書痴肉林・蟄居汎読記

佐野白羚の古い雑文の一部を(たぶん)定期的にひっそり掲載します

トオマス・マン『ヴェニスに死す』(実吉捷朗・訳 岩波書店)

 

ヴェニスに死す (岩波文庫)

ヴェニスに死す (岩波文庫)

 

 

トオマス・マン『ヴェニスに死す』(実吉捷朗・訳 岩波書店

 

タッジオは、めいめいの読み手が思い描く美少年像を以て活動する。芸術の美、人間身体の美を測る尺度は世俗のこしらえものではない。ただ、美しいという感情は、それ自体において喜びであるから、したがって善いのだ。道徳の話ではない。この心地よさ、眼福、精神の浄化感覚、綺麗な人を見るとなぜこうも昂揚するのか。

それは月並みの用語法では語れない。それに語るだけ野暮というものだろう。

ただ、本当に美しいものに肺腑を衝かれないで生きることは、生きているといえるだろうか、とは考えたくなる。美しさは、いろいろに「解釈」可能だ。美学の話は、この際、どうでもいい。プラトン流の哲学談義にも(’私個人は好んでいるのだけれど)、あまり深い入りしたくない。

 

結局アッシェンバッハは我が身を滅ぼすことになる。滅びるといっても、その滅びは恍惚の境でのことで、漠然とみるかぎりでは、悲劇にも喜劇にも属さない。そうした出来事があった、という淡々たる調子だ。この物語は、年齢上では老境、文壇キャリア上では大御所に達した小説家がある人身美の虜になって病没する話だけれも、そんな筋よりも、私は人の「美しさ」が与える影響の大きさに注目したい。

ダンテが打ちのめされたベアトリーチェ、ペトラルカを魅惑したラウラ、詩人はこうした美しい夫人を崇拝しつつ絶対的な何ものか(彼らの場合、神なのだろうが)を礼讃した。生き写し、権化、仮現、どんな言葉でもいいのだけれど、信仰の縁になるような美的経験が、彼らの詩作の発端、すくなくとも内的転換点にはあった。確かにあったはずだ。

 

ひとりの人間の美しさが「芸術家」にもたらす経験は、絶大無類のものである。アッシェンバッハはタッジオ経験のうちに、芸術活動の極点を観取したのだ。タッジオは取りも直さず美の身体表現そのものだった。美しさが人間の肉体を介して表現されていた。アッシェンバッハはただその均整の極点、綺麗なものの現前、平安の予兆、苦界の慰安に身心を投ずるだけでよかった。彼の美しい姿態や顔貌を見つめ続けることは、ヴェニスに取り残されて死ぬに値するばかりか、余りあることだった。「言い様もないくらいに愛くるしい微笑」、謎めいた「はにかみ」。老作家は同じくらいの謎めいた調子でつぶやく。

「美しさははにかませるものだ」

美しい身体を持つことは、方々の審美的視線にさらされることだ。彼の「はにかみ」は美しいもの特有の、無邪気で超俗的な「自己意識」からくるものなのか。

 

全ての言葉は無に等しい。