佐野白羚の文筆武者修行

佐野白羚による随想ならびに読後録(「蟄居汎読記」「書脈録」)を不定期掲載

小野塚カオリ(団鬼六・原作)『美少年』(マガジン・マガジン)

 ウォルト・ホイットマンは、その詩集『草の葉』の序文(初版)のなかで、「合衆国そのものが、本質的には最大の詩編なのだ」(酒本雅之・訳)と高らか言い放った。    同じように、「美少年」という現象をポエジーそのもののとして讃称することは、少しも突飛なことではない。    『パイドロス』に出てくるソクラテスがエロースを情熱的に讃美しているとき、彼の頭脳裏に具体的なイメージとしてあったのは、「美をさながらにうつした神々しいばかりの顔立ちや、肉体の姿」(藤沢令夫・訳)だった。    『ヴェニスに死す』でアッシェンバッハが端麗無比の少年タッジオを見て暫し恍惚境に浸ったとき、「言葉というものは、感覚的な美をほめたたえることができるばかりで、それを再現する力はない」(実吉捷郎・訳)と苦しい思いを噛みしめた。    こうした人たちにとって「美少年」という現象は取りも直さず形而上的な観念と直結する。

 この男女双方の色気を相乗的に体現する「異様な美的存在」を前にすると、人はまず強烈な沈黙を強いられ、それからあらゆる讃美の無力さに痛く失望する。

 私は折に触れてはこの捉えがたい存在に思いを巡らし、多面に渡る考察を加えてきた。  それでもやはり汲み尽くせないものが彼らの根底にはある。  こうした彼の美しさの秘密を私は主として、「認知的ゆらぎ」に求めてきた。  これはまだ仮説に過ぎないけれど、その姿をみて一見「女性」でありながら実は男で「ある」という、その「見極め難さ」(混乱、裏切り、越境)に、「特殊な色気」の本質があるのでないかと。つまりこうだ。「彼」の姿を現に見るとき、人は彼が「男」として認知されていることは当然分っている。「それでありがら」彼の姿態や顔貌が限りなく「非・男」の風情を纏っているので、数瞬、彼が性的な二項関係を無効化する「脱自然的な存在者」のように映る。  このときの急激な緊張緩和(解放感情)こそ、ソクラテスやアッシェンバッハの得た恍惚であって、また私の烈しい動悸の素因を成したものではないか、と。

 本題に入る。

 本書の原作者である団鬼六(1931~2011)は滋賀県に生まれ、いわゆる官能小説の大家として著名だけれど、それ以外に多方面に渡るエッセイなども多くあり、一概に短評できるような物書きではない。  『美少年』は作者に自伝的性格が濃いとされ、いま内容の詳しい紹介は控えるけれど(*1)、とにかく最初から最後まで強烈な香気を放ち続けいて、痛ましさもこの水準になるとカタルシスも超えてしまう。

 しかし、小野塚カホリはとてもいい「顔」を描く。  この線の描き方(*2)には、本人も相当誇りを持っているんじゃないかと、あれこれに考えながら読んだものだ。  キラキラした眼の貴公子が薔薇を背景にして登場したりする漫画はちょっと閉口してしまうのだけど、彼女の描く美少年(菊雄)には、嫌味っぽい青年臭さがない。少なくともこの具現化は私の好みにはよく適う。    語り手の主人公に対してどぎつい執念を燃やす一連の場面でも、どこか健気な和毛を残した一途さといったように描かれていて、かならずも読み手をして菊雄に「失望」させる様な揺さ振りをかけていない。  ウンザリさせられそうでウンザリさせられない。ひとえに菊雄に対する作者の距離の置き方がよかったのだろう。彼は多情多恨で、途中で凶暴な恋着魔に変貌したりするが、そんなときでさえ可憐な気品を身に纏わせている。 愛嬌の香りが失せない。若しこういう執念を燃やすのが彼女の描く菊雄でなくて、例のキラキラ眼の貴公子であったなら即座に興醒めしてしまって、翌日ブックオフに売り払ってしまったに違いない。    烈しい情念描写が求められる段でも相当に抑制が利いているので、決して下品には流れない。状況は過激であるのに、かえって淡白な色気が醸し出されたりする。  彼女は、優婉繊細でありながら同時に男性的な逞しい色気も纏った美少年の、あの「捉えがたい中性美」を把握している。    この作品を私は、岡崎京子の『へルタースケルター』と併せて読んだけれど、双方とも題材は挑発的で、その破局も凄まじい。咽越しのいいロマンスばかりを愛飲してきた人には余程不向きかもしれないけれど、救いの無い物語や悲劇以前の残酷悲劇にしか陶酔できなくなってきた近頃の私としては、この作品、ちょっとした収獲でもあった。

*1 日本舞踏宗家の御曹司で類まれの美少年・菊雄が「わたし」と別懇の間柄になるが以降思わぬ悲劇を辿ることになる。

*2 小説家にとっての文体がそうであるように、漫画家(ひいては画家)が描線を極めて重視するのは、言うまでもない。  たかが線だと思う向きもあるだろうが、断じてそうではない。  線を描くにも、修練とセンスは必ず求められる。  たとえば、「ナインチェ・プラウス」(うさこちゃんミッフィー)の作者として著名なディック・ブルーナー(オランダ、1927~)の描くあのシンプルな線もそうだ。あの線は、若いころの彼が専属デザイナーのもとで勉強して得た基本技術と本来のセンスが見事に結実したもので、だれもが気休めに描ける種類のものではない。

美少年 (JUNEコミックス ピアスシリーズ)