書痴肉林・蟄居汎読記

佐野白羚の古い雑文の一部を(たぶん)定期的にひっそり掲載します

ダン・ローズ『コンスエラ 七つの愛の狂気』(金原瑞人/野沢佳織・訳 中央文庫)

言うまでもなく、巷に狂気はありふれている。 人間が生きるということは、狂気を生きるということだ。 多少の狂気なくしては、人間など一時間だって生きられない。 世界は一塊の終わりなき悪夢でありますから。

狂気といっても、俗悪な狂気もあれば、人畜無害の狂気もある。

たとえば酔っ払いという狂気はうんざりするほど平凡だ。だから放っておこう。

嫉妬や喧嘩という狂気も、やはりいい趣味とはいえない。 (そうした狂気も集団レヴェルになると大義となるようだから面白い)

人畜無害の狂気の筆頭は、マニアと呼ばれるものだろう。 牛乳瓶のフタや読めない外国語書籍の蒐集に生涯大金を投じ続ける狂気は、いと愛すべきものだ。

私が好きなのは、愛の狂気だ。 といっても、互いの頬をつねったりしながら喋々喃々と夜を過ごすような、甘ったるいものではない。 もとより不合理千万な恋愛感情をその極限にまで高めたような、そんな狂気の発動が好きだ。 大部分社会的要因で説明できそうな「心中」や「駆け落ち」は、どこか生ぬるい。 狂気の悲恋は、それが虚構であればあるだけ美しい。

どんなものが狂気の悲恋といえるか。 このダン・ローズの短編集に出てくる人物が、そうした狂気を遺憾なく体現してくれている。

チェロを弾く一人の女性に恋い焦がれて、自らチェロになりたいと願望し結局そうなった男を描いた「ヴィオロンチェロ」は、甘くて綺麗でありながらシュールな怪奇性に満ち溢れていて、私の趣味にはとてもよく合う。 狂気を通りこしたところにある結末は、自分で読んで受け止めてほしい。 見様によっては、朝起きたら巨大な虫になっていたというあの話よりも不気味だ。

表題作の「コンスエラ」は、本当の意味で愛されたいという女性の願望の極致を描いたもので、いかにも虚構には違いないけれども、この心理は程度の違いはあっても男女ともに広く見られるものだと思う。

たとえば、金やステータスによって「愛されている」男はしばしば、自分が乞食にまで落ちぶれても連れ添う女性が変わらずに愛してくれるだろうかと不安を抱く。 一方、ある種の女性は自分の肉体の美しさや高価なアクセサリーだけではなく、「私自身」を愛してほしいと思う。加齢とともに幾重もの小皺ができて何を着ても体型の変化を隠し通せなくなった自分を、かつてと同じように愛してほしいと願う。 「私がおばさんになっても」とかいう流行歌があったけれど、このような「不変の愛」を他人に求める心理傾向は、かつて肉体的な美しさを誇っていた自己愛性人間にほど強く見られるものだ。 しかし、この「私自身」というのはクセモノだ。カントの「物自体」ではないけれど、そんなものは普通認識できない。 人間というのは何よりも身体のことだから、その身体とは独立した人格領域を想定してそれを愛することは、なかなか出来そうで出来ることではない。 身体の物理的特性を度外視して、人間が人間を把握することは出来ない。恋情というものは身体に対する直観に基づいている。 鼻の高さ、目の配置、色、その声、肌のにおい、髪の毛の色、こういうもの全体がひとつの色気となって、ひとりの人間を表現する。 だから、「内面」などいう抽象的なものは、さしあたりは無視してもいい。内面というものの想定が有効であるにしても、それを表現身体と切り離して考えることは難しい。 すくなくとも「色気」や「愛情」というものは、人びとが思っている以上に「目に見えるもの」に依存している。

「コンスエラ」の作品としての美しさは、人間には本来不可能な精神的愛情を、あたかもそれが私たちにも可能であるかのように描き切っているところにある。

コンスエラ―七つの愛の狂気 (中公文庫)