佐野白羚の文筆武者修行

佐野白羚による随想ならびに読後録(「蟄居汎読記」「書脈録」)を不定期掲載

ブラックウッド他『怪奇小説傑作集Ⅰ』(平井呈一・訳 創元推理文庫)

怪奇小説のアンソロジーで、殆ど知られていないものから半ば名作化したものまでいい按配に寄せ集められている。全部で五巻構成らしいけれど、私はこのⅠとⅡしか読んでいない。平井呈一の訳文が些か古風でしかも凝ってもいるので、この手の作品集にあまり食指が動かされなかった私もつられるように読みいってしまった。傑作集といいながらも中々渋い作品も取り上げているので、結構に気に入った。

「夜が明けた。文目もわかなかったものが、しだいに鳩羽色になり、やがて赫奕たる光の壮観が空いっぱいにひろがりだしてきた」(E・F・ベンスン「いも虫」)

こんな具合の文章に私は小さな興奮を覚える。「鳩羽色」など今の人はほとんど使わないし、使ったところで気取り屋と思われるのが落ちだ。「髪は烏の濡れ羽色」なんていう艶っぽい文句も、いつまで通用するか分からない。私は、世の中に氾濫している「国語的亡国論」の類を一笑に付する冷めた人間ではあるけれど、「言語」が一人の人間の思考様式や表現内容と不可分であることは疑っていない。考えが薄っぺらいな、と思う人は、大抵自分の言葉に注意を払っていない。ひとつの言葉の余白や奥行きや曖昧性にも殆ど関心を持っていない(これは自戒の為に言っているのだ)。

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幽霊(あるいは怪奇現象)とは何か、という切り口の問いはある種の曖昧性と煽情性を帯びてしまうので、ものごとを真剣に考えようとする人間の間では殆ど話題にされることがない。 筋金入りの唯物論者はそれを困憊した大脳組織の写し出す幻影のせいにするだろうし、碌な科学的素養もないその平信徒は何となくそうした論理で全部説明されたような気になる。

思えば、人間はむかしから、周囲の「見えない力」を各自の文化的フィルターを通して何とか表象しようと努めて来た。ギリシアの古代神話に出てくる膨大な神々も「死」や「天空」「海」「風」などを擬人化(人格化)したものだろうし、神社や山にも理屈では説明のつかない臨在感(そこには特別な何かがあるという感じ)がある。夜のまっくらな道が恐怖心を起こさせるのはそこに奇妙な潜在性を認めずにはいられないからだ(足元が不確かで躓くのではないか、とか、追剥にあうのではないかという具体的な恐れではない)。暗くて何もみえない世界は魑魅魍魎がうごめいている風になる。科学的教育の有無はこの際あまり力を持たない。

「何かが出そうだ」という周囲世界のつくりだす気配は、人間(現在意識者)の知覚面での見通しの浅さと無関係ではないようだ。 あらゆる不明瞭なものが白昼の下で照らされてあれば、朽ちた紐も蛇にはならないし、落ち武者が枯れ薄を亡霊と見まがうこともない。光に乏しい世界は事物の輪郭を曖昧にさせるだけではなく、人間の連想・誤認傾向を否応なしに助長する材料にも事欠かないので、自分にとって異質な空間を演出する。異質なものは親しんでいないものということだから、自分はそうした異質性にどうしても身を預けることはできない。

人間が「死」に対して漠然と抱く不安の情緒も、この身を預けがたい何かへの「適切な」反応ということができそうだ。天然痘も眠気も日射病も、また、癲癇も山鳴りも地震もみな異質極まる経験に違いなかった。 (煎じ詰めれば生命個体として「生まれること」そのものが不気味で暴力的な経験だ。フロイトの異端的な弟子であるオットー・ランクの労作『出生外傷』(みすず書房)の焦点は、この異様な経験に置かれている)

人間は常に異質なものに囲まれていて不安が絶えなかったので、それらを親しみやすい何ものかに変換しないではいられなかった。手っ取り早いのは、世界の物語化だ。 人間らしい形質をもっていて、ときに悲劇をときに喜劇を演じる神々に、そうした不気味な現象の「原因」や「意味」を帰するなら、人間にとって世界は限定されたものになる。自分の出処にもある程度の確信が持てるし、死後の世界も全くの未知領域ではなくなる。

伝承・伝説・民話の類はこうした臨在感なしでは生じようがない。自分自身が到底溶け込むことができないような異様な外部、惰性に逆らう「そこに何かが」感。 世界方々で作られ、今も作られ続けている怪談話・怪奇小説の類も、そうした心理的土壌があってはじめて理解できるものになる。

人間は、異質なものを拒みつつも同時にそれに惹かれもする。ついにはそうした怪異物語は娯楽化してしまった。 欧米のおびただしい幽霊小説から日本の怪談噺まで、ここ二百年ほどの間に作り出された作品数はそれこそ枚挙にいとまがない。子供も大人も怖がることが大好きらしい。 私の子どもの頃に「木曜の怪談」というテレビ番組があったけれども、子どもにとってはあれは実に怖かった。今日では書店に行けばホラー小説など何百冊でも手に入る。ツタヤにいけばホラー映画を借りられる。そういえば一時期、ゾンビを打ちまくるという仕様のホラーゲーム(『バイオハザード』はその種のゲームの古典だろう)が流行した。

「恐怖は人間の最も古い、最も強い情感だ」(H・P・ラブクラフト) これまで何万回とも引用されて来たこうした格言は、どれほど斜に構えようとも間違っているとは思えない。自然宗教神経症も恐怖の感情を度外視しては一言も語れないと私は思っている。「理性」「科学的実証法」「懐疑論」など恐怖に比べればまだケツに殻を付けているような小僧っ子に違いない。

哲学では「実在」という言葉を粗末には使えない。だから、「幽霊の有無」なんてテーマで話が盛りあがるとき、毎回私はどうにも歯痒い気持ちになる。 こうしたとき、まずはその由緒ある問いの荒っぽさを見直してもらいたいのだけれど、そうすると話が急に味気ないものになる。「実在する」ということがどのような存在内容を示しているのかを明らかにしないまま、この問題に立ち寄ることは出来ない。多少は出来たところで酒の席の与太話以上には発展しないだろう。冒頭でも言ったように、幽霊や怪奇現象が世間では一過性の話題にしかならない理由は押し並べてこの辺りにある。

随分前にデボラ・ブラムの『幽霊を捕まえようとした科学者たち』(文春社)をみたが、ここには、当時最高水準の科学的素養や教養を誇る人びとが如何にしてポルターガイスト霊媒術にのめりこんでいったかがよく描かれているので、科学者と怪奇現象の繋がりに興味のある人には一読を奨めたい。

そういえば、シャーロックホームズの作者としてしか殆ど記憶されていないコナン・ドイルも大量の怪奇小説を残している(凡作が目立つというのが本音だけれども)。それだけでなく彼は晩年は心霊術擁護の為に講演活動等で東奔西走していた。医者でもあり、また明快な論理的思考能力にも恵まれた彼が超自然現象に惹かれ続けていたという事実は、あまりにも多くの暗示を含んでいるので、取り急ぎの安易な判断を下せない。

私自身は終始一貫、「世界」を異様なものとして捉えているようだ。日常は本来、そこにあるだけで驚異に値する何事かと言える。こうした経験に慣れてしまうと、あらためて「問う」ことの重みが失われてしまう。最後にはそもそも何が異様なことなのかも分からなくなる。視野狭窄した眼の前には、曖昧でふてぶてしい既成事実だけが残る。 知らずのうちに、人はこうやって自分を「世界」に馴致化しようと努めてきた。思考あるいは「改めて問う」ということは、こうした抗いがたい馴致化の過程に先ずは逆らうことであって、他ではない。

通俗的な怪奇小説のなかにも思索を促す素材は多くある。 怪奇な日常を怪奇な眼差しで見つめなおする契機を、そうした作品群は、それとなく与えてくれる。

怪奇小説傑作集 1 英米編 1 [新版] (創元推理文庫)