佐野白羚の文筆武者修行

佐野白羚による随想ならびに読後録(「蟄居汎読記」「書脈録」)を不定期掲載

島尾敏雄『日の移ろい』(中央公論社)

ずっとまえ長旅があって、車中、近現代の日本人作家をいかに短く端的に表現できるかという変妙な遊びでずいぶん盛り上がった。判定基準はぜんぶ恣意・直感。全然面白くなくても芯を捉えていれば高得点。名前を聞いた途端に想起されるフレーズをそのまま口にするほうが大体において出来がいい。「いいね」と思うものは決まって変な勘案や技巧を経ていないのだ。反射というか、口を衝いて出る感じ。たとえばこんなの(興に入って長くなってしまった)。

 

森鴎外⇒「子どもはむかしから高瀬舟ばかり読まされる。一種の国語拷問」

国木田独歩⇒「作品は三流。感度は一流」

徳田秋声⇒「自然主義文学史の学位論文を執筆している学生にしか読まれない」

幸田露伴⇒「現代語訳は恥ずかしいから無理して岩波文庫

芥川龍之介⇒「作家すなわち神経症という不当な関連図式をはからずも普及させてしまった戦犯」

夏目漱石⇒「好きな小説家を尋ねられたときの守護神。彼の初期の作品群の文体は飄逸味があって好きなんだけど後半は暗鬱過ぎて僕は苦手だね、とか何とか知ったかぶっておけばとりあえず通人っぽく聞こえるらしい」

井伏鱒二⇒「存在そのものがユーモア。あるいは、文章が上手すぎて真似さえされない」

筒井康隆⇒「本人はたぶんに真面目な常識人」

 

島田清次郎⇒「一〇万人に一人くらいしか名前を知らない。流行作家をめぐる人々の忘却曲線がいかに急勾配であるかを雄弁に語り続けてやまない」

正宗白鳥⇒「文化勲章を拒否しなかったことでニヒリストとしての晩節を汚した」

丸谷才一⇒「エッセイが代表作」

宮本百合子⇒「著作全集が古本屋で一五〇〇円以内で売られている」

大岡昇平⇒「形而上学的センスの致命的欠乏」

野間宏⇒「青年の環が岩波文庫に入っている理由が分からない」

堀田善衛⇒「明らかに過小評価されている」

瀬戸内晴美⇒「瀬戸内寂聴と別人ではない」

森茉莉⇒「テレヴィとか書いても鼻に付かない稀有な特権」

三島由紀夫⇒「本物の金メッキ」

吉川英治⇒「意識高い系からは伝統的に蔑まれている」

司馬遼太郎⇒「組織論やリーダー哲学をのたまうエセインテリ的経営者およびサラリーマンに愛され過ぎたせいで知識人には永久に愛されない運命」

山本周五郎⇒「ユーモアが絶望的に足りない」

池波正太郎⇒「ブックオフで中高年者が買いあさっている」

村上春樹⇒「スパゲティとジャズ」

深沢七郎⇒「陽気なニヒリストを演じるのに途中からちょっと無理していた」

武者小路実篤⇒「読むこと自体がジョーク」

石原慎太郎⇒「作者が長生きしすぎて作品は風評被害

新田次郎⇒「国家の品格のパパ」

埴谷雄高⇒「あっはとぷふい。文庫本でしか読んでいない人は負け組」

開高健⇒「行動派作家を気取ることの滑稽さを身をもって証明」

梶井基次郎⇒「本物の文学」

井上靖⇒「名前を聞いただけで退屈になる数少ない小説家」

志賀直哉⇒「長編は最悪」

太宰治⇒「文学青年は誰もが一度は真似したがるけれど誰も成功しない」

松本清張⇒「テレビドラマの原作者」

谷崎潤一郎⇒「もう最後の文豪とか言うな」

永井荷風⇒「歯並び」

泉鏡花⇒「日本文学上級者向け。高校生なら読んでいるだけで尊敬される」

上林暁⇒「知る人ぞ知る」

川端康成⇒「芸術的文体のおかげで辛うじてエロ作家のレッテルを免れる」

大江健三郎⇒「ウヨクからは読む前から攻撃される。本多勝一からは読む前から文体を攻撃される」

吉村昭⇒「堅実派。良識派。人に推奨したり買い与えたりするのに無難」

樋口一葉⇒「誰もが読んでいるふりをしているが実は誰も読んでいない」

安部公房⇒「失踪」

小林多喜二⇒「売れるからといってそこまで文庫化されたり言及される価値はない」

江戸川乱歩⇒「発禁」

五木寛之⇒「このごろでは洗髪問題しか言及されない」

椎名誠⇒「それを模倣した文体が出版界を汚染した」

星新一⇒「中学校の朝読書」

城山三郎⇒「男男男、暑苦しい」

遠藤周作⇒「硬派な純文学キャラと軟派なエッセイキャラのギャップを自ら演出している感じが平凡」

北杜夫⇒「同上」

島崎藤村⇒「まだ上げそめし前髪」

 

途中から面倒くさくなってきた。一見おそろしく下らない遊びだけれど(二見三見しても変わらないか)、人間昂揚しているときは何でも存分に楽しめるから不思議なのだ。こんなのでも適任の相手さえあれば、案外消閑の具になる。各人の嗜好や偏見が現れ出るだけではなくて、なかば偶像化されている作家たちをその祭壇なり神棚なりから無理に引きずり降ろす快感も堪らないし、その作家を巡る世間のステレオタイプが爆砕されたり逆に可視化されたりする様子も愉快極まる。寸言だけに、罪が無い。遊びだから多少とも笑えるなら何でもいい。外国作家版も場を熱くすること請け合いですね。

 

それで、前置きが長くなったけれど、今回取り上げる島尾敏雄などは、このゲームに添ってみれば、およそどんな具合に形容できるだろう。さしずめ「悩み大き文士」というところでないか。

たとえば神経病みの妻との不穏な生活を記録した『死の刺』を読んでみれば、全面「心労」そのものである。傍観者として読んでいるだけでこっちが先に参ってしまう。スティーブン・キング流のスリラーであれば怖い怖いといいながらもそれなりにハラハラドキドキを堪能できる。『死の刺』は終始一貫して形而下の関係問題の毒を吸い取ったものだから、ファンタスタティックな飛躍がない。機械仕掛けの神、デウスエクスマキナにおいそれと頼れないものだから、作中の人物は救いを求めてもがき続けるだけなのだ。

この文章と文章の間の、心許なくも粘着質な接続感は、冗長、陰鬱。自分の苦悩をおいかけて同じところをひたすら回り続ける。そのうち、それ自体が目的と化したような妻のヒステリーの叫びと混ざり合って、一触即発の張り詰めた気圏を醸し出す。「狂気」くらい「人間味」のあるものは他にない。

『死の刺』だけではないよ。この人はいったい悩み過ぎる。苦しみ過ぎる。いつも神経を擦り切らして骨の髄まで疲弊している。気鬱飽和度が常人に比して高すぎるのだ。不完全な人間はがいして悩み多きものだけれど、彼くらい年百年中悩んでいると、さすがに身心が堪らない。

本作『日の移ろい』は、その心塞ぐ日々の底で、作者が自分の心の変化を微細に観察し続けた記録となっている。作家の「日記」というものは大抵公開を前提にするものだから、読者を意識した巧妙な筆遣いがときどき芝居がかって見える。けれどもそれはそれで各人勝手に割り引いて読めばいいのだし、自分の為だけに綴った日記が必ずしも「真実の生の記録」である道理もない。

ブログには「ウツ日記」という一大ジャンルがあるのだが、この「悩み多き文士」の日記を貫いている鬼気迫る懊悩とその消化プロセスを見るにつけ、自分や他者による「苦悩の表出行為」がいかに拙劣なものであるかを痛感せざるをえない。肝心なのは凝視し続けることなのだ。リア王か何か忘れたが、かつて、「苦しみ自身が苦しい苦しい言いだすまで耐えよう」みたいなセリフに肺腑を滅多打ちにされたことがあった。島尾的苦悩睥睨術はこの境位に立つことから漸く始まるらしい。

いやいや、苦しむの大変なことだね。

 

 

日の移ろい (中公文庫)