佐野白羚の文筆武者修行

佐野白羚による随想ならびに読後録(「蟄居汎読記」「書脈録」)を不定期掲載

小松和彦『日本の呪い(「闇の心性」が生み出す文化とは)』(光文社)

日本史の古層を掘り下げてみれば、さまざまな「呪い」の痕跡がある。桓武天皇の遷都、犬神憑き、崇徳天皇菅原道真の怨霊、丑の刻参り、「呪詛」の染み込んだ項目は存外少なくないようだ。怨霊とか呪詛などというと、いわゆる「トンデモ本」の守備範囲みたいに思われかねないけれども、現代に固定されたカメラをずっと引いて人類史全体を見回してみると、呪いの感情が生々しく実感されていた期間の方が圧倒的に長いのではないかと思う。 いまだって、「呪い」の感覚は形をかえて根強く残っている。 婚礼で「お開き」とか言ったり受験生の前で極力「落ちる」などと言わない忌み言葉の慣習、4と9の付く部屋番号を作らない社会合意の例などはむしろ通俗化したステレオタイプの例であって、私が思っている現代の呪いは、後でも触れるけれども、あの「何となくの疚しさ」のなかにある。 ある人に途轍もなく「悪い」ことをして、法的には何の問題もないのだけれど、いつもそのことを思い返すたびに「良心」が疼く。この種の疼きを知らない人はきっと少ない(「良心」とは何かという伝統的な哲学問題はこの際パスしましょう) もう二度とその人間とは会わないとしても、やはり疚しいのだ。この疚しさはドライな因果律では説明できない。 この「疚しさ」は、物理的距離や社会的制裁コードを越えた、「ある不合理な怨念」に対する不安に根差しているのではないか。そう思うのですね。 よほど鉄面皮な人でない限り、「お前の子孫代々を絶対に呪ってやるからな」などと真景累ヶ淵みたいな台詞を正面切って言われたら、ずいぶん寝覚めが悪いでしょう。たとえ憎悪の末の虚勢であっても、「呪い」の言葉は人の肝胆を寒からしめるのに十分なのだ。それだからそれは本当に大事なときに取っておくといいね。年百年中人を呪っていると、肝心な時に人を恐怖させる迫力を失ってしまう。呪いの最大の機能は、この根拠のない「鬼気」にあるのかもしれない。そこまで俺は嫌われているのか、というショックは並大抵のものではない。古傷となってじわじわ内部に浸透する。

聖人ならぬ「ただの人」であってみれば、生まれたその日から愛憎みなぎる複雑な人生喜劇の渦中に投げ出されるわけで、そうなってくると当然、かりに彼彼女がどれほど穏和で無邪気で愚鈍のカタマリみたいな人間であっても、一人や二人の人間を呪い殺したくなった瞬間がこれまでに必ずあったはずだ。 人間は祝福よりも先に呪いを与える。感謝よりも先に裏切りを覚える。快楽よりも先に不快を感ずる。喜びよりも痛みの記憶の方がずっと深く脳に刻まれる。 ほとんど全ての人間にとって、他者を悪く言ったり憎んだりするくらい簡単なことはないし愉快なことはない。 人間はそんな動物なのだ。とりわけ多情多感の俗人は。

人間は呪いの情動を常に持て余してきたので、ついに文化的装置のなかに取り入れて洗練させることを覚えた。呪いのシステムを所有するほど、人間は呪いが好きなのだ。

一口に呪いといっても、古今東西、民族的・国家的・個人的色々なフェーズで色々の呪いがある。その動機や内実も同じくらい複雑だ。 ツチ族フツ族は今でも大なり小なり呪い合っているだろうし、パレスチナを無理やり追い出されたアラブ人はたぶん今でもイスラエル人を呪っている。子どもを誘拐されて殺された両親は犯人を生涯呪うだろうし(死刑さえ復讐にならない)、ヤリチン男に弄ばれた末に捨てられた純真女は呪いの無言電話を手を変え品を変え掛け続ける。最近話題をさらった「日本死ね」のブログのなかにも呪いの成分が多分にある。 人間はその気になれば、神や歴史や自分の運命そのものを呪うことだってできる(『ヨブ記』前半のヨブの叫びは呪いそのものだ)。生きている人間はどうしても呪いの呪縛から自由になれないらしい

あるエスタブリッシュメントを想定しよう。彼がいかに八面玲瓏の人格者(筆者注・そのような人間の実在はこれまでのところ報告されていない)であっても、その地位につくまでに出世競争から落とされた人びとが夥しいほどいる。会社経営者の場合は人件費削減のために「本当はやりたくないこと」もしなければならない。 そうなってくると呪いに由来するケガレを一番祓わなければならないのは、人の上に立つ人々だ。世間をみわたせば、組織で一線を退いたあとに急いで御払いを受けたり、財を成した老人が俄かに信心深くなったり、進んで慈善団体に寄付したりする例が意外と多い。きっと自分の過去を想い返してみて「そこはかとなく」疚しい気分なので、死に際の偽善を以て全力で償いたいのだ。死後は誰にとっても謎だ。不安極まる経験だ。どうしても報われたい。生前の悪事や不義理のせいで恐ろしい罰を受けるのは嫌だ。 あの財閥のフッガー一族の人びともそうだったのだろうけれど、蓄財に成功した人間が死に際になって莫大な寄付を行うのは、それほど珍しいことではない。中世的観念では、過度な蓄財は合法ではあっても、決して「好ましいこと」ではなかった。なにかしらの「疚しさ」を伴うものだったのである。 ここまで見て来た「呪い」に対する漠たる不安と、今わの際での大型寄進は、無関係ではない。突き詰めていえば、どんな規模のものであれ、寄進や告解や禊や断食や鎮魂祭の背後には、「生きているという巨大な疚しさ」があって、人間はこの「疚しさ」を種々の文化的システムを通して代々解消しているのである。

繰り返すけれども、この社会ではいっぱんに、地位の高い人ほど他者の恨みを買っている。偉くなればなるだけ、一身に受ける呪いと憎悪の総量が増すのである。だから柔ではいけない。神経質ではいけない。いちいち弱者の痛みや叫びにオロオロしているようではいけない。 リーダーというものが自然と厚かましい面構えになるのは、偶然ではないのだ。毛沢東とかカルロス・ゴーンとか中曽根康弘の顔をみればよく分かる。上に立つ人間は「面の皮の千枚張り」でなければならないのだ。こうした人物がある地位を得るために一体どれだけの人物が涙を飲み、どれほどの人物が蹴落とされてきたのだろう。どれだけの呪いを背負ってるいるのだろう。考えてみたことはありますか。

あらためて「呪い」とは何か。

「呪い」を論じるうえで、著者はさしあたり、「呪い心」と「呪いのパフォーマンス」に分けて考えている。

「呪い心」は、情緒的側面だ。怨念とか憎悪と言ってもいい。それ自体としては誰もが日常的に抱いている。「あいつが死ねば」とか「こいつが病気になれば」と思ったことのない人はない。

呪いの本質は、それが必ずしも成就しないという点にある。

もし人間個々の呪詛願望がすべて成就しているとしたら、人類など一日で滅亡してしまう、それだけ人間は互いに深く憎み合ってきたのだから、とフロイトはどこかの論文で書いている。

「呪いのパフォーマンス」は、この「呪い心」の延長として、ある人間に危害を与えるために呪文をとなえたり、道具をつかった特殊な呪術的手続きを踏むなどして、呪詛の成就を企図することだ。呪術的思考様式が色濃くあった大昔の日本人はともかく、現代にあっては、よほどのことが無い限り、呪いのパフォーマンスにまでは行かないのではないか。少なくとも私は、呪い殺したい人間のために古代の呪術書を紐解いたりする根気はない。近頃は呪いの代理業も一部にあるけれど、利用する気にならない。どうしてだろう。たぶん死ぬほど憎悪している人間などいないからで、そもそも呪詛全般の効力に最初から懐疑的だからだろう。少なくとも気軽な感覚での呪いは何事をも引き起こさないという確信はある。けれども呪詛一般を反証することはできない。これは単なる直観の問題らしい。 やはりもし呪詛の力学が現実世界に食い込んでいたとすれば、人間という種はどこかで断絶していたはずだ。人間はそれほど互いに憎み合っているし呪い合っているからだ(冗談なものから真剣なものまで全部含めて)。

こうなってくると、なんだか呪いに親近感が湧いてくるから不思議ですね。 自分の周囲から今直ぐ消えてほしいなと思った人間を三十人以上数えることは容易かもしれない。記憶が霞んでいるのだけれど、むかしドラえもんのちょっと怖い話で、「どくさいスイッチ」というのがありましたね。子ども心に、というよりも、子ども心ゆえに、この道具の話は怖いと思った。最終的に教訓臭いお涙ちょうだいで締められるその話の筋はともかく、この「どくさいスイッチ」なるものは、消えてほしい人の名前を言って押せば、その人間が消えることになっている。 こんな道具があれば僕もきっと、と日本中すべての少年にマッドサイエンティスト的興奮を与えられたドラえもんもなかなか隅におけない国民漫画である。時代の無意識的フラストレーションがなければ、こんなアニメーションも作られなかったはずです。この話には日本人の感性のみならず世界中の人間感性を動揺させる陰鬱な成分が含まれている気がする。

とどのつまり、呪いというのは所詮精神的な負のヴォルテージに過ぎず、それだから、呪いで人を病気にさせたり早漏にさせたり不妊にさせたり貧乏のどん底に引きずりおとすことは出来ない。すくなくとも私のこれまでの呪い願望は、偶然は別にして、たぶん直接の効果を発揮しなかった。死んでしまえとか消えてしまえの願望は、それを願望する限りでは何の力もないのである。だから法律でも呪詛は処罰対象ではない。

それだからもっと思い切って沢山呪詛しましょう。色々な場面で色々な人を呪いましょう。一億総呪詛社会は生きやすい社会と思います。第一、呪詛は誰もがノーコストで遂行できる。カラオケで味噌のくさりそうな歌を無理やり聞かせて呪われるよりは百倍も素敵なことです。 それに偶然対象人物を呪い殺せたら儲けものだろう。私はげんざい近隣に住んでいる騒音の主を激しく呪詛しているわけだけれど、そのおかげで少しは胃腸の負担が軽い。

日本の呪い―「闇の心性」が生み出す文化とは (カッパ・サイエンス)