書痴肉林・蟄居汎読記

佐野白羚の古い雑文の一部を(たぶん)定期的にひっそり掲載します

山本作兵衛『画文集 炭鉱に生きる(地の底の人生記録)』(講談社)

 ちょっと似非文学風にいうなら、頃日、気鬱の虫がやおら集きはじめている。

フランク永井を聴いているときも憂うつだし、モーツァルト弦楽四重奏曲を流しているときも憂うつ、何か書いているときも憂うつ、ヒカキンとかその他雑多の底辺YouTuberたちを見てケラケラ笑っているときも憂うつだし、『百年の孤独』を読み直しているときも憂うつだし、バッティング練習をしていても憂うつだし、羽生結弦に見惚れているときも憂うつ、同志と形而上的激論を交わしているときも憂うつ、無銭旅行をしているときも憂うつ、アパート裏で勝手に摘んだ柿をかじってみてやたら渋かったときも憂うつだったし、大量のパンと野菜を土産にもらったときも憂うつだった。憂うつなんて問題ないさ、みたいな安直な生活記事を以前大量に書きちらしては売文してきたけど、やはり全部嘘みたいだ。懺悔しないといけない。「憂うつに解法なし、人類に救いなし」というのが目下絶大の確信なのである。最初からとことん本題と没交渉だな。

けれども僕はそもそも読後録など畢竟随想以外の何ものでもないと観念しているから、何を書いてもいいのだ。書くことの目的は書くという筋肉活動にある。人間はものを書くことで自己と社会を超越できる、などと赤面せずに叫んでいられたあの時代が懐かしい。何か快楽が必要なのだ。快楽、快楽とは何か。すくなくとも僕は知っている。快楽とは、一口にいうと、「そこに肉体的・物理的制限のもとに存在していない」ことだ。ギャンブル快楽、薬物快楽、房事快楽、文筆快楽、快楽のバリエーションはまことに果てしないけれども、それらに共通しているのは瞬時の「不在感覚」なのだ。え、そんなのもう知っているって。生物が生きているということは、それだけで凄まじい受難なのだ。人間はこの「消えたい」という強烈な内的要求を満たすために、いろいろな変態性を身に付けて来た。僕はこれを以前、「不在快楽論」というの題のもとに素描して筐底に封印した。

第一、本の値段とか著者略歴とか概要なんかはアマゾンや楽天の方がうまくまとめてくれるのだから、僕みたいな思索幽霊は、結局何を言っているのか分かりかねる狂人の寝言じみた「所感」を気随気儘に書きまくって、ウェブ空間のもはや末期ともいえる言論汚染をより悪化させることしか出来ない。

 

二〇一一年、山本作兵衛の筆になる炭坑画の数々が「記憶遺産」なるものに登録された。記憶遺産とは何であろうか。この胡散臭い響きがかえって耳に快いのでその興味は一方ならない。一分くらいで調べてみると、これはユネスコ主催の世界遺産事業のひとつで、「後世に伝えるべき歴史的文書」などの保存の奨励を目的としているらしい。くわえて、デジタル化などにより世界中の人々がそれらにアクセスしやすくすることで、世界的観点からその重要性の認識が高まることをめざしている(百科事典マイペディアを参考)。まずもって気になるのは、何が重要で何が重要でないかを最終的に決定する基準はどこにあるのか、ということ。いいかえれば国家間の政治的小道具となる危険性をどう軽減しているのか、ということ。もうひとつは、実に取り留めのない話だけど、そもそも人類の歴史に「記憶されるべき事物」など存在しているのか、ということ。

たとえば既に「記憶遺産」として登録されている文書には何があるかを見てみると、その性格の一端が分かるかもしれない。フランスの人権宣言、アンネ・フランクの「日記」(俗にいう『アンネの日記』)、ベートーヴェンの第九の自筆譜(そういえばむかし閲覧したことある)、藤原道長の「御堂関白記」。 なぜか分からないけれど、こういう形で並べてみると、ちょっと切ない気になる。どうしても舌足らずになっていけないけれど、こういう文書類が国際的文化機関のお墨付きを得て鎮座してしまうと、僕など急にそっぽをむきたくなる。「文科省推奨映画」とか「推薦図書」を嫌がる天邪鬼的青少年心理と殆ど同じ原理だ。いま思うのだけれど、ほうっておいても記憶されるものは記憶されるし忘れられるものは忘れられる、と言ってはまずいのか。ユネスコなどが「記憶しましょう」と言わなければ何も記憶されない、という話は信じがたい。しかしやはりそれではまずいのか。難しい、難しい。ある「遺跡」を修学旅行の定番コースにしたり、繰り返し繰り返し「私たちはあの出来事を忘れてはならない」と無理やり回顧させることによる「教育的効能」を、これまで僕はろくに考えてみたことがなかった。「忘れられてはならないこと」と「忘れられないこと」はどう違うのか。歴史が悪夢に他ならないことは皆知っているけれど、その悪夢の断面図をいちいち覚えていることで避けられる悪夢などあるのか。一世代二世代三世代のうちで記憶して何とかなる問題などありうるのか。元来我々が後世のことなど本当に考えることができるのか。これを自分のつむじ曲がりの所為にだけにしていいのか、分からない。とうぜん僕は、「地球の為に」とか「子孫のために」とか「人類の為に」などと叫んでいる連中がぜんぶ自己欺瞞のインチキであることを知っている。そういうことを叫んでいる連中自身が実は自分の言葉など少しも信じていないことも知っている。けれどもこれと記憶遺産の話は微妙に違う気もする。

 

明治初年度から昭和三十年代の閉山までの炭坑現場の様子を窺い知る方法はいくつかあるのかもしれないけれど、七歳から筑豊炭田で働いていた山本作兵衛によるこの訥々たる画文集くらい、当時の現場の体臭を染みこませているものは少ない。「明治国家の殖産興業政策の影には無数の炭坑労働者がいて云々」という例の迷調子の、いわゆる「国民の歴史」による通り一遍の記述では汲み取りえない生の皮膚感覚が残っている。

ものを伝える方式にもいろいろあるのだなとつくづく感服した。「記憶遺産」の是非はまだ決着しないけれども。

 

画文集 炭鉱に生きる 地の底の人生記録 (講談社+α文庫)