書痴肉林・蟄居汎読記

佐野白羚の古い雑文の一部を(たぶん)定期的にひっそり掲載します

水波誠『昆虫 驚異の微小脳』(中央公論社)など

岩波新書」「講談社現代新書」「中公新書」。 これらは誰が決めたのか俗に三大新書と呼ばれている。個人的には平凡社新書集英社新書ちくま新書などからも面白い本が少なくないのだが、大事なのは権威と質量なのだ。

私は必ずしも新書の熱心な読者ではないけれど、優れた質の新書にはこれまでも度々世話になってきた。 以下ほんのちょっぴりだけ新書に纏わる雑感を書き連ねたい。

この三新書、それぞれ固有の起源と伝統を持っているのだろうが、概して岩波新書は世界の潮流を相当強く意識していて、中公新書はそれに比べると些か時代色が薄く我が道を行くという超然たる趣がある。講談社現代新書はとにかく読みやすさに力点を置き、近頃では尚更その傾向が強い。

ここ十年ほどの岩波新書は、タレント風情の精神科医や薄っぺらいリベラル文化人が片手間に書き散らしたようなものが目立ってきて、年々読むに堪えなくなってきた。つまり内実まで安っぽくなってきた。 「本が売れない時代」だから媚びでも売らないと商売にならないのか、あるいはそもそも碌な書き手がいないのか、取り立てて言うほどのものでない本が平積みされている(ただ、岩波文庫から出ている本にはまだ魅力的なものが多い)。

表紙が黄色や青色だった時代は、丸山真男井筒俊彦みたいな学匠による重厚な著作も収められて、そういうものは今でも折に触れては読みたくなる(わけても井筒の『イスラーム哲学の原像』などは新書に相応しい「質」ではない)。 見方によっては単なるノスタルジーに過ぎないのかもしれないが、実感は実感なのだからどうしようもない。

もとより新書はそう何度も繰り返して読む類ではないけれど、新聞記事以上の情報(安定した)や体系的な知見は盛り込んでもらいたい。 政治パンフレットのような時流を露骨に意識した書き物や、自己啓発色のあまりに強いお喋りは(「~のすすめ」とか「何歳までに~をしろ」という様な)、読み捨ての三文雑誌か何かに任せられないものかと切に思う。

それに比べれば、講談社現代新書には、取るに足らないものも多いけれど、それと同じくらい魅力的なものも多い。 たとえば、『「大きなカブ」はなぜ抜けた?』や『時間は実在するか』『生物と無生物のあいだ』『毛沢東周恩来』といった本(著者は面倒なので略した)は、二十歳前後の当時大変に面白く読んだ。だから今でも覚えている。この新書は表紙が白くなってからの方が概して面白い(古いものは黄色い)

いま数多くの読書人に尋ねて総合的な評価を集めるなら、いわゆる「三大新書」のうち最も強く支持されるのは、間違いなく中公新書だろう(さしあたり断言する)。

いま同新書の目録をみても、地味ながら肉厚な内容のものが多いことに気が付く。 過度にアカデミックに流れずだからといって余り低俗にも傾かない所にこの新書の魅力があるのだが、たとえばそれは、ここ三か月のうちに私が読んだ中公新書を振り返ってみてもよく分かる。 猪木武徳『戦後世界経済史』、重松伸司『マドラス物語』、加地伸行儒教とは何か』、寺田隆信『物語 中国の歴史』、白川静『漢字百話』そして昨日読んだ『昆虫 驚異の微小脳』。どれもこれも読みながら知識が血となり肉となっている手応えが確とあった。

新書を十把一絡げにして軽蔑している人には、せめて中公新書だけでも再度評価するよう心から願いたい。

本題に入る。

この本は、ヒトに比べれば無に等しいように思える昆虫の脳構造について、かなり事細かく説明してくれる。 昆虫の持つ一立方ミリメートルにも満たない脳を著者は「微小脳」と呼び、哺乳類などが発達させた「巨大脳」と対比したうえで、その特徴を捉えようと提案している。

微小脳といっても、大方の人が思うほど単純なものではない。 犬でさえ知らずに踏みつぶしてしまうような昆虫だけれど、その脳には、ヒトと類似する複雑な構造さえ見られるという。

微小脳の話に入る前に、本書は、どうして昆虫がこんなにも地上に幅を利かせるようになったかを、簡単に説明する。学者によって推計は大分異なるが、昆虫が動物界最大の綱(class 生物分類上の一階級)であることは揺るぎなく、現在およそ八十万種が確認され(これは全ての動物種の三分の二を占める)、未知のものも含めると二〇〇万種は超えるとされている。陸地であれば昆虫のいない場所など殆ど存在しないくらいだ。

著者によれば、昆虫がその数を爆発的に増加させたのは新生代に入ってからの数千万年の間で、その主たる理由は、軽くて丈夫なキチン質(*)の外骨格であるクチクラを獲得し、陸上生物の大きな悩み事の一つでもあった「水分蒸散」から身を守れるようになったことだと言う。 そのほか、多くの脊椎動物に比べて身体が小さいために、成長上食べ物の摂取量が少なくて済むし、また、生態系のなかで空間を細かく分けて利用できるので種の分化には相対的に有利だ。

*[多くの節足動物や菌類の外皮や細胞壁等を形成する含窒素多糖類。エビやカニといった甲殻類の殻にたくさん含まれている]

後は直接本を読むほうが早いので、その主題だけをあらあらと辿る(不精は治らない)。

第三章では複眼、第四章では単眼が扱われている。 昆虫はおもに、複眼と単眼を併用していて、それぞれ違った視覚的機能を担っている。どう違うのかを知りたい人は読んでみるといい。ちょっと専門外の人間には難しけれど、じっくり読むと不思議と通じてくる。

第五章は、昆虫が空を飛ぶ仕組みに焦点が当てられている。その運動制御の仕組み、機能している運動中枢、バッタの飛翔解析を行った研究なども紹介されている。 この章だけでも満腹になる。

第六章は、匂いを感じ取る仕組みが論じられる。

第七章は、昆虫の脳にある「キノコ体」という特徴的な構造を巡って進められる。 第八章では匂いの学習、第九章ではフリッシュ(オーストリアの行動生理学者)の研究で有名なミツバチのダンスが扱われ、第一〇章のなかでは、ハチやアリの帰巣行動に纏わる研究成果が概説されている。 第一一章は、微小脳と巨大脳それぞれについての概観が述べられる。

ともあれ一際優れた新書と思う。こんな低コストでこれほど濃密重厚な知的経験に与れるのだから、書物というメディアには今更ながら頭が下がる。

昆虫―驚異の微小脳 (中公新書)