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佐野白羚の文筆武者修行(「蟄居汎読記」「書脈録」)

九三八堂の佐野白羚による随想ならびに読後録を定期掲載

佐藤春夫『田園の憂鬱』(新潮社)

『月と六ペンス』のストリックランドは、モームゴーギャン(フランスの後期印象派の画家)の生涯に想を得てつくりだしたものだ。その真否や細部の程はともかく、あくまで伝説上ではゴーギャンはヨーロッパ文明を否定してタヒチ島に避難したことになっている。 世の中には擬似ゴーギャン的逃避願望を弄んでいる人が少なくない。 都会を逃げたい、あらゆる束縛を脱して自由になりたい、鮨詰めという表現では鮨に無礼ではないかというような通勤電車を逃れ出て自分探しの旅に出たい。こんなふうな一昔前の青臭いロックンローラーでも恥ずかしくて叫べないような「内なる声」は、どの時代のどの階層にも一定の割合でみられるのかもしれない。 殺伐とした都会や日常のルーティンを抜け出して静かな場所に身を置いたのはいいけれど、今度は自分の存在そのものに由来する倦怠や神経症に煩わされるという悲喜劇的なケースも間々ある。これを「田園の憂鬱」と呼んでもいいだろう(*)。都市も田園も逃亡者をかくまってくれるところではない。

*【「人生というものは、果たして生きるだけの値のあるものであらうか。さうして死というものはまた死ぬだけの値のあるものであらうか。彼は夜毎にそんなことを考えて居た。さうして、この重苦しい困憊しきつた退屈が、彼の心の奥底に巣食うて居る以上、その心の持主の目が見るところの世界萬物は、何時でも、一切、何處までも、退屈なものであるのが当然だといふ事――さうしてこの古い古い世界に新しく生きるといふ唯一の方法は、彼自身が彼自身の心境を一転するより外にない事を、彼が知り得た時、但、さういふ状態の己自身を、どうして、どんな方法で新鮮なものにすることが出来るか。」(佐藤春夫『田園の憂鬱』)】

つまるところ、人間はどこにいても倦怠(これは空虚感の一種)からは自由になれない。倦怠は職業的なストーカーだ。CIAのベテラン諜報員もその通信講座を希望したくなるくらいその「しつこさ」は凄まじいものだ。

倦怠というこの危うい情緒はあまりに人間的な性格のもので、人間である以上はこの倦怠に感染するリスクをはじめから抱えている。。 動物園の檻の中にあるチンパンジーは時々マスターベーションをするというけれど、あれは退屈だからというより、それが「快楽」だからだろう。チンパンジーやフジツボが倦怠の末に自殺したという報告を私は知らない。それが「人間」との決定的な違いだ。というのも、人間は単に退屈であるというだけで自分のコメカミを銃弾でぶち抜くことができるからだ。 換言すれば、倦怠とは「存在への食傷」ということになる。食うこととのアナロジーはこの際、自分が思っている以上に適切かもしれない。人間は世界に食われながらも同時に食っているからだ(誤解しないように。「人を食う」「一杯を食う」「大目玉を食う」「隣国を併呑」「食うか食われるかの時代」などというような言葉遊びをしているのではない)。

「日常」に食傷する、存在しているものに倦厭する。人間(=現在意識)は「単にそこにある」という「生の凍った肉」を消化することはできない。だから解凍したうえで加熱し料理する。香辛料もたっぷりかける。こうした比喩は面白いけれども全ての人に通用しないという難がある。ある程度具体的にいいたい。まずはたとえば「世界」を耐えられるものとするために、眼前の既存のムードに「滑り込む」必要がある(普通ここで努力はいらない。「そこから」抜け出すことの方が遙かに大変だ)。「自分の人生には意味がある」と自分に思い込ませるために様々な物語を作り出す必要もある。二四時間、一週間、年間行事、馴れ合い、そのうち「人生」という虚構が既成事実のように見えてくる。世代生産(ある生物が別の個体を生むこと。遺伝子の盲目的作用)や各種の馬鹿馬鹿しい儀礼や因習に重要な意味があるように思えてくるし、そうするのが当然だというような認識さえ生じる。そうなれば「世界」は一応耐えうるものになる。何か秩序らしいものを感じるからだ。一貫した「価値」「意味」を信じることができる。

倦怠の病原菌は突然侵入する。運命交響曲のように勇壮なリズムを伴うものではない。ねちねちした腹黒い宦官のように忍び足でそれは巣食う。 倦怠に憑かれている人間は、その倦怠が無限に続くことを恐れる(そのうえそうであることを疑わない)。 倦怠を持て余している人間にとっては何が起こっても問題ではない。自分が甚大の被害を受けた時さえ、「またか」の一言で一切を済ませることができる。 「地下鉄でテロがあって大変だよ」「またか」 「俺の父親が昨日死んだんだ」「またか」 「シンガポール取引所日経平均先物はどうなった?」「またか」 「地震だよ」「またか」 「借金で首がまわらない。もう死にたいよ」「またか」 「裏の火山が噴火したよ」「またか」 「早く逃げろよ、このままでは死んでしまうぞ」「またか」 「花は咲く花は咲く」「またか」 「さっきドナルド・トランプが暗殺されました」「またか」 「あの作家は紅茶を飲み過ぎて気が狂ったんだ」「またか」 「もう死んだんですよあなた、寝ている場合ですか」「またか」 「スマップが解散しましたよ」「またか」 「北朝鮮から中距離弾道ミサイルが飛んできます」「またか」 「安倍晋三の愛人が発覚しました」「またか」 「邪馬台国の九州北部説が立証されたました」「またか」 「シリアでクーデターが起きました」「またか」 「マイケル・ジャクソンジョン・レノンポルポトが実はまだ生きてるようです」「またか」 「プーチンが発狂したいみたいです」「またか」 「ロッテが倒産しそうです」「またか」 「警察庁の発表する日本の年間自殺者数は実は間違っていて、本当は十五万人なんです」「またか」 「最後の審判が眼の前です」「またか」 「ローマ法王ダライラマの弟子になるようです」「またか」

倦怠は「またか」を以て始まり「またか」を以て終わらない。 ここまで極端に戯画化しなくてもよさそうだけれど、重度の倦怠となればこうしたやりとりもありそうだ。 自分の肌感覚では、近頃、この「またか」病の患者が一段と増えているように思う。 口には出さずとも「またか」と内心で呟いている。あの疲れた無名の人々は。 これは悪い事でも好い事でもない(そんな価値判断は意味をもたない)。 結局のところ、「またか」で済ますことができるからだ。

佐藤春夫について書こうと思ったけれども、どうでもよくなった。

今日も何かが起こるはずだ。なにか新しいことが起こるに違いない。 何か新しいこと。見たこともないもの。というより「人間的ではない何ものか」。 憂鬱とも倦怠とも遙かに縁遠い何ものか。新世界。空想よりも遠い。 こんなことを考えない人間はいない。

狂った世の中で気が狂うなら気は確かだ。けれどもこの「狂った世の中」を「狂った時代」と解してはいけない。そもそもどうして世の中、この世界、宇宙、「自然」はここまで居心地が悪いのか。リア王のいう「阿呆ばかりの世界」が何であるかはともかく、血の巡りの悪い日常は残酷で落ち着きがない。どうしてこうなった。どうしてこうした意識者が発生したのか。 まだはっきりした研究はない。 狂った果実は狂ったナイフでしか切ることはできない、というような詩的言句に陶酔している場合ではない。 どうにもならない。どうにもとまらない。とまらない、とまらない。かっぱえびせんフンボルト言語学ゲーテ、ミュッセ、ピカチュウ、赤いふんどし。世界にはいろいろなものがある。

「人生は、退屈という自習監督に見張られた教室みたいなものだ、そいつはしょっちゅう僕らをうかがっている、なんとかしてなにごとかに熱心に打ち込んでいるふりをしなくちゃならぬ、さもないと、そいつがやってきて頭をどやしつける。」 (セリーヌ『夜の果ての旅』生田耕作・訳 中央公論社

人間はどこにも居場所を持たない、というのが正解だろう。 悲惨というより、馬鹿馬鹿しい存在だ。 芋焼酎を五合ほど飲んでへべれけに酔っ払っても、そんなものを美化する気にはなれない。

「人間とは倦怠の末に自殺できる唯一の動物である」 これほど名誉な定義は他にないと思う。道具を使う、とか、言葉をつかう、などというような夜郎自大な自己主張よりも遙かに洗練されている。ある種のレミング集団自殺とはわけが違う きっとこの定義は真だ。 とはいえいずれこれが反証されても構わない。私はもう人間のことなどうでもいいから。いわゆる「知的好奇心」など微塵も持てない。 それでも「組織的な暴力」には絶対に反対するけれども。 人間嫌いと反暴力は意外と両立するものなのだ。

「愛は世界を変える」という類の無神経で下品なフレーズ(あなたがこれを眼の前で言われたら腐ったドリアンを顔面にぶちあてて歯の二三本でも折ってやるといい。それが公衆衛生のためだ。もう二度とその口は開かないだろう)があるけれども勿論これは正しくない。 世界を変えるのはむしろ末期の倦怠の方だ。狂った情熱はここからでないと成長しない。 そして繰り返すけれども、この倦怠の勢いは近頃とみに目立ち始めている。

やはり、これは悪くないことだ。

田園の憂鬱 (新潮文庫)