書痴肉林・蟄居汎読記

佐野白羚の古い雑文の一部を(たぶん)定期的にひっそり掲載します

ラヴァット・ディクソン『グレイ・アウル』(中沢新一/馬場郁・訳 角川書店)

イギリスのヴィクトリア朝時代(一八三七~一九〇一)は通常、議会政治や商工業の目覚ましい発達と広大な植民地支配(主にインド)によって、「大英帝国」最盛期をなすものとされている。栄華の極め振りが凄まじかっただけにその衰亡の程もまた顕著に演出されることとなった。最近偶然手にしたアーロン・L・フリードマンの『繁栄の限界 1895年~1905年の大英帝国』(新森書房)には、ヴィクトリア朝時代からエドワード朝時代にかけての大国衰亡の過程(主に産業力と海軍力)がなかなかよく書かれているので、ついでながら、物好きで暇のある人には一読を奨めたい。「月満つれば則ち欠く」とか「驕る平家は久しからず」などという古典調のセンチメントではどうにも回収できない生々しい失墜劇が愉しめる。一体人間というものは衰退していく人物や文明のなかにある種の美的快感を見出すらしく、ローマ帝国の衰亡も貴族の零落もそうした感慨を措いては眺められないようになっている。

永遠に続くものはない、というふうな紋切り型のセリフ(それにしても旧約聖書の「コヘレトの言葉」は誰が書いたのだろう)を誰もが口真似するけれども、このことを肌身で感じ取るのは案外難しい。年齢を重ねるだけ賢くなるようでないようだ。こうしたことは、直に感じるには生々し過ぎることなのかもしれない。新しい四〇型のプラズマテレビを買おうという人は、それがいずれ廃品回収業者の手に渡ることを普通は念頭に置かない。あたかも自分も電化製品も永遠に生き続けるかのように想定しなければ楽しくもなんともない。赤ん坊がやがて死ぬために生まれてくるわけではないのと同様、商品もただ捨てられるために生産されるわけではない。いずれは、という思考は概して人間の消費心理に水をさすだけだ(勿論、いずれは吸収され排泄されるビフテキが虚しいというわけではない。いずれはポンコツになって鉄くずに戻るハーレーダビッドソンが空しいということでもない)。

そういえば、さだまさしに「天然色の化石」という歌があって、私はむかしこれが随分好きだった。詞の筋は概ねこういうものだ。 デパートの恐竜の化石店にいる「ぼく」は、どうして化石はいつも同じ様に灰色だったりするのだろうと陰鬱な感傷に浸っている。もっといろいろな色があったはずだと。赤や黄色があったっていいじゃないかと。思えば自分もやがて化石になる。そうなったとき、かつての地上にいた「人間」のことを未来の動物はどう知ってくれるだろうかと。肌の色が違うというだけで傷つけられた人間のことを知るだろうか、恋人同士の僕らがこれほど愛し合っていたことも。 どこかこんなふうな流れだったように思う。いかにもこのテーマにそぐなっている。ともあれ、滅びたあとの自分を姿を想定することは困難だ。

一面、いずれは無に帰するからこそ、眼前の世界が愛おしくなることもある。 恋人の横顔にかじりつきたくなるのは大抵そういうときだ。歌人がどこかで、ある瞬間の情緒的沸騰を写し取ったものが短歌だと言っていたのを思いだした。

なつかしき 冬の朝かな 湯をのめば 湯気やわらかに 顔にかかれり(『悲しき玩具』)

寒い室内で湯気が頬をなでるこのどうにも言われぬ心地。何が懐かしいのか知らないのに懐かしい。こういう情緒は冬の朝にしか起こらない。こんな妙に恍惚的な懐かしさは、無に帰した後の世界に身を置いているから得られるのかもしれない。だから懐かしいのだ。 恥じらいもなく「花が好き、自然が好き」(こういうときの自然は何を指しているのかも分からない)と言って回る人間を私は信用しないけれども、癌による余命宣告を受けた患者の眼に映ずる日常風景が余人のものとは大分異なりうるだろうことは疑わない。決して甘ったるいことではなく、自分がもう長くは生きていはいないという緊張感が彼彼女の眼差しに刹那愛を与えるのだ。 ある作品のなかで伊藤整は、自然などが本当に美しく見えるのは老人だけだ、と凡そこんな風なセリフを人物に言わせていたけれども、それはよく言えている。差こそあれ、老人は潜在的に自分の死を予感している。死は一切を奪う(信仰にもよるけれど)。これが風景の見納めだ、という気分になるのかもしれない。若いころはウンザリしていた人物や風物も妙に懐かしく見えるのだろう。かつて癇癪持ちだった人間が年を重ねるごとに角がとれて丸くなってくる理由は大体そのあたりにある(その逆も多くあるけれど)。老人があまり眠らないのも、それがあまりに自分の死の予感と重なりすぎるからと言えそうだ。 老人のことはこのあたりにして、ヴィクトリア朝時代に戻りたい。

性道徳や生活規律が比較的厳格であったと報告されているヴィクトリア朝時代は、時としてぶっ飛んだ奇人を輩出することでもよく知られている。 不気味なほど無意味な詩を書きながら子供の写真を撮ったりして一生を独身で過ごしたルイス・キャロルや、第一次大戦でアラブ反乱軍を率いオスマン帝国軍へのゲリラ戦を挑んだ考古学者T・M・ロレンス(後にアラビアのローレンスと呼ばれ『知恵の七柱』の著者)はそうした奇人たちの一標本に過ぎない。

本書の主役であるアーチー・べレイニーも、そうした数あるヴィクトリア朝奇人に列なる人物で、全く引けをとるものでない。 中産階級出の生粋のイギリス人である彼が、インディアン(*)に憧れるあまり、ついには「グレイ・アウル」と自ら称して、インディアンに成りきってしまったという。それだけでも尋常一様の奇人でないことがわかる。ロマンではなくて事実の話なのだからいよいよ興味に尽きない。稀有な生涯、と淡白に言い収めてしまうにはあまりに稀有に過ぎるだろう。

*【「インディアン」という呼称はコロンブス一隊の誤解に根差していて、また一部では軽侮的な含みを持つとされているので、今日では一般にネイティブ・アメリカンと呼ぶようになっている】

彼の場合、それは単なるコスプレ趣味でもなければ、文化人類学者のフィールドワークでもない。事実上、彼は祖国に見切りをつけた。体質的に彼はアウトサイダーだった。規律や理不尽な上下関係を受け付けない気質を持っていた。 幼少時から面倒をみてくれた叔母エイダ(母親はまるで駄目な母親だった)の事細い指示も、彼の気質をますます研ぎ澄ますことにしか役立たなかった。 「アーチ-はエイダの期待に添うような良い子にはなれなかった。心につぎつぎと浮かぶ空想を音楽に託したり、人生の夢を強く抱くことで、年頃の少年の葛藤を難なくやりづごした。頭のなかにはインディアンのことしかなかった。いやすでに心はインディアンになりきっていた」(第三章) 既にインディアンになると決めた彼は、体を鍛えたり、寒くて堅い床で寝ることを自分に強いたりもした。 やがて彼は海を渡ってインディアンの森に入る。そして「インディアン」になった。並みの成りきりではない。罠猟やモカシン(北アメリカのインディアンが柔らかい鹿皮で作った履物)づくりまで、現地の人々に優るとも劣らないほどの順応ぶりだった。

あんまり書きすぎて、その詳しい顛末を知る喜びを奪う罪つくりなことはしない。

こうした自らのアイデンティティをかなぐり捨てられるような人間に変な憧れを抱くのは私だけではないはずだ。奇人を生み出す「風土」、というより時代だったのかもしれない。日本にかつて南方熊楠宮崎滔天のような「破天荒」な人物はいた。けれども相互同質化の傾向の強い戦後の「市民社会」では、そうした変な人物は単なる「怪しい隣人」でしかない。子どもを学校に通わせるのを拒否したり税金の支払いを拒否する人物は笑い事では済まされない。 彼らが窮屈を感じるのは当然といえる。 国を出てもまた国。霞を食って生きられない似非仙人たち。 けれども、アーチ-のようなアウトサイダーが躍動できる地はもう殆ど残されていないのかもしれない、などという感傷は禁じておきたい。 世紀末のダンディが自分の産業史的役割をこれ見よがしに否定することで自我を昇華させたように、彼は、陰りが見え始めていたとはいえまだ帝国気分の残っていたイギリスを飛び出して時代に逆らった。 もっと逆らうのもいい。逆らうに値するものがあれば。 本当は誰もが爆発したい。ちっぽけな不発弾ばかりがごろごろ転がっているなどと笑われるな。

狂気なしに生きる者は、自分が思うほど賢者ではない(『ラ・ロシュフコー箴言集』二宮フサ・訳)

グレイ・アウル―野生を生きた男 (角川文庫)

グレイ・アウル―野生を生きた男 (角川文庫)