佐野白羚の文筆武者修行

佐野白羚による随想ならびに読後録(「蟄居汎読記」「書脈録」)を不定期掲載

団鬼六『美少年』(新潮社)

美少年とは何か。これは極めて難しいけれど大変麗しい問題だ。一度は落とし処をさぐっておきたいテーマでもある。

ただ、美少年を思想のように語るのは間違っている。鼻や顎にノギスを当てたり人体は本来何等身が美しいのだなどと美学談義を始めるのも間違っている。ミケランジェロとかレオナルドダヴィンチの作品をやたら援用して論じたてるのも間違っている。昔の美輪明宏羽生結弦がどの程度美少年であるかなどと評定まがいの俗談を始めるのも間違っている。間違っているというよりも、ひどく野暮におもえるのだ。そしてその野暮なことをこれからやろうとしている。 確かに「美少年」という存在者はむかしから人間の理想美を観念的肉体的に担って来たのであって、それだから、美少年が何であるかを考えることは、最高に素晴らしく甘美なことだ。 私は長く美少年を「中性美」の結実と考えていた。発想はやや荒削りだけれど、いまも概ねそんなふうに考えている。 性の生物学的未分性ではなく(少なくとも実在する美少年は生物としては男だから)、性の象徴的未分性が美少年を美少年たらしめていると思うのだ。男であれ女であれ、性というものは、どちらかといえば、美しくない。醜悪でさえある。ある種の偏見はときどき事実を開示する。性が性でありながら、不思議な矛盾を孕みつつ、一つの稀有な身体美のなかで和合するときに、性は否定的でないものになる。象徴的に男でも女でもない色気、分裂以前の名残、両性の魅力を奇妙なバランスで包み込んだ「中性美」が現出する。この美しさは実に果敢ない。本来実在しえない「性表現」だからね。象徴美というのは、そのような次元で感じ取られる快楽なのだ。

象徴的、いや便利な言葉ですね。なんだか言葉で言い表せない精妙な部分を見事に誤魔化してしまうような言葉だ。美少年はたしかに「象徴的な中性美」とでも言いたい何かを体現しているのだ。男の色気と女の色気を両方備えているというより、そうした区別さえ無意味であるような色気、存在そのものの端麗な色気が、美少年の身体を包み込んでいる。美少年の美しさは(こうした同語反復は悪くない)、罪のない美しさではないかな。罪のない、というのは、だいたい、無垢なということだ。女形の色気と言ってもいいのだけれど、それは決して粘着的な「妖艶」さの対極にある色気であって、むしろ「可憐」といった方がいい初心で新鮮なものなのだ。身体そのもの美しさ。その色気は蠱惑するのではなく、脱力させるものだ。彼の姿を見ることによって人はしばらくのあいだ形而上的幸福に浸れるのである。美少年とは何よりも、存在そのものが一つの矛盾であって、類い希な「美的人間経験」なのだ。プラトンが『パイドロス』のなかでソクラテスの口を借りて情熱的に語っているあの美的観照論は、神々しいばかりの美少年なしにはありえなかったのだ。美少年は人間身体が表現できる最高級の美的範型を内に含んでいる。どれだけ冷静になってみても、この美しさは明らかに天上的な価値を宿している。だって「美少年」という字をみただけでも何だか幸せな心持ちになるでしょう。いわんや眼の前にありありと現れたとするならもう堪らないのですね。目の保養などはなく、眼の至福、脳髄の至福なのですよ。美少年がこれほど人を幸福にしてきたのは、人間のなかに何らかの人体的均整志向が根深くあるからだと思います。「ああ清楚で綺麗な人だな」と思う美的経験は、個人的嗜好領域を相当超えるものなのだ。

仮に美少年文学というものがあるとして、その横綱を敢えて決めるとする。文学史の地平は渺茫として見渡しがたいので、時代域はとりあえず十八世紀以降ということにしておくか。なんでか。直観以外にない。後付けで理由を探すなら、ジャン・ジャック・ルソーの『告白』が出版された辺りが近代的リアリズムの草創期だろうから。「文学史」とか「東西」という枠組み自体が多分に「西欧的」発想なのだけれど、方法でも内容でも向こうの方が明らかに成熟しているのだから仕方がない。なんにつけ尺度は全て舶来物なのだ。

往々にして選考というものは独断と偏見の支配する世界だ。

西の横綱は誰が何といおうと『ヴェニスに死す』でなければならない。トーマス・マン。この人の作品には美しい青年とか少年とかが中々良い具合に登場する。『トニオ・クレ―ゲル』や大河小説『ヨーゼフとその兄弟たち』も隠れた美少年文学といえそうですね(私が挙げられるくらいだから隠れてなどないか)。とくに少年ヨーゼフの描写は当時ノートに写し取ったくらい素晴らしかった。「先生、美少年がお好きなのですね」というあのときの気持ちは何と言い表せばいいのだろう。 ただヴィスコンティの映画はいけない。あれではちっとも愛らしくない。作家を作曲家にしたり、マーラーの抒情溢れるシンフォニーを流すあたりはいいのだけれど、やはり美少年という理想は公に具現化できないのだな。 いうまでもないけれど、文学の映画化作品の九割以上は何らかの失望を起こさせるものなのだ。めいめいが頭に描く像は全部異なったものだから。ことに美人や美少年となると事態は決定的だ。原作を愛読してきた文学少女が「赤毛のアン」のアニメをみてガッカリしてしまうのとは、ちょっとわけが違うのだ。 大関はもう面倒くさいのでコレットの『シェリ』にしておこう。『ドリアン・グレイの肖像』とかシェイクスピアソネットも脳裏を過ったけれども、前者は耽美色と退廃色が強すぎるし、後者は大時代だし情熱的に過ぎる。

東の横綱はどうするか。文学的視野の狭い私だから、東といえば日本以外では考えられない。それでも、ほとんど思い浮かばない。個人的に、上田秋成の『雨月物語』にある「青頭巾」は自分の好みによく合うのだけれど、あれは稚児を失った坊さんが悲痛の余り鬼になるという筋だったから、「美少年文学」の範疇に入るのか、悩ましいところではある。光源氏はずっと前の人物だし、西鶴も今回の時代範囲には入ってこない。 近現代では、何があるか。三島由紀夫森茉莉は嫌いだから、あまり選びたくない。稲垣足穂は美少年文学というよりも美少年論を展開した人だから、ここには入れにくい(もちろん『少年愛の美学』という晦渋きわまる労作希書の価値は大いに認める)。横溝正史の『蔵の中』はただ単に綺麗な少年とその姉が登場するだけで、ヴェニス的な詩情には乏しい。いったいにトリック重視のミステリー作品は純文学とは比肩しえない。このごろ私は「純文学」という高踏派の領域がやはり必要であるらしいことを頻繁に痛感するのだ。

いろいろ候補を挙げつつ熟慮に熟慮を重ねた末に、東の横綱はエロ文豪・団鬼六の中編「美少年」に決めた。題名からしてそのまんまだけれど。もうこれでいいでしょう。美少年がここまで生々しく小説化された例は、同時代では他に思い浮かばないのだから。 一体これの何が気に入ったか。まちがってもその残酷さではない。随処の描写により、作者が「美少年」の本質を理解していると直観したからだ。具体的には書けないけれども、一口でいうと、「男であるにもかかわらず~」という色気とそれに伴う美的快楽がどのようなものであるかがよく書かれていた。 美少年は舞踊界の宗家の御曹司ということになっているけれども、そうした設定はこの作品に絶対必要なものとは思わない。べつに魚屋の息子でも悪くない。まあ、むかしの大学生は今よりも裕福な家庭の出だったということでしょう。けれども、最後にボロボロにいたぶられて自殺してしまうその壮絶な「落差」のカタルシスは、それが「美少年の御曹司」でなければ起らなかっただろうな。 あと表紙にある美少年は描かない方がよかったね。やっぱり美少年はイメージするしかないよ。ただこの作品をもとにした小野塚カホリの漫画は素敵な出来具合で、私もかなり夢中になって読んだ。この作品も好きな人は読んでほしいですね。 あと大関はどうだろう。もう誰でもいいよ。 思ったより美少年文学は少ないのだな。 いささか残念ではある。となると自分がきっと書かねばなるまい、ということだ。まだ表現されていない美少年像は沢山ある。美女など美少年に比べれば、どうでもよいのだ。AKB48など最初から問題にならない。

美少年 (新潮文庫)