佐野白羚の文筆武者修行

佐野白羚による随想ならびに読後録(「蟄居汎読記」「書脈録」)を不定期掲載

ベルクソン『時間と自由』(中村文郎・訳 岩波書店)

キーボードの前にチンパンジーでも座らせて「無限の時間」むちゃくちゃに叩かせると、そのうち必ず『ハムレット』と全くおなじ文章列が出来上がるだろう、という話がありますね。ピアノの前でむちゃくちゃ弾かせていればいずれショパンノクターンが演奏される、みたいなバリエーションもたまにはあってもいいとは思うのだけれど、ともかく、こういうちょっと遠大な小話は、前提がやや機械論的過ぎて粗削りなのだけれど、思考実験としてはなかなかよく出来ている。

どうしていきなりチンパンジーの『ハムレット』なのだろう。ベルクソンとはほとんど関係ないのに。きっとどことなく無限感覚に浸りたい気分だったのだ。こういう切り出したかでないと哲学者などとても語れない。どうかすると、ベルクソン哲学の代名詞みたいになっている「純粋持続」の把握は、「無限」という言葉に対するのと同じくらい、直観に依存しているのではないかな。

いったい哲学者の直観言語というのは、とてつもない知的体力を要求するものだ。「善のイデア」「エランビタール」「現存在」「現象学的還元」「もの自体」「運命愛」。どれもこれも重量級で異様な魔性を帯びている。「無限」というのも、重い。

「無限」と聞くと、なんとなく人は「ああ、あれね」で済ませてしまう。けれども、これではまずいのだ。こうした惰性的な受容の仕方は、非常にまずい。知性の怠慢では済ませられないくらいにまずい。回転し過ぎた回転鮨よりもまずい。

「無限」とか「無」という言葉は、その流通性の高さのために、人を無残なほど錯誤させる。「それ」について何も分からないからではなく、まるで分っていると思う点で激しく錯誤なのだ。もっといえば、そうした「観念」を無感動に平然と受容してしまうこと自体が、すでに間違っている。「無限」も「無」も、「うん、そのことならもう知っていますよ」みたいな調子で受け流せる問題ではないのに、人々はあたかも前々からその問題を解決したような気になっている。何も解決していないのに、解決したつもりでいるのだ。これは考えられるかぎり最悪の受容法である。

「無限の時間」とは何か、と問う。問いの衝動。「無限の時間」。限りがない「持続」。はてしなく何ごとかが「持続」していくこと。これは「凄まじい」ことではないですか。おそろしいことではないですか。もうなんだか気違いになって嘔吐しそうな「こと」ではないですか。

反復であれ展開であれ、なんらかの「ある」が持続していくこと。これは人間の知的範疇の埒外にある現象だ。「何ものかが無限にあり続ける」この言辞化不可能な茫漠感覚は、どこに落ち着けばいいのか、私も皆目分からない。無限というデフォルト。眼の前の何らかの世界は無限に変遷する。「消滅」は考えられない。「無」など疑似観念です。それはひとつの章の句読点でしかない。何かが何らかの変遷によって消えれば、その代わりの何ものかが生じる。実はこれ、大変な問題なのですよ。何かが永続してあり続ける。あり続ける、というのは、想像の勢力圏外の話だ。

ついでにどうでもいい話をしましょう。私は「無限」マニアというか、この何だか途方もない量的概念がむかしから大好きだったので、いまでも「無限級数」とか「無限後退」とか「無限集合」などと聞くと、ちょっと昂奮してくる。債務関係の用語にある「無限責任」というのもいいね。「無限」は果てしがないのだから、おそらく思考内では表象不可能で、できるのはせいぜい驚愕し直感することくらいだ。驚愕し直感するしかない概念など、実は、そう多くはないのだ。

 ヘーゲルは「無限」を悪無限と真無限に分類したけれども、私は、どんな単純な「無限」であれ、私はそれを感じ取るだけで猛烈に圧倒されてしまうのだ。この壮絶な圧倒感は小賢しいだけの理性的言辞が及ぶところではない。「無限」は説明されるものではなく、知性を沈黙させるものなのだ。この思考停止の沈黙、取り付く島もない強烈な超知性的経験こそが、あらゆる哲学的マインドの発端であると、私は思う。高密度の感性と高度の言語運用能力を併せ持った生き物は、把握しえない物事を前にして、その根源を問う。どうにもならないと知りながら、問わずにはいられないのである。人間知性の条件は、まず哲学への可能性にあると言ってもいい。大学で食い扶持を得ている「哲学者」だけが「哲学」をしているのではない。カントとcunt(女陰)の区別もできないような田吾作でも、心の奥底には哲学的マインドがひそんでいる。ただそのマインドは、不幸にも、ほとんど芽生えることはない。この「なぜ」の問いから縁遠い生涯を送らねばならないのは、残念なことだ。いいお節介なのだけれどね。いずれにせよ、「いま俺は世界の舞台裏を垣間見た」「一秒先も予測できない絶対未知の場所に自分は投げ出されて存在しているのだ」「いま僕は宇宙の脊髄に触れた」と叫んでしまうほどのあの快楽が、生理的快楽とは別種の極めて特異なものであることだけは確かなのだ。

哲学は、思考技術や知識である以前に、ひとつの感じ方、ベルクソンに言わせれば、「なにか単純な、無限に単純な、並はずれて単純なために」どうしても上手く言えないようなものを感じ取ることだ(『思想と動くもの』「哲学的直観」河野与一・訳)。

 哲学者は、何か不可知な観念に打ちのめされている。何ごとにも打ちのめされていない人間は、哲学研究者にはなれても、哲学者にはなれない。哲学者と哲学的マインドは絶対に切り離せない。パンを焼けないパン屋の存在がジョークであるのと同じように、哲学的マインドを生きていない哲学者は、ほんらい存在してはならないのだ。

哲学的マインドについての持論はいくらでも展開できるけれども、いまは一応ベルクソンの本の話をしているわけだから、このへんで自制しないといけない。

 

アンリ・ベルクソンの博士論文である本書『時間と自由』(原題は「意識の直接所与についての試論」一八八九)について、不可能と乱暴を承知であえて一口で要約するなら、生の時間は純粋な持続そのものであるから直観でしか把握できないよ、ということ。

科学の扱う知性言語は、どうしても質を量化し、時間を空間化させてしまう。たとえば、何メートルとか何グラムとか、やたら数字や単位をつけたり分節したりして、眼の前の世界を知的操作可能な対象に変えていく。ベルクソンは論考のなかで等質空間というものの弊害をしつこいほど指摘している。等質空間というのは、科学の方法が伝統的に想定している場のことだね。科学的な空間把握においては、ロサンジェルスもモスクワも宇宙の果ても、質においては何も変わらない。物理空間として抽象された場は全て無条件に同質なのだ。そんな等質空間の直観がなければ、幾何学は成立しないし、ロケットの打ち上げに必要な計算もままならない。

面白いというか新鮮なのは、ベルクソンがここで、等質的空間の直観が人間にとって社会生活への第一歩であると書き加えていることだ。

 

「動物はおそらく、私たちのように、自分の感覚のほかに、自分とは区別される、あらゆる意識的存在の共有財産たる外的世界を思い描くことはしないだろう。このような事物の外在性やそれらの環境の同質性をはっきりと思い描く傾向性は、また、私たちに共同生活を営ませ、話すようにさせる傾向性である。しかし、社会生活の諸条件がより完全に実現されるにつれて、意識状態を内から外へ運ぶ流れもまたいっそう強化される」(第二章)

 

なかなか括目に値する指摘と思いますよ。訳文なので三回ほど読まないと脳味噌に沁み込んでこないけれど、彼の言いたいことは分りすぎるほどよく分かる。「共有財産たる外的世界」を持つことで人間は複雑な組織力や共同力を持つようになった。いっぽうで、こうした等質的空間の共有は、本来生きた躍動をしなければならない所与意識を抑圧し疎外することにも繋がった。つまり何かを得れば何かを失う、ということなのだ。

共同生活の営みは、「言葉」なしではありえない。「言葉」の極ありふれたやりとりを考えてみれば、彼の言う「外的世界」の価値がよく分かる。

「獲物が近くにいるようだぞ」「お前は後ろに回れ」なんて単純なコミュニケーションにおいてさえ、それが成立するためには、「獲物」とか「近く」という言葉のニュアンスを巡って、ある程度社会的合意を形成している必要がある。そうした言葉が自分固有の内的言語であってはならないのだ。二人以上の言語関係は、等質的空間のなかでしか機能しない。多くの人間が協力してやっていくためには、自分の規定しがたい内的質感を、共同体の「記号」として扱わねばならない。

ベルクソンにとって大事なのは、私どもの知覚や情動や感覚が、常に二重の相のもとにあらわれるということだ。ひとつは「明瞭で、精密だが非人格的」、もうひとつのほうは、「混然としており、無限に動的であり、その上、言表不可能」。なぜ言表不可能なのだろう。「言語は、それを捉えようとすると、必ずその運動性を固定してしまうことになるからであり、かといってそれを自分のありきたりの形式に順応させようとすると、必ず共通領域のなかにそれを墜落させることになるから」だ(第二章)。

 どっちにしたって、人間の言葉はおよそ「生」から遊離する傾向がある。無限の動的性質や混然たる異質性は、どうしても手放さなければならない。「社会人」であれば尚更だ。大人の階段をのぼるということは、めいめいの自己に固有だった異様な活動性を、言葉の無難な流通市場にうまく適応させるということだ。

それにしてもベルクソンはシャープなレトリックを駆使しつつ「言語」を沢山を語るのだけれど、言っていることは極めて当たり前のことなのだ。繰り返しになるけれども、哲学者は、「単純すぎるあること」をきちんと語ろうとするために、却って苦労する。挫折する。哲学者の言葉がときとして「難解」に聞こえるのは、言っているや議論していることがいちいち「当たり前すぎる」からなのだ(もちろんなかには本当に分りにくい思索内容もあるのだけれど)。

わたしたちは自分の内側の固有の異質性よりも、外在的な共有世界に身をまかせて生きている。どうですか。考えてみれば当たり前のことでしょう。だいいち、わたしたち人間、という呼称そのものが、社会生活の典型的産物なのだ。ありのままの、所与の意識の、絶え間なく変遷する生の感覚は、人間にあってはほとんど封印されている。そうした本源的な感覚は、「常識」や「共通言語」の枠組みから成り立っている社会生活においては、不要であるばかりか危険なのだ。人間は「内部にある持続」、この「数とは何の類似性をもたない質的多様性」を手なずけて、可もなく不可もない微温的世界に適合させている。無規定で停滞することのない生来の運動体を、「社会生活」という型に当てはめる。ベルクソンは別のところで(「哲学的直観」前出)、そうしたスクリーンをもっと遠くへ押しやって、「厚みがあるばかりでなく弾性的な現在」をとりもどそうと声高に叫んでいる。すべての事物を「持続の相のもと」に見る習慣をつければ、「われわれの鍍金がかかった知覚のなかで、こわばったものが緩み、睡がっているものが眼をさまし、死んだものが生きかえる」と。この狂熱性と文学性、日本の堅物みたいな「哲学者」像からみれば、かなり哲学者ばなれした印象を受ける。尤も元来哲学はパッションから入り込むものだから、詩的言語とは親和性が高いのだ。ニーチェの文章にもハイデッガーの文章にも文学臭が強く出ていることを思いだしてほしい。

そういえば、哲学者でありながらノーベル文学賞を得た人物を私は三人しか知らない。ドイツのルドルフ・オイケン、イギリスのバートランド・ラッセル、もうひとりがフランスのアンリ・ベルクソン(今更だけれど、ベルグソンと表記されることもある)だ。のちに同国からはもうひとりジャン・ポール・サルトルという人も受賞が決まったのだけれど、なにやら小難しい思想的理由から辞退している。

ベルクソンは一流の「名文家」として誉高い。それでいながら彼は終生言葉の性質を警戒し続けた。哲学と言葉は相即不離。妙な屈折も意外な解釈も、ぜんぶ言葉の運用に依っている。

「哲学的方法の第一歩は、ことばが現実をその本来の屈曲に沿って切り分けているかどうかを問うこと」なのだ。

何に付け事物を根底より考える人は、この言葉を胸に深く刻みつけておくことですね。

 

時間と自由 (岩波文庫)

 

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すくなくともイソギンチャクやウミウシは「私たち」という言語的共同意識を発達させてはいない。個体が遺伝子の便利な乗り物になって繁殖したり捕食しているだけだ。生物として生き残る諸機能は非常に高度だけれど、内側から象徴や表象体系を外在化して相互にコミュニケーションする「傾向性」からは、縁遠い。思想