書痴肉林・蟄居汎読記

佐野白羚の古い雑文の一部を(たぶん)定期的にひっそり掲載します

アンドリュー・ソロモン『真昼の悪魔(うつの解剖学)』(堤理華・訳 原書房)

アンドリュー・ソロモン『真昼の悪魔(うつの解剖学)』(堤理華・訳 原書房
 
そもそもうつ病というのは何もので、現場ではどんな治療方法が現に行われていて、どんなふうな歴史を持っているのか。大部のこの労作はそのあたりをばっと辿ってみせる。こういうの、あるようでなかったな。せいぜいあっても、こんな治療法がありますよ、とか、こんな症状の時は医者に相談しましょう、という精神科医による安直なアドヴァイス風のものだった。そこにはしばしば、「つべこべいわず医師に相談しろこの素人め」という傲慢な魂胆がみえみえだった。もちろん医者にみてもらうという判断は間違っていない。ある種の「精神疾患」に対して薬物療法が好ましいことを示す調査は、たしかにある(はずだ)。れっきとした「肉体の病気」なのだからちゃんとした医者に診てもらうべきだという理由は、私の様な人間にもよく分かる。
 
けれども人間という動物がなんで「鬱」に見舞われなくてはならないのかを知りたい一読者としては、おおいに不満ののこるものであった。わたしはとかく、現象の根元に今直ぐ迫りたいという種類の人間なのだ。細々とした治療プロセスよりも、いつからこういった症状が確認されていて、人間はどういうときに自殺してしまうのか、そのそもそもの原因はどこに帰するべきなのか、そこがズバリと知りたい。この本はそんな観点も巧みに取り入れてあるから、ことごとの切り口も面白い。進化や政治や貧困との関わりも見逃せない問題であろうし(9、10、11章)、実際の「うつ病」患者に対するインタビューも多いので、机上の空論に傾かない。著者のフットワークは実によいのだ。マルクスもそうだけれど、物を書いて人に指針を示すような人間は本来こうでなければならないのだな。こんなのを読むと、「人間というのは実に悩み深い生物ですね、なぜこんな悲しい素質を持った生物が何千年も生き残ることができたのだろうか、自殺することもなしに」と思ってしみじみ嘆息するのを我慢できなくなる。けれど、面白いのは主として下巻であって、上巻の薬などの話は時代の推移に取りのこされがちの分野だから今更読んでも得る物がない。
 
そもそも私は鬱病というものが抜本的に療治可能なものとは信じていない。これは個人的な実経験でもある。思えば「既存世界」そのものが迷いに迷って行く先を決めかねているんだから、一個の人間にそんな治療ができるはずがないのだ、と観念している。こんなことはしかし、思索以前に分かることだ。システムや既存宇宙が何かしら病んでいなければ、個としての生物は病まないだろう。「個体」は、最初から最後まで「世界」から独立しえない、極めて文脈依存性の強い意識者であるからだ。この類推は飛躍ではないだろう。
 
第一に人間という生物は自分が何者であるのかも分っていない。この既に始まっているらしい「世界」(「そのようにあり、そのようにあり続けている世界」)のことを何も知らない。ここが何処であって何のためにあるのかも知っていない。これはやっぱり不気味な経験である。このことを考えると、私でも息苦しくなって不整脈状態になる。そんな絶望的無知を強いられた生物個体が安定していられるはずがないだろう。人間は頭の天辺から小指の爪先まで、謎の塊なのだ。マス・オブ・ミステリーである。何も分からない、何も分からない、何が分からないのだろうということさえ時として分からなくなる。本当に何も分からないのだ。私だけが馬鹿なのではない。人間の細胞のひとつひとつには「謎」という字が深く刻印されているのだ。

なぜ「何ものか」が存在しているのかという謎、「世界」がこうやって推移していることの謎、過ぎ去った「過去」がどこに集積しているのかという謎、個体にとっての死が何であるのかという謎、自分の自由意思など本当にあるのかという謎、何故人間は他者を裁きたがるのかという謎、なぜ自分の子どもでなければあそこまで冷淡になれるのかという謎、この不思議で不気味な有機体が形成された謎、この残酷で不確実な世界でなぜ人間が敢えて子孫を残してきたのかという謎、「パチンコ」の電飾文字の一つが欠けるときに何故よりによって「パ」の字が選ばれてしまうのかという謎、すべてが謎のまま古代から今に至るまで問われ続けているのである。鬱病という心的現象を起こさせる大本を一つだけ特定するとすれば、それはこの「謎」が誘発させるところの問答無用の不安感に違いない。もうただそこにあるというだけで怖いのだ。やりきれないのですね。息苦しくなる。生きているという感覚そのものが既に悪寒にふるえている。これは詩的言語でも扱い兼ねる凄絶の心境で、木石たりえない殆どすべての生物個体が実はこの不安感を根底に持っている。生きるということはこの絶対零度の不安に戦慄しながらも敢えてそれから目を逸らす技術を体得し続けるということなのだ。人間は、それだから、悲しい。
 
鬱病というのは結局は人類の業病なんだ。中世の「白昼の悪魔」もチャーチルの「黒い犬」も、その根はおよそ同じところにある。この病はどこにでもある。ありふれた狂気、というよりも、ありふれた正気というべきものだ。そうだな、正気なんだよ。彼彼女らは正気すぎるのだ。「どうせ馬鹿なら踊らにゃ損損」的な作法を軽視しすぎたのだ。ありていにいえば、鬱状態は、素面(しらふ)に近い。眼前世界の悲喜劇をありのままにみてはいけないのだ。自分が必死に集めているものが灰燼に帰している光景など考えてはいけないし、周囲の最も親しい人々さえ自分の「死」とは全く無関係であることを、あまり考えすぎてはいけないのだ。この宇宙はことによると同じことばかりを繰り返しているのではないかという悪夢的発想も可及的遠ざけておかねばならないし、自分が食べている豚肉や牛肉がどんなプロセスで出来上がるのかもあまり生々しく考えない方がいい。そんな具合に、世の中には深く考えたくない事実がごまんとある。けれども先天的にうつ病に親しい人々は、気がつけば、そういう問題をとめどもなく考えているものだ。なぜというに、彼彼女は正気だからだ。ほかの有象無象よりも僅かばかり正気であるからだ。
皺を刻み過ぎた全ての大脳が初めから抱えている時限爆弾が他ならぬこの鬱病である。生物的要因や心理的要因、ストレス説、遺伝説、いろいろな用語法でいろいろの語り方があるけれども、やっぱりその大本は、存在世界の「ひずみ」、最初から避けられない分裂状態にある。
何もかも謎だから何もかもが狂っているのである。何もかもが狂っているから何もかもが曖昧に霞んでいる。よく見えない。この見えない日常がずっと存在する。人間の心は、そんな日常のまやかしの安定性の上にある。
だからですね、どうせ愚昧で狂っているのだから、せめて少しでも苦しくない狂いかたをしたいですね。陽気に狂いたいものです。
 
自身が深刻な患者でもあった著者は、最終的には「うつ病」を肯定的に捉えている。それは、彼が取材した女性の一人の「楽園を見付けるために地獄を通り抜けて来たの」という言葉の取り上げ方からでも、充分に分かる。けれども、いくら楽園を見付けるためとはいえ、何故なそんなに苦しまなければならないのか、私にはどうにも分からない。そんな肯定心理の背後には、彼女自身が苦しんできたという事実にする、ある種の代価請求衝動が控えているように思えてならない。「私はこんなに苦しんだのだから、ほとんど苦しんでいない人よりもずっと大きな報酬をくださいな」という具合だ。全ては無駄ではないという自己激励の有効性は、たしかに万人に妥当する。この世の中で、後悔をそのまま歪曲しないで受け入れることの出来る人間は、思いのほか少ない。カードから何まで入れた財布を駅で落としてしまって見つからないと知った時に生ずる後悔は、必ず「教訓」か何かにしないではいられない。全く偶然の事故死さえ慣例的に「犠牲」と呼ばれる。その死が共同体の何ならの利益に寄与していると言わんばかりに。
何に付け人間には、「生身の不幸な事実」に「意味」なり「価値」を付与しないではいられない生得的な気質がある。病気など元来治ってもともとであり、短い生涯そんなものに関与しないのが最上なのだけれど、大きな病気でカネも時間もいっぱい失った人間はおおむね、その損失自体に何らかの運命的含意を読み取ろうとする。「大病したおかげで人の苦しみが分かるようになった」とか「癌のお蔭で人にやさしくなったとか」、なかにはちょっと無理なんじゃないかなと思わせるものもある。苦しみを「絶対悪」としている私には、こういうセリフはぜんぶがぜんぶ欺瞞にしか聞こえない。おいおい苦しみは病気以外ではあるだろう、そんな痩せ我慢はしないでもっと病気を呪えよ、こんな病気をあなたに与えた世界を先ずは呪えよ、とか思ってしまう。あるいはこの人には赤い血が通っているいるのかなと思う。切ればほとばしる鮮血。辺り一面唐紅、これじゃ講談だよ。そういえば『死の瞬間』で死への五段階とか説いていたキューブラー・ロスも、晩年脳梗塞で倒れた後はいろいろと世界を呪っていたに違いない。乱暴な結論ですが、不幸な目にあって「世界」を呪わない人間は、ちょっと変だということです。変というよりも、人間離れしています。人間なんかどんなに恵まれていても、不平不満呪詛猜疑憎悪不機嫌不愉快倦怠の缶詰みたいなものだから、もっと負の情念を発露させたほうがいい。底の方に渦巻くヘドロを。もうどうしようもないんです、人間は、生物は、意識を持って存在してしまっているということは。こそ初期設定ともいうべき苦しみ、その痛みかた、神経の細さ。必然的なアンバランス、よるべのなさ、飢え方、満たされない欲望、死への不安、社会的暴力、嫉妬心、どうしようもないのだ。諦めるというのは諦めるということさえ諦めるという話は、至言と思う。出口なしという観念がこれからの人間には必要なのかもしれない。
私もよく三十歳近くまで生きられたなとつくづく思う。著者のソロモン(旧約聖書的な名前だな)、そのことは、よく知っている。経験しなくても、人間の心がどれだけ脆弱で、こわれやすいかを(本当ははじめから壊れている)、知っている。人間は知らないうちに暴力的な日常世界に投げ込まれた惨めな糸くずに過ぎないのだから、その糸くずに相応しい悩み方をしないでは生きられない。考える糸くずは悩み多き糸くずでもある。銀河系から見れば所詮糸くずの悩みだけれども、糸くず自身にとってはとても支え兼ねる分量のものである。無理を続けると、いけない。無理は「鬱病」になって報いてくる。
 
今回はもう何だか締りが悪いけれど(いつもそうか)、この辺で区切りをつけます。
 

 

真昼の悪魔〈下〉―うつの解剖学

水原紫苑『桜は本当に美しいのか(欲望が生んだ文化装置)』(平凡社)

水原紫苑『桜は本当に美しいのか(欲望が生んだ文化装置)』(平凡社

 

往年の落語家シリーズばかり聴いていた頃、桂米朝三遊亭圓生(六代目)かのどちらかの演ずる「百年目」のなかで、花見見物客を眺めている旦那がさりげなく桜に苦言をもらすところがあった。「もうそろそろここを移りましょう、桜はどうも下卑ていけません」と大体こんなふう。桜を見れば学齢前の子どもでも綺麗と言わねばならぬようなこの国で、こんなセリフはいかにもダンディに響くじゃないか。それもただ自分の審美感情を滔々とまくしたてるのではなく何気なく呟いてみるところが、よっぽど粋なのだ。「無粋な連中ですね」とははっきり口に出さない。商家の洗練された旦那というのはやはり只者ではないなあと過分な幻想を抱いた次第である。
ところで、この旦那の見ていた桜は、すくなくとも山の中にポツンと自生している山桜ではなかったはずだ。それは、園芸品種化されてそこらじゅうに植えられていた「俗世間」の桜だったに違いない。いわゆる「桜並木」というやつだ。その下で酒を飲んで浮かれ騒ぐという風習は、江戸の時分からあったみたいだ。例の旦那はただ付き合いで岸部まで寄ってみただけのようで、だからこそあの距離感を保っている。この距離感が何とも涼し気なんだなあ。勿論この話の主人公は自称堅物の番頭だけれど、この旦那もいい味を出しているんだ。もうなんかこのまま「百年目」論に突入したい気分だな。
 
ともかく日本には、桜に対するある種の審美的不文律のようなものが空気のように存在していて、これが対象に対する眼差しを良くも悪くも歪めてしまっている。判断停止といってもいいか。「花は桜木人は武士」なんて物言いは、冗談でないなら愚の骨頂ですよ。あんなにもぞろぞろ集団で花見(桜見)に行くのも、やっぱり変だ(桜なんかろくに見ないにしても)。もっと粋な遊びもありそうだけれど、粋な人間はそもそも集団で酔っ払いながらうろちょろしない。一人くらい海岸に漂着するクラゲやイカをみながら酒を飲んでいるのがいてもいい。そしてクラゲにはときどき変な注射針が刺さっている。近所の子どもが遊んでいたのだ。桜よりはずっと素敵な情景です。とかく花というものには、どこか退屈でいやらしいものがある。そうだ、花はいやらしいのだ。ある種の感性に対して気恥ずかしさを与えないではおかない。種類次第では毒々しい。あれは言ってしまえばこれ見よがしの生殖器官であって、花見というのは取りも直さず集団で植物の剥き出しのペニスを鑑賞しながら呑んだり食ったりする下品な奇習に過ぎない。
といっても、綺麗な花は綺麗ですね。私は人の庭に咲くノウゼンカズラはむかしから好きです。花と言えば、まずこれです。これは夏の石垣とよく合いますね。桜については野中に一本だけ侘しく佇んでいる風情はいいけれども、あんなふうに自己顕示欲いっぱいの桜が寄せ集って川沿いを占拠しているような景観は、落語の旦那と一緒で嫌だな。濡れた窓ガラスに張り付いた汚い花びらなんかを見ると、人間を馬鹿にするなといいたい(椎名誠の調子で)。今年も咲いてしまってすみません位の腰の低さが花の美しさには必要なのだ(もっとも桜はすぐに散るから、そこだけは素晴らしい)。動物もそうだな。生きていてすみません位が一番なんだ。生物なんか存在しているだけで必ず何かを圧迫しているんだから。生き物って、本当にずうずうしくて嫌だよね。
 
「いや本当にこの植物好きなの?」
「うん、そういえば野暮で俗っぽい花ですな」
 
ってな遣り取りが時々あってもいいよ。本当に美しいと感じる人の心ももちろん大切だけれども、その美意識を無条件に一般化させないでほしい。なかには花というもの自体が嫌いな人だっているんだから。いやらしくてね。

こうやって桜の開花予想がにぎにぎしく報じられる時節になると、やはり、どうしてこんなふうに桜ばかりが「もてる」のかを考えたくなる。日本のポップスは相変わらず桜桜と歌っているようだし、広告のような印刷媒体や店内デコレーションの演出にも桜の花びらが必ずと言っていいほど登場する(現在愛飲しているリプトン紅茶のパッケージにまで桜の花があしらわれている)。
私見では、日本人にとって桜というものは、単なる一つの植物名ではなく、日常会話をかわすときの無難な話題現象であり、また、季節を実感するための確かな指標なのである(サクラ前線)。要するに「桜」は、あらたまって嘆美するような対象である以前に、何か根の深い文化的合意のうえに成り立った美的記号であり、この権威ある記号に対して人々が接するやり方は、例えば「富士山」や「和歌」や「夏目漱石」という文化記号に対するそれと同型のものであるといえる。接合性が従来より弱くなってきた共同体ほど、その共同体の一体性を確認するための文化記号に、なにかしらの欲望を投入する。この欲望は、物質的欲望とは異なり、ほとんど意識されることがない、極めてナショナルで漠たる感覚である。この「記号への欲望」は、「美意識」という、一見主観だけが支配しているような部門でさえ、例外ではない。もっというなら、ナショナルな意識にかかわらず、人間というものは、つねに何かしらの結束観念に飢えている。県民の鳥とか県民の花なんていう詰まらない事例はもちろん、世の中の無数の企業シンボル、マーク、プロスポーツチーム、沢田研二のファンクラブからカルト映画愛好会まで、枚挙にいとまがない。こんなのは全て、結束観念の力学なしにはありえないのだ。こうした観念のために、偶然形成されたような共同体が、あたかも「運命共同体」であるかのように思えてくる。「日本人」というものは「桜」を愛で「富士山」を誇りに思うものだ、という具合に(もちろんそんなはずはない。北陸に住んでいる人間にとって「富士山」など日本の「象徴」ではありえない)。これはさすがに単純化しすぎるけれども、こういったような「判断に対する記号の介入」は、日常風景をみわたせば、そこらじゅうにみつかる。どうかすると「わび」とか「さび」を知ったかぶって云々したがる人が出てくるのも、これで説明できる。つまり個人の「嗜好」は常に共同体の「嗜好」と響き合っている。めいめいの趣味判断も、共同体がいつのまにか定着させた審美判断や思考様式からは自立していない。

「桜」への集合的美意識が「日本人」の本質を規定しているのだという、そんな自覚がどこかにあるようだ。「渋沢栄一」や「福沢諭吉」が近代日本の守護神と化しているように、日本人は「桜」という植物を共同体の結束記号にまで昇華させた。この「桜」をめぐって「国民」(民族)が共有してきたイメージの沈殿物を思いきって浚渫してみれば、その変遷過程や実体がいくらかは掴めるというものだ。

本書のねらいはそこにある。未開拓に近い分野ゆえ詩論の域を出ていない観こそあるものの、この本の着眼点は興味に満ち溢れている。ひねくれたタイトルからは、著者がひそかに桜を嫌っているかのような印象を抱きかねないけれども、そうではなくて、著者はむしろ、桜に対して殆ど身体化しているといってもいい共同体的反応様式に、一人の歌人として疑問を呈しているだけだ(彼女は短歌の実作者でもある)。それはまた、「美しい」と思う経験は本来何であるのかという観念的な問題と向き合うことでもある。そういえば大昔に、美しい「花」がある、花の「美しさ」なんてものはない、みたいなことを書いていた文芸評論家がいた気がする。「美しい」というのは、どんなふうにして決まるのか。「美」の実在があるからか、美しいと反応したがる主体があるからか、あるいは両方の共鳴作用があるからか。これから何につけ「美しい」と思ったときに、ふと反省することにしよう。「本当にそれは美しいか」「本当に自分はそう感じているか」「習慣的にそう言っているだけではないか」
 
 古事記日本書紀万葉集、王朝文学、西行、能、歌舞伎、松尾芭蕉、軍歌、近代文学、戦後歌謡曲、こうやってインデックスをつらつら眺めてみると、日本人の桜への偏愛心情の底には間違いなく文化的(つまり人工的)な「美意識」が介入していることが分かる。「桜」というイメージに人生の悲哀や恋情を過分に仮託してきた脈々たる詩的伝統がある。植物学でいう「バラ科サクラ属」の一品種ではなく、ほとんどイデアといってもいいような詩的イメージだ。日本文学史で「花」といえばその大部分が桜を指しているというのは、どこまでが本当か分からないけれども、すくなくとも私が「花」という言葉に接したときは、たしかに桜のような映像が思い浮かんでくる。「花」の一字は限りなく桜的イメージと結びついている。
井伏鱒二が訳した唐詩の五言絶句の一節に「花に嵐のたとえもあるさ さよならだけが人生さ」というのがあったけれども、この「はな」の喚起するイメージも、私にとっては、やはり桜だ。それは、夜の嵐の間に花びらを散らせる桜大木の情景と半ば不可分である。こんなふうに、桜をさほど好きでない人間の想像領域にも、この文化的イデア関係は喰い込んでいるのだ。
どの時代から「桜」が定番(紋切り型)の詩的素材になり、どの時代から「はかなさ」や「高貴さ」を表象しえるようになったのか。国文学にかなり精しくならないと、何も語れないね。
例えば『万葉集』で最もよく詠まれている植物は萩で141首、次が梅で118首、桜は八番目に過ぎないから、この詩集が編纂されている年代では、桜はまだ主役級の花ではない(勿論既に栽培されていたし、人々もよく知っていたはずではあるが)。
この研究主題に必要な文献量を思うと気が遠って眠くなる。そうでなくたって眠いのに。でも一生飽きないテーマではあるでしょう。

 

 

桜は本当に美しいのか: 欲望が生んだ文化装置 (平凡社新書)

 

桜は本当に美しいのか: 欲望が生んだ文化装置 (平凡社新書)

 

 

諏訪哲二『なぜ勉強させるのか?(教育再生を根本から考える)』(光文社新書)

 

 

 

なぜ勉強させるのか?  教育再生を根本から考える 光文社新書

なぜ勉強させるのか? 教育再生を根本から考える 光文社新書

 

 諏訪哲二『なぜ勉強させるのか?(教育再生を根本から考える)』(光文社新書

光文社新書もときどきおやっと思わせる本があるね。八割くらいはタイトルからして読む気もなくなる代物だけれど、百に三つくらいは膝を打たせるものがある。若い教育学者がスクールカーストを論じたのもあったし(当時は参考になった)、ほら、さおだけ屋は何とかとかいう本もたしかこの新書からだったと思う。あれは結局何が面白かったのかな。まあいいか。
 
教育再生論とか教育哲学なんか、がんらい全うな人間が興味を持つようなテーマじゃない。私は、教育行政の中枢部から発表される言語を未だに解読することが出来ないから、新聞が読めない。また、教育問題を語る人々の、あの取ってつけたような賢しらさが、私は好きではない。何よりあの脂ぎった有識者たちの流暢な語り方がときどき我慢できない。どうかすると夜回り先生とかカリスマ予備校講師のタレントじみた物言いの方がいい。政策立案者が教育の事を語るとき、まっとうなことを言っているように思えるときでさえ、嫌な気分になる。嫌な気分を通り越して、空しい気持ちになる。「生きる力」とか「他人を思いやる心」とか「国際競争に勝てる人材を育てる」というような悪趣味な理念語法は、すくなくとも、三回以上繰り返すべきではない。私は彼らに、オーウェル的なニュースピークではなく、ちゃんとした自己固有の溌剌たる日本語で語ってほしいと思う。頭の中はちゃんとした具体案で一杯なのだろうから。文科省諮問会議のお飾りみたいな論者がそんな新言語を繰り返せば繰り返すだけ、言葉がもっと空虚に響くようになって、国民を軽いニヒリズムに浸らせる(たぶんこのニヒリズムによる全体的思考停止こそ支配者層の目的とするところなのだ)。世の中には聞くだけで虚しい気持ちになる言葉が沢山ある。そのことに鈍感である人間だけが、そんな言葉を垂れ流す。慣例化された言葉というのはかくも人間を虚しくさせることが出来るのだ。
 
こうした大文字の国策的教育論だけが紙面に乱交するなかで、人間の根本を忘れていない教育思想も勿論ある。もともと教員だった諏訪哲二さんの筆になる本書は実にいろいろの要所を含んでいて示唆に欠かないけれども、あえて本書からの引用でまとめてみれば、こういうことになる。
 
「真に知的な働きかけをするためには、まず教師や親が、子どもたちに対面しているとき、経済的なレベルの固執から抜け出ていなければならない。「学ぶ」や「生きる」が経済的利益を離れ、換金できないひとの崇高な価値として、再構成されていなければならない。」(八章)
 
「人間の知的能力の可能性というのは、私たち一人ひとりの内部に元から在るのではなく、その外部の社会にあるのです。その外部(「知」の体系や文化やルール)を取り込んで文化的身体になっていくことが、勉強の目的なのです。これはひとの身体の成長のような、内発的なものではありません。勉強することは、ひとの内部と外部(文化)が衝突を繰り返し、ひとの内部に外部の構造が定着していくことでもあるのです」(エピローグ)
 
著者にとって、「勉強」というプロセスは単なる知識の習得でもなければ虚しい点取り合戦でもない。まして国家の繁栄に寄与する産業戦士の育成などでは絶対にありえない。
 
勉強(学習)は何よりも先ず、人間の生物的な「ありのまま」を否定する冒険であり、社会的に期待されている「あるべき自分」への変化に他ならない。そうした自己改変は、かならずしも快適ではない。生まれ落ちたままの「欲望の塊」であるほうが、むしろ「人間らしい」とする向きもよく分かる。けれどもそんな人間像は、最初から最後まで虚構以外の何ものでもないのだ。どんなにあがいたって、人間はもう「野生」を生きてはいない。人間は骨の髄まで「社会化」されている。このシステムとしての社会の何かしらの部門に嫌でも身を置かねばならない。人間というのは、何かしらのものに自らを適応させないでは生命個体を維持できないのだ。「教育」もそんな社会の一部門であって、そのあるべき役割は、子どもが「ありのまま」の自分を一旦否定する契機を積極的(強制的)に与え、それを出来る限り熱心に助けることだ。その外からの働きかけは、口で言うほど容易な試みではない。予めあらゆる葛藤要因をはらんでいる。様々な教育トラブルが、(教化の勉強だけすればいい)塾ではなく(制度としての)学校で起こる所以はそこにある。とまあ、詳しいことは本書で。
 
また著者は長年の教師経験から、子どもの中には、知的能力や学習適正において、ある種の先天的な格差があることを肌身で知りぬいている。出来ない子は出来ないし、出来る子は出来る。これは世間が思っている以上に多くの事実を語っている。著者は決して単純な能力決定論者などではないだろうが、勉強に関する限り、子どものなかに最初から存在している能力差については、拍子抜けするほどあっさり認めてしまう。「勉強が苦手な子もやれば皆出来る」というよくある欺瞞論法から最大限距離を置く教育者は、案外少ないかもしれない。熱っぽい教育者や間抜けな親たちは、なんとかそうした「悪しき傾向」を「矯正」しようとする。どんな手で? もうみんなやっているからみんな知っている。たとえば学校の勉強で好成績を取ることが後の経済的成功へのステップになるとか、他人よりも幸福な人生を送ることができるとか、いろいろ子どもの耳元でささやく。魔女みたいに。こんなささやきは確かに汚らわしいけれど、勿論ここで知っておくべきことは、ほとんどの子どもにはそんな卑小的のインセンティブ戦略は通用しないという厳然たる事実だ。そんな「大人のリアリズム」は子どもの脳には響かない。だいたいそうしたことを説いている大人たちの大部分が経済的成功者などではないし、「幸福」そうにも「賢こそう」そうにも見えない。彼彼女たちは、自分の不甲斐なさを教育投資で補おうとしている点で、子どもを自分の思い通りになるペットとしてしか見ていない。試験結果を叱って子どもに殺される父親の存在は、子どもが自分の思い通りになると勘違いしてしまった愚かさに対して支払う過大な罰金みたいなものだ。
 
ともあれ、小さいころからまじめにコツコツ勉強できること自体がひとつの能力であり、そうした能力は当然ながら全ての生徒に備わってはいない。それは教師や親の力量で何とかなるものでもない(もちろん例外もある)。あんな硬い椅子にすわって長時間「授業」を受け続けることが子どもにとって生理的に難しいであろうことは、誰でも理解できる。後の受験レースにいたっては更にイビツで不健康な忍耐力が要求されるわけだが、それについては今は触れない。ともかく、学習においては、あきらかに個体差が歴然となってくる。 このどうにもならない個体差を度外視して教育を語るのは、無意味である以上に危険なことだ
 
この著者が他の脂ぎった教育評論家と特段違って見える点は、ひとえに彼が「勉強」や「教育」の目的を、超実利的な観点から見ていることだ。それは、「知」の探究だ。それは、コンビニに行けば貨幣と等価交換できるような商品ではない。ある特殊な学習作法を身に付けなければ得られない「知」である。著者は、「根源的に己れの個体性を超える普遍なるものを求めて」いくための契機が「学習」であると言う(四章)。こうして字面だけを眺めていると、ドイツの観念哲学を思わせるような壮大な議論だけれど、私は、彼の言いたいことはよく分かる。いわゆる勝ち組・負け組の経済的尺度でしか他者を評価できない「みみっちい大人」たちの「しみったれた」論理に染まらないで、もっと根源的な動機から知を求めるのが本当の在り様だ。子どもはある種の大人が思っているほど「知的好奇心」に満ちてはいない。けれども、精神が根底から揺さぶられて知を渇望する契機は、条件さえそろえば、誰にでも起り得る。著者は深く立ち入ってはいないけれども、この人間という悲しい社会動物は、たとえどんな無気力状態にあっても、ふと「そもそも論」に打ちのめされてしまう。「そもそも何故なのか」で締められる問いは、他のいかなる経済的インセンティブや社会的必要よりも人間を虜にする。生涯を通してこの問いの虜になれないような縁なき個体は、この際論の外である。そんな腑抜けた生き物はここで言及するに値しない。いずれにしても、こうした「そもそも論」に足をすくわれてしまうことは、知的人間の証明でもある。「そもそも論」との対峙は無論過酷である。
 
「そもそも人はなぜ学ぶのか」という種類の問いに即答できる人間は、五大陸の中にはいない。「なぜ人を殺してはならないか」「なぜ人間が宇宙に存在しているのか」という問いと同じくらい、その奥行きは果てしない。オックスフォード大学の哲学教授に聞いても無駄ですよ。そんなことに得意顔で応えられるような人間は全て気違い宗教者か、そうでなければ無学者だから。答えられない問いに向かって雄弁に語ることほど浅薄な作法はない。あらゆる「教養」は、人間が如何に何も知らないかという途方も無い失望に裏付けられている。
 
世の中には、「答えることの出来ない問い」がおびただしいほど転がっている。「何故」の答えに対して無限の「何故」を重ねられる問いを、私は「超越的設問」と呼んでいる。そうした超越的設問への最も最適な態度は、ある種の謙虚な思考停止か、そうでなければ、身の程も知らない探究であって、その探究欲こそ、本当の学習の目的なのだ。労働市場への知的訓練課程などでは断じてない。
 
勉強の目的をこの「そもそも論」への逢着とするのは、間違っていない。そして、この問いに応える言葉を見つけ出すための学習過程は、生涯続く。世慣れた初老も一年生の子どもも、こうした「そもそも論」の前では屈辱の沈黙を強いられる。既存の世界システムの中で無理やり自分を改鋳し続けながら、そもそも何でこんな世界を生きているのだろうと、人は問い続けなければならない。それだから自殺は好ましくない。自殺は多分、問いの中断でしかないからだ。どうせ分からないなら、永遠に考え抜こうではありませんか。そもそもなぜこんな教育論なんかに関わっているのか。
 
 
この本は第一次安倍内閣のころに出版されたようで、「百マス計算」で有名な陰山メソッド批判や政府の教育改革などについては旧聞に属するけれども、内容の眼目は五十年以上経過してもまだ有効でしょう。グッピーの糞みたいに散らばっている教育論文よりも、むしろこっちの方を読んでほしいです。

 

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「人を思いやる心」とか「先の見えぬ社会を生き抜く能力」とかいうすり切れた理念を何の恥じらいもなく繰り返すあの例の調子に至っては、その理屈の成否にかかわらず、むかしから肌に合わないのだ。文科省の教育改革案におもねているだけのこんな俗物連なんか本来いてもいなくてもいいのだ。

山際淳司『スローカーブをもう一球』(角川書店)

 

 

山際淳司スローカーブをもう一球』(角川書店

 

「スポーツ」の中核をなす三大要素は、「ルール」と「遊戯性」と「競争性」、もう一つ加えるなら「限界挑戦性」ではないか。「遊戯性」や「ルール」を欠くとただの乱闘や殺し合いになりかねないし、「競争性」を欠くと馴れ合いの生ぬるい暇つぶしに終始する(それでも構わないという向きはあるだろうけれど)。「限界挑戦性」というのは、さしあたり記録への執念と言ってよいでしょう。記録はその記録方法や機器精度の変遷と無関係ではないので、絶対な客観性などは先ずありえず、演技系のスポーツでは尚更その観が強まってしまうけれども、事実スポーツを報ずる現場では、ウサイン・ボルトが百メートルで世界新記録を出したとか、イチローの日米通算安打数がピート・ローズを超えたとか、ルーマニアのコマネチが十点満点を七回も出したとかいうトピックがあまりに大大と扱われるので、一般の人びともそれにつられてつい盛り上がってしまう。

私が思っている「限界挑戦性」は、そんな公的記録の類でなく、もっと主観的なものだ。どういえばいいか難しいのだけれど、たとえば、ヘミングウェイの「老人と海」という中編作品がありますね。不漁続きで元気のなかった老漁師サンチアゴが二日二晩の死闘の末に巨大カジキを仕留めるというだけの単純明快な物語。あの死闘のさなかにサンチアゴが感じる「充実感」が、それに近い。海で繰り広げられた老人と魚の格闘など、実際誰も見ていません。その誰もみていないなか限界をどこまでも越えて行こうとするあの鬼気迫る老人の姿、自分の力量の超限界的をどこまでも突き破っていくあの凄まじい情念。ここにスポーツにおける「限界挑戦性」の一端があるように思う。最後には帰港の途次に食い荒らされた巨大カジキの骨だけが残るのだけれど、老人にとって唯一価値があるのはそうした残骸ではなく、あの限界到達感だけなのだ。残骸はそうした出来事があったということを示すだけの証拠であり、結局単なる「記念物」、金とか銀のメダルに過ぎない。スポーツの目的はスポーツそのものであり、その行為の絶対無報酬性のゆえに尊いのだと。はからずもヘミングウェイはスポーツ的マインドの精髄を描破していたのだ。

 

「スポーツ」とは一体何かという本質論はちょっと手に余る。歴史をかなり深くまで掘り返さないといけないし、「遊び」の機構や共同体についての分析も欠かせなくなる。誰か代わりにやってほしいね。
なぜに人々があれほどスポーツで絶叫したり感泣したりするのか、という問題も中々考えるに足る問題です。現代では、スポーツの結果次第で誰かが生贄に捧げられたりするわけではない。たしか南米のどこかの国のゴールキーパーが敗退を決定させるようなオウンゴールをしたために帰還後ファナティックな男性ファンに射殺されたという事件が昔あった気がするけれども、この場合明らかに射殺した人間の頭が狂っていたわけで、こんなことは普通おこらないのだ(容易に比較できないけれども、そうした心理的倒錯は、ジョン・レノンを銃殺した犯人や美空ひばりに塩酸をかけた病的崇拝少女の心理に近いのかもしれない)。

ともあれ、競技の当事者は別にして、競技の成り行きそのものがオーディエンスの物質的利害を決定づけることは殆どありえない。国家の浮沈にも無関係。にもかかわらず競技経過の様々な起伏は観る人間の臓腑を急騰させたり寒からしめたりする。何でそうなるのか。

                
あえて踏み鳴らされた大通りを利用して考えてみるなら、スポーツの喚起するあの激しい情緒は、アリストテレスの古典悲劇理論でいうところの「カタルシス」反応に通じるものがありそうだ。カタルシスという語は元来「排泄」「浄化」という意味で、特別厚ぼったい詩的ニュアンスを含んだものではない。「生身の人間」はなにかと感情の鬱積をかかえていて、糞詰まりの犬同様の不愉快感につつまれている。スポーツ観戦の引き起こす落胆や激情、歓喜といったものは、多少の差はあれ観戦者の心に劇的な還流運動をもたらす。これがしばしば精神的鬱積を切り崩す。自身は全く安全な場にありながら、あたかも(ぶしつけにも)選手自身の「運命」を勝手に引き受けた気になってカタルシスに与れるのだ(だから『マクベス』を見ているうちに王の運命に情緒移入してしまうこととあまり変わらない。ただ随分違うのは、スポーツの場合は演劇よりも「運命の自由度」が大きいという点だ)。

運命加担の対象は、ウェイトリフターでもありうればスプリンターでもありうる。ともかく彼彼女らの「限界への挑戦」や「勝利への執念」への心理的移入が果たせればそれでいいのだ。

この短編集でも扱われている「江夏の21球」(*)が今でも空襲体験さながらの熱っぽさで語り継がれているのは、語り継ぐ当人たちが江夏的運命を身体レベルで共有しているからに他ならない。そうした「過分」な心情的コミットメントがなければ、スポーツ現象はふつう(それがどれほどの奇跡的内容を持っているとはいえ)「伝説」にはならない。松井の五打席敬遠や「悲劇のエラー」といったものが今日でも怒りや憐憫の情なしには語られないのはそのためです。

 

*一九七九年十一月四日のプロ野球日本シリーズ第七戦、近鉄バッファローズ広島東洋カープで、カープ側の抑え投手・江夏豊が九回の守りに投じた21球のこと。フルベースの極限ピンチのもとで打者たちを抑えたその配球駆け引きは後にプロ野球史に語り草となった。といっても著者の山際淳司がその主たる仕掛け人なんだけれども。

 

もちろんあらゆる「スポーツ経験」(観ることやプレイも含めて)がこのカタルシスに寄与するとは限らない。中途半端な負け方や失敗によって事態が数倍悪化することも往々ある(実際のところスポーツカタルシスはそう高頻度にあるものではない)。けれども、いわゆる「スポーツ観戦」の旨味をそうした悲劇性に見る視点も、私はありだと思う。古代ローマ時代のコロセウムは内容を変えながらも、社会機能においては現代にもかなり引き継がれているとみていい。

競技は、まったなし言いわけなしの、結果が非常に雄弁になる世界だから、当然、「不本意」の結果によって競技場を去る選手たちの背中には、ある種の悲劇的な哀愁が付きまとう。その背中を見て、傍観者にすぎない間抜け面のオーディエンスは、どこか「人生」の縮図を感じとらずにはいられないのだ(仮に負けた当人は内心あっけらかんとしていて、今夜のFacebookの更新内容を頭に思い描いているだけであるにしても)。

「縮図」とは何だろう。

 

「最高のコーチが最高の選手を育てるわけではない」

「世の中に確実な勝利はない」

「努力の量が必ず栄光に繋がるわけではない」

「応援団の規模が応援チームを勝利に導くわけではない」

「才能だけでは勝てない」

 

その試合のためだけに重ねて来た努力が一瞬のフライングで瓦解したり、通常ならありえないミスでチームが惨敗したり、ともかくスポーツというのはそうした「悲劇」に満ち満ちている。

夏の甲子園」が日本の風物詩になれたのは、出場機会の限られている球児たちを襲う「現場の理不尽」が何かしらサラリーマンたちの同情を喚起したからではないですか。主観的な努力が実際面に報われなかったり、ほんの小さな過ちが重大な結果を招いたりする点では、高校野球も「生産現場」もあまり変わらない。思えば、高校野球では監督のサインは絶対命令みたいなもので、しかもアンパイアに対する抗議も極めて少ない(規則上できないことはない)。要するに高校野球の試合現場には「人間的不条理」が渦巻いている。負けた者はいつまでも球場に居続けることはできない。涙は球場外で好きなだけ流せと言うドライな空気さえある。運営側にとってそうした涙は一度ならずみてきているから、そう珍しくはないのだ。間もなく次の試合が始まる。

外野の凡エラーでサヨナラ負けした高校生たちが呆然自失のうちに礼を済ませて砂をかき集めているあの痛ましい情景のうちには、「悲劇」というさっぱりした言葉には収まりきらない何か生々しい「縮図」が見え隠れする。「今日が駄目なら明日がある」式の慰めが一切通用しない高校野球特有の、生傷に砂利を噛んでいるような痛み、青すぎる空にそのまま消えてしまうそうな恍惚の脱落感。その後のロッカールームでのやり取りや遠征バスのなかの雰囲気に想像力を及ぼす勇気が、あなたにはありますか。ある時から私は、高校野球が直視できなくなりました。だから観ていません。試合の成り行きによっては、内臓が本当に痛んでくるからです。

話はかわりますが、高校野球が最も国民の関心を集めるのは、スポーツ特待生を全国からかき集めているような悪役常勝校が予想通り優勝旗を手にする瞬間ではなく、優勝するとは思われていなかった地方の公立高校が番狂わせに優勝する瞬間である。このアンチ常勝校的な日陰者の反骨心はそのまま、アンチ大企業・アンチエリート的なメンタリティーとも響き合って、そうした部分が高校野球の面白さを担保しているのではないか。少なくとも高校野球に限らずスポーツというものは並べて、観客本意ではなく競技者本位である(あたりまえ)。「あそこまでして勝ちたいかね」などという憎まれ口は所詮、競技の非当事者の言い草です。観る者と参加する者とでは、これほどまでに電圧差が出てしまうんですね。時間や体力面での投入量が違いはすなわち、「執念の質」の違いでもあるということだね。「美しい負けざま」とか「健闘」みたいな解釈は、結局、傍観する人間たちの取り澄ました感傷に過ぎないわけだ。


競技当事者とオーディエンスの違いはあっても、スポーツにはスポーツだけの「痛み」がある。プロスポーツの世界であれば、また別の悲哀も起ってくる。ボクシングも棒高跳びも、その現場には深い失意と執念が轟いている。

たとえば、本短編集に収録されている「背番号94」は、期待されて巨人軍に入団した投手が数年後バッティングピッチャーになって生活しているというもの。大筋を聞いただけで悲しいリアリティが滲んでくるでしょう。実話ですからね。


生きるのは難しい。人間にとってこれほど難しいことはない。スポーツカタルシスは、そんな底なしの溜息と無関係ではない。人間の心理補償機構は複雑だね。二九歳になってつくづくそう思う。

スローカーブを、もう一球 (角川文庫)

スローカーブを、もう一球 (角川文庫)

 

 

 

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 基本的に「競技そのもの」は政治的商業的領域の埒外にある(はずだ)。阪神が優勝してみても阪神ファンの資産運用がよくなるわけではないし、内村航平北島康介の金メダルが取りも直さず日本の実質的国益に繋がるわけでもない。

この短編集の「八月のカクテル光線」でもそうだけれど、たとえば高校野球

真面目に観戦すればするほど辛くなってくる。

 

 

 

大島洋一『芸術とスキャンダルの間 戦後美術事件史』(講談社現代新書)

大島洋一『芸術とスキャンダルの間 戦後美術事件史』(講談社現代新書

 

要するに日本の戦後美術史のゴタゴタ事件簿。
芸術ってそもそも何というふうな疑問を首から下げて読むと良い感触が得られるね。贋作をつかまされた当事者でなければ笑って読める。欲の皮の突っ張った奴もたくさん出てくるから。しかめっつらした文人墨客の真贋論争も書物化されれば滑稽に映る。「具眼の士」もこの程度かって思いながら読んだ。
             
             

「芸術家」と聞いて瞬時に想起される定型像の通り相場はおそらく、体制秩序の埒外で勝手なことをしながら「美」とか「絶対」なるものをとことん追求している変な人たちというもの。そういう認識は多分、半分正しくて半分間違っているんじゃないかな。

半分正しくないというのは、歴史的に見れば、音楽につけ絵画につけ大部分の「芸術家」は当時の貴族なり宗教的権威なりの公的・民間パトロンに寄生しないととても糊口をしのげなかったわけで、凡庸で妙に上品ぶったあの夥しい肖像画や、既に忘却の淵にある数知れないカンタータ室内楽曲の存在理由もそうした事情なしには説明できない。もうちょっと遡っても、中世あたりの「芸術家」は今日でいうところの「職人」みたいなもので、何とか工房とか看板を立てて集団で「制作」に当たっていた(祭壇画とか)。無名有名を問わず、資金力豊富な注文主や庇護者がいて初めて「商売」になるわけだ。レオナルドダビンチも転々と職を渡り歩いている。「芸術は爆発だ」とか「根源的自我の解放」などと小児的な叫びをあげて好き放題に暴れ回る芸術家像はロマン主義運動以降に定着したものだと思う。硝子の破片の上で血みどろになって転げ回った挙句豚の内臓を観客席にまきちらしてみたり、元世界的バンドミュージシャンが前衛芸術家の妻と肩を組んで撮った全裸写真を世界に公開したり、餓死するまでの犬の様子を写真に取り続けたりする動物虐待なども何か「芸術」らしく見える今日からは想像も難しいけれども。いい加減「過激なパフォーマンス」に飽き飽きしましたよね、僕だけか。三島由紀夫の騒動も、あれは真剣にやったことなのかな。あれ程器用な知性に恵まれた人物が「国を憂える」ことなど本当に出来たのか。なんだか命懸けの自己表現という風にしかみえない。

ともあれ表現は何でもありだという無際限に自由な風潮がかえって「芸術」の幅を狭めている気がする。このごろは何につけ「抒情」性が鬱陶しくなってきた。シューマンとかショパンの感傷優位の曲を聴いた後にバッハのゴールトベルク変奏曲や平均律クラヴィーア曲集などを聞くと、そこにかなり成熟したものを感じて肺腑がじいんと鳴る。型や形式や秩序が必ずしも作品のポテンシャルを圧殺するわけではないんだな、と。表現形式の自由なんか所詮子どもの物言いじゃないか。ヒッピーじゃないんだから。

ところで今日的(一昔といった方がいいかな)なデカダンスっぽいステレオタイプの芸術家像は、貴族階級の勢力が衰えて中産階級が勃興してきた十九世紀以降の話だと僕はみています。そのころには宗教的権威も以前よりはゆるまってきた。要するにブルジョア階級が肥え太ってきて「芸術愛好家」とでも呼べそうな粋人が時代の表街道に現れはじめた。ベートーヴェン(一七七〇~一八二七)の頃になると、もう既にそんな階級の芸術愛好家が芸術家の資金援助者になっている。何々公爵とか何々伯爵だけではなくて、ちょっとした裕福な商人とかね。それでも芸術家渡世は難しい。もっと後になって出てくるゴッホなんか弟の経済的援助がなかったら多分部屋で孤独死しています。「芸術家」の貧乏と生活不器用は半ば宿命ですね。彼らは「国の富」の増大に何の寄与もしていないから、「認知」されない限り身の置き場もない。文化的生産者など本当はいてもいなくてもいいわけだから。創作者の経済的自立というのは詰まる所自分や自分の作品を商品市場に出すことに他ならないので、どうしてもその段階で「媚び」が入り込む。体制に対していくらでも柔軟に対応できるポップアートの類ならいざ知らず、とても世間人の拍手を得られそうもない創作活動をしている「生産的部外者」にとって、自由市場のそうした壁は厚くて残酷だ。

ある種の「媚び」を「迎合」といってにべもなく否定する人も少ないないけど、あれはどうなのだろう。それにしても「アーティスト」という言葉が安くなったね。株価急落だよ。オリコンチャートを独占するアイドル集団の「アーティスト」もいれば黴臭い部屋で誰の眼にも触れない油絵を描いている「アーティスト」もいる。誰もが映画をつくり、音楽をつくる。短歌を作り絵を描く。アマチュアでも何でも、何かを作る人はみんな「アーティスト」を名乗る。こういう「アーティスト」のインフレ傾向も悪くないけれど、自分ばかりが作るだけでなくて他者の作品に関心を向けましょうよ。本当によく出来た古典作品とかに。自閉的な「アーティスト」には碌なのがいない。シェークスピアを知らない演劇人や、バルザック源氏物語も碌に読んだことのない「小説家志望者」など悪質なジョークに属します。偶然嫌いかもしれないが、一応能力に恵まれた先達なのだから全身で学びましょうよ

「世間の節穴などに俺の芸術を解るか」という芸術家にありがちな狷介孤高性も、誰もが囚われている市場的誘惑の産物なんだろうね。だってそんな頑固者も世間に認められるが早いか急に娼婦然と態度を一変させて人格的に軟化するでしょう。そしてやがて紫綬褒章なんかもらって皇居前でヘラヘラ写真に写る。こういう間抜けな「大御所化」って心底嫌だね。野党の無名時代に急進的主張を繰り出して気炎を上げまくっていた代議士が政権奪取後に急にお行儀のいいポピュリストになってしまうあの感じよりも数等胸糞悪い。梅棹忠夫のいう様なアマチュアリズムの作法(特に金銭的無報酬)を守るためには、なんらかの物質的な基盤が欠かせない。ひとむかしまえだとある種の有閑貴族がアマチュアリズムに徹することができた。ライプニッツとかキェルケゴールとかは商売で著述していたわけじゃないでしょう。だからあんなに何でも追究できた。芸術も思索も本当はアマチュアリズムが最良なのです。気兼ねしなくてもいいから。豪商やカトリック教会の庇護を受けながら蓄財や聖書の悪口はいえない。表現枠が所属先によって最初から拘束されてしまうのは悲劇だね。けれども生活に窮するようでは、どうしてもどこかに依存しないといけない。依存するとやはり自分の作りたいものと作らねばならぬものとの間に乖離がうまれる。無所属が最良なのに無所属であるためには一定の資産が欠かせない。これは「表現者」の陥る典型的なジレンマですね。生活基盤を持たないほとんどの「芸術家」は、そこんとこで苦しむんです。詩を作るより田を作れって。きっと無理でしょう。大半は社会不適合者だから。「芸術家」はきっとGDPとかGNPの担い手にならないで何かを追求したい。国家の生産部門の一翼を担わない完全な部外者でありたいのだ。

         
なんだか馬鹿馬鹿しい騒動ばかりだけれど、やっぱり巻き込まれた当人たちはさぞ神経をすり潰しただろうね。こんな主題を扱った新書ならいくらでも買う。美術史ものがあれば、ほかにも読みたいな。世の中の胡散臭い側面にもっと光をあてましょう。

日本陶芸界最大の贋作事件として知られている「永仁の壺」事件(加藤唐九郎)は言うにおよばず、前衛芸術家・荒川修作昭和天皇コラージュ版画事件、三越の古代ペルシア秘宝展スキャンダル、佐野乾山論争、北大路魯山人棟方志功の贋作、ロートレックの「マルセル」盗難事件、どれもこれも「人間の業」噴出過剰だ。
一九八二年の三越の事件などは、はじめて聞いた。たぶん年齢のせい。当時生きていれば多分知っていた。こんな面白い事件なんだから追いかけたはずだ。天下の三越が鳴り物入りで開催したペルシア秘宝展のほとんどの出展物がニセモノだった。あのころの上層日本人なんてのは金は沢山持っているけれど鑑識眼では節穴同前だったから、外国の悪徳美術商にとってはさぞ「いい鴨」だったのだろうね。こんな事件は全体のほんの一部なのかもしれない。たまたま表面化してしまっただけで。そんな事件の詳細を知ってしまうと、古代展など行く気がなくなる。もともと私は古代の遺物などに関心はないのだけれど。気質だろうかね。滅びたものは滅びたものに任せておきなさい。

贋作議論についても、私は、随分前から馬鹿馬鹿しさを禁じ得ない。専門家以外の者にとってそれがニセモノであろうが本物であろうが、どうでもいことだ。世の中には「好い作品」と「駄作」しかありません。本物そっくりに真似て海千山千の画商たちの眼を欺く悪党もまた天晴れなトリックスターではないかね。それだけのリスクを負っているんだから。長期的にみたらとても割に合わないよ。

それにもとをただせば人生何もかもがニセモノなんです。今の宇宙も贋作です。

 

芸術とスキャンダルの間――戦後美術事件史 (講談社現代新書)
 

 

 

トオマス・マン『ヴェニスに死す』(実吉捷朗・訳 岩波書店)

 

ヴェニスに死す (岩波文庫)

ヴェニスに死す (岩波文庫)

 

 

トオマス・マン『ヴェニスに死す』(実吉捷朗・訳 岩波書店

 

タッジオは、めいめいの読み手が思い描く美少年像を以て活動する。芸術の美、人間身体の美を測る尺度は世俗のこしらえものではない。ただ、美しいという感情は、それ自体において喜びであるから、したがって善いのだ。道徳の話ではない。この心地よさ、眼福、精神の浄化感覚、綺麗な人を見るとなぜこうも昂揚するのか。

それは月並みの用語法では語れない。それに語るだけ野暮というものだろう。

ただ、本当に美しいものに肺腑を衝かれないで生きることは、生きているといえるだろうか、とは考えたくなる。美しさは、いろいろに「解釈」可能だ。美学の話は、この際、どうでもいい。プラトン流の哲学談義にも(’私個人は好んでいるのだけれど)、あまり深い入りしたくない。

 

結局アッシェンバッハは我が身を滅ぼすことになる。滅びるといっても、その滅びは恍惚の境でのことで、漠然とみるかぎりでは、悲劇にも喜劇にも属さない。そうした出来事があった、という淡々たる調子だ。この物語は、年齢上では老境、文壇キャリア上では大御所に達した小説家がある人身美の虜になって病没する話だけれも、そんな筋よりも、私は人の「美しさ」が与える影響の大きさに注目したい。

ダンテが打ちのめされたベアトリーチェ、ペトラルカを魅惑したラウラ、詩人はこうした美しい夫人を崇拝しつつ絶対的な何ものか(彼らの場合、神なのだろうが)を礼讃した。生き写し、権化、仮現、どんな言葉でもいいのだけれど、信仰の縁になるような美的経験が、彼らの詩作の発端、すくなくとも内的転換点にはあった。確かにあったはずだ。

 

ひとりの人間の美しさが「芸術家」にもたらす経験は、絶大無類のものである。アッシェンバッハはタッジオ経験のうちに、芸術活動の極点を観取したのだ。タッジオは取りも直さず美の身体表現そのものだった。美しさが人間の肉体を介して表現されていた。アッシェンバッハはただその均整の極点、綺麗なものの現前、平安の予兆、苦界の慰安に身心を投ずるだけでよかった。彼の美しい姿態や顔貌を見つめ続けることは、ヴェニスに取り残されて死ぬに値するばかりか、余りあることだった。「言い様もないくらいに愛くるしい微笑」、謎めいた「はにかみ」。老作家は同じくらいの謎めいた調子でつぶやく。

「美しさははにかませるものだ」

美しい身体を持つことは、方々の審美的視線にさらされることだ。彼の「はにかみ」は美しいもの特有の、無邪気で超俗的な「自己意識」からくるものなのか。

 

全ての言葉は無に等しい。