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佐野白羚の文筆武者修行(「蟄居汎読記」「書脈録」)

九三八堂の佐野白羚による随想ならびに読後録を定期掲載

ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一・訳 集英社)

「存在の耐えられない軽さ」。巷には、こんなタイトルをもじったもの、がおびただしくある。 本人は得意になっているのだろうけれど、実にまずい。凡庸極まるね。

いきなりニーチェの「永劫回帰」(*)だ。 文豪のなかには、こうした「哲学風エッセイ」を物語のところどころに挟みたがる人たちがいる。 トルストイの『戦争と平和』が一部に不人気なのは、たぶん(周期的に開陳される)彼の抽象的な歴史観が素朴な読者(ロマンチックな)を辟易させてしまうからかもしれない。性格はずいぶん違うけれども、(私の好きな)ロベルト・ムジールの『特性のない男』などはそうした例の極北かもしれない。地の文も会話文もやけに理屈っぽく難解で、作者の思想や理念が作中人物よりも先に前面に出て、しかも饒舌ときている。

*【彼の根本思想のひとつで、あらゆる存在は意味も最終的な目標も無く、永劫に繰り返されるのだが、この円環運動をあえて生きようとする者は生の絶対的肯定に向かう。この宇宙が永遠に繰りかえす、という世界観は、古代ギリシアピュタゴラス学派やヘラクレイトスにも見られるが、ニーチェはその回帰思想に道徳性を付与したとされる。 私は「実在的」な「原子」を基本単位(使いたくない言葉だけれど「唯物論」)とする世界観は自ずとこうした考え方に向かうものだと考えている。というのも、こうした前提のもとでは、世界の現象は原子の特定の結合と無関係では考えられないからだ。「いま清水克之がパソコンに向かってミラン・クンデラにまつわる雑文をしたためている」という現在認識が現象化するには、「数え切れないが有限の原子」が「ある特定の結びつき」をしなければならない。その「原子」群がそうした結びつきをするのは稀な出来事ではあるけれど、「時間」(ここでは素朴な意味で)は無制限であるから、結局は無限回その現象は起こりうる。論理的には明快で、中学生でも同様のことはよく考えている(「生物」がなぜ存在しているのか、という問いに対する各科学者の説明も総じてこうした原子観に基づいている。有機的な原始スープ説であれ、鉱物説であれ。というのもここでは、どれほど複雑に自己複製し続ける分子のパターンも原子結合の所産と見なされているからだ)。 ニーチェ永劫回帰は、直観的にそうした点を捉えたものだろうと思う。 「一切の諸事物のうちで、走りうるものは、すでにいつか、この小路を走ったに違いないのではないか? 一切の諸事物のうちで、起こりうるものは、すでにいつか、起こったり、作用し、走り過ぎたにちがいないのではないか?」(吉沢伝三郎・訳『ツァラトゥストラ』「幻影と謎について」) そしてあらゆる回帰に絶望しながらも「英雄」はそれを受け入れる、と。蛇を噛み切るように】

クンデラも観念的な字句を割合好むほうらしいが、限度をわきまえている。読者がどのあたりでウンザリするかをよく知っているのだ。

ところで、ミラン・クンデラチェコ事件と切り離して考えることは難しい。 ことにここで取り上げた作品の舞台背景は世のいうところの「プラハの春」騒動となっているので、なおさらこのことは強く感じられる。

チェコ事件」は、一九六八年、「人間の顔をした社会主義」を提唱していたドプチェク第一書記の下で自由化政策(*)が推し進められていたチェコスロヴァキアに対して、ソビエト連邦・東欧軍が軍事介入したというものだ。ドプチェクは、当時首相だったチェルニークら改革派とともに逮捕され、KGBの監獄に連行された(その後、なんとか釈放はされる)。 武力行使を以て民主化を抑圧したソ連当局は、その事件の後、世界的な批判に晒されることとなった。この政治介入は、「共産党一党独裁体制を守るためなら暴力をも辞さない」というソ連側の強い意志表明でもあったが、結果的に独裁体制の「もろさ」を露呈することとなった。 非共産圏にあるソ連支持者も、これには裏切りを感じないわけにはいかず、国際世論におけるソ連離れの大きなキッカケになった。

*【具体的には検閲廃止や政党復活、市場経済方式の導入などの改革。こうした民主化の動きはチェコだけで起こったものではない】

ソ連の当時のボスはアメリカンジョーク(*)でも度々登場するブレジネフで、この今ではすっかり悪役をあてがわれている政治家は、スターリン批判で有名なフルシチョフ失脚後に就任した。 共産国総本山のソ連当局としてはチェコのマイウェイ政策を座視しているわけにはいかなかった。連邦構成国の離反を一つでも許せば、統率がきかなくなると判断したからだ。あのブレジネフ・ドクトリン(制限主権論)は、この軍事介入の後に出された苦しい弁明に過ぎない。

それにしても、ソ連にとって軍事介入は碌な結果をもたらさない。チェコ事件の約十年後、ソ連アフガニスタンを侵攻によって自滅を速めた。 防衛ならいざしらず、この類の軍事介入が功を奏することなどあるのかと、素人目にも問いたくなる。

*【こういうジョークをきいたことがある。 ブレジネフ第一書記がソ連から誘拐され、その誘拐犯から脅迫の電話があった。「いますぐ百万ドルを払え。払わなければブレジネフをおたくの国に返すぞ」】

ミラン・クンデラは、一九二九年、チェコスロヴァキアモラヴィアの中心都市ブルノで生まれた。 ワルシャワ条約機構軍の占領で終わりブレジネフの傀儡フサーク大統領の「正常化」政策が続けられる時代に、この作家は様々な圧迫を受け、結局は出国を余儀なくされる。 彼は七九年にチェコスロヴァキアの国籍を剥奪され、八一年にフランスの市民権を得ている。メレジコフスキーやソルジェニーチィン同様、体制側から追放された作家の一人だ。ロシアを中心とした共産諸国のように政治的地殻変動が極めて烈しいところでは、そうした亡命知識人に事欠かくことはない。

ちょっと話は変るけれど、巷には「亡命文学」と称されているジャンルがある。 政治的・民族的(「人種」的)あるいは宗教的な理由で祖国を追われた人々によって書かれた文学作品のことで、もうこうした人々の特集だけで何ダースものアンソロジーや叢書が組めるほど濃い分野と言える。 古くはフランス革命からナポレオン時代にかけてのシャトーブリアン、スタール夫人、ナポレオン三世治下でのヴィクトル・ユゴー(この人は筋金入りの共和主義者だからナポレオン三世を徹底的に批判した)、ロシアのツァーリ時代のゲルチェン(ナロードニキ思想の先駆)、ナチスドイツ時代の豊かなユダヤ人文学(私の大好きなヘルマン・ブロッホとか)、日本人にも人気のあるトーマス・マンなんかもそうだ。

こうした政治的な翻弄を経験した作家には、不思議な筋の強さがあるように思う。「体制」というものを「政府」としてしか捉えられない庶民派作家にはない、ある種の悲壮な反骨性がある(私の考えでは、本当に問題を孕んでいるのは、めいめいの「当事者・意識」に他ならない。「体制」というものは全てこの所与の立場に基礎づけられている)。 戦前の日本でのプロレタリア文学にも、ごつごつして不器用だけれど異様な迫力が一部にはある。 伝統的に多くの世代の一部の若者がクロポトキンバクーニンの著作に惹かれるのは、どうしてなのか。ゲバラのTシャツを着たり、マルクスエンゲルスを読んでいるふりをしたりするのはどうしてなのか。幸徳秋水大杉栄があんなに「かっこよく」見えるのはどうしてなのか。 人は潜在的に眼の前のシステムや慣習をぶっ壊したいと欲望しているからではないか。 抑圧的なものや、対立、欠乏、暴力への反動。すぐに触れる「俗悪」なるものへの反発。太文字の「否」を表明すること。

とりあえず私はそういうもの全部ひっくるめて「大いなる不満」と呼んでいる。

「人類愛」だとか「貧困撲滅」というような抽象的な題目を唱えることからは生まれてこない「否!」を、紙と筆だけで表出するのは並大抵のことではない。 何が「体制」か。「体制」という言葉は、今日では何の含みも持たない。「体制」は巨大で「悪い」ものなのか。政治的支配と思考様式の支配を区別することはできるのか。既にあるものは当たり前の何かとなっている。 存在への同化。愚鈍化。馴致化。耐え難いほどの間抜け化。 私が敬愛してやまない埴谷雄高ならこういいそうだ。

「体制」とは既に存在している全てのものだ。

空間も体制なら、管理された感性も体制だ。日常ももちろん体制だ。自然も同様。 ことに日常は俗悪なものだ(これが非難ではないのは、俗悪と日常は切り離せないことによる。最早やそれを感じている主体を探すことが困難であることもそうだ)。

俗悪なものの根源は存在との絶対的同意である。 では何が存在の基礎であるのか? 神? 人間? 戦い? 愛? 男? 女? (『存在の耐えられない軽さ』千野栄一・訳)

俗悪(キッチュ)なものは続けざまに二つの感涙を呼びおこす。第一の涙はいう。芝生を駆けていく子供は何と美しいんだ。 第二の涙はいう。芝生を駆けていく子供に全人類と間隙を共有できるのは何と素晴らしんだろう。 この第二の涙こそ、俗悪(キッチュ)を俗悪(キッチュ)たらしめるのである。 世界のすべての人々の兄弟愛はただ俗悪(キッチュ)なものの上にのみ形成できるのである。 (同書)

我々は(私は、ではない)、作中の主人公トマーシュの愛人サビナのように、「私の敵は共産主義ではなくて、俗悪(キッチュ)なものなの」と叫ぶことはできない。自分のなかにもそのキッチュなものが既に入り込んでいるからではなく、何がキッチュなものであるのかが分からないからだ。 雑誌でも敬礼でも出産祝いでも元大物プロ野球選手のスキャンダルを追跡する人々でも国歌斉唱でも銀行でも自動車でも結婚式でも何でもいい。 校門や歩道橋にはこんな横断幕がある。「みんなで助け合おう」「大きな声であいさつを」「うつくしい街づくり」繁殖する美辞麗句。「~を忘れない」「誰もが助け合える社会を」「命の尊さ」「めぐまれない子供たちに募金を」「所詮この世は男と女」(!) 「私はこの方法で三百万円を稼ぎました」「人生の意味」「額に汗して働こう」(吐き気を抑えなくてもいい) はじめから飼いならされているはずの感情はどこにも逃げ場がない。

何が俗悪で、何が俗悪でないか。 そもそも「俗悪であることが悪いことなのか」 「俗悪への型通りの反発こそ俗悪ではないのか」

すきまなく善意だけでなりたつことを建前とする集団や組織、運動にときとして戦慄をおぼえるのはなぜだろうか。それらは黙契生成の温床ではないか。すきまのない善意はおそらく死刑の存続を願わぬふりをして、そのじつ、こよなく願っているのではないか。 (辺見庸『たんば色の覚書』)

とどのつまり、クンデラによるこの作品から私は、キッチュなるものについて考える動機を得たばかりだ。 なんの解説にもなっていないだろうけれど、なにかしら所感らしいものにはなっていると思う。 解説というものの胡散臭さを知るのにプロ野球の実況中継を見るには及ばない。私どもは経験からそれを知っている。 クンデラを読むのにクンデラ以外の人物はいらない。 ちなみに訳者の千野栄一氏は、岩波新書の知る人ぞ知る名著『外国語上達法』の著者でもある。

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)