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佐野白羚の文筆武者修行(「蟄居汎読記」「書脈録」)

九三八堂の佐野白羚による随想ならびに読後録を定期掲載

アンデルセン『絵のない絵本』(大畑末吉・訳 岩波書店)

デンマークアンデルセン(一八〇五~一八七五 *1)は一般に、『人魚姫』や『親指姫』『マッチ売りの少女』のような、短くて時々やや感傷的な童話の作者として世界中にその名が通っているけれど、実は、紀行文(彼は生涯外遊ばかりしていた)や戯曲も多く書き、日本では『即興詩人』の訳題で知られる長編も残している。

殊にこの『即興詩人』は近現代の日本文学史を辿る上でも極めて重要な位置を占めている。 この作品は一八九二年から一九〇二年にかけて、明治の文豪・森鷗外の秀訳を以て文芸雑誌に紹介された。 その雅語と漢語が混淆した超絶的文体は美妙な抒情的香気を湛え、翻訳とはいえ、それ自体がひとつの浪漫文学の精華として現在でも文学精通者の根強い高評を得ている(*2)。

連作短編『絵のない絵本』は、孤独な絵描きを慰めるために月が毎夜一つずつ自分の見聞を語るというもので、設定としては、シェエラザードなる娘が千一夜費やして王に話を聞かせるというあのアラビアの物語集とよく似ている。

どうかすると平板で生温い小話の寄せ集めで、一話一話がこれほど短くなかったら、当時中学生だった私でも途中で退屈して嫌になったかもしれない(こればかりは趣味判断の問題だろう。彼の童話も、グリム兄弟の採取・編纂した物語集に比べればどこか教訓臭くて、私にはいまいち馴染めなかった)。

それでも、見様によってはブラックユーモアとも取れる話が少なからずあって、ひねくれ者の私も時折愉快にさせられた。 そのことだけを書きたいが為にいまこうして雑文をしたためているわけだ。

例えば第二十二夜が気に入った。

まず一人の女の子が「世のなかが意地わるいのを」泣いている。 というのも、彼女の大事にしている人形をお兄さんが高い木に引っ掛けて何処かへ行ってしまったからだ。 語り手は冷静に人形の内面をも推し量って言う。「お人形もきっと、いっしょに泣いているにちがいありません」。 人形を助け出したくても助けられない女の子は、ひたすらそれを可愛そうだと嘆くほかない。 すると、木の茂みから小人の魔物がのぞいているのが見えたような気がした。そのうえひょろながい幽霊らしいものが踊りながら近づいてくるではないか。 女の子はすかさず「でも悪いことをしていなければ怖がることはないわ」と考える。 「魔物だろうが幽霊だろうが何もすることはできないわ。私は何も悪いことをしていないから」 色々考えを巡らしているうちに彼女は思いついた。「あ、そうそう、足に赤いきれを付けていたアヒルを一度笑ったことがあるわ。おかしな格好で、おまけにびっこを引いていて可笑しかったもの。でも生き物を笑うなんてよくないことだったわ」 そして彼女は木に掛かった人形を見上げて訊ねる。「あなたも生き物を笑ったことがあって?」 そして人形が首を振ったかのように見えた。 「あたかも~のように」の語法が肝心なところで使用されているのが明らかで、そのうえ結局何がなんだかよく分からない。 当時だけなく今読み返してみても不気味な余韻に浸れる。 物好きな方はこの部分だけでも愉しんで欲しい。 いつか彼の他作品もじっくり語ることにしよう。 今日はこの辺りで。

*1 デンマーク語名ではアナセン/アネㇽセンだと事典に書いてある。こちらの方が一段詩的に響くのは気の為か。

*2 幸い近くの本棚の浅いところに此の本があったので、適当と思う箇所を引いてみる。

戸内には燈明き室(へや)あまたあり。室ごとに大卓(おほづくゑ)幾箇か据ゑたるを、男女打雑りたる客囲み坐せり。われは勇を鼓して先ず最も戸に近き一室を大股に歩み過ぎしに、諸人(もろひと)は顧みんとだにせざりき。卓の上には堆く金貨を積みたり。我目に留まりしは、十年前までは美しかりけんと思はるゝ、さたすぎたる婦人の服飾美しい面に紅粉を施せるが、痩せたる掌に骨牌(かるた)緊(きび)しく握り持ちて鳥の如き眼を卓上の黄金に注ぎたるなり。 (鷗外訳『即興詩人』「嚢家」 一部変更)

このように鴎外は、あたかも原作者に挑戦するかのような重厚の格調を以て、その格違いの訳筆を揮った。 この調子に慣れるまではしんどいかもしれないけれど、読んで不愉快にはならない。

絵のない絵本 (岩波文庫)