佐野白羚の文筆武者修行

佐野白羚による随想ならびに読後録(「蟄居汎読記」「書脈録」)を不定期掲載

ベルクソン『時間と自由』(中村文郎・訳 岩波書店)

キーボードの前にチンパンジーでも座らせて「無限の時間」むちゃくちゃに叩かせると、そのうち必ず『ハムレット』と全くおなじ文章列が出来上がるだろう、という話がありますね。ピアノの前でむちゃくちゃ弾かせていればいずれショパンのノクターンが演奏さ…

団鬼六『美少年』(新潮社)

美少年とは何か。これは極めて難しいけれど大変麗しい問題だ。一度は落とし処をさぐっておきたいテーマでもある。 ただ、美少年を思想のように語るのは間違っている。鼻や顎にノギスを当てたり人体は本来何等身が美しいのだなどと美学談義を始めるのも間違っ…

小松和彦『日本の呪い(「闇の心性」が生み出す文化とは)』(光文社)

日本史の古層を掘り下げてみれば、さまざまな「呪い」の痕跡がある。桓武天皇の遷都、犬神憑き、崇徳天皇や菅原道真の怨霊、丑の刻参り、「呪詛」の染み込んだ項目は存外少なくないようだ。怨霊とか呪詛などというと、いわゆる「トンデモ本」の守備範囲みた…

山本七平『「空気」の研究』(文藝春秋)

日本人論は戦後色々書かれてきて、下らないものから秀逸なものまで玉石混交の観を激しく呈し続けているけれど、本試論はその中でもかなり長く熱心に読み継がれ厳しい批評の洗礼を潜りぬけてきたものの一つで、今でも一読に値すると私は思っている。 そもそも…

R.F.ジョンストン『紫禁城の黄昏』(入江曜子・春名徹・訳 岩波書店)

イギリスの官僚で、宣統帝溥儀の家庭教師として紫禁城に迎えられることになったR.F.ジョンストン(1874~1938)の書いたこの名高い記録本を読む前に、清朝の簡単な系図や辛亥革命以後の政治動静を、あらまし確認しておいた方がいいかもしれない。 私などは…

小野塚カオリ(団鬼六・原作)『美少年』(マガジン・マガジン)

ウォルト・ホイットマンは、その詩集『草の葉』の序文(初版)のなかで、「合衆国そのものが、本質的には最大の詩編なのだ」(酒本雅之・訳)と高らか言い放った。 同じように、「美少年」という現象をポエジーそのもののとして讃称することは、少しも突飛な…

『谷崎潤一郎随筆集』(篠田一士・編 岩波書店)

この谷崎潤一郎(一八八六~一九六五)という巨頭について語ろうとするのに先ずその文章の上手さから入り込むのは、どうにも「今更」といった感じがする。 王貞治は野球が上手だ、とか、リチャード・ド-キンスは遺伝子に詳しいといった類の物言いと同じで、…

宮本又郎・他『日本経営史(日本型企業経営の発展・江戸から平成へ)』(有斐閣)

有斐閣(ゆうひかく)といえば創業明治十年(一八七七)の老舗学術出版社で、主に法律関連の「硬質」な書籍を世に送り続けている。とくに、年版の『六法全書』や『ポケット六法』『有斐閣判例六法』といった刊行物は、いつからか、法律学習者たちの堅実な伴…

西村本気『僕の見たネトゲ廃神』(リーダーズノート株式会社)

ネトゲ廃人。一時期「社会問題」のような形で話題になりました。あれからも課金制のゲームなんかが次々出てきて、夢中の人が中々多いみたいです。 なんでこう、なんでもかんでも「社会問題」にしたがるのだろうな。「ニート」だろうが「引きこもり」だろうが…

水波誠『昆虫 驚異の微小脳』(中央公論社)など

「岩波新書」「講談社現代新書」「中公新書」。 これらは誰が決めたのか俗に三大新書と呼ばれている。個人的には平凡社新書や集英社新書、ちくま新書などからも面白い本が少なくないのだが、大事なのは権威と質量なのだ。 私は必ずしも新書の熱心な読者では…

アンデルセン『絵のない絵本』(大畑末吉・訳 岩波書店)

デンマークのアンデルセン(一八〇五~一八七五 *1)は一般に、『人魚姫』や『親指姫』『マッチ売りの少女』のような、短くて時々やや感傷的な童話の作者として世界中にその名が通っているけれど、実は、紀行文(彼は生涯外遊ばかりしていた)や戯曲も多く…

井口俊英『告白』(文藝春秋)

国債とか為替相場とか株式売買というようなものを、私は室内のカメムシと同じくらい好んではいないけれども、そのメカニズムや歴史については常々関心を持ってきた。 素朴に考えれば、銀行というものは不思議な存在だ。 いまだに私はなぜだか、銀行という現…

小林安雅『海辺の生き物』(山と渓谷社)

人間も余りあるほど変態な生物だけれど、地球とりわけ海辺には今日も、実に奇妙で実に見定めがたい生物たちが犇めき合って生きている。 ウミウシとかホヤの鮮明過ぎる写真をみていると、どこか感極まってくる。能登半島の海岸沿いで育ち、フナ虫やクラゲに見…

加藤尚武『ジョークの哲学』(講談社)

ジョークとは何か。 ジョークらしいものを終日垂れ流す人々は少なくないけれども、ジョークについて「そもそも論」を立てる人は思いのほか少ない。 辞書なんかは、ジョークとは冗談や洒落のことだと、実に通り一遍で淡白な説明を下している。それでは冗談と…

ダン・ローズ『コンスエラ 七つの愛の狂気』(金原瑞人/野沢佳織・訳 中央文庫)

言うまでもなく、巷に狂気はありふれている。 人間が生きるということは、狂気を生きるということだ。 多少の狂気なくしては、人間など一時間だって生きられない。 世界は一塊の終わりなき悪夢でありますから。 狂気といっても、俗悪な狂気もあれば、人畜無…

大澤武男『青年ヒトラー』(平凡社)

歴史の「常識」においてはヒトラーは負のレッテルにまみれているので、彼の中に人間味や友情感覚があったことを実感するのは並大抵のことではない。 けれども彼も人間であって、超人でもなければ悪魔の使者でもない。多感な少年時代もあったし青年時代もあっ…

石井淳蔵『マーケティングの神話』(岩波書店)

洗濯用コンパクト洗剤「アタック」(花王)や日立製作所の洗濯機「静御前」のようなヒット商品の裏には綿密なリサーチやマーケティング理論があると思われがちだが実はそうではない。市場に厳密な理論などは本来通用しないものだ、と概ねこんなことが議論さ…

ブラックウッド他『怪奇小説傑作集Ⅰ』(平井呈一・訳 創元推理文庫)

怪奇小説のアンソロジーで、殆ど知られていないものから半ば名作化したものまでいい按配に寄せ集められている。全部で五巻構成らしいけれど、私はこのⅠとⅡしか読んでいない。平井呈一の訳文が些か古風でしかも凝ってもいるので、この手の作品集にあまり食指…

中村計『甲子園が割れた日』(新潮社)

松井秀喜はほとんど毎年金沢市に来て、様々な恒例イベントを真面目にこなしている。星陵高校(松井の出身校)の山下さん(もと監督にして松井の「恩師」(引用符なしでは使いたくない言葉だ)と面会するシーンはローカル放送の定番といってもよく、石川県人…

ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一・訳 集英社)

「存在の耐えられない軽さ」。巷には、こんなタイトルをもじったものがおびただしくある。 本人は得意になっているのだろうけれど、実にまずい。凡庸極まるね。 いきなりニーチェの「永劫回帰」(*)だ。 文豪のなかには、こうした「哲学風エッセイ」を物語…

佐藤春夫『田園の憂鬱』(新潮社)

『月と六ペンス』のストリックランドは、モームがゴーギャン(フランスの後期印象派の画家)の生涯に想を得てつくりだしたものだ。その真否や細部の程はともかく、あくまで伝説上ではゴーギャンはヨーロッパ文明を否定してタヒチ島に避難したことになっている…

ラヴァット・ディクソン『グレイ・アウル』(中沢新一/馬場郁・訳 角川書店)

イギリスのヴィクトリア朝時代(一八三七~一九〇一)は通常、議会政治や商工業の目覚ましい発達と広大な植民地支配(主にインド)によって、「大英帝国」最盛期をなすものとされている。栄華の極め振りが凄まじかっただけにその衰亡の程もまた顕著に演出さ…

谷崎潤一郎『文章読本』(中央公論社)

ある教師によると、口は達者で愉快な人物なのに、作文となるとたちまち軽度の緘黙状態に陥る生徒が、一クラス(あるいは一学年)に必ず二三人はいるということだ。今昔を思い返してみると、作文の居残り組というのは毎回決まっていた。統計をとったのではな…

ブライアン・スウィーテク『移行化石の発見』(野中香方子・訳 文藝春秋)

為事空間と生活空間が八割がた同じだと、一年に二度くらいは熱心なキリスト教系の布教者が訪れてくる。大抵は人の良さそうな二人組の中年女性で、毎回カラフルな紋切り型のイエスが描かれた退屈なパンフレットを携えてくる。私は物好きというか赤の他人との…

エーファ・マリア・クレ―マー『世界の犬種図鑑』(古谷沙梨・訳 誠文堂新光社)

先週酒の席で盛り上がった話題のひとつに「犬」があった。たとえばそれは、犬にまつわる「美談」が枚挙しえないほど報告されているのに対して、猫のそれについては極めて微々たるものだというもので、穏やかだった酒の場はすぐさま談論風発に及んだ。 たしか…

藤原新也『僕のいた場所』(文藝春秋)

もともと私は他人の写真というものを好きではなくて、素人の旅行写真など重度の不眠症患者にアクビを促すためにのみ存在しているものと思っていたくらいだから、当然、旅に際してカメラを持つことも殆どない。どこに行っても写真を撮るに値する光景などなか…

エミリー・クレイグ『死体が語る真実』(三川基好・訳 文藝春秋)

文春の海外ノンフィクションは入手しやすい上に労作揃いなので、私のお気に入りリストに登録されるようになって久しい。本書の特異な主題もまた興味に尽きない。 なにしろ「白骨死体のプロ」と称される女性が書いた本だから、冒頭から最後まで穏やかでは済ま…

エドモンド・シャルル=ルー『ココ・アヴァン・シャネル』(加藤かおり他・訳 早川書房)

マリリン・モンローが寝る前にシャネルの五番を纏っていたという都市伝説があったけれども、いずれにしても、シャネルと聞くだけで何か垢ぬけたものを感じてしまう。シャネルという響きの中に野暮で無粋な成分を見付けることはできない。シャネルスーツ、シ…

デズモンド・モリス『マンウォッチング』(藤田統・訳 小学館)

お盆で実家に戻った折読み返してみて、やっぱり面白いと思ったのはデズモンド・モリスだ。(刊行後半世紀近く経つので)いまではやや賞味期限切れの観もあるあの『裸のサル』(一九六七年)の著者。この人は一般向けに実に面白い本を書いている。『サッカー…

ロベルト・ヴァルザー『ヤーコプ・フォン・グンテン』(藤川芳郎・訳 集英社)

先週、何かのきっかけで、ふとロベルト・ヴァルザー(スイス 一八七八~一九五六)を読んだ。 「若いカフカが強く影響された作家」というレッテルの下で、一部ではカルト的な敬愛を集めてきたヴァルザーだけれど、私もこの作品に広がる瘴気にやられて軽い後…

渡辺一史『こんな夜更けにバナナかよ』(文藝春秋)

さだまさしは「療養所(サナトリウム)」という歌で人生そのものがひとつの病室だと熱唱し、辺見庸は人間は一人残らず病人だとあの険しい顔で喝破している。 うん、直感的にも、それはそうだろう。そんなことをドヤ顔で主張されると、何をいまさらという反省…

ティモシー・ライバック『ヒトラーの秘密図書館』(赤根洋子・訳 文藝春秋)

扇情的大胆な邦題が妙な誤解を与えかねないけれども、こうした趣向の本としては最後まで結構面白く読めた。せっかくの識字能力を積極的に活用しない人はともかく、多くの人は自分だけの「プライベートライブラリー」を持っている。短い生涯のうちで貧弱な脳…

ジャン・ヴォ―トラン『グルーム』(高野優・訳 文藝春秋)

現代フランスの妄想文学。こんなのをパルプ・ノワールとかいうらしい。フランス語でノワールは暗いとか黒い。そういえば映画マニアから「フィルムノワール」っていうジャンルの話をを延々聞いたことがある。見たことないけれど。私はフランス映画では「禁じ…

伊丹十三『ヨーロッパ退屈日記』(新潮社)

すでに物故した人ですが、「マルサの女」なんかの映画監督としてよく知られている伊丹十三が若いころ綴ったエッセイがこれ(どうでもいいと思いますが彼は大江健三郎の義兄でしたか)。 「随筆」と「エッセー」の違いなど、深く考えたことがないけれども、あ…

ドルトン・トランボ『ジョニーは戦場へ行った』(信太英男・訳 角川書店)

ドルトン・トランボ『ジョニーは戦場へ行った』(信太英男・訳 角川書店) トランボのこの『ジョニーは戦場に行った』と江戸川乱歩の怪作『芋虫』を比較するのは、どうにも今更と言った観がある。どちらの作品にも、戦争が生み出した「生きた肉塊」が出てく…

ピーター・バーンスタイン『リスク(神々への反逆)』(青山護・訳 日本経済新聞社)

ピーター・バーンスタイン『リスク(神々への反逆)』(青山護・訳 日本経済新聞社) (表紙絵はレンブラント。イエスがいるから、たぶん聖書から取材されたもの。こうやって見ると表情がかなり細やかに描かれています) 今日いろいろのところで耳朶に触れる…

セオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』(宮本陽吉・訳 集英社)

セオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』(宮本陽吉・訳 集英社) (ものすごい顔写真だな。鬼気迫るという言い方がぴったしくる。文学者の写真というのは、いったい、険しい顔をしていた方がよっぽどサマになる。時々尊大にポーズを取っているのもあるし(…

安達正勝『死刑執行人サンソン(国王ルイ十六世の首を刎ねた男)』(集英社)

安達正勝『死刑執行人サンソン(国王ルイ十六世の首を刎ねた男)』(集英社) 人間にとって「首を斬られる」ということは何を意味しているのだろう。そこには単なる「絶命」以上の含みがある。しばしば「首」は殆ど「頭」と同義的に使われていて、その「頭」…

サイモン・ウィンチェスター『博士と狂人(世界最高の辞書OEDの誕生秘話)』(鈴木主税・訳 早川書房)

サイモン・ウィンチェスター『博士と狂人(世界最高の辞書OEDの誕生秘話)』(鈴木主税・訳 早川書房) 本質的なことではないけれども、訳者の名前、ちから、と呼ぶみたいだな。情けないことに読めなかった。調べてみると、ちから、というのは、上代(奈良時…

能登路雅子『ディズニーランドという聖地』(岩波書店)

能登路雅子『ディズニーランドという聖地』(岩波書店) ディズニーランドは実に悲しい所と思う。「ディズニーランド」と発音してみただけで何か索漠たる気配に胸倉をつかまれて動悸が早まってしまう。 きっと世界でこれほど悲しい場所は田舎のパチンコ屋と…

ジャン・トゥーレ『ようこそ、自殺用品専門店へ』(浜辺貴絵・訳 ランダムハウスジャパン)

ジャン・トゥーレ『ようこそ、自殺用品専門店へ』(浜辺貴絵・訳 ランダムハウスジャパン) 短いので、昨晩一気に読み終えた。こういうのが現代フランス流のブラックユーモアなのかあ、と思わせるわけだ。「自殺」というメガトン級に重たい主題をこれほどコ…

保坂正康『自伝の人間学』(新潮社)

保坂正康『自伝の人間学』(新潮社) なぜ人々は紙やインクや時間という限りある資源を費やしてまで自伝を書こうとするのか、誰も分からない。自分を語ることでその人生にどんな価値を付加させようとしているのか、誰も知り得ない。あるいは後世の人物評を…

アンドリュー・ソロモン『真昼の悪魔(うつの解剖学)』(堤理華・訳 原書房)

アンドリュー・ソロモン『真昼の悪魔(うつの解剖学)』(堤理華・訳 原書房) そもそもうつ病というのは何もので、現場ではどんな治療方法が現に行われていて、どんなふうな歴史を持っているのか。大部のこの労作はそのあたりをばっと辿ってみせる。こうい…

水原紫苑『桜は本当に美しいのか(欲望が生んだ文化装置)』(平凡社)

水原紫苑『桜は本当に美しいのか(欲望が生んだ文化装置)』(平凡社) 往年の落語家シリーズばかり聴いていた頃、桂米朝か三遊亭圓生(六代目)かのどちらかの演ずる「百年目」のなかで、花見見物客を眺めている旦那がさりげなく桜に苦言をもらすところがあ…

諏訪哲二『なぜ勉強させるのか?(教育再生を根本から考える)』(光文社新書)

なぜ勉強させるのか? 教育再生を根本から考える 光文社新書 作者: 諏訪哲二 出版社/メーカー: 光文社 発売日: 2007/02/16 メディア: 新書 購入: 2人 クリック: 12回 この商品を含むブログ (22件) を見る 諏訪哲二『なぜ勉強させるのか?(教育再生を根本か…

山際淳司『スローカーブをもう一球』(角川書店)

山際淳司『スローカーブをもう一球』(角川書店) 「スポーツ」の中核をなす三大要素は、「ルール」と「遊戯性」と「競争性」、もう一つ加えるなら「限界挑戦性」ではないか。「遊戯性」や「ルール」を欠くとただの乱闘や殺し合いになりかねないし、「競争…

大島洋一『芸術とスキャンダルの間 戦後美術事件史』(講談社現代新書)

大島洋一『芸術とスキャンダルの間 戦後美術事件史』(講談社現代新書) 要するに日本の戦後美術史のゴタゴタ事件簿。芸術ってそもそも何というふうな疑問を首から下げて読むと良い感触が得られるね。贋作をつかまされた当事者でなければ笑って読める。欲の…

トオマス・マン『ヴェニスに死す』(実吉捷朗・訳 岩波書店)

ヴェニスに死す (岩波文庫) 作者: トオマスマン,Thomas Mann,実吉捷郎 出版社/メーカー: 岩波書店 発売日: 2000/05/16 メディア: 文庫 購入: 2人 クリック: 21回 この商品を含むブログ (28件) を見る トオマス・マン『ヴェニスに死す』(実吉捷朗・訳 岩波書…