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佐野白羚の文筆武者修行(「蟄居汎読記」「書脈録」)

九三八堂の佐野白羚による随想ならびに読後録を定期掲載

山本七平『「空気」の研究』(文藝春秋)

日本人論は戦後色々書かれてきて、下らないものから秀逸なものまで玉石混交の観を激しく呈し続けているけれど、本試論はその中でもかなり長く熱心に読み継がれ厳しい批評の洗礼を潜りぬけてきたものの一つで、今でも一読に値すると私は思っている。

そもそも、この「場の空気」とは何なのだろう。誰がつくり、なぜ醸成されてしまうのか。そしてその「空気」支配に敢えて疑念を混入させる「水を差す」という行為とは。山本書店の主は問い掛ける。

民衆による「現人神」認識や、日本軍敗退の背景には、何かしらの悪しき空気支配があったと著者は語る。

そもそも当時の日本軍がアメリカ軍を相手にして勝てる見込みなど最初からなかった。まともなオツムを持った幹部であれば戦争突入に際してブレーキを利かせることもできたはずだ。軍事力の違いや敵国の聯合力を思えば、早めの降伏が最良の判断であったことは、今の中学生くらいでも分りそうだ。 けれどもそうはならなかった。 「今更引き下がれない」という場の空気があったのか、あるいは本当に勝てると確信していた参謀側の思惑があったのか、詳しいことは知らない(この辺のことを知りたい人は日本軍研究をみっちりやって下さい)。 いずれにしても一九四一年の十二月に太平洋戦争に突入して、内外合わせて夥しい数の死者が出たわけだから大変なことだ。誰にとっても大抵無害な日々の意思決定とはわけが違う。事実上戦争遂行命令を出せる指導者や参謀本部の「責任」は途方も無く重い。

今の日本にも「場の空気」という言い方があって、たとえばある重要事項を話し合う合などでどうしても否定意見を言いにくい場面がある。その否定意見が如何に合理的であるにも拘わらず、だ。こういうとき、人は「空気」の権威を無意識敏感に感じ取っている。少なくともその辺にいる日本人にとって、「場の空気」には中々逆らい難い。 終わりかけた定例のミーティング(こんなの下らないものばかりだ)でみんなが帰る支度をごそごそ始めているときに、誰かが長大な質問を放ったり演説をぶったりすれば、それは「空気」の不文律に反する行為だ。このときミーティングの温度は既に冷めていて、「もう終わりだな」という総合意思の空気が充分醸し出されている。このタイミングでミーティングを長引かせるような振る舞いは、今風にいえば「KY」なのである。 空気(Kuki)を読めない(Yomenai)人間は、仮にどれだけクレバーで合理的で博識であっても、惰性が支配しているある種の日本的合議体からはひどく疎外されてしまう。 KY的はどこの社会のどこの組織にも存在している。好んでKYを演じるKYもいれば(日本には「天邪鬼」という古い言葉がある)、その意思決定の及ぼす悪影響を見越して敢えて「水を差す」正義のKYもいる。 だからKY的な人間をもう少し寛容に受け入れる精神風土が、もう少し育ってもいい。

一般や組織レベルでの「KY受容風土」が少しでも育っていればホロコーストや太平洋戦争が避けられた、というふうな極端な歴史的「もしも論」を言いたいのではない。そんことをいくら展開していても到底思考実験の域を出ない。

賛成多数の空気のなかで明らかに場違いな意見を表明する人物を前にして、せめてその腹の内を探るくらいの労をとって欲しいと思うのだ。賛成多数は結局多数派の独裁で「民主主義」などとは何の関係もないのだから、少数派の異質な反対意見にも何かしらの興味を持ったほうが、少なくとも議論の次元はずっと高くなる(ただ「緊急事態」という厄介な場面ではこの限りではない)。 世の中というのは畢竟、感性や思考様式の違う人間が死ぬまで和解を求めながら何も解決しない場なのだ。自分の結論は他人の結論と常にズレている。このことは何百回繰り返しても満足しないけれど、人間の個体差は他の生物の個体差の比ではない。個々の受容様式には途轍もない違いがある。雑音に対する敏感性であれ色についての好みであれ思想に関する感性であれ、一人一人みな違う。共通する部分よりもむしろ異質な部分が人間の本質をよく表している。このことを忘れてしまうと、どうしても諍いの原因が絶えなくなる(覚えていても諍いだらけなのだから)。異質な他人を受容することは、口でいうほど容易いことではない。けれども何とか他者を受容して理解し合える点に、私は、人間精神の柔軟性と救いを見るのだ(こんな臭い文章は二度と書きたくない)。

著者は、「空気」とは何かを調べるのに最も適切な方法は、「空気発生状態」を調べて、その基本的図式を描いてみることだという。そして発掘現場での随想を引用しながら、「臨在感的把握」という言葉を使い、空気の本質を探る。

臨在感的把握とは何か。面倒なので著者の口を借りてそのまま言うと、「物質から何らかの心理的・宗教的影響をうける、言いかえれば物質の背後に何かが臨在していると感じ、知らず知らずのうちにその何かの影響を受けるという状態」がそれ。

夕暮れ時の神社とかを想像してみるといいよ。鬱蒼たる山でもいい。よほど鈍感でない限り「そこに何かある」と慄くものだ。臨在感的把握はこの「何かある」という、ほとんど反射的といってもいい心理的受容に他ならない。この受容は多分に文化的規定を受けている。福沢諭吉の『福翁自伝』には、お札を踏んで古い迷信を笑い飛ばすくだりがあるが、これは、当時の人びとがお札に対して如何に強く臨在感を持っていたかをよく語っている。これは当時最大の啓蒙思想家としての面目躍如たる逸話である以前に、日本の伝統的な臨在感覚がどこにあったのかをはっきり浮き彫りにするものなのだ。

「場の空気」はこのような非合理な超常感覚にも由来している著者の論法は、なかなか迫力がある。この論法そのものに臨在感がある。 たとえば著者は「天皇制」を、「偶像的対象への臨在感的把握に基づく感情移入によって生ずる空気的支配体制」と短く定義する。自分から自身が神であると宣言したわけではない天皇がいつの間にか「現人神」として崇拝されていた事実は、確かに興味深い心理現象だな。天皇制は空気の支配であり、従って、「空気の支配をそのままにした天皇制批判や空気に支配された天皇制批判は、その批判自体が天皇制の基盤だという意味で、はじめからナンセンス」なのだ。

とまれ、気になる人は読んでみてください。

疲れたので、もうこの辺りで一応の区切りとしましょう。

「空気」の研究