書痴肉林・蟄居汎読記

佐野白羚の古い雑文の一部を(たぶん)定期的にひっそり掲載します

石井淳蔵『マーケティングの神話』(岩波書店)

洗濯用コンパクト洗剤「アタック」(花王)や日立製作所の洗濯機「静御前」のようなヒット商品の裏には綿密なリサーチやマーケティング理論があると思われがちだが実はそうではない。市場に厳密な理論などは本来通用しないものだ、と概ねこんなことが議論されている本で、「新しい商品はこうやって売り込め」というふうに自分の華々しい成功譚をゴーストライターの筆を通して垂れ流す「俺に見習え本」でもなければ、「サーベイリサーチの極意」を律儀に伝授してくれる類のノウハウ本でもない。

ホンダや日産の人気車種や過去のヒット企画(「不思議、大好き」のコピーで有名なエジプト展)など、聴き馴染んだ事例が各章に引かれてあるので、その過度に込み入った議論には参与できなくとも、国内外のマーケティング史上の目立った出来事を大雑把に追跡した気分にはなれる。 全体を通じて注釈も密で、余程注意しないと論点そのものを喪失しそうになるけれど、著者の視線の先にはある共通した問題意識があることだけはよく分かる。マーケティング分野にかかわらず、合理的思考や実証主義的アプローチには自ずと限界があることを著者は前もって確信しているようだ。 株式市場や金融相場を「見通す」ことは不可能とされている理由も一緒に考えたくなる。 後半はレヴィ・ストロースやガダマーやマルクスの「労働価値説」まで飛び出してきて、どうかすると学をてらっているようにしか見えなくなる点もあるものの、このあたりは学者だからどうにも仕様がない。学者には学者特有の文体がある。「~的」とか「~性」みたいな硬質な抽象術語を重ねに重ねて自説を組織していくのが彼らの商売なので、読みやすさなどは二の次となる。つまるところ学者というのは日常的な臭みを持ちすぎた言葉をあまり好まない人たちなのだ。そこのところを汲み取ってやらねばならない。

この本は差し詰め、次のようなことを考えている人に相応しい。

そもそもマーケティングとは何か。「無数の商品のなかでなぜ特定のものが選ばれて類似した他のものが売れないのか」を問いに答えることは可能なのか。人間はなぜ消費するのか。「何」を消費するのか。「交換」「競争」とは何か。「科学」という営みはマーケティングと言えるのか。 反面、自社製品を売りこみたい人には何の役にも立たない。

余談になるけれども(私の書く文章など終始余談といえる)、キティちゃんのご当地グッズを熱心に集めている知人をみて素朴な好奇心を刺激されたことがある。キティちゃんのデザインが配されているだけで他には何のとりえもない商品群に「いい大人」が大枚をはたいているのだから、傍目には面白い。キティちゃんを抜きされば、それらは粗末なメモ用紙であり単なる一枚のハンカチに過ぎない。キティちゃんだけが商品の「価値」を倍化させている。商品の直接的な有用性だけでは、こうした収集熱を説明することはできない。シャネルの香水やルイヴィトンのバッグに心惹かれる心理も、このキティちゃん熱の心理と大して変わるものではないだろう。そもそも消費する人間は常に、「純粋な物的効用」(肌を覆う服や喉の渇きを潤す水のような)以上のものを潜在的に求めている。「単なる自動車」や「単なる水」(*)が市場に殆ど出回っていないことからも、それはよく分かる。

*商品としての水(それにしても水が商品になったときには如何に想像力豊かなSF作家たちも驚いただろうし、資本主義体制のディストピアを想像する材料にも事欠かなかっただろう)には、見ずに必ず何かしらの謳い文句が付いてくる。「六甲のおいしい~」とか「海洋深層の~」とか。

人間の「消費活動」のなかには、コアラがユーカリの葉を食ったりパンダがある種の笹を好むこと以上の「嗜好・要求」がある。「生きるため」とか「本能」で説明できることではないようだ。

それでもこの奇妙な哺乳類に特別な地位を与えてはならない。

マーケティングの神話 (岩波現代文庫)