佐野白羚の文筆武者修行

佐野白羚による随想ならびに読後録(「蟄居汎読記」「書脈録」)を不定期掲載

シーナ・アイエンガー『選択の科学』(櫻井祐子・訳 文藝春秋)


 

奇妙なくらい大胆な表題だったから、この本を「選択」したわけだ。近所のブックオフ。人でいっぱいだ。なんでこんなに人がいるのか分からない、この阿呆みたいな暇人どもは何しに来ているんだろう、と一人一人がみんな頭のなかで思っていることでしょう、さしづめ。大衆というのは、「自分だけは愚鈍な大衆に属していない特別な人間なのだ」と思っている個人の寄せ集めですから。現在日本では二十代の九〇パーセント以上の人間がスマートフォンを所有している。SNS利用率は三十代でも八割を超えている。街で見かける彼彼女らの大半が歩きながらタッチパネルをこすっているのは、この猛烈な普及率からしか説明できない。それでいながら一人一人のユーザーの内心に分け入ってみると、自分の消費選択や行動様式がよもや統計上の「その他大勢」に単純回収されているとは思っていない(思いたくない)。「自分がこのiPhone8を購入したのは、あの薄っぺらいミーハー連中がこぞって騒いでいるからではない、何しろスペックが気に入ったし、審美的にも素晴らしい製品に違いないと判断したからだ」とか何とか御託を並べて、自分の消費選択の「凡庸さ」を固有の合理的動機に還元しないではいられない(この種の滑稽な消費心理の変質性は、たとえばメルセデスベンツのヘビーユーザーのなかにも村上春樹の熱心な読者のなかにも見られる)。

ここに社会の不思議がある。妙がある。個人現象と集団現象の妙な力学。この「その他大勢」問題については本書第三講に展開されているので、気になればそこだけでもつまみ読んでみてはどうか。

 

かえりみると僕は「選択・意思決定」がよっぽど苦手なのだ。古本屋に出向いて予算内で数冊本を買おうというとき、必ず数冊諦めねばならないものが出てくる。そうなると内心にわかに急き立ち、悪い動悸が打ち背中には脂汗が滲んでくる。入手したい本の候補のなかから何かを斬らねばならぬというこの切迫した「ソフィーの選択」的窮境に耐えられない。これは「脳」のある部位の過剰作動によるものだと思う。たかだか数冊の本でこれなのだから先が思いやられますね。

それにそうした苦しみは古本屋に限らないのだ。スーパーで同じ値段の複数の総菜パンのなかから一つだけ選び取るときも同じ。家電量販店で電子辞書を選ぶときも。実はこうした下らない文章をいい加減につくっているときも、その形容詞や熟語のためにいちいち脳を消耗させているようだ。ここはカタカナがいいか、句読点の配置は適切か、という具合に。

まさに人間は、その取るに足らないライフサイクルのなかで無数の選択を強いられている。泣きながら生まれて来た無力な個体は、随時選ばなければ生きていけない。志望校、友人、転職先、市長選、行きつけの飲み屋、情報、新幹線のなかで読む雑誌、ツイッターのフォロー、ブログサービス、賃貸住宅、これから聞くラジオ番組、連休の旅行先、マクドナルドでのポテトのサイズ、生涯の伴侶から子どもの名前まで、人の世は選択だらけだ。たとえばフジツボとかオランウータンとかマロニエなんかは一体どのくらいの頻度と濃度で日々の選択をこなしているのか、しりたい。今日は陽射しがいいから目一杯栄養を生産しようとか、あの木の実を取ると奴がうるさいから今回は諦めよう、とか案外ごちゃごちゃ意思決定しているのかもしれない。

終末医療現場ではしばしば生きるか死ぬかのシリアスな選択も余儀無くされるし、検察や裁判官は年中他人の人生を左右する選択を迫られている。離婚した夫婦は「親権」の選択をめぐってとことん揉める。国のトップの外交政策判断が国家の趨勢を決定することもある。選択する人間はなんらかの面でギャンブラーたらざるをえない。

ああ選択って、大変ですねえ。偉い人たちも凡人たちも、日々選択に気骨を折っているのだ。僕は選択で疲労したくないという理由だけで時々死に憧れる。

同じ量の秣に挟まれた驢馬はどちらかを選ぶことができず餓死してしまう、という出典不明の「ビュリダンの驢馬」の寓話は、一見荒唐無稽ではあるけれども、二者択一の場面での自身の困惑焦慮を思えば、無邪気に笑えない気もする。かくも選択は困難なのだ。


自由に物事をチョイスすることは生物の「本能」であり、また人間があらゆる希望を語るための条件でもある、なんてことを言われると、つむじ曲がりの哲学者はほくそ笑みながら多分こんなふうなことを能弁に語る。
そういうのは「自由の選択」の即物感覚に過ぎなくて、「自由の選択」などではありえないのではないですか、そもそも生物は自分が生まれてくることや自身の遺伝因子など最も重大な諸条件を「選択」することができない。ある個体の趨勢はより巨大な歯車運動によって最初から決定されているのではないですか。カルヴァン的な救済予定説もラプラスの悪魔の仮設も、とどのつまりは同じような絶望的宇宙観に根差しているような気も時々します。人間は畢竟何も選んでいないのですよ。既存の環境に支配されながら惨めに生きている無価値な生物群に過ぎません。
「人間の頭ってものは、なに一つとして新しいものなんか考え出せるもんじゃない、そんな風にできているんだよ。外から獲た材料を利用するだけの話なんで、意志の力で動いたりするんじゃない。自分で自分を支配する力なんか、もちろんないし、その所有主にだって命令する力はない」(晩年のペシミスト化したマーク・トゥイン『人間とは何か』中野好夫・訳)


「自由に選択している感覚」と「自由に選択すること」は、違うようで同じようで、どうにもならない問題のようだ。僕の意見では、哲学上の厄介至極の諸問題をやたら日常に持ち込むのは得策ではない。自由に事物を選択していると確信している個体のある行動が実は「既に決定されていた」としたところで、当の個体が自由感覚を生きているのであれば、それは「自由選択」なのだ。なにかが自由であるとか自由でないというのは反証不可能な命題同士のぶつかり合いであって、ようするにこのままでは自説に固執した形而上学的議論を越えられない。アンチノミ-、二律背反の隘路に行き着くだけだ。ただそうした議論は面白いので、やるならアテネの学堂でやってほしい。事実現象して止まない人間社会を説明するのに重たすぎる問題だ。ヨーグルトの成分を調べるのにヨーグルトの語源やその歴史的経緯まで洗い出す必要はない。問題のスケールとフェイズをその都度意識し直さねばならない。

 

生存上明らかに安泰な動物園の生き物が野生の動物よりなぜ短命なのか、コカコーラ社がサンタクロースを宣伝マンに仕立て上げた経緯、豊富な選択肢が購買意欲を刺激するわけではない旨、 投票行動と投票用紙のカラクリ、消費者から見たミネラルウォーターと水道水の違い、小売店などで主力商品をニッチ商品の売り上げが上回る、いわゆる「ロングテール現象」の話、一九八〇年代から一九九〇年代初めにかけてカナダはたばこ税を急激に引き上げて喫煙率は四〇パーセントも減少したが、一方で闇市場が隆盛してしまい深刻な社会問題となったことなど、興味に尽きぬ事例多数。

のんきに読んでいても目から鱗、ひとつ大いに学問しました。

選択の科学 コロンビア大学ビジネススクール特別講義 (文春文庫)