アンドリュー・ソロモン『真昼の悪魔(うつの解剖学)』(堤理華・訳 原書房)
水原紫苑『桜は本当に美しいのか(欲望が生んだ文化装置)』(平凡社)
水原紫苑『桜は本当に美しいのか(欲望が生んだ文化装置)』(平凡社)
桜は本当に美しいのか: 欲望が生んだ文化装置 (平凡社新書)
諏訪哲二『なぜ勉強させるのか?(教育再生を根本から考える)』(光文社新書)
諏訪哲二『なぜ勉強させるのか?(教育再生を根本から考える)』(光文社新書)
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「人を思いやる心」とか「先の見えぬ社会を生き抜く能力」とかいうすり切れた理念を何の恥じらいもなく繰り返すあの例の調子に至っては、その理屈の成否にかかわらず、むかしから肌に合わないのだ。文科省の教育改革案におもねているだけのこんな俗物連なんか本来いてもいなくてもいいのだ。
山際淳司『スローカーブをもう一球』(角川書店)
「スポーツ」の中核をなす三大要素は、「ルール」と「遊戯性」と「競争性」、もう一つ加えるなら「限界挑戦性」ではないか。「遊戯性」や「ルール」を欠くとただの乱闘や殺し合いになりかねないし、「競争性」を欠くと馴れ合いの生ぬるい暇つぶしに終始する(それでも構わないという向きはあるだろうけれど)。「限界挑戦性」というのは、さしあたり記録への執念と言ってよいでしょう。記録はその記録方法や機器精度の変遷と無関係ではないので、絶対な客観性などは先ずありえず、演技系のスポーツでは尚更その観が強まってしまうけれども、事実スポーツを報ずる現場では、ウサイン・ボルトが百メートルで世界新記録を出したとか、イチローの日米通算安打数がピート・ローズを超えたとか、ルーマニアのコマネチが十点満点を七回も出したとかいうトピックがあまりに大大と扱われるので、一般の人びともそれにつられてつい盛り上がってしまう。
私が思っている「限界挑戦性」は、そんな公的記録の類でなく、もっと主観的なものだ。どういえばいいか難しいのだけれど、たとえば、ヘミングウェイの「老人と海」という中編作品がありますね。不漁続きで元気のなかった老漁師サンチアゴが二日二晩の死闘の末に巨大カジキを仕留めるというだけの単純明快な物語。あの死闘のさなかにサンチアゴが感じる「充実感」が、それに近い。海で繰り広げられた老人と魚の格闘など、実際誰も見ていません。その誰もみていないなか限界をどこまでも越えて行こうとするあの鬼気迫る老人の姿、自分の力量の超限界的をどこまでも突き破っていくあの凄まじい情念。ここにスポーツにおける「限界挑戦性」の一端があるように思う。最後には帰港の途次に食い荒らされた巨大カジキの骨だけが残るのだけれど、老人にとって唯一価値があるのはそうした残骸ではなく、あの限界到達感だけなのだ。残骸はそうした出来事があったということを示すだけの証拠であり、結局単なる「記念物」、金とか銀のメダルに過ぎない。スポーツの目的はスポーツそのものであり、その行為の絶対無報酬性のゆえに尊いのだと。はからずもヘミングウェイはスポーツ的マインドの精髄を描破していたのだ。
「スポーツ」とは一体何かという本質論はちょっと手に余る。歴史をかなり深くまで掘り返さないといけないし、「遊び」の機構や共同体についての分析も欠かせなくなる。誰か代わりにやってほしいね。
なぜに人々があれほどスポーツで絶叫したり感泣したりするのか、という問題も中々考えるに足る問題です。現代では、スポーツの結果次第で誰かが生贄に捧げられたりするわけではない。たしか南米のどこかの国のゴールキーパーが敗退を決定させるようなオウンゴールをしたために帰還後ファナティックな男性ファンに射殺されたという事件が昔あった気がするけれども、この場合明らかに射殺した人間の頭が狂っていたわけで、こんなことは普通おこらないのだ(容易に比較できないけれども、そうした心理的倒錯は、ジョン・レノンを銃殺した犯人や美空ひばりに塩酸をかけた病的崇拝少女の心理に近いのかもしれない)。
ともあれ、競技の当事者は別にして、競技の成り行きそのものがオーディエンスの物質的利害を決定づけることは殆どありえない。国家の浮沈にも無関係。にもかかわらず競技経過の様々な起伏は観る人間の臓腑を急騰させたり寒からしめたりする。何でそうなるのか。
あえて踏み鳴らされた大通りを利用して考えてみるなら、スポーツの喚起するあの激しい情緒は、アリストテレスの古典悲劇理論でいうところの「カタルシス」反応に通じるものがありそうだ。カタルシスという語は元来「排泄」「浄化」という意味で、特別厚ぼったい詩的ニュアンスを含んだものではない。「生身の人間」はなにかと感情の鬱積をかかえていて、糞詰まりの犬同様の不愉快感につつまれている。スポーツ観戦の引き起こす落胆や激情、歓喜といったものは、多少の差はあれ観戦者の心に劇的な還流運動をもたらす。これがしばしば精神的鬱積を切り崩す。自身は全く安全な場にありながら、あたかも(ぶしつけにも)選手自身の「運命」を勝手に引き受けた気になってカタルシスに与れるのだ(だから『マクベス』を見ているうちに王の運命に情緒移入してしまうこととあまり変わらない。ただ随分違うのは、スポーツの場合は演劇よりも「運命の自由度」が大きいという点だ)。
運命加担の対象は、ウェイトリフターでもありうればスプリンターでもありうる。ともかく彼彼女らの「限界への挑戦」や「勝利への執念」への心理的移入が果たせればそれでいいのだ。
この短編集でも扱われている「江夏の21球」(*)が今でも空襲体験さながらの熱っぽさで語り継がれているのは、語り継ぐ当人たちが江夏的運命を身体レベルで共有しているからに他ならない。そうした「過分」な心情的コミットメントがなければ、スポーツ現象はふつう(それがどれほどの奇跡的内容を持っているとはいえ)「伝説」にはならない。松井の五打席敬遠や「悲劇のエラー」といったものが今日でも怒りや憐憫の情なしには語られないのはそのためです。
*一九七九年十一月四日のプロ野球日本シリーズ第七戦、近鉄バッファローズ対広島東洋カープで、カープ側の抑え投手・江夏豊が九回の守りに投じた21球のこと。フルベースの極限ピンチのもとで打者たちを抑えたその配球駆け引きは後にプロ野球史に語り草となった。といっても著者の山際淳司がその主たる仕掛け人なんだけれども。
もちろんあらゆる「スポーツ経験」(観ることやプレイも含めて)がこのカタルシスに寄与するとは限らない。中途半端な負け方や失敗によって事態が数倍悪化することも往々ある(実際のところスポーツカタルシスはそう高頻度にあるものではない)。けれども、いわゆる「スポーツ観戦」の旨味をそうした悲劇性に見る視点も、私はありだと思う。古代ローマ時代のコロセウムは内容を変えながらも、社会機能においては現代にもかなり引き継がれているとみていい。
競技は、まったなし言いわけなしの、結果が非常に雄弁になる世界だから、当然、「不本意」の結果によって競技場を去る選手たちの背中には、ある種の悲劇的な哀愁が付きまとう。その背中を見て、傍観者にすぎない間抜け面のオーディエンスは、どこか「人生」の縮図を感じとらずにはいられないのだ(仮に負けた当人は内心あっけらかんとしていて、今夜のFacebookの更新内容を頭に思い描いているだけであるにしても)。
「縮図」とは何だろう。
「最高のコーチが最高の選手を育てるわけではない」
「世の中に確実な勝利はない」
「努力の量が必ず栄光に繋がるわけではない」
「応援団の規模が応援チームを勝利に導くわけではない」
「才能だけでは勝てない」
その試合のためだけに重ねて来た努力が一瞬のフライングで瓦解したり、通常ならありえないミスでチームが惨敗したり、ともかくスポーツというのはそうした「悲劇」に満ち満ちている。
「夏の甲子園」が日本の風物詩になれたのは、出場機会の限られている球児たちを襲う「現場の理不尽」が何かしらサラリーマンたちの同情を喚起したからではないですか。主観的な努力が実際面に報われなかったり、ほんの小さな過ちが重大な結果を招いたりする点では、高校野球も「生産現場」もあまり変わらない。思えば、高校野球では監督のサインは絶対命令みたいなもので、しかもアンパイアに対する抗議も極めて少ない(規則上できないことはない)。要するに高校野球の試合現場には「人間的不条理」が渦巻いている。負けた者はいつまでも球場に居続けることはできない。涙は球場外で好きなだけ流せと言うドライな空気さえある。運営側にとってそうした涙は一度ならずみてきているから、そう珍しくはないのだ。間もなく次の試合が始まる。
外野の凡エラーでサヨナラ負けした高校生たちが呆然自失のうちに礼を済ませて砂をかき集めているあの痛ましい情景のうちには、「悲劇」というさっぱりした言葉には収まりきらない何か生々しい「縮図」が見え隠れする。「今日が駄目なら明日がある」式の慰めが一切通用しない高校野球特有の、生傷に砂利を噛んでいるような痛み、青すぎる空にそのまま消えてしまうそうな恍惚の脱落感。その後のロッカールームでのやり取りや遠征バスのなかの雰囲気に想像力を及ぼす勇気が、あなたにはありますか。ある時から私は、高校野球が直視できなくなりました。だから観ていません。試合の成り行きによっては、内臓が本当に痛んでくるからです。
話はかわりますが、高校野球が最も国民の関心を集めるのは、スポーツ特待生を全国からかき集めているような悪役常勝校が予想通り優勝旗を手にする瞬間ではなく、優勝するとは思われていなかった地方の公立高校が番狂わせに優勝する瞬間である。このアンチ常勝校的な日陰者の反骨心はそのまま、アンチ大企業・アンチエリート的なメンタリティーとも響き合って、そうした部分が高校野球の面白さを担保しているのではないか。少なくとも高校野球に限らずスポーツというものは並べて、観客本意ではなく競技者本位である(あたりまえ)。「あそこまでして勝ちたいかね」などという憎まれ口は所詮、競技の非当事者の言い草です。観る者と参加する者とでは、これほどまでに電圧差が出てしまうんですね。時間や体力面での投入量が違いはすなわち、「執念の質」の違いでもあるということだね。「美しい負けざま」とか「健闘」みたいな解釈は、結局、傍観する人間たちの取り澄ました感傷に過ぎないわけだ。
競技当事者とオーディエンスの違いはあっても、スポーツにはスポーツだけの「痛み」がある。プロスポーツの世界であれば、また別の悲哀も起ってくる。ボクシングも棒高跳びも、その現場には深い失意と執念が轟いている。
たとえば、本短編集に収録されている「背番号94」は、期待されて巨人軍に入団した投手が数年後バッティングピッチャーになって生活しているというもの。大筋を聞いただけで悲しいリアリティが滲んでくるでしょう。実話ですからね。
生きるのは難しい。人間にとってこれほど難しいことはない。スポーツカタルシスは、そんな底なしの溜息と無関係ではない。人間の心理補償機構は複雑だね。二九歳になってつくづくそう思う。
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基本的に「競技そのもの」は政治的商業的領域の埒外にある(はずだ)。阪神が優勝してみても阪神ファンの資産運用がよくなるわけではないし、内村航平や北島康介の金メダルが取りも直さず日本の実質的国益に繋がるわけでもない。
この短編集の「八月のカクテル光線」でもそうだけれど、たとえば高校野球。
真面目に観戦すればするほど辛くなってくる。
大島洋一『芸術とスキャンダルの間 戦後美術事件史』(講談社現代新書)
大島洋一『芸術とスキャンダルの間 戦後美術事件史』(講談社現代新書)
要するに日本の戦後美術史のゴタゴタ事件簿。
芸術ってそもそも何というふうな疑問を首から下げて読むと良い感触が得られるね。贋作をつかまされた当事者でなければ笑って読める。欲の皮の突っ張った奴もたくさん出てくるから。しかめっつらした文人墨客の真贋論争も書物化されれば滑稽に映る。「具眼の士」もこの程度かって思いながら読んだ。
「芸術家」と聞いて瞬時に想起される定型像の通り相場はおそらく、体制秩序の埒外で勝手なことをしながら「美」とか「絶対」なるものをとことん追求している変な人たちというもの。そういう認識は多分、半分正しくて半分間違っているんじゃないかな。
半分正しくないというのは、歴史的に見れば、音楽につけ絵画につけ大部分の「芸術家」は当時の貴族なり宗教的権威なりの公的・民間パトロンに寄生しないととても糊口をしのげなかったわけで、凡庸で妙に上品ぶったあの夥しい肖像画や、既に忘却の淵にある数知れないカンタータや室内楽曲の存在理由もそうした事情なしには説明できない。もうちょっと遡っても、中世あたりの「芸術家」は今日でいうところの「職人」みたいなもので、何とか工房とか看板を立てて集団で「制作」に当たっていた(祭壇画とか)。無名有名を問わず、資金力豊富な注文主や庇護者がいて初めて「商売」になるわけだ。レオナルドダビンチも転々と職を渡り歩いている。「芸術は爆発だ」とか「根源的自我の解放」などと小児的な叫びをあげて好き放題に暴れ回る芸術家像はロマン主義運動以降に定着したものだと思う。硝子の破片の上で血みどろになって転げ回った挙句豚の内臓を観客席にまきちらしてみたり、元世界的バンドミュージシャンが前衛芸術家の妻と肩を組んで撮った全裸写真を世界に公開したり、餓死するまでの犬の様子を写真に取り続けたりする動物虐待なども何か「芸術」らしく見える今日からは想像も難しいけれども。いい加減「過激なパフォーマンス」に飽き飽きしましたよね、僕だけか。三島由紀夫の騒動も、あれは真剣にやったことなのかな。あれ程器用な知性に恵まれた人物が「国を憂える」ことなど本当に出来たのか。なんだか命懸けの自己表現という風にしかみえない。
ともあれ表現は何でもありだという無際限に自由な風潮がかえって「芸術」の幅を狭めている気がする。このごろは何につけ「抒情」性が鬱陶しくなってきた。シューマンとかショパンの感傷優位の曲を聴いた後にバッハのゴールトベルク変奏曲や平均律クラヴィーア曲集などを聞くと、そこにかなり成熟したものを感じて肺腑がじいんと鳴る。型や形式や秩序が必ずしも作品のポテンシャルを圧殺するわけではないんだな、と。表現形式の自由なんか所詮子どもの物言いじゃないか。ヒッピーじゃないんだから。
ところで今日的(一昔といった方がいいかな)なデカダンスっぽいステレオタイプの芸術家像は、貴族階級の勢力が衰えて中産階級が勃興してきた十九世紀以降の話だと僕はみています。そのころには宗教的権威も以前よりはゆるまってきた。要するにブルジョア階級が肥え太ってきて「芸術愛好家」とでも呼べそうな粋人が時代の表街道に現れはじめた。ベートーヴェン(一七七〇~一八二七)の頃になると、もう既にそんな階級の芸術愛好家が芸術家の資金援助者になっている。何々公爵とか何々伯爵だけではなくて、ちょっとした裕福な商人とかね。それでも芸術家渡世は難しい。もっと後になって出てくるゴッホなんか弟の経済的援助がなかったら多分部屋で孤独死しています。「芸術家」の貧乏と生活不器用は半ば宿命ですね。彼らは「国の富」の増大に何の寄与もしていないから、「認知」されない限り身の置き場もない。文化的生産者など本当はいてもいなくてもいいわけだから。創作者の経済的自立というのは詰まる所自分や自分の作品を商品市場に出すことに他ならないので、どうしてもその段階で「媚び」が入り込む。体制に対していくらでも柔軟に対応できるポップアートの類ならいざ知らず、とても世間人の拍手を得られそうもない創作活動をしている「生産的部外者」にとって、自由市場のそうした壁は厚くて残酷だ。
ある種の「媚び」を「迎合」といってにべもなく否定する人も少ないないけど、あれはどうなのだろう。それにしても「アーティスト」という言葉が安くなったね。株価急落だよ。オリコンチャートを独占するアイドル集団の「アーティスト」もいれば黴臭い部屋で誰の眼にも触れない油絵を描いている「アーティスト」もいる。誰もが映画をつくり、音楽をつくる。短歌を作り絵を描く。アマチュアでも何でも、何かを作る人はみんな「アーティスト」を名乗る。こういう「アーティスト」のインフレ傾向も悪くないけれど、自分ばかりが作るだけでなくて他者の作品に関心を向けましょうよ。本当によく出来た古典作品とかに。自閉的な「アーティスト」には碌なのがいない。シェークスピアを知らない演劇人や、バルザックも源氏物語も碌に読んだことのない「小説家志望者」など悪質なジョークに属します。偶然嫌いかもしれないが、一応能力に恵まれた先達なのだから全身で学びましょうよ
「世間の節穴などに俺の芸術を解るか」という芸術家にありがちな狷介孤高性も、誰もが囚われている市場的誘惑の産物なんだろうね。だってそんな頑固者も世間に認められるが早いか急に娼婦然と態度を一変させて人格的に軟化するでしょう。そしてやがて紫綬褒章なんかもらって皇居前でヘラヘラ写真に写る。こういう間抜けな「大御所化」って心底嫌だね。野党の無名時代に急進的主張を繰り出して気炎を上げまくっていた代議士が政権奪取後に急にお行儀のいいポピュリストになってしまうあの感じよりも数等胸糞悪い。梅棹忠夫のいう様なアマチュアリズムの作法(特に金銭的無報酬)を守るためには、なんらかの物質的な基盤が欠かせない。ひとむかしまえだとある種の有閑貴族がアマチュアリズムに徹することができた。ライプニッツとかキェルケゴールとかは商売で著述していたわけじゃないでしょう。だからあんなに何でも追究できた。芸術も思索も本当はアマチュアリズムが最良なのです。気兼ねしなくてもいいから。豪商やカトリック教会の庇護を受けながら蓄財や聖書の悪口はいえない。表現枠が所属先によって最初から拘束されてしまうのは悲劇だね。けれども生活に窮するようでは、どうしてもどこかに依存しないといけない。依存するとやはり自分の作りたいものと作らねばならぬものとの間に乖離がうまれる。無所属が最良なのに無所属であるためには一定の資産が欠かせない。これは「表現者」の陥る典型的なジレンマですね。生活基盤を持たないほとんどの「芸術家」は、そこんとこで苦しむんです。詩を作るより田を作れって。きっと無理でしょう。大半は社会不適合者だから。「芸術家」はきっとGDPとかGNPの担い手にならないで何かを追求したい。国家の生産部門の一翼を担わない完全な部外者でありたいのだ。
なんだか馬鹿馬鹿しい騒動ばかりだけれど、やっぱり巻き込まれた当人たちはさぞ神経をすり潰しただろうね。こんな主題を扱った新書ならいくらでも買う。美術史ものがあれば、ほかにも読みたいな。世の中の胡散臭い側面にもっと光をあてましょう。
日本陶芸界最大の贋作事件として知られている「永仁の壺」事件(加藤唐九郎)は言うにおよばず、前衛芸術家・荒川修作の昭和天皇コラージュ版画事件、三越の古代ペルシア秘宝展スキャンダル、佐野乾山論争、北大路魯山人や棟方志功の贋作、ロートレックの「マルセル」盗難事件、どれもこれも「人間の業」噴出過剰だ。
一九八二年の三越の事件などは、はじめて聞いた。たぶん年齢のせい。当時生きていれば多分知っていた。こんな面白い事件なんだから追いかけたはずだ。天下の三越が鳴り物入りで開催したペルシア秘宝展のほとんどの出展物がニセモノだった。あのころの上層日本人なんてのは金は沢山持っているけれど鑑識眼では節穴同前だったから、外国の悪徳美術商にとってはさぞ「いい鴨」だったのだろうね。こんな事件は全体のほんの一部なのかもしれない。たまたま表面化してしまっただけで。そんな事件の詳細を知ってしまうと、古代展など行く気がなくなる。もともと私は古代の遺物などに関心はないのだけれど。気質だろうかね。滅びたものは滅びたものに任せておきなさい。
贋作議論についても、私は、随分前から馬鹿馬鹿しさを禁じ得ない。専門家以外の者にとってそれがニセモノであろうが本物であろうが、どうでもいことだ。世の中には「好い作品」と「駄作」しかありません。本物そっくりに真似て海千山千の画商たちの眼を欺く悪党もまた天晴れなトリックスターではないかね。それだけのリスクを負っているんだから。長期的にみたらとても割に合わないよ。
それにもとをただせば人生何もかもがニセモノなんです。今の宇宙も贋作です。
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トオマス・マン『ヴェニスに死す』(実吉捷朗・訳 岩波書店)
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タッジオは、めいめいの読み手が思い描く美少年像を以て活動する。芸術の美、人間身体の美を測る尺度は世俗のこしらえものではない。ただ、美しいという感情は、それ自体において喜びであるから、したがって善いのだ。道徳の話ではない。この心地よさ、眼福、精神の浄化感覚、綺麗な人を見るとなぜこうも昂揚するのか。
それは月並みの用語法では語れない。それに語るだけ野暮というものだろう。
ただ、本当に美しいものに肺腑を衝かれないで生きることは、生きているといえるだろうか、とは考えたくなる。美しさは、いろいろに「解釈」可能だ。美学の話は、この際、どうでもいい。プラトン流の哲学談義にも(’私個人は好んでいるのだけれど)、あまり深い入りしたくない。
結局アッシェンバッハは我が身を滅ぼすことになる。滅びるといっても、その滅びは恍惚の境でのことで、漠然とみるかぎりでは、悲劇にも喜劇にも属さない。そうした出来事があった、という淡々たる調子だ。この物語は、年齢上では老境、文壇キャリア上では大御所に達した小説家がある人身美の虜になって病没する話だけれも、そんな筋よりも、私は人の「美しさ」が与える影響の大きさに注目したい。
ダンテが打ちのめされたベアトリーチェ、ペトラルカを魅惑したラウラ、詩人はこうした美しい夫人を崇拝しつつ絶対的な何ものか(彼らの場合、神なのだろうが)を礼讃した。生き写し、権化、仮現、どんな言葉でもいいのだけれど、信仰の縁になるような美的経験が、彼らの詩作の発端、すくなくとも内的転換点にはあった。確かにあったはずだ。
ひとりの人間の美しさが「芸術家」にもたらす経験は、絶大無類のものである。アッシェンバッハはタッジオ経験のうちに、芸術活動の極点を観取したのだ。タッジオは取りも直さず美の身体表現そのものだった。美しさが人間の肉体を介して表現されていた。アッシェンバッハはただその均整の極点、綺麗なものの現前、平安の予兆、苦界の慰安に身心を投ずるだけでよかった。彼の美しい姿態や顔貌を見つめ続けることは、ヴェニスに取り残されて死ぬに値するばかりか、余りあることだった。「言い様もないくらいに愛くるしい微笑」、謎めいた「はにかみ」。老作家は同じくらいの謎めいた調子でつぶやく。
「美しさははにかませるものだ」
美しい身体を持つことは、方々の審美的視線にさらされることだ。彼の「はにかみ」は美しいもの特有の、無邪気で超俗的な「自己意識」からくるものなのか。
全ての言葉は無に等しい。