書痴肉林・蟄居汎読記

佐野白羚の古い雑文の一部を(たぶん)定期的にひっそり掲載します

西村本気『僕の見たネトゲ廃神』(リーダーズノート株式会社)

ネトゲ廃人。一時期「社会問題」のような形で話題になりました。あれからも課金制のゲームなんかが次々出てきて、夢中の人が中々多いみたいです。

なんでこう、なんでもかんでも「社会問題」にしたがるのだろうな。「ニート」だろうが「引きこもり」だろうが、放っておけばよいと思うのだけれど。だって彼彼女らは平和の象徴ですよ。

こんな人たちを探し出して無理やり「社会問題化」したがる人々は、一体どれだけ暇で、どれほど立派なのだろうね。このお節介な物見高さ。「現実から逃避している」連中も「現実に逃避している」連中も結局、同じ穴のムジナですよ。人間というものは押し並べて、現実との距離感を取り損なっているものなのだ。そもそも「現実とは何か」をきちんと説明できる人などいるのかね。

周知の通り、世の中には変な人たちが沢山いるものだ。何もネット廃人に限らない。 たとえば「フェイスブック俗物」という動物がいて、この動物は「ともだち」の数ばかり無神経に増やしながら「いいね」ばかりを数百単位で掻き集める、「承認欲求欠乏症」の塊だ。 「活字中毒者」という動物もいて、この動物は外出中も気がつけば看板の字とかスマートフォンばかり読んでいて目の下はいつも青い。 ラインの「既読スルー」を強迫神経症みたいに気にする病人もいるかと思えば、給料の半分以上をパチンコに投じているカルガモもいる。

何が言いたいかって、「正常な人間」など最初からいないのですよ。人間はみな病人なんです。食わないと生きられない哀れな猿、漫然と繁殖ばかりしてきた淫乱な猿、一生のうちに8トンの糞便を排出するばかりの猿。たかだか国家のために死ねと命じる権力に服従する猿。みみっちい銀行券のために額に汗して働きまくる猿。 理念とか何とか高尚なことを論じてみたって滑稽なだけだし、何も始まりませんよ。

ネットゲームに溺れて終日キーボードをカチャカチャ鳴らしながら時々ペットボトルに排尿したりしている連中のことなど、どうでもいいでしょう。ゲームアバターの育成代行をビジネスにしている連中のことなども、どうでもいい。憂国の士を演じたいのに全然演じ切れていないあの薄っぺらい社会評論家どもと同じで、こんな者たちは全く人畜無害の塊なのだから、放っておけばいいのだ。

それなら、人間は、何をするといいのか。 簡単なことだよ。 なぜこんなグロテスクな日常が存在しているのかを脳漿を絞って考え抜くこと。なぜ「このような意識」が既に開始しているのかを血反吐が出るまで考え抜くこと。 「なぜ世界が存在しているのか、なにも存在しないのではなく」「他人の意識は実在しているのか」「言語とは何か、言語が違えば認知様式も違ってくるのか」 有り体にいえば、「考える糞尿製造機」に過ぎない人間に出来るギリギリのプロテストは、「思索」の中からしか生まれてこない。私はこの頃強くそう思うのだ。

ネトゲ廃人は骨の髄まで馬鹿でウスノロな動物だから、こういう「思索問題」よりも他人のプログラムしたゲーム空間に溺れることを選んだ。ただそれだけの話です。

僕の見たネトゲ廃神