佐野白羚の文筆武者修行

佐野白羚による随想ならびに読後録(「蟄居汎読記」「書脈録」)を不定期掲載

朝倉かすみ『感応連鎖』(講談社)

感応連鎖 (講談社文庫)

 (未定稿)

 

むかし読んだソ連ジョークに、こういうのがあった。

ある有名女優が舞台監督に注文をつけた。「わたし根っからのリアリストだから舞台のシャンパンは本物にしてよね」そこで監督は陽気に言った。「よろしいでしょう。ただし第三幕の毒薬も本物ということになりますが」

リアリズムとはぜんたい何か。いい加減教えてほしい。実を写すことが芸術的リアリズムの理念だとすれば、どうして経験世界の「実」では満足できないのか、と嫌でも思ってしまう。「人間のありのまま」が経験世界では最初から隠蔽されているからこそ、文学はそのベールを剥ぎ取らねばならないのだ、という向きもあるにはある。「現実」にはノイズが多すぎるのだと。けれどもそのノイズそのものが社会のリアリティを表しているのではないか、と言うと、ノイズは本質的には重要なことではない、と。

 

 

とでもいうのかな。

「実」とは何か。

 

 

演劇や文芸はたしかに虚構で、虚構は「つくりもの」なのだけど、その「つくりもの」が経験世界の鏡像を偽りなく映し出していると思われる瞬間がある。古今東西に色々の演劇・文芸が普及する理由の一端はおそらくここにある。

 

およそジョークの解説なんか最低に野暮な作法だけど、この笑いにどこか深い陰影を見た気がするのは、いったい芸術的リアリズム(日本ではしばしば「写実主義」)とは何であるかを嫌でも考えさせてくれるからなのだ。出版人はドストエフスキーをよく「魂のリアリズム」なんて激賞するものだけど、それは彼の文学が「人間の実態」をありのままに活写しているからなのか、よくわからない。何かをありのままに描くという表現様式にも、実に色々の違いがあって、単純な括りはこの際無意味だろう。「著者の感傷を一切排して全てを描き切る」という作法だけが「リアリズム」ではない。うんそうだそうだ(国会のヤジ)。「現実世界」とは全く無関係な舞台装置を介して「人間の本質」に迫るという表現作法も現にある。第一未来空想小説なんか「経験世界」とはかなり無関係だけれど、そこでの人間たちの「心の動き」は今の我々とそう隔たっていない。その恋愛心理も権威への服従精神も金銭フェティシズムも、ウンザリするほど現生人に似通っている。「人間の性質」は未来永劫不変であるという、作者の暗鬱な人間観を滲ませているつもりなのか、そのへんのことは分からないし、まずどうでもいい。ただ重要なのは、どんな世界あるいは時代の、どんな人間、生物、事柄を描くしても、言葉と表現様式からはそう自由になれないのだということ。こと文芸に関してはまず、文字の縛りを逃れることはできない。ラングの縛りもある。程度の違いはあれ論理の縛りからも自由になれない。自由になれないとは、要するに、表現活動に置いて常にその作用を意識しなければならない、ということである。

たとえばあるワグネリアンバイロイト音楽祭で感極まる。それは他者に伝達したい。けれども彼がどれだけ、「言葉などではこの感動は伝えられない」などと表明しても、その感動の様相はまるで伝わってこない。「音楽印象」の言辞化が不可能であることなど、大抵の人は知っているからだ。にもかからず、ニーベリングの指輪の感動に打ちのめされた彼は、これを文章で表現したい。文章で表現する以上は、どうしても他者の了解を前提とした言語運用を心掛けねばならない。社会的等質的な意味作用を内包した言葉を一定の規則に従いつつ選択・表現しなければならない。自分だけにしか通用しない言語(自己言語)は、文字通りナンセンスにおわる。言語運用は本質的・機能的通用性と常に一体となった活動なので、「自分だけの言葉」という発想は、それ自体、無内容の後発的産物なのだ。それに、かりに「dfじうぇjふぇっをふ:::ぁをふぃをfwq」というパターンの自己言語があって、それが彼のワーグナー体験の感激心理を刻印するものであったにしても、その自己言語もまた「文字の縛り」にはきちんと従っている。縦書きとか横書きという文章作法にも従っている。もしそうした文法・文章規則一切を無視した行為があったとしても、それが表現と呼びうるものかどうかはかなり怪しい。もっというなら、「われわれ」は常に心の表現活動において、挫折しているのだ。言辞表現と現感覚が合致することなど、ありえない(両者は質的に断絶している)。だってそうだろう、甘栗をくっても「おいしい」、マグロ丼をくっても「おいしい」。「おいしい」という言辞の適応範囲を盲目に拡張しないことには、こういう乱雑なことにはならない。「感応のグラデーション」に対して、「言辞のグラデーション」は絶望的に粗雑であるのだ(言辞化不可能性と言辞化行為の「禅語録」の問題とも関わってくる)。

 

「経験世界」に即していない全ての文学表現が「ファンタジー」

 

 

むかし舞台上で本当に拳銃自殺をした役者がいたけれど、

 

 

文芸の枢軸価値はその虚構性ゆえに暗示的でありうる感応経験のうちにある。虚構であるにもかかわらず、ではなく虚構であるから、という点がみそだ。

じゃ、日本の標準的文学様式がリアリズムに

 

万引きリアリズムはたとえば

 

ソ連ジョークにリアリズム派だから本物のシャンパ

 

 

子どもに自分の理想を一方通行に投影して「かくあれかし」と願うのは人情の常らしい。けれども、いま必ず言えることは、「他者は自分の思い通りにはならない」ということだ。絶対に。世の中確実なことなど殆どありえないけれども、これだけは永久に変らない。他者は人の思い通りにはならない。およそ生物の世界に「思い通り」などありえないということを、人は挫折と失望のうちに学ぶ。

「自分」が「世界」の中心にあり、その「世界」が自分の意志・行動によって思い通りになると辛うじて信じていられるのは、乳幼児のごく短い期間だけ(この期間さえ持てない個体もある)。この期間だけは、泣きわめけば養育者がオムツを変えてくれるし、むずかれば全身であやしてくれる。いつまでもそうはいかないのが生物界の掟。自分の場所が宇宙の中心ではないことを思い知らねばならぬ瞬間が必ずくる。「実はこの世界は、自分の存在のことなど忘れているのではないか、あるいは殆ど気にかけていないのではないか」という不安を懐胎する瞬間がくる。「人間」が絶えざる「自己相対化」の運動に巻き込まれてしまうのは、この瞬間からだ。

 

というよりも他者が自分の思い通りになると考えていること自体が、すでに病なのだ。

 

 

 

*****(以下文案ごみかご)

力士に「ソップ型」と「鮟鱇型」の類型分けがあるように、ノベルにも「カルピス原液型」と「ビール型」の違いがある(一人合点)。ごく大づかみにいって、原液型のそれは濃厚すぎて決してさらりとは読ませない。喉が焼けそうになる。全体の基調は毒々しく辛辣で、心理描写にも人物描写にも仮借がなく読み手に息継ぎの隙を与えない。原液型ノベルは読者に対する本気の挑発表現でもある。「これが人間なのだ、目くそ取ってよく見ておけよ」と素手で臓腑をえぐりだす解剖学者のよう。

ねちねち(この擬態語はカタカナで書くといまいち粘着力が出てこないから注意)した執念深い冷徹の描写といえば、たとえばどんなものを言うのか。

引用はいちいち骨だから、何か例文をひとつ考えてみる。

「花瓶の水を随分長く換えていないのでアオミドロのような腐臭が湿った畳の臭いと混ざりあっていた」

適宜薄めながらでないと喉が焼けそうになる。

 

ノベルを読んでいてこれだけガツンと面食らったのは、フランコナリー・オコナーの『賢い血』以来の二か月ぶりだと思う。同じ著者のものは前にもいくつか読んでいて、たとえば『田村はまだか』(光文社)の感触は今でもよく記憶しているけれど、あくまでそれは山海の一珍味としてに過ぎなかった。今回のは、その辛辣さと観察眼の冴え渡りにおいて、尋常ならざる作物になっている(この「尋常ならざる」という修飾語法ずいぶん好きだな。たぶん一週間に三回は使う。尋常ならざるものがそんなにあるのは変だけど)。「小説で考える 自意識の病理学」というふうな副題を添えたくなるくらい。

とうとつの問題設定だけれど、いったいノベルとは何のためにあるのか。これが重要です。ノベルを

 生身の人間が生きるということは、不愉快な隣人たちと何とか折り合いつつ共存していくイバラの道程であると思う(道程という言葉の価値負荷性が気になるなら、妥協とか順化と言い換えてもいい)。

これは「絶対者」ではありえない社会的生物の悲喜劇でといってもいい。この条件なくしては「地獄」も「涙の谷」もイプセンの問題劇もありえない。人間の存在様式はその根底において既に社会化されているから、「個」を中軸に据えた「世界観」など大半が虚妄なのである(思わず使ったけれど、これなかなか恰好の付く言葉だね。虚妄虚妄。今度誰かに会ったら「その発想は虚妄に近いよ」と言ってみたくなってきた)

この「社会化生物」というのは、何も生存面における他者依存のみを指すのではなく、その世界認識面においての他者依存も示している。どういうことか。それは、「私」という存在が既にうんざりするほど「世界(社会)に出遅れている」ということに尽きる。出遅れているから、「私」は当然「何も知らない」。何も知らないからこそ、涙ぐましいほどの「生得的努力」を以て「社会における生存の作法」を必死に覚えなければならない。当人はその学習過程に無自覚かもしれないが、この努力は極めて差し迫った悲痛の合理性を反映させている。ああ考えてみてくださいよ。「とりあえず養育される」というだけでもなかなか生物としては得難いことなのだから。生きるために食う、大変なことだ(食うために生きるのが文化であると言った人もあるけれど)。寒さから身を守る、これも大変。社会的に孤立しないように努めるのも実は大変。

生存の作法いわゆる

「私」よりもずっと先に「あなた」があり、「彼彼女ら」がある。逆ではない。

不愉快への耐性、生活ノイズへの耐性、社会的「不条理」への耐性。「耐える」などと書くと何だか一方的な痩せ我慢の様に響くけれど、それ大いに違う。いつも痩せ我慢ばかりしていると思っている人間もまた他者に痩せ我慢を強いているのだ

 

 

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どんな種類であれ何かのノベルを読んで、とことん面食らうという経験は、人間、あるようでない。これは大変なものを読んでしまったぞ、というふうのメリメリした緊張感覚は、得ようと思って得られるものでない。

なぜなのか。身も蓋もないけれど、作品が悪いのだ。ほとんど。面食らう、恐怖する、戦する、という経験に突き落とすだけの潜在力が、その作品に乏しいだけなのだ。僕はこれ以外の理由を挙げることができない。未熟で馬鹿な読者が俺の高尚な思想を理解できないだけだよ、みたいに嘯いている作り手も巷にはあるだろうけれど、僕はそういう小児病的な貴族主義を笑殺することこそ「知の良識」であると信じている。歴史をみれば、秀でた思想は伝達努力と相即不離

 

受容者の心的作法とか置かれている立場云々なんか、ぜんぶ嘘っぱち。本当。

 

 

これはおよそ人間による文芸作物全体に通底していることだけれど、ある程度まとまって完結した

 

どんな血なまぐさいサイコスリラーであれ、どんなシビアな問題劇(いやもう骨董品みたいなジャンル名だね)であれ、読者観劇者

 

こんなの所詮作り物じゃない、と常に心の隅でささやかれているからです。

本当はあったほうがいいのだけれど、

難なく読み終わって、