佐野白羚の文筆武者修行

佐野白羚による随想ならびに読後録(「蟄居汎読記」「書脈録」)を不定期掲載

別役実『淋しいおさかな』(PHP文庫)

 

むかし読んだ本で、著者は皆目忘れてしまったけれどたしか、「青年が美しいのは、彼らが決して終わらない問題のために真剣に悩むことができるからだ」というふうな文言があって、それがずっと奥歯に挟まったシシャモの小骨みたいに記憶されているので、しばらく一考を差し向けてみたい。それにしてもこの言葉、ずいぶん青年というものを買い被っている人だなあと思えなくもないけれど、少なくとも、この書き手の皮膚感覚では、彼の生きていた時代、青年たちはかつての白樺派のように高邁な「実存的問題」に日々懊悩していたのだ(もちろん個体差は大きい)。そして若さゆえの虚勢であるにせよ学生などは、「栄華の巷低く見て」という調子の旧制高校的気概もある程度は引きずっていた。そういう時代は「俺たちが社会を変えるのだ」と気炎を吐く連中も少なくなかったし、「この大宇宙の謎が分からないくらいなら身投げして死んでしまおう」という悩める青年も少なくなかった(たぶん)*注*

 

*注*《こういう「たぶん」みたいなものは、たとえば内田樹さんの素晴らしい文癖のひとつで、要するに自分の断言をただちに保留に付する一種の著述マナーといえるのだ。適宜適切の「自己ツッコミ」を挿入することで、全体の主張が過熱暴走することを未然に防ぐ。

例)彼らのように熱狂するだけでものを考えない畜群的人間が増えると、与党はますますこうした不満分子を延命的に動員しやすくなるのだ(かくいう僕も普段何も考えないのだけどね)

この自己ツッコミの技法がもうちょっと高レベルになると、一つのテーゼをやんわり否定もしくは保留することで、直面している問題の単純化を回避し、より高次の認識を暗示することになる。これがすなわちアウフへーベン(止揚)で、既に時代遅れの刻印をおされて久しい用語なのだけれど、内実は決して廃れていない。『碧巌録』のような禅語録にある「著語」もほぼ同じような保留機能を担っているのだけど、おしなべてこの種の能書きは長くなると逆効果らしいので、この続きはいずれまた。》

 

「青年」とは何か(いつも壮大な本質論的設問ばかり)。答えにくい。本当に。まだ「国民国家」とは何か、とか、「議会制民主主義」とは何かという問いのほうが模範解答らしいものを示せるというものだ。手近の辞書ではだいたい「十四、五~二五くらいの男女を指すが、しばしば三十代を含めることもある」という具合に何時も通り実に素っ気なく記しているけれど、僕自身の日本語センサーによれば、青年という年齢範疇に「女性」は入ってこない。ジェンダーバイアス云々の面倒な話は同好の士だけでやってもらいたいのだけれど、ともかく、「少年」という言葉同様、「青年」という言葉にも抜きがたい「男くささ」がある。なぜだろうか。なんだか厄介で難しいね。ちょっと似たものとして、サラリーマン(もうウンザリするほど俗悪な言葉だな)というものもある。後から出て来たサラリーウーマンというのはかなり言いにくいし音としてもイビツだ。そもそも定着していない。言葉と性の問題、これはこれで沢山の問題提起と膨大な研究があるから、うかつに扱えない。

僕が青年と聞いて脳裏に表象されるのはちょうど、埴谷雄高の『死霊』に出てくる三輪与志のように陰鬱で取り留めのない宇宙論にばかりかまけている気難しい高等遊民だったり、『カラマーゾフの兄弟』のイワンやアリョーシャのような過度に純朴だったり(勿論この純朴も途中劇的に変質するのだけれど)、過剰に知性的な若者の姿だったりする。そういえば、一九世紀半ばのロシア文学に「余計者」という人物類型が登場したでしょう。物凄い知性と教養に恵まれながら無気力で現実を直視しない没落貴族。たとえばツルゲーネフの『ルージン』とかプーシキンの『エブゲーニー・オネーギン』、ゴンチャロフの『オブローモフ』がその典型。あの「余計者」に共通する現実遊離の性質が、「青年」の必須条件と僕は思うのです。「現実的な青年」なんて言い方は、丸い三角形というのと同じで、形容矛盾。

だから、青年と聞いて反射的に想像される人物類型は、大概決まって「三輪与志」的なものなのだ。その凄愴の気において、彼こそ、ロシア的「余計者」の最終形態という観がある。埴谷雄高がこんな特殊変態の人物を造形できたのは、彼自身のなかに三輪与志の心性がどっしり居座っていたからに違いない。たしかに古今東西、いろいろな作家が色々な「青年」を造形してきた。でもどれも正面から「青年」と呼びたいものではない。『太陽の季節』に描かれた群像も青年とは呼びたくないし(クソガキではあるけれど)、「若大将シリーズ」の群像も純性の青年とはいえない(この辺の判断は極めて主観依存性が強いのだけど)。何に比べても三輪与志ほど魅力的で「病的」な青年はいない。端的にいうと、「三輪与志」的な成分を含まない青年は、決して青年とは呼べない。そういうのは「青年もどき」とでもいうべきものだ。真性の青年は一つの問題だけに沈没しているから、いつも途方も無く無気力で途方もなく現実遊離している存在である。

要するに青年はモラトリアム(支払い猶予)の特権に甘んじながらも、どこか精神の安定を欠いていて、そのために始終鬱然たる宏大な黒い想念をいつも頭蓋に秘めている。自分の「存在」とぴったり重なることができない。青年はいつも、揺れている。大いに揺れている。このすさまじい振幅を示す揺らぎだけが彼らの存在意義を形作るくらいに。その想念は計算高き「人生の欲望」に汚染されていない。預金残高を始終気に掛けたり住宅ローンの選択に余念のない所帯じみた生活人を見下す暇もないほど、彼らの一部は自分の思考と想念に夢中になっている。夢中にならざるをえない。言い方を思い切って換えれば、青年というものは、自分の存在そのものを「哲学」の生贄として捧げることを毫も厭わぬ人間のことなのだ。冒頭に挙げた著者が美しいと感じたのはきっと、そういう欲得なしの純性に探究心に他ならない(うん、なんか色々勇ましいことを書いたので、もうそういうことにしておこう)

周囲に養われているにもかかわらず、彼らはしばしばあらゆるものを敵視し、攻撃し、薄汚れた社会や歴史を舌足らずの言葉で弾劾する。「大人の嘘」をあばき、「友人の無理解」に憤り、「生ぬるい日常」を否定し、「それなりの将来設計」を粉砕する。

繰り返すけれど、このどん詰まりの八方ふさがりの不安定のなかに、青年固有の「純潔」がある(もちろん当の青年はそんな言葉を「ふざけるな」と一蹴するだろうけど。少なくとも僕が当の青年なら、ただでは済まさない)。

青年はかならずしも年齢のみで規定されるものではないが、だいたいにおいて人は年齢通りに「鈍化」する。劣化する。退化する。いつの世にも「永遠の青年」などと自称する木偶の坊がいるけれど、僕にはそんな酔っ払いの自己顕示みたいな宣言をまともに信じる度量がない。「永遠の青年」を自称する人々は、「青年」でありつづけることがどれだけ「生きにくく」、どれだけ「無惨」な情念と自殺衝動に満ち溢れているかを、あまり考えようとしない。「青年」というものは「青年」を失った人間の眼には美しく映るけれども、青年当人は時に発狂寸前の情態であったりするのだ。それでも青年はただ考えるためにのみ考えている動物であるから、「俺は青年だ」などと自己を客観化する薄汚い意図も時間も余力もないのである。

老いた革命家を想像するのが難しいように、年老いた煩悶者を想像することもまた難しい。事実煩悶ほど普遍的な心理様態はないにもかかわらず、その煩悶と最も親和するのはほかならぬ青年なのだ。だいたい五十年くらい前、五木寛之に(僕はこの老作家のエッセイは大半読んでいるけれど、小説は『青春の門』の最初の二三巻しか読んでいない。それにしてもこういう括弧注釈はただでさえ読みにくい悪文を更に読みにくくするので以後極力使わないことにします)、『青年は荒野をめざす』という小説が出て(ザ・フォーク・クルセダーズの歌もいいけど。舌も乾かぬうちにまた馬鹿括弧)、大変流行したことがあるけれど、この「荒野」というイメージ、今思えば絶妙の言語感覚と唸らざるをえないものだね。いや本当。これお花畑では噴飯ものだし、草原じゃまずい。沙漠もなんか違う。青年がめざすのは荒野でなければならない。ヘルマン・ヘッセの『荒野の狼』(Der steppenwolf)は僕の偏愛する作品の一つだけれど、この荒野の心象も「青年的なもの」と実に親和性が高い。青年の眼下に広がるのは、強靭な雑草だけが点点と生えている殺伐たる地平でなければ、どうにも間が抜けてしまう。

林房雄の『青年』や森鷗外の『青年』についても何か一考加えるつもりだったけれど、なんか詰まらないというか細かい話しか思い浮かばないので、「悩める青年たち」の雑談はこの辺で収めます。フィクションを通して「幕末の志士」に憧れる人々が戦後絶えない理由の考察もいずれまた。

目下の問題は、どうやってこれを別役実の童話集に架橋するか、ということなのだけれど、それは大したことではないのだ。ある話を殆ど無関係の話にリレーすることについては、もう慣れている。昔から何千何万回もそんなことしてきたのだからね。

 

本作に限らず、劇作家・別役実(べっちゃく、という読み方が本当らしい)の筆になる数多くの童話については、不気味で不条理で時に大味に過ぎて取り付く島が殆どないのだけれど、読後、不思議な酸味が口に生じることがあるのだ。これっぽっちも目出度い結末でないのに、さばさばした気になれる。例の薄汚れた想念に浸食されていないためだと、僕は思う。

最後にこれだけはどうしても言いたい。

「青年は大志などという下らぬものよりも哲学を抱きなさい。というより哲学という白鯨に呑み込まれてしまおう」

 

淋しいおさかな (PHP文庫)