佐野白羚の文筆武者修行

佐野白羚による随想ならびに読後録(「蟄居汎読記」「書脈録」)を不定期掲載

田澤耕『物語 カタルーニャの歴史(知られざる地中海帝国の興亡)』(中央公論新社)

たとえば「知られざる~」とか「驚異のOO」「実録! XX」「必見!ーー」のようなすっかり大衆メディアに定着した「表紙語法」は、いまだに多大のハニカミと道化精神なくして使えない。

「極上の味!」とか「究極のマグロ」というふうな看板を自分から掲げているお店は、そんな常人的なハニカミを超越したところにあるのではくて、たんに開き直って不感症になっているだけなのだ。このところ巷には何につけ「!」が多すぎるのですよ。感嘆符過剰警報発令中なのです。こんなのいつごろからなのかな。この数学の確率問題にしか似合わないマークをただ付加するだけで伝え手の情熱を余すことなく表現できるとはよもや思ってはいないだろうけれど、ともかく拙劣無粋です。現代はよほど叫びたがっている。無内容の癖にやたらうるさいのだ。頭のなかでいますぐ粛清したい。

「俺のこの情熱を分ってください!!!」「奇跡の名盤、復刻!!」「佐野眞一 待望の新刊、本日発売!!」「あたらしい国づくりに向けてどうか皆さまの御支持をいただきたい。このツイート拡散希望!!」とか書かれてあるのを見ると、それだけでもう暑苦しくなって、胃の底がムカムカしてきて、奴らをいますぐ業務用の冷凍庫に押し込んでロックしたくなる。もっと冷静になって自分の言葉を語れ、この馬鹿者。体育界系の飲み会じゃないんだぞ。

「!」がありふれている。町中にもメディア言説のなかにも。味噌でも糞でも「!」で片づけられているうちに、やはり受け手もだんだん不感症になって、一個の「!」程度では何のインパクトも受けなくなる。そこで「!!」が出てくる。「!!」に不感症になったら次は「!!!」が出てくる。それにも不感症になったときにはじめて技巧的な文案に復帰する。下手人は「!」だけではない。宣伝広告の文句も芸の無い大仰さを離脱して、言葉の綾やデザインの妙で勝負をしてほしいもんです。

思うに、ある文章のなかでいくつ「!」が使用されているかを知るだけで、その書き手の「間抜け度」を計量予測することができる。これは実に明快な指標でしょう。僕自身これまで「!」頻度の高い文章で為になったものなど一つもないと思うから、この指標の効果は拳を振り上げて保証する。「!」過剰の文章は信用しないこと。

 

で、なんだっけ。もともとビックリマーク(正式名はエクスクラメーション・マーク)断罪論でなくて、題名が恰好悪いって話か。ここの副題にある「知られざる」なんかも実に常套化した用法で、中身は素晴らしいのだけど、それだけに勿体ない。古今東西、本の題名なんてのはマーケット意識過剰の編集者が一任で決めてしまうのだから、ぶつぶつ文句を言ってもはじまらないのだ。なぜなのだろうな。「知られざる」か。型通りであるがゆえに恥ずかしいのではなさそうだ。型通りでもさして恥ずかしくない物言いは殊の外いっぱいある。「~と言わざるをえない」なんてのはまだハニカミ度はさほど高くない(使いたくないけれども)。「大なり小なり」(多かれ少なかれ)、よく使うけれども、実はこの型は嫌いです。「~によれば」「言を俟たない」「~以上でもなければ~以下でもない」「言うまでも無く」「~を認めるに吝かではないが」、こういうのも野暮の骨頂だね。こんなのを三行置きに使っているのにロクな奴はいない(これだけは確言できる)。うん、無意識のうちに使いまくっている「野暮語法」を早く卒業したい。この支配からの卒業。夜はYouTube尾崎豊を見る。

 

ねちっこい言葉論評はもういいから、カタルーニャ。発音にいろいろあるみたいだけど、いちばん多いカタカナ表記は、カタルーニャ

いま渦中のカタルーニャとは何であるか。けれどもカタルーニャ自治州の選挙結果とか現在進行形の時事問題より、まず歴史が知りたい。日本人にとってガウディとかパブロ・カザルスとかピカソとかダリのイメージしか湧かないバルセロナの履歴書を急いで閲読したい。もっというと、そもそも民族とは何か、国家とは何か、独立とは何か、自治州とは何か、スペインはなぜカタルーニャの「独立」を容認しないのか(そしてEUも)、いろいろな謎が脳裏を行き来する。二〇〇〇年発行の本だけれど、大部分が百年以上前の出来事の叙述だから、新書特有の「おい何だか情報が古くてやり切れないぞ」という感じはしない。あと著者は歴史学者ではなくて、カタルーニャ語の博士みたいだ。カタルーニャ語の本をたくさん書いている。いいね。カタルーニャ語。勉強している人の話すら聞いたことがない。僕はカタルーニャ語スペイン語もイタリア語も知らない。ロマンス諸語は何も知らない。動機があれば勉強するかしらね。たぶんしないだろうな。意思疎通の必要性や快楽に繋がらないと人は言葉など絶対に覚えない。むかし幾つかの外国語を「熱心」にやってみて痛感したのだ。とどのつまり、語学において大切な要件はただひとつ、「必要」なのだ。いくらTOEICなんかで高得点をめざそうとしても、動機なき勉強は持続しない。「具体的にある人物に何かを伝達したい」という必要上の動機ほど強いものはないのだ。だから言葉をどうしても覚えたければ、Facebookなんかで外国の「知りあい」と繋がって議論や喧嘩でもし合う方が方がはるかにいい。動詞の不規則変化表と首っ引きでブツブツ言っているよりも、感覚が早く掴める。言い方が分からなければ、その都度調べればいいだけだから。この不安定ながらも生き生きした「対人感覚」を欠いた机上の語学は、結局血にも肉にもならない。いや本当ですよ。なんの力にもならない。不毛なだけ。もうウンザリするほど不毛なのだ。馬鹿正直にder、die、 das とか繰り返した末にニーチェの一冊でもまともに読める様になった人が、いったいどれくらいあるのか、知りたいものです。全ては「眼の前の動機」なんですね。僕はホリエモンは何となく好かないけれど、たまたまどこかで好い事言っていたのに遭遇した。人間は生来怠け者で中弛みしやすい生き物だから、「遠い目標」など絶対に持てない。せいぜい目に見える範囲の細かい目的をクリアしていくだけなのだ。だからいずれ第二のイチローになりたい人は今日の素振りメニューのことだけを考えていればいいし、第二のビル・ゲイツのなりたい人は今日か明日の課題とだけ真剣に向き合えばいい。細かい中間目標のない大きな目標など、いらない。というより不可能なんだ。なぜか。一時間先のことさえ人間には分からないからです。そもそも生きている保証など僅かもない。明日あると思うこころのあだざくら。今日の苦労は今日だけでじゅうぶん、これはなんか違うな。遠大な目標なんかいりません。目前の計画達成にのみ専心していればいい。しかしこんな安い勉強啓発本みたいな語調、書いていてすごく嫌だな。ま、じぶんに言い聞かせたい。また脱線した。でも人生の大半は道草にある。

 

かつてカタルーニャはイタリアから遠くギリシアまでの地中海世界を支配した大帝国だった。現在は、一九七九年以来、スペイン北東部の自治州に過ぎない。カタルーニャの歴史は、カルル大帝時代の辺境伯領にまで遡ることができるけれど、そこまで掘り下げるのは西洋史マニアくらいで、ふつうはだいたい、アラゴン王国に統合されながも独自の文化を維持して地中海貿易で繁栄した、一二世紀以降の事柄が中心となる。スペイン王国が統一した後(一五世紀末)は徐々に衰微していくのだけれど、カタルーニャ勢力の中央への反発は根強く、反乱も少なくなかった。ようするにこのころから既に中央政府と対立していたわけだ。

面倒臭いから、ここで猛ダッシュで近現代にまで下る。一九三一年の「共和国宣言」が出され、一九三四年には完全独立をはたすべく革命を起こすのだけど失敗した。ここで後に「スペイン内乱」(一九三六~一九三九)と呼ばれることになる物凄い内紛が勃発する。対立図式はさほど複雑ではないのだ。反ファシズムの「人民戦線政府」に対して、国内では保守派が、国外からはイタリアファシストナチスドイツが手助けした武装反乱。フランコという強靭な精神に恵まれた軍人のクーデターなどが口火を切り、もう大変な騒ぎだった(ムッソリーニヒトラーとは違って、こいつがまた長生きするんだ)。スペイン内乱の内情については、自らも国際義勇軍として参加したジョージ・オーウェルによる『カタロニア賛歌』に詳しいから、読んでみてください。岩波の赤にあったと思う。ビッグブラザーもいいけれど、あれもいいよ。

カタルー二ャに関していうと、そのフランコに逆らう勢力がカタルーニャ方面に多かった。だから自然とそこは人民戦線政府の重要拠点になった。結果はもうみんな知っている。人民戦線政府は打倒され独裁政治がはじまる。反フランコ勢力の中心地であったカタルーニャが、フランコの存命中にどんな扱いを受けたかは、想像するにあまりある。

 現在はカタルーニャ語カタロニア語)の使用と自治権は認められているが、マドリード中央政府とは常に折り合いが悪い。バスクもそうだけど、その歴史を辿ってみても、なぜこれほど独立志向が強いのか、傍観者にはなかなか理解できない。経済関係やアイデンティティ歴史観といった出来合いの問題設定だけでは括れない何かがあるのか。

そもそも分離独立するためには、どんな「手続き」がありうるのか。何を以て「正当」とするのか。なんらかの国際的な「前提」はあるのか。よくよく調べてみると面白そうです。

たとえばかつてバングラデシュが大変な流血沙汰の末にパキスタンから分離独立に成功したけれど、同じ「独立」といっても、地域ごとに事情が微妙に違う気もする。ソ連という醜怪なリヴァイアサンが崩壊した後に次々生まれた独立国も、それぞれちょっとずつ違う。民族や宗教、地勢、歴史、生産事情、人口比率、世界中全ての地域はそれぞれおそろしく違いあっている。おもえば「民族」という言葉さえ粗すぎるし、実は使い勝手もよくない。

 

「独立」という言葉が紙面を踊るたびに、人はなにもかもを分かっている振りをしてしまうけれども、実は「独立」という現象についてまともに調査したことも思索したこともない。なんだか言葉負けしてしまっている。無知を痛感する機会さえ与えられない。池上彰もそこまでは人びとに教えてくれない。ひたすら自分の手足と頭脳だけで掘り下げろ、だ。

「複雑な世界情勢」とか何とか決まった文句を繰り返すより、もう少し世の中にありふれている種々の概念の見直しに集中した方がよさそうだ。カタルーニャ云々以前の前に、僕はそもそも「国民国家」というものを理解していない。「帝国」とか「民主主義」とか「国家安全保障」とか簡単に言ったりするけれど、いざそれについて問われれば口が凍り付いてしまう。ひどく残念だ。不勉強を恥じる、という気持ちさえ起らない我が身の薄っぺらさを大いに恥じる。

 

おのれの無知を知れ、ということです。

 

物語 カタルーニャの歴史―知られざる地中海帝国の興亡 (中公新書)