、今回の地震でも出動したはずの災害救助犬(バーニーズマウンテンドッグなど)もいる。暖かい室内で人間嫌いの主人の溺愛を受けるためだけに生育される役立たずの「愛玩犬」(コンパニオン・ドッグ)もいれば、麻薬探知犬と呼ばれる選り抜きの職業犬もいる。

人間(すくなくとも日本人)にとって、犬は異質な者ではない、生活圏を何百年も共にしている伴侶といってもいい。そのことはイヌという字を含んだ言葉の数からもわかる。植物名などの接頭辞によくある「イヌ」は、似て非なるものであることを示すものだし(イヌ蓼、イヌ山椒)、犬侍とか犬死に、犬の川端歩き、警察の犬(まわし者)、犬の糞なんていう罵倒表現はいくらでもある。こういうのは、犬の人間に対する寄与を思えばなかなか不当のものと言えそうだけれども、見方を変えれば、それだけ身近な存在であるということでもある。そういえば江戸時代には白犬は次回人間に生まれ変わるという俗信があったようだ。

犬の図鑑をこうやって眺めてみると、人間がますます嫌な動物に見えてくる。でも犬にはなりたくないよ。

世界の犬種図鑑