書痴肉林・蟄居汎読記

佐野白羚の古い雑文の一部を(たぶん)定期的にひっそり掲載します

丸谷才一『女ざかり』(文藝春秋)

 大新聞に所属する女性の論説委員・南弓子が、あるコラムをきっかけに政府与党から圧力がかかり、「閑職」に飛ばされそうになる。
そこで女性論説員は恋人や親戚の力を総動員しこの圧力に抗するが、はたしてその結末どうなるか。

筋の要約だけだとこれで終わる。これで終わってもいいのだけれど、ここは僕しか書かない様なことを頑張って書くべき場所なので、こんな文庫本裏の紹介文をそのまま写した様なもので満足するわけには、いかない。どうしても。

読中読後、第一に、丸谷さんの小出しに決めてくる新奇絶妙の造詣に余程吃驚した次第。文人墨客の揮毫がなぜ政治家に重宝されるのかを分析する件、御霊信仰に基づいて西郷隆盛銅像化を論ずる件、選挙対策の金銭授受を贈与論的見地から説明する件など。学問的妥当性などこの際どうでもよくて、一読合点してしまうこういう目からの鱗の開陳過程が作品の妙味を一層深くしている。それもこれ見よがしに語るのでなくてさりげなく当意即妙のタイミングで解説するものだから余計奥ゆかしくて、僕もこの知識開陳作法には余程影響されたけれど、その実何一つ体得してはいない。もう情けなくて情けなくて。 

すなわちこの人は正真正銘碩学なのである、といったら称賛に過ぎるか。いやでもそれくらいいいたくなる。碩学といえば日本では中村元とか加藤周一とか井筒俊彦みたいな学匠をいうけれど、彼らに共通している点はひとつ、碩学オーラである。碩学オーラの有無が碩学かそうでないかを決定するのだ。碩学オーラについてはまた別のときに詳しく考察したいけれど、ともかく写真の印象でさえ何か異様な知的気圧を感じる人が世の中にはいて、そうした人が碩学なのである。丸谷さんは文章にも写真にも明らかに碩学オーラがある。現にその学殖は半端なものではい。彼の筆になる作物を手当たり次第何か読めば誰でも納得されると思う。 

ところでフランスの社交界には過分の激賞を通して皮肉を表明したり評価の失墜をはかるという、極めて陰険な風習があると聞いたことがあるけれど、たしかにこうして褒めまくっていると幾分肌寒い気持ちになる。もちろんそこに敬意漲るものがあるのは確かだけれど、心のどこかには、自分の誇張的称賛行為を検知する機制が働いてるのも感じられる。ともかく、褒めると行為には、他人の猜疑心ないしは懐疑心を呼び覚まさないではおかない何かがある。僕は当面これを「称賛の自己阻害性」と呼ぶことにする。称賛度の高まりそのものがその効用を減退させるという法則で、これは普通どこでも見られるし誰もが経験している。日本語で俗にいう、「ほめ殺し」だ。
例を二三。

 

「あの首相の判断さすがだよな、金のスキャンダルも聞かないし彼みたいのを政治家の鏡というんだね」「いやそうでもないよ、下半身が案外だらしないみたいだぜ」
「**ちゃんがあのグループのなかで一番綺麗なことに異論はないよね」「いや、そうとばかりもいえない、胴に比して足がふとすぎて均衡が悪い」
「**先生の論文は理路整然、まったく非の打ちどころがないと思わないかい」「僕はそうは思いません。一部情緒に流され過ぎるきらいがあって、その点がどうしても気になります」 

 

思い起こせば頻繁にあるでしょう、こういう事例。褒められている当人のいないところで当人を褒めれば褒めるほど、それまで受け身だった聞き手はいよいよ向きになって、何か粗をさがそうと必死になる。二三の人間が額を集めて不在の某を心から褒めちぎる光景など、僕は想像だにできない。時代の政治的英雄も国民的アイドルも、この「称賛の自己阻害性」からは、逃れられない。まして市井の凡人にあっては想像するにあまりある。嫉妬は大抵他者への称賛に起因している。身近の他者が沢山褒められるのを「おもしろい」と感じられる人間は、広い世界どれくらいいるか。よほどのお人よしか間抜けは別にして、人間はふつう自分がかわいい(といってもこういう一般化はふつう自分の経験を軸にしたものなのだけど)。こと自分に関してはいかに明敏を以て鳴らすモラリストも盲目に近いといえる。人間は自分以外の者に対する称賛には極めて神経質であるし、さらにいうと、しばしば敵対的でさえある。とことんチヤホヤされたあとに突然奈落の底に落とされるセレブリティの運命を司るのは、こうした「凡人の集合的嫉妬」に他ならない。偉い偉いすごいすごい綺麗綺麗と他人が褒められているのを耳にしていると、かならずムカついてくる一群がいる。なんか悪いことや疚しい部分はないのかと詮索し出す一群も出てくる。こうした一群の不満詮索欲を劇的に解消するのに一番いいのは、スキャンダルだ。スキャンダル(醜聞)は頂点近くまで成長した名誉を極端に傷つける偶像破壊の一撃で、今日では週刊誌やかつてのイエローペーパーのような扇情的かつ攻勢的なマスメディアがその発端を探しだす。もっとも事の原因はもっと複雑に入り組んでいるのだけど、ともかくスキャンダルによる失墜の背後には、「その他大勢」の静かな「嫉妬心」がひしめいている。お金持ちが脱税疑惑や詐欺容疑で捜査を受けると義憤を装って歓喜する。清楚なイメージの定着した美人女優の不倫が発覚すれば、不倫さえできない凡庸な女たちは我が身の惨めさに不思議な慰めを見出す(失墜する名誉など最初から持たない安心感もそこには含まれている)。

凡庸な嫉妬心がいかに災いをもたらすかについては、またいずれ論じます。

 ここで押さえておくべき定理はひとつ。

「人間は他人に対する称賛を正気で聞き続けることは出来ない」

たとえ彼彼女が「称賛に値する」と頭では了解していても、眼の前で称賛ばかり聞かされるのにはとうとう堪えられないのだな。称賛されているのが自分ではなくて(利害関係のない)赤の他人であることに、内心我慢ならない。そしてその我慢ならない度合いは、称賛対象者との関係距離に反比例する。ようするに褒められているのが身近な人間であればあるだけ、くやしいのである(姉弟姉妹、師弟関係の壮絶な嫉妬劇をみたまえ、あるいは思いだしたまえ。ただし子どもを称賛されている場合の両親のそれは別だ)。
こんな具合に、嫉妬という心理現象は、称賛のこの諸刃的性質と切り離して論ずることはできない。

だから僕は丸谷さんの作品を最も効果的に称賛すべく、まずは称賛そのものに一定の抑制をかけなければなりません。称賛の言葉に多種多様のツイストを加えられる修辞語法を開発し、その修練に努めなければなりません。褒めるって実は大変なんですよ。一人勝手に恍惚境で感動していれば済むものではないからね。まして書評家ともなると、その苦労のほどは自ずと察せられるよ。

ともかく、丸谷さんの小説には専業作家でなければ成せない創作技芸がふんだんに盛り込まれているし、全体の風格も生半可なものではない。権力と言論人の間に繰り広げられる譲歩戦の描写が本当に小気味よい。権力の中枢にいたことなどないはずの一作家がどうしてここまで想像力をたくましくできるのか、つくづく感服した。官邸や首相夫人の描き方なども心憎いほど「うまい」(ここで「うまい」というのは、読みながら、政治をめぐる人間の人間臭さを感じないではいられなかったからだ。文学はルポルタージュではない。事柄の時系列的記述ではなくて、リアリティの造形描写が文学の核をなしている。文学の言葉は、濃淡無限の「重み」を含ませている。眼の前にないことさえ「あたかもあるかのように」描き出して、読者を納得させる凄みが文学の中枢にはある。『女ざかり』の場合、登場する人物はみんな非実在だし、事件も虚構だ。僕たちの生きている「歴史的事実」ではない。にもかかわらず、そこで描かれている人物は概して「現実以上に現実的な重み」を担っている。権力中枢に漂う生々しくも緊張した気配や人間臭がそうした重みを与えているのだ)


繰り返すけれど、文化人類学から叙勲事情までの作者の縦横無尽の薀蓄だけでもぜんたい読む甲斐がある。
それに、面白くて中だるみのない物語りはもちろん、人物のセリフや形容表現にも奇抜の遊び心がきらめく。論説委員を追われそうになった弓子の孤独感をキューピーの記事中広告の天使に仮託して示すあたりはさすがに舌を巻いた。新聞記者の心情を示すのに新聞紙面を使うなんざ、乙と思わんか。比喩を発案した瞬間の丸谷さんのしたり顔を見たいと思ったね、丸谷さん、技あり。
彼は、文学に関する桁違いの教養と方法意識が血肉と化しているような人だから、小賢しいばかりな「技巧」の嫌味はない。こんなふうに書いても、なんだか不満足だ。称賛の定型化は所詮避けられないのか。

この辺で一区切りとします。じゃあね。

女ざかり (文春文庫)

女ざかり (文春文庫)