書痴肉林・蟄居汎読記

佐野白羚の古い雑文の一部を(たぶん)定期的にひっそり掲載します

保坂正康『自伝の人間学』(新潮社)

 

保坂正康『自伝の人間学』(新潮社)

なぜ人々は紙やインクや時間という限りある資源を費やしてまで自伝を書こうとするのか、誰も分からない。自分を語ることでその人生にどんな価値を付加させようとしているのか、誰も知り得ない。あるいは後世の人物評を意識し、何かを隠したり粉飾したりするために自伝を残そうとしているのか、やっぱりわからない。ことによると自分の過去を公衆にさらけだそうという本能が人間にはあるのかもしれないし、彼彼女の成育歴や精神類型がたまたまそうした挙の背後にあるだけなのかもしれない。

ともかく、「自伝」学の正体は、そのまま、「自伝を書く人」についての学でもあるようです。もうちょっと箴言風にいうなら、自伝学は人間学に他ならない。

このごろは自費出版などが色々の様式で流行していて、孫正義でもホリエモンでもウォーレン・バフェットでもスティーブ・ジョブズでもない人々がさかんに自らを語りたがっている。おおいに語りたがっている。けれどもそうした人々が自分の人生を誰に向けて何のために語ろうとしているのか、まるで解しかねるのだ。そこには「ただ語りたいがために語るのだ」という愚直な動機さえ見え隠れする。山があるから登る、白紙があるから書くのだ。こんなふうにいうと恰好よくも聞こえる。いや、ちょっぴりだけよ。

つまりですね、自伝というのは、実に謎めいた分野なのですね。自伝を書くに相応しい人も相応しくない人も含めて、私は自伝を書く人間自身に興味がある。その心の面に興味がある、とっても。

この分野は面白い事例に事欠かないのだ。

そういえば、日経新聞の裏に「私の履歴書」という名物連載がありますね。そこでは財界政界の大立者とか各分野の宿老みたいのが大いに自分を語っている。成功者というのはかくも自信に満ちて自分を語るものか、と毎回思わせるくらいに。作家や学者のように職業的に筆を執っている人間は自力で書いているのだろうけれど、そうでない人々はあらかた口述筆記だろうね(それでいいのだ)。

渡辺淳一遠藤周作水木しげるみたいな創作者たちの「履歴書」はなかなかの高評を博したようだけれども、それはたぶん彼らが自分の過去の泥土層を殆ど隠さずに、ありありと率直に語ってみせたからでしょう。一方で、一概に言いくるめることは出来ないけれども、功名を勝ち得た財界人たちによる「履歴書」には、婉曲な自慢話やさりげない美談こそ散りばめられてはいても、本当の意味での「内省」や「懺悔」は予想外に少ない。この辺にはもっと愛憎交錯するドロドロ事情があっても変ではないのだけどなあ、という箇所も、あっさり「叙事的」に語られるのだ。これには驚く。あなた違うんじゃないですか、実業や政治の世界はもっと怨念や汚辱に満ちているはずでしょう、その渦中で何をみたのかをもっときっぱり語ってくださいよ、という気にさせる。

 

そういうとき、時々語られるのは、せいぜい「公認の失敗談」や自己弁護であって、間違っても、自分の薄汚れた所業や欲望には言及しようとはしない。こんなものでも読む人が読めば涙腺を刺されたり何かしらの参考になったりするのかもしれないけれど、私はどうしてもその手の語り口調のなかに「公人の限界」を感じ取ってしまって、いっときのあいだ空しい気持ちに浸るのだ。これは自伝にまつわるひとつの暫定原則ではないでしょうか。

 

「公人の自分語りにはどうやら限界があるらしい。だから第三者が書くのだ」

 

その「限界」は奈辺にあるか。自伝学を志す人は、この観点を先ずは持ちましょう。

そこで、私なりに考えてみた。

一般に、この世界では、高い地歩を築いた人ほど、自分を正直に語りたがらない。人事案とか会計監査を巡ってのあれこれや家族との不和軋轢なんかも、そうした立場にある(あった)人ほど、語りにくくなる。誰も自分の晩節を汚したくないものだ。それだけか、違う。もっと重要な点がある。組織の高い地位にあった人間の告白の波紋は、その組織や関連人物にだけではなく、「社会全般」にまで及びかねないのだ。もちろん告白した当人にも影響が及ぶ。こうしたゴタゴタはこれから横町の隠居になって孫とじゃれついたり風流三昧に浸らんとしている人間の望むところではない(元東京都知事があんな高齢で証人喚問に連れ出されるのを見るのは辛い)。

 

世の中には(ごく荒っぽくいうなら)「人を使う人間」と「人に使われる人間」が存在する。「人を使う人間」の語りには何となく本音を押し殺したような慎重さが付きまとう。当人はそうでないつもりでも、やはりその言葉には人心管理者特有の無難で制御された語法があって、私はときどきそれが鼻につく。立場上の発言はやめなさい、そんなお行儀のいい自分語りなら最初からしない方がマシだ、というふうに気が激してしまうのだ。

大体こうした保守的な自伝作法は、組織内存在である(あった)人間の通弊といえそうです。何らかの利益共同体のトップであった人間が自分を語るとき、どうしてもそこにある種の「誇張法」や「隠蔽法」が付いてくる。あの役員が心底嫌いだった、とか、秘書の何々さんに恋心を抱いてしまった、とか、私たちはある時期アンフェアな儲け方をしていた、とか、そんな話はあまり出てこない。「あのときの失敗の責任は全部社長としての自分にある」という種類の形式的表明こそ頻繁見られるけれども、「あの頃は息子の引きこもりと妻のヒステリーのせいで軽い神経症を患っていたので、顧客や社員を満足させることなど本当はどうでもよかった」という様な人間臭芬々たる「告白」は滅多にない。要するに、成功した経営者の書いた自伝には、およそ、この種のリアリズムが欠けているのである。「昭和天皇による戦争観」などもそうだけれど、公の立場にある(あった)人間にはどうしても語れないことが多すぎる。人はこの「語られなかったこと」を、本当は知りたいのにね。

また、その団体に属しているということ自体に、実質以上の運命論的意味を付与してしまうという悪例も少なくない。この会社に私は選ばれたのだ、とか、「我が巨人軍は永久に不滅です」式の大仰な感動表現がそれに当たる。こうした主情的というか、ロマン的な過度の昂揚感の発露は、執筆当時はともかく、あとから読むと恥ずかしいだけであるから、大体において、自伝には相応しくない。基本として自伝は、冷静な反省と自己認識を要するものなのだ。それは数知れない失敗や悪行や苦心を棚卸ししながら過去を俯瞰する試みであるから、書き手語り手にとって必ずしも快いものではない。むしろ過酷な作業と思う。私のように自己欺瞞を表明することで自己欺瞞しているような人間には、とてもそんなことは出来ない。私は内なる恥ずかしい情念や過去の恥部・失態を可視化させる勇気を持たない。だから自分語りなどとは無縁の生き方をするでしょう。ほとんどの人間がそうであるように、私もまた「虚飾の人」であるほうが生きやすい。

けれども翻って見れば、ある程度高い立場にありながらも敢えて自分の黒歴史を語ろとする人間もいる。そうした自分語りをできる人は、本当の敬意に値する。

書くことが恥をかくことであるように、自分を語ることは取りも直さず自分の恥辱を示すことなんだな。大体わたしは人間など思考する糞尿量産機以上とは思っていないので、世にある自伝のいう苦労談や成功談などには、ほとんど心を揺り動かされない。これは体質的なシニシズムのせいだ。思えば私は人間を含めた生物の営み全般に途方も無い虚しさ感じてしまうので、経済現象の話にも新しい発明の話にも新しいアメリカ大統領が出現したという話にも邪馬台国は一体何処にあったのかという黴臭い話の数々にも、心底より入り込めない。それがどうしたのだ、ということなのだ。

自伝の九割九分九厘は、愚にもつかぬものばかりだ。国家の元勲がものしたものさえ詰まらないのだから、凡人の書いたものの質など想像するにあまりある(遊び紙の後に着飾って笑っている著者近影など、もう反吐がでそうになる)。

それだから、人の自伝を読むときは一際目を光らせましょう。行間から隠微な偽善臭が立ち昇ってきて鼻をついたなら、すぐに読むことをやめよう。そんな人工甘味料まみれな美談を読むくらいなら、FacebookとかTwitter上の毒にも薬にもならならぬ駄文でも読んでいたほうが百倍いい。

著者の保坂正康さんは昭和史研究をライフワークとしている人で、著作数も多数にわたります。明仁天皇裕仁天皇三島由紀夫「盾の会」事件、「わだつみのうた」の裏面史、昭和陸軍など、その守備範囲は実に広い。事件・人物との距離の置き方や、情に傾かない筆遣いからは、書き手ならずとも見習うものも多いので、なんでもいいから一冊読んでほしいと思う。

ちなみにですね、私が去年読んだ「自伝」のなかで出色のものは、ロバート・ラッセルの『天子をこの手に』(佐伯わか子・訳 みすず書房)。アメリカで全盲を生きた男の話だけれども、そこには沈鬱な恨み節よりも、「運命への叛逆」といったような荒々しさがあって、読んでいて痛快なのである。この憎らしいまでの開拓精神は明らかにフランクリンの自伝に通じるものだ。

いったい自伝は痛快でないといけない。裸で裸の言葉を語る痛快さ。保身的なお行儀のよさは、自伝の場にあっては不徳でさえある。経営者や政治家は、やっぱり何もかもを語れないのかね。われわれは、ではなくて、一人称の巧まぬ独白を、できれば聞きたいものです。それではじめて自伝らしくなる。自伝の最低条件を満たすことができる。

私はつくづくそう思いますよ。

自伝の人間学 (新潮文庫)