書痴肉林・蟄居汎読記

佐野白羚の古い雑文の一部を(たぶん)定期的にひっそり掲載します

安達正勝『死刑執行人サンソン(国王ルイ十六世の首を刎ねた男)』(集英社)

安達正勝『死刑執行人サンソン(国王ルイ十六世の首を刎ねた男)』(集英社
人間にとって「首を斬られる」ということは何を意味しているのだろう。そこには単なる「絶命」以上の含みがある。しばしば「首」は殆ど「頭」と同義的に使われていて、その「頭」には「顔」という固有の意味単位が深く刻み込まれている。この「顔」というのは、大雑把にいうと、個体を識別するための極めて重要な表徴となっている。遠くからでも何となく田中さんとか鈴木さんは認識できるけれども、ある程度の距離において眼差しが自然に向けられるのは、第一に「顔」だ。各パーツの配置はこの際問題ではない。ともかくまず「顔」があること、「顔」が「顔」として把握されることが重要なのだ。「顔」は人格の看板であり、情緒の指標であり、意思の媒体でもある。「顔」は彼彼女の「何ものか」を最初に物語る。面識の有無にかかわらず、「顔」は人格把握の「確実な掴みどころ」になる。そのように、彼彼女の「何ものか」を如実に示している顔(首・頭)を切り落とすということは、その人間の存在根拠を儀式的に否定することでもある。言い換えてみれば、「首を斬る」ということほど、その人間の「死」を実感できる行為は他にない。この実感を得るのには、ショック死でも窒息死でも十分ではないのだ。首が落ちて初めてその人間は「死ぬ」。斬首刑による主だった象徴性はここにあると、私は思うのだ。
それにしても、この「首」と呼ばれている、胴と頭の連結部分は、極めて「繊細」な形態を示している。この細くて時にはエロスさえ感じさせる肉体通路には、生物の息の根を止めるのに恰好な構造的特徴がある。つまり締めやすいし切りやすいのである。首は人間にとって公然たる弱点なのだ。強盗が犯行の目撃者を大仰に締め殺すような場面は、B級の刑事ドラマではありふれている。こんな殺し方でないと、どうにも悲劇性が出てこないのだ(嫉妬に狂ったオセロがデスデモーナをどう殺したかを想起すればいい。今村昌平監督の『復讐するは我にあり』で緒方拳が熱演した絞殺シーンでもいい。枚挙にいとまなしでしょう)。
言葉の面でも「首」は面白い。「首を切られる」とか「首が回らない」という言い方ひとつにも実に色々の含みがあって、そこに歴史の堆積を感じずにはいられない。金がないのは首が無いのと同じ、というふうな大阪商人の口伝には、おそろしく冷厳な現実感覚が血糊のように沁み込んでいる。この実感には誰にも否定できない迫力がある。
余談だけれど、たしかビアスの『悪魔の辞典』のなかに、ギロチンによる斬首刑と欧米式の「やれやれ」ジェスチャーを関連付けている箇所があった。首をひっこめて「ウンザリだわ」感を示すあの「おどけた」ふうのジェスチャーを、英語ではshrug(シュラッグ)という。そういえばあのポーズのなかには、危機を察して首をひっこめる亀っぽいところもあるし、斬首を思わせるところもある。あのジェスチャーをするごとに人は自分の首を守っているのだ。こうした観察は一見ふざけているようでなかなか鋭い。
本書には、フランスで代々死刑執行を務めて来たサンソン家、とりわけて四代目シャルル-アンリ・サンソン(一七三九~一八〇六)の平坦ならざる人生が描き出されている。見様次第ではこれはフランス革命期の裏歴史でもあるし、ギロチン考案にまで至る血生臭い処刑・拷問史でもある。処刑業務が世襲制になっている国はよくあるようだが、当時の王政時代のフランスでもそのような伝統があった。たしかに処刑などは、誰もが好んでやりたがるものではない。行政機関の末端にありながらもある種の「賤しい」独占業として、サンソン家に任されてきたのである(ちなみにこの一家は代々、薬や解剖学の研究にも熱心で、報酬を受け取っては医術のような副業もこなしていた)。
キーワードは革命と人道主義ギロチンだ。
フランス革命については色々な本がいろいろな手法で熱心に説明している。一言でいえばブルジョア革命。(年号の覚え方では)イキナリバキューンのバスティーユ襲撃(一七八九年)から人権宣言公布、立憲君主政を経て第一共和制樹立、ルイ十六世の処刑後のジャコバン派の恐怖政治、テルミドール反乱後の総裁政府を経て一七九九年のナポレオン独裁まで。一息で駆け抜けることが出来る。この事件項目のみを列挙した数行のうちに、いったいどれくらいの波瀾と歓呼と絶望と死体と血涙があったのだろう。その一連の革命事件の原因を把握するのは一筋縄ではいかないけれども、とりあえずの間に合わせとしては、王国政府の財政危機とアメリカ独立、当時盛んだった啓蒙思想などの要因を挙げるのが通例になっている。革命前に厳としてあった、身分制度(僧侶・貴族・平民)と封建特権の絡み合った社会体制のことを、アンシャンレジームといいます。フランス革命はこのアンシャンレジームをダイナミックに否定した点で、やはり相当に大きな出来事だった。世界史の観点からみても(だから教科書ではかなりの行数が割かれていますね)。
その激動の時代変遷に連動するように、処刑方法も変わる。
いまでは些か想像しにくいことなのだけれど、ふつうギロチンと通称されているこの斬首装置は、〈自由と平等〉の理想が謳歌される人権賛美の風潮のなかから産まれたものだった。頭を西瓜みたいにスパッと切り落とすギロチン処刑に苦痛が少ないのかどうかは別問題にしても、広場での処刑が当たり前だった当時(ちなみにフランス最後の公開処刑は一九三九年)、そうした簡便さや非嗜虐性が人権派の人びとに歓迎された理由は想像にかたくない。「すくなくとも人道的な方法で殺すべきだ」という時代的無意識の要求は今日では何だか随分奇妙に響くけれども、見るに忍びない当時の処刑事情に目を転ずれば多少は合点がいくものだ。
それまでは拷問につけ処刑に付け、およそ酸鼻極まる苦しめ方が、事実としてあったのである。犯罪者を取り巻く人々もその残虐な執行風景を一種のショーとして見ていた。執行する側の体制にとってはこれ以上の「見せしめ」はなかったし、群衆にとってはこれ以上に刺激的な娯楽はなかった。けれども鋭く良心的な感受性の持ち主にとって、こうした風潮は否定されるべきものだった。
歴史をさかのぼれば、過酷な刑罰など、いくらでもある。もちろん今でもある。専制君主時代のフランスでは、水責め足責め(拷問)、死刑では、車裂きの刑、火あぶりの刑、なかでも悪名高いものとして、「八つ裂きの刑」がある。一七五七年にルイ十五世を暗殺しようとしたダミアンがこの極刑に処されている。これがどんな苦しみを呈する処刑方法であるかは、その筋の本に当たってほしいと思う。人間という生き物はなんでこんな奇妙な殺し方を選んだのか、という気持ちにさせる。ことによると嗜虐傾向は誰の脳にも潜んでいて、それがたまたま巨大行政機関を介して表現化してしまうのか。つい先日長野県の少年リンチ事件のことを読みながら思ったのだけれど、個人であれ集団であれ、こうした傾向が暴発してしまうときがあるらしく、私はそれがとても怖い。過度のストレス経験が、制裁という名の拷問娯楽を欲求させるのか。その問題はいずれ。
ともかく、そうした陰惨な経緯を思うと、人道的配慮から発明されたこのギロチンの見え方もすこし変わってくる。ギロチン。創案者である医師ギヨタンの名前に由来するこの首切り装置は、激動のフランス革命期、ルイ十六世夫妻などの王侯貴族をはじめ非常に多くの反市民的階層の人々の首を刎ねた。皮肉なことに、啓蒙派の志した「自由と平等」は何よりもまずこのギロチンによって体現された。王であれ平民であれ、同じ高さにある同じ処刑台そして同じ方法で処刑される時代が到来したのだ。なまじ合理化され処刑負担や費用が減ることで、かえって処刑の嗜虐性が増えるのではないかという危惧もあったようだけれど、ともかくこのギロチンはある面で旧体制の終焉を象徴していた。
それはただの「斬首方法」以上の何か、新しい時代への気負いや不安を静かに物語っていたのだ。
最後にもうひとつ。フランスで死刑制度が廃止されたのは、一九八一年。それまでギロチンは様式を変えながらもしっかり稼働していたことになる。フランス啓蒙思想の要求から生まれたこの処刑道具も、いまでは歴史博物館の一角を占めるに過ぎない。
「人間の首を斬る」とは何を意味しているのか、という問いから発して、また戻ってくる。謎はひとつも解決していないよ。
なんだろうな。ともかくギロチン刑も絞首刑も嫌ですよ。公権力が人殺しするのは嫌なことだ。なんだかこれは違う気がする。直観は倫理そのものを構成するものだ。違うと思えば違うのだ。法哲学がどんな理屈をこねても、この種類の組織的慣例的な暴力には、慣れることができない。慣れちゃあ、まずいでしょう。世の中には慣れてはならないこともあるのだ。
断頭台や獄門台の機能については、まだまだ考えたいことたくさんある。またの機会に。
 
 

死刑執行人サンソン ―国王ルイ十六世の首を刎ねた男 (集英社新書)

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サイモン・ウィンチェスター『博士と狂人(世界最高の辞書OEDの誕生秘話)』(鈴木主税・訳 早川書房)

サイモン・ウィンチェスター『博士と狂人(世界最高の辞書OEDの誕生秘話)』(鈴木主税・訳 早川書房
本質的なことではないけれども、訳者の名前、ちから、と呼ぶみたいだな。情けないことに読めなかった。調べてみると、ちから、というのは、上代奈良時代あたり)に民から上納される貢物(租庸調)の総称で、律令制のもとでは、主税寮という役所もあった。ひとつ勉強になりました。
主税さんはともかくとして、この本はいわゆる「小説よりも奇なる」実話を多く含んでいて、自分で買って読むに値するものだ。
OEDですよ。この略語でちょっといい気分になれる人は、なかなかの英語好きかもしれないな。私は昔ランダムハウス社の浩瀚な英語辞典を愛用していたけども、OEDのスケールはその比ではない。日本でOEDに匹敵できる巨大編纂物があるとすれば、おそらく諸橋轍次さんの『大漢和辞典』くらいだろうな。あれは熟語数ではたしか50万を超えていたはずだ。もう三葉虫の化石みたいな古語がごろごろ展示されているわけだから、諸橋さんも粋人である。一体いくらするのよ、これ。だいたい有名なわりには現物も所有者もみたことがない。ついでにもうひとつ、後世への影響という面から見れば、大槻文彦さんの『大言海』も忘れがたいですね。ちなみに私は大正か昭和初期かに出版されたぼろぼろの『言海』を所有していて、私の部屋にくる訪問者が必ずこれを見せられていた時期があった。紙なんか雑に触るとパリッて割れそうだからまるで使い物にはならないけれど、まあひとつの骨董品だね。そういえば森鴎外の『伊沢蘭軒』のかなり古いのもあるのだ。真珠湾奇襲よりずっと古いころに発行された感じのやつ。けれどもあれはパリってならないから通常に読めた。岩波書店の紙はなかなか良質ということです。閑話休題
なんたってOEDだ。ODAではないよ。いまは発展途上国を援助している場合じゃない。OEDを解体するとOxford English Dictionary。41万以上の項目を含んだこの言語宇宙の刊行が始まったのは、1884年。それから数十年かけて編纂された。初版では十二巻、第二版では二十巻にも及ぶ、世界最大規模と権威を誇る英語辞典だけれども、最も注目すべき点は、そのほとんど偏執狂とも言えるくらいの語源追求性と用例採集にある。言葉はその史的側面が何よりも大事なのだとする編纂方針が前面に出ているのだ。
ためしに殺人者という意味のMurderを調べてみると、普通の英語辞典でもお馴染みの発音記号と品詞表示の後に、古代ゴート語やスコットランド語、ギリシア語、前期チュートン語などと語形上どんな関係があるのかを、縷々綿々延々続々と説明される。思わず、いやあなた、そこまで遡って知りたい人が地球上のどこにいるのかね、というふうになりそうだけれど、世の中には酔狂な好奇心や探究心のかたまりみたいな人もたくさんあるので、そこは心配には及ばないのである。だいたいにおいてこうした学者たちの研究はパンやガソリンを作り出すのに何の役にも立たないけれども、ホモ・サピエンスたるものこうした何の役にも立たない知識体系を蔑ろにするようではいけないのだな。何の役にも立たない探究心に身を託せる点で、人間はほかの動物たちとは一線を画している。探究欲は人間知性の本質と思う。 
本書主人公のジェームズ・マレー博士(一八三七~一九一五)は、こんな恐ろしい辞書編纂事業の中心にいた人物で、もう想像に難くないけれども、やはり並並ならぬ博識の士でもあった。十五歳のときにはフランス語、イタリア語、ドイツ語、ギリシア語の実用的な知識を体得していただけではなくて、当時の教育を受けた子供たちがそうであった如く、ラテン語まできちんと会得していた。要するに早熟の井筒俊彦が十人くらい束になったような天才であったわけだ。彼の知識欲はとどまるところを知らず、地球儀を見付けて地理勉強にいそしんだり、地元の植物や地質について独学したり、森羅万象あまねく吸収していった。知の巨人にふさわしいそうしたエピソードの数々は、それだけで痛快無類。
そうやって、貧困のなかでも自力で言語界の第一人者になった彼は、ついにOED編纂主幹を務めるまでになった。
本書にはもうひとり主人公がいる。「博士と狂人」の狂人の方だ。W・C・マイナー。セイロン生まれ。外科医。曲折あってアメリカの南北戦争に軍医として北軍に入隊するが、ある不合理な出来事にまきこまれて気が狂う(戦争は非日常だから、本当は気が狂わない方が狂気なのだ)。どんなことかといえば、命令でアイルランド人の脱走兵に焼き鏝を押したのである。それ以来彼の言動に狂いが見え始める。曲折あってヴィクトリア朝時代のロンドンに渡る。軽い妄想症にあったマイナー博士は、アイルランド人の民族主義者に付け狙われているとして、あかの他人を誤って射殺してしまう。いよいよ精神異常と診断され入院。その場所で、オックスフォード英語辞典編纂に着手しはじめたマレー博士の助力要請の話を知る。古い文献を読みこんで特定の単語の用例をひたすら集め報告するという作業だ。とても閑でないとできない。辞書編纂のプロジェクトは極めて地味な忍耐作業を要するのだ。狂気でありながら頭脳は高いマイナー博士にとってこの話は最高の暇つぶしになるし、また学問世界への多大な貢献にもなる。
マレーとマイナーの共同活動はこうして始まった。
しかし辞書というのは実に不思議な書だね。何千頁にもわたって最初から最後までひたすら言葉の意味や用法が示されている。むかしから辞書読みが好きで現在では引かない日はまずないくらいのヘヴィーユーザーである私からすれば、辞書はただの道具にとどまらぬ特別の伴侶といったふうだな。辞書という参照基準がなければ不安で仕様がない。それだから辞書編纂の当事者には大いに敬意を抱くものだし、またその生態に対する興味も尋常ではないのだ。辞書編纂者はおしなべて創的であり過ぎてはならないと思う。サミュエル・ジョンソンがoats(カラス麦)を「穀物の一種で、イングランドでは馬の飼料だがスコットランドでは人が食べる」と記述したような遊びは、本格派の辞典では多分好まれない。辞書は可能なだけ厳密で客観的な書き方でないと、広汎な権威を獲得できないのだ。
どんな種類のどんな規模のものであれ、辞書編纂は気の遠くなる事業だね。かりに私が著名な国語学者としてですよ(金田一春彦のような)、あるとき大きな出版社から辞書を編纂してくださいと依頼されたら、たぶん断るね。その前途遼遠の作業工程を思うだけで物凄い無力感に貫かれてしまって、気が変になる。間違えて請け合ってしまってもすぐにこんなことやっていられるかって投げ出すに違いありません。飽きっぽくて人生に虚無感を持っているような人間に、辞書作りなんか絶対にできない。どうせ死ぬのになんで、と思うと全てが駄目なんだな。この傾向は世の中すべてにあてはまる。慢性化した虚無感からは、建設的なものは生まれない。
この場を借りて古今全ての辞書編纂者のために深い感謝の意を表したい気分がパンパンに膨れ上がっている。あなたがた黒子の努力がなければ、私など一行たりともまともな文章をつくることができませんから。いや本当。
ともすれば人は忘れがちだけれど、約四〇〇年前のシェイクスピア時代には、今日風の整った英語辞書はなかったのだ。きっと彼は常に自分の使っている言葉に確信をおけなかったに違いない。シェイクスピアが非常に欲しかったはずの「ありがたい辞書」が、現代には満ち溢れている。にもかかわらず我々の辞書に対する態度ときたら、ひどいものではありませんか。
もっとそこにリスペクトがあってもよいのではないか、と私はいま思うわけだ。辞書は自然に発生する種類のものではないのだからな。
この知的集成物の背後には猛烈な執念と血涙がある。嘘だと思うなら何か辞書をつくってみなさい。それで気が遠のいてしまうのなら、少なくとも辞書に敬意を払ってほしいね。辞書供養なんかもあって当然だよ。

博士と狂人―世界最高の辞書OEDの誕生秘話 (ハヤカワ文庫NF)

 

 

能登路雅子『ディズニーランドという聖地』(岩波書店)

能登路雅子『ディズニーランドという聖地』(岩波書店

ディズニーランドは実に悲しい所と思う。「ディズニーランド」と発音してみただけで何か索漠たる気配に胸倉をつかまれて動悸が早まってしまう。

きっと世界でこれほど悲しい場所は田舎のパチンコ屋と深夜のドン・キホーテくらいのものではないかな。ディズニーランドのことを考えるときになんでこんな気分にならねばならないのかを、いまなかなか微細に書きだせないでいる。これは自分が思っている以上に入り組んだ情緒なのだ。けれどもこの巨大で多幸症気味の空間に充満している陽性分子が人間存在の深刻な悲哀と表裏をなしていることだけははっきりしている。ウォルト・ディズニーの直観は、同時代人の仮面性のニヒリズムと意識下の幼児化願望の在り様をむんずとつかんでいた。それがそっくりそのまま自分の願望でもあったから手に取るように分かったのだ。

人間とりわけアメリカ人は、ニセモノでも張りぼてでも何でもよいから、とにかく塵芥の苦労を忘れさせる何かが欲しかった。金でもセックスでも酒でも薬でも喧嘩でも西部劇映画でも満たせなかった欲望とは、映写された夢をただ見ることではなく、その夢に直接参入することだった。薄汚い実人生から何となく目を逸らすことのできる場所。過ちも抑圧も管理体制も無い「夢の世界」を、実在する身体そのもので生きることだった。外部に具現化されたファンタジーの場所に自分の体を置くという経験は、アニメーションでも活字でも与えられないものだ。ウォルトは自身の創造してきた夢物語を実世界にまで拡張しようとした。

喋るネズミやアヒルたちが無尽蔵に笑顔を振りまくこの「魔法の王国」の内側からは、ごみごみしい雑居ビルも住宅団地も石油プラントも殆ど視界に入らない。ここはアンチ日常の異世界である。それでいて模造ジ ャングルから海賊の跋扈するカリブ海まで、擦り傷ひとつ負うことのない疑似冒険が保証されている。俗世間では生産現場の部品にしかなれない労働者も、笑顔と快活が国是であるこのディズニー王国のなかでは、金さえ払えば誰もがVIPになれる。(「すべてのゲストはVIP」とは、ディズニーランド初期からの接客方針だ)。

そしてそこはまた、「古き良き」アメリカ像のノスタルジーに浸ることのできる、アイデンティティ確認の場所でもある。既に失われてしまったマーク・トゥウェンの物語世界や西部開拓時代の英雄が、エンバーミング 処理されたレーニンの亡霊ように沸々と出現する。民族も財産も年間所得も教育水準も違う人びとが、ディズニーランドという閉鎖的な虚構経験のなかで一つになり、はじめから存在さえしていない「純アメリカ」の記憶を集団幻視するのである。

ともかく、ディズニーランドの成功の背後には、ウォルトのビジネスセンスやキャラクターたちの魅力だけには決して還元できない、もっと特別な共同願望があるように私は思うのだ。


しかしこんな壮大無類の構想を、ウォルトはどんな経緯で得たのだろう。ディズニーワールドを特段好んでいない私なんかも、それは大いに興味のあるところですね。本書では、彼が少年時代を生きたアメリカ中西部の厳しい気候や家庭事情などを辿りながら、彼がいかに満たされない子ども時代を送ったのかが素描されている。父のイライアスはピューリタン的な厳格さと粗暴さを併せ持った男で、ディズニー一家は生計をたてるのに並々ならぬ苦労の連続だった(貧困はホレーショ・アルジャー式の立志伝には不可欠の要素です)。ウォルト・ディズニーは四男だったけれど、後に共同経営することになるロイ以外の兄たちはみんな父の専横に耐えかねて家を出ていった。そんな貧しく過酷な世俗経験を経て来たので、奔放な子どらしい諸々の欲求は当然抑圧されねばならず、そうした不満の蓄積が後のディズニー世界の源流を成したと言っていい。
私はよく言うのですが、空想や理想や妄想を生涯個人的な次元でしか弄べないのが凡人であるとすれば、それらを外的世界に受肉化させることができるのが天才ではないでしょうか。ウォルトの躊躇するところを知らないその空想具現力は、ほとんど超人のそれと言っていい気がする。ウォルトはその点で紛うかたなく天才だった。うん、この人のやったことを真似するのは余人には難しすぎる。彼は空想を空想だけで終わらせない人間、その類まれな執念深さをいつも活力源にしているような人間だった。このくらいの徹底性は、うだつのあがらない人間にあってはたぶん狂気とみなされるだろう。せいぜいがバルザックの人間喜劇に出てくるような偏執狂扱い。

ウォルトは自分の野望に「魔法」のかける術を知っていた。


その「魔法」は二〇世紀の地球を様々なやり方で染め上げた。
一九二八年に「蒸気船ウィリー号」が封切りされて、これはアニメーション映画では最初のトーキー作品だったわけだけど、同時にこれはミッキーマウスの事実上のデビュー作でもある。もともとモーティマーマウスと名付けられていたこのイタズラネズミは、ディズニー夫人の発案で改名されたらしい(信じるか信じないかは別です)。
なにしろ不潔の害獣イメージのついたネズミをあれほどの世界的人気キャラクターにしてみせたのだから、ディズニーの魔法は只事ではない。二流俳優あがりの大統領や戦争気違いみたいな大統領の名前は知らなくとも、このディズニーキャラクターを知らない人は殆どないくらいだから、大した知名度と思う。もはやミッキーマウスは歴史上もっとも成功したキャラクターのひとりだ。このネズミのデザイン商品をみたことのない人間が日本にいるでしょうかね。俗世間から完璧に孤立した仙人でもない限り、そんなことはありえない。これは実は大変なことなんですよ。アンチ・ディズニーの人びともそのところだけは認めぬわけにはいかない。

 

アニメーション映画の作成で大成功をおさめ、超越的野心の虜になったウォルトの次なる目標は、「地上で一番幸せな場所」を巨大施設というかたちで具現化することだった。

世界初のディズニーランドは、一九五五年(日本では保守合同という政治的エポックを画す年)、カリフォルニア州ロサンゼルス郊外のアナハイムに、一七〇〇万ドルを費やして開設された。はじめはウォルトの突飛な机上空論に過ぎないと思われていた案が実現するまでには紆余曲折があったようで、たとえば資金繰りのために、ABCと番組制作契約を結んだりしている(ABCはテレビ業界への進出において、当時の二大ネットワークだったNBCCBSに遅れをとっていた。それだからどうしてもディズニーの人気イメージが欲しかった)。
その後、一九七一年にはフロリダ、一九八三年には東京、一九九二年にはパリ、二〇〇五年には香港、二〇一六年には上海に開園した。しかしこんなどこにでも書いてあるような沿革を繰り返して何になる。つまりディズニーの空想がついに世界を股にかけたということだ。


私はやっぱりこの聖地を虚しく思う。適合する言葉がなかなか見つからないけれど、ここにはヒロヤマガタの絵に充満しているあの狂躁性に似た何かがある。それが呼吸を浅くする。仮に世界全体がディズニーランド化したら窒息してしまうだろう。人間は無菌空間には居場所を持てないし、恒常的なパレードのなかでも生きられない。人間にとって、俗世間もアンチ俗世間も、「耐えがたい場所」には違いない。やりきれないけれども、これはもうどうしようもないことだ。

私はしばしばディズニーランドの光景のなかに、人間の畸形な幼児化願望の一端を見るのだ。人間の不安も孤独も虚ろさも、こんな窮屈でまやかしの演出空間で救えるはずがない。けれども何かこの行き場のない潜在憂鬱を慰撫せんとして、人間は倦まずに娯楽の新形式を開発してきた。この遊園地もそんな産物のひとつに過ぎない。

よく思うのだけれど、「願望充足」の場所は絶対に華々しくあってはならないのだ。飾り立てられてはならないのだ。というよりも、そういうのは、市場からの提供に依存し過ぎてはいけないのだ。かなり舌足らずなのだけれど、不安なり欲望は可能なだけ自分固有の方法で満たしたい。集団で同じ陽気な夢物語に浸るようなやり方は、どうしてもインチキくさい。薄っぺらい。自己欺瞞度が高過ぎる。それに結局もっと空しくなる。

ディズニーランドではどこを振り向いても満面の笑顔がある。感情労働のプロがつくる完璧な笑顔、それだけに無理のある笑顔。これでは笑顔の飽和状態で、もはや何の含みもみあたらない。笑顔は元来、未知の他人に自分が敵ではないことを示すための表情記号であるから、笑顔笑顔笑顔ではいけないのである。

着ぐるみのキャラクターたちの無差別底抜けの陽気さは明らかに現代的ニヒリズムに根差している。人々は程度の差こそあっても躁病を患っている。この除菌済みのファンタジー施設が大成功する世界というのは、どう考えても、グロテスクなのだ。

人間はかくも過酷な場所にいる。

 

それにしても、ディズニーランドはユートピアというためにはあまりにも俗世間に酷似しているようだな。アルコールを禁止したり、キャスト(従業員)の接客教育をいくら徹底させたところで、やはりあの嫌な人間臭に覆われているのだ。第一、世俗を忘れるために来ているはずのこの場所には、「混雑」という最も世俗的な現象が支配しているじゃないか。金を払った恋人たちや親子は、ただひとつのアトラクションのためにどれだけの行列を我慢しなければならないのか、愉快だった気分を徐々に害されねばならないのか、考えただけでもやりきれなくなる。ここが俗世間なのかアンチ俗世間なのか、日常なのかアンチ日常なのか、もう分からなくなる。でもどっちでもいい。どっちも同じくらい「やりきれない」のだからね。

 

「人間の願望はその人間の悲しみを測る尺度である」と言ったのは、誰だったのか、忘れました。だいぶん前だから。でも至言ですね。いまに及んで、ようやくその深意がつかめました。

ディズニーランドの成功は、もっといろいろなことを物語っている。ディズニーに直接関係しない分野についても、いろいろなことを物語っている。さらに考察めいたものを深めたいけれども、そういうのはもっと別のところでやってみよう。

しかし、花粉の時期は、いやですね。

 

ディズニーランドという聖地 (岩波新書)

 

 

ジャン・トゥーレ『ようこそ、自殺用品専門店へ』(浜辺貴絵・訳 ランダムハウスジャパン)

ジャン・トゥーレ『ようこそ、自殺用品専門店へ』(浜辺貴絵・訳 ランダムハウスジャパン)


短いので、昨晩一気に読み終えた。こういうのが現代フランス流のブラックユーモアなのかあ、と思わせるわけだ。「自殺」というメガトン級に重たい主題をこれほどコミカルに書き切る力量はなかなかのものだ。これだけ笑わせながらも頗る薄気味の悪い物語で、しかもやたらとえがらい後味を残す。だから雑文も少少書きたくなる。

舞台は自殺に必要な道具を揃えるある家族経営の専門店(平凡な体言止めの一例)
家族はみんな憂鬱なことばかり考えていて、笑ったこともなかった。つまり自殺用品を扱う一家としては全てが順調だった。アランという図抜けてポジティブな末っ子が生まれるまでは(こんな小慣れたふうな倒置法も気取っているみたいで嫌いだ。今日は文の切り方が気になる日だな)。

               

店には当然、陰鬱な自殺志願者たちがひっきりなしにやってくる。いろいろな自殺志願者がいろいろな死に方を求めてくる。そしていろいろなことが起る。この虚構空間では自殺行為がなかば公認されているらしい。この非現実性が時々妙に生々しく見えてくるから不思議だな。いわゆる「不条理文学」にありがちなあの嫌味ったらしい難解さもなくて、実にさばさば物語が展開する。
タランチュラ、ナイフ、首つりロープ、子ども用の毒入りのキャンディー、銃弾、ひとつひとつの商品設定にも著者の巧みで細やかなユーモアが光る。たとえば毒キャンディーを買いに来た子供には、毒なしも含めた沢山のキャンディーうちからランダムに引かせることで、助かるチャンスを与える(作者によると法律で決まっている)。

娘に本人だけは死なない毒を飲ませてデス・キッスなる能力を与える発想なども、何だか凄い。キスした相手が死んでしまうというのだな。彼女は美人らしくて、好色な男どもが寄り集まってくる。これなど山田風太郎の奇想さながらだね


だいたい登場人物の名前が問題含みだ。フィンセント、ミシマ、マリリン、アラン、アーネスト。みんな古今の著名な「あの自殺者」を連想させる。これじゃあ勘のいい人はすぐに分ってしまうよ。洒落の通じない人なら頭から湯気だして怒りそうだね。不幸な死人に対して怪しからん、とか何とかいって。私でさえちょっぴり違和感あったんだから。おいおいそりゃ何だか違うんじゃないかいって。でもいいんだな。黒い笑いは宇宙を均質にするから。御存知かも知れないけれども、笑いは無敵なのだよ。笑いにだけは誰も抗しえない。無敵の笑いがあるのでなくて、笑いの無敵性がある。こんな屁理屈はいい。ともかくユーモアは残酷なくらい全てをリセットする。生きている連中も死んでいる連中も黒い笑いの前では何ものでもないのだ。ローマ法王もぺんぺん草も手術台の上のコウモリ傘も、みんな一緒くたにされてしまう。ユーモアのオープンな快活さは権威の緊張を一瞬で解きほぐすのだ。

 

ところで、こういう平準化の笑いは、どこに起源を持っているのだろう。欧米流のユーモアというものは本当にあるのか。自分の肌感覚では、ある。たしかに、ある。たとえば、アメリカの「ザ・シンプソンズ」なんか見ていると、日本人にはしばしば「えぐい」感じのする場面が多い。理屈として笑えることはできても、身体の深いところで軽い拒否反応を示しているようなのだ。私も好きだった英国の人気コメディ「Mr.ビーン」なんかも、日本人の一般感覚(そんなものがあるとして)に照らしてみるなら、ところどこと少々きつい。たとえばある回でビーンはチャールズ皇太子とダイアナ皇太子妃の写真ポスターをチェーンソーか何かで切ってしまう(どんな成り行きかは忘れたけれども)。驚くべきは、それでちゃんと英国民の爆笑を取れるのだ。たぶん抗議・反発もほとんどなかったんだろう。すくなくともローワン・アトキンソンには何事もなかった。

こういうところに笑いの文化的隔絶というか、感性類型の隔たりを感じてしまうのだ(たとえば日本のコメディアンが皇室ネタで同じようなことをしたらきっと自宅に実弾いりの拳銃とか剃刀とか自殺勧告状が送られてきますよ。タモリだって途中から昭和天皇のモノマネをしなくなった)。やがて本題にもどらないといけない。


自殺、なんで自殺があり続けるのか。これは私が生涯取り組むつもりの問題だから、容易には踏み出せない。

世界では概ね四〇秒に一人がどこかで自殺している、というWHOの報告があった。人口当たりの自殺者数でみると、旧共産国や貧困国がどうしても多くなる。この馬鹿馬鹿しい文章を作っている間にも、地球上では何十人も死んでいることになる。これって、当たり前のことなのですか。事故死とか災害死も悲惨だけれど、自殺という死に方には、どこか人間特有の痛ましさがあって、それを正面から考えることが難しい。

いま、「自殺」について考えてみないといけない。自殺によって死んでいない私が、自殺について考えるのだ。どこにでもいる自殺しかねない人間が自殺について考える。

おそらく自殺と縁のない人間は地上にひとりもいない。生きている人間はほとんど全て自殺可能性を負っている。そんなこと今更確認することでない。「一切皆苦」という言葉があった。ずっとむかしにこの解釈を何かの本で読んだ時、精神の内奥にある何かが揺さぶられたものだ。怨憎会苦とか求不得苦、愛別離苦、生老病死、苦しみを含意する熟語は仏典中いくらでも見つかるが、畢竟ぜんぶ苦しみだってことだね。おい、それは救いがなさすぎるんじゃないか、という向きもありそうだが、「一切皆苦」の認識そのものは実のところ誰もが内心で感じていることではないか。人間は、存在しているだけで苦しいのだ。その場にあるだけで苦しいのだ。快楽とか喜悦も全部、苦しみを前提にしていることを、身体のどこかで感知している。「苦」とか「不愉快」が経験のベースになければ、喜びも快楽も感じえない。というのも、快楽や喜悦は、苦痛や不愉快が一時のあいだ取り除かれた状態に過ぎないんだから。とくに快楽にはその性格が強い。「ああ、いまが最高だ、時よ止まれ」というふうな感覚絶頂にあるとき、それは常態的な不愉快が一時的に除去されていると考えていい。けれども問題を単純化し過ぎたかもしれない。苦にも多様な次元があるし、喜悦にも一概に括れない奥行きがある。ただ私が、大枠として、苦痛を根源的な心的状態とみなしていることには何の変わりもない。どんな好ましい経験も過ぎ去る。過ぎ去ることに人は苦痛を感じる。この辺の問題はまだまだ追究したりないのだ。

とにもかくにも、なんらかの悪い精神状態に陥ったり破産したり病気になったりしてしまうと、誰もが「この苦しみを逃れたい」と願う。苦しみに際して人は心ならずもそう願うものだろう。人間は知的・肉体的にどんなに成長しても、苦しみの質や量に何の変わりはないからだ。「逃れたい」という欲望を微量でも与える経験があるとすれば、それは全て苦しみである。
この「苦しみから逃れたい」という思いは、大抵の場合、事前に抑制される。私など一時期自殺のことばかり考えていて、ビニール紐に石鹸を塗ってみたり遺書なんか通算数百枚近く書いてみたりしてきたのに、やっぱり事前の抑制が利くのだね。もうすこし思考するか、何か書いてみるか、というところで気が落ち着くのである。ごちゃごちゃ何がいいたいか。要するに自殺の成功率は極めて低いのだ。生半可な意志では、それはまず成功しない。自殺は実に桁外れの勇気を要する試みなのだ。それにもかかわらず、世界ではなかなかの早いペースで自殺が決行されている。返す返すこれは大変なことと思う。気が狂ってしまう。なんなのかね、こんなに人間が自殺する世界というのは、なんのためにあるのですか。私という何ものかは、いったい、どこにいるのです。どんな惑星のどんな乱世を生きているのだろう。もう自殺用品は要らないけれも(充分持っているから)、もう少し良質な思考力は欲しい。

人間にとって、生きるということも死ぬということも、同じくらい辛いし難しい。たぶんこの人間原則は、今後もあまり変わらない。E・デゥルケムの『自殺論』では、「自己本位的自殺」や「アノミー的自殺」のことがめちゃくちゃ精細に考察されている。彼は、宗教分布や年齢統計などを適宜持ち出すことで、個人の心理的事実には決して還元できない、自殺の社会的背景を手際よく浮かび上がらせた。こうした論の進め方は、社会学者でない無学者からみても何となくエレガントで感動を禁じ得ないのだけれども、私がこの本によって、ある人間が自殺せんとする直前に「何を」考えていたかを知ることは難しい。ここでは統計だけが問題なのだ。論法がいかにもエレガントであるだけに、どこかやり切れない虚しさが残る。当然この名高い社会学者には何の罪もないのだけれど(彼に難癖をつけるなど筋違いも甚だしい)、鮮やかに統計を駆使する学者たちの語る「自殺者」像には、悲惨に分裂されてもがき苦しむ生身の声が刻まれていない。学問的にはどれほど妥当性を帯びていても、どこかよそよそしいのである。自殺は、統計である程度その傾向を分析しうる「社会的事象」なのかもしれないけれども、その自殺者個々の内的苦悶は紛れも無く孤絶のところにある。こんな逆説のなかでシャバは始めから引き裂かれている。

「誰かといても彼は孤独だ。一人でいても彼は孤独にはなれない」

生きるのも、また生きるのをやめるのも苦しいとなると、後門のオオカミ前門のトラ、ということになる。「死ぬ」という非経験的事象は人間的思考の埒外にある。それは恐怖以外の何ものでもない。分からないことは全て恐ろしいことなのだ。けれども今現在の苦しみがあまりに進行してしまうと、この恐怖心の抑制も効かなくなる。というよりも自殺に対する衝動というものが、最後の一線を越えさせる。自殺というのは、大抵の場合、理性中心の計画通りに実行されるものではない。そうした計画はせいぜい、この小説にあるような「自殺用品」を取りそろえることにしか役立たない。グーグルで「練炭自殺」とか「首つり 方法」などと検索して情報らしいものをいくら集めても、最後の「飛び越え」は計画理性の律し得るところではない。むかし沢山売れて世の物議を醸したらしい『完全自殺マニュアル』のようなものを何万回読んでも、自殺にはつながらない。衝動の極限化というのか、絶望した泥酔者が破れかぶれになって何も怖いものがなくなっているようなときでないと、彼は自殺に近づけない。

 

人の世はとかく生きにくい。ここまでは正しい。

人の世は平穏に過ごすためにはあまりにも煩労や災難に満ちていて、自殺する理由には常に事欠かない。ここまでも正しい。

けれども「人の世は生きるに値しない」という物言いには頷きかねるのだ。「人生に意味はない」などと嘯いて「絶望」するポーズをしてみせる人が時々あるけれど、それは私の感覚からかなり違うな。二つの点で。

第一に、意味の欠如がそのまま絶望する理由にはならないということ。だいたい人間は意味などを通じて生きているわけではない。意味があれば絶望しないで済むわけでもないでしょう。普通人は「意味」の意味さえ分からないのだから、そんなのは少しも厭世の理由にもならない。私などはむしろ、意味や目的の欠如は却って好ましいことと受け取るね。本来なんの拘束もないのだから。なまじ道筋とか決まっていたら面倒くさくていけないよ。意味のある世界を生きることは、無精者には辛い。それなら何の「意味」(権威や裏付け)もないほうがいい。だから条件さえ整えば(潤沢な財産があるとか)、生産的なことなど何もやらなくたっていい。それはそれで良い決定だ。

第二に、仮に「生きるに値しない理由」が十分にあるとしても、思考する糸くずである人間はそれをもっと掘り下げることが出来る。もう少し大胆になっていうなら、「なぜ人の世が生きるに値しないのか」を死ぬまで追究してその答えを明確に表現する「義務」がある。そうだ、これは義務だ。人間の義務は一つしかない。この訳の分からない現前世界について考え抜くことだ。何も食うものがないなら餓死するまで部屋で考え抜くことだ。極限まで追い詰められた人間に、これ以上に出来ることはないだろう。私の直観によると、人は思考する時間と能力だけは絶対に放棄してはならないのだ。言い方をかえると、自分が何ものかを思考しない人間は人間ではない(婦人服売り場のマネキンと並べておけばいい)。その根本条件を満たしていないからだ。人間とはまず何よりも「自身」を把握しかねている苦悶者であって、思考する何ものかなのだ。だからみな苦しむ。おおいに苦しむ。狂気寸前まで、神経を患うまで。こめかみを銃弾でぶちぬくまで。首にロープの輪っかを通すまで。人間の本質は常に不明である。実は何も分っていない。これだけははっきりしている。

こうはいっても、やっぱり人の世は死ぬ理由に満ちている。どうしても人の世は生きにくい。どうしてこうも生きにくくなったのか。やっぱり意識が消えるまで考える。

全然書き足りないですが、もう締めくくりましょう。

この小説は小洒落たフランス流のブラックユーモア満載だけれど、我々の生きている世界はそれ自体でひとつのブラックユーモア的塊茎をなしているのだ。この物語は虚構であって虚構ではない。それは非現実を装った現実である。市場では自殺用品などいろいろな形で売られているし、自殺希望者もそれを知っている。小説は、阿鼻叫喚の現実をただ戯画化したものに過ぎない。そう思います。だから読後の凄みも一入なのだ。

 

 

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保坂正康『自伝の人間学』(新潮社)

 

保坂正康『自伝の人間学』(新潮社)

なぜ人々は紙やインクや時間という限りある資源を費やしてまで自伝を書こうとするのか、誰も分からない。自分を語ることでその人生にどんな価値を付加させようとしているのか、誰も知り得ない。あるいは後世の人物評を意識し、何かを隠したり粉飾したりするために自伝を残そうとしているのか、やっぱりわからない。ことによると自分の過去を公衆にさらけだそうという本能が人間にはあるのかもしれないし、彼彼女の成育歴や精神類型がたまたまそうした挙の背後にあるだけなのかもしれない。

ともかく、「自伝」学の正体は、そのまま、「自伝を書く人」についての学でもあるようです。もうちょっと箴言風にいうなら、自伝学は人間学に他ならない。

このごろは自費出版などが色々の様式で流行していて、孫正義でもホリエモンでもウォーレン・バフェットでもスティーブ・ジョブズでもない人々がさかんに自らを語りたがっている。おおいに語りたがっている。けれどもそうした人々が自分の人生を誰に向けて何のために語ろうとしているのか、まるで解しかねるのだ。そこには「ただ語りたいがために語るのだ」という愚直な動機さえ見え隠れする。山があるから登る、白紙があるから書くのだ。こんなふうにいうと恰好よくも聞こえる。いや、ちょっぴりだけよ。

つまりですね、自伝というのは、実に謎めいた分野なのですね。自伝を書くに相応しい人も相応しくない人も含めて、私は自伝を書く人間自身に興味がある。その心の面に興味がある、とっても。

この分野は面白い事例に事欠かないのだ。

そういえば、日経新聞の裏に「私の履歴書」という名物連載がありますね。そこでは財界政界の大立者とか各分野の宿老みたいのが大いに自分を語っている。成功者というのはかくも自信に満ちて自分を語るものか、と毎回思わせるくらいに。作家や学者のように職業的に筆を執っている人間は自力で書いているのだろうけれど、そうでない人々はあらかた口述筆記だろうね(それでいいのだ)。

渡辺淳一遠藤周作水木しげるみたいな創作者たちの「履歴書」はなかなかの高評を博したようだけれども、それはたぶん彼らが自分の過去の泥土層を殆ど隠さずに、ありありと率直に語ってみせたからでしょう。一方で、一概に言いくるめることは出来ないけれども、功名を勝ち得た財界人たちによる「履歴書」には、婉曲な自慢話やさりげない美談こそ散りばめられてはいても、本当の意味での「内省」や「懺悔」は予想外に少ない。この辺にはもっと愛憎交錯するドロドロ事情があっても変ではないのだけどなあ、という箇所も、あっさり「叙事的」に語られるのだ。これには驚く。あなた違うんじゃないですか、実業や政治の世界はもっと怨念や汚辱に満ちているはずでしょう、その渦中で何をみたのかをもっときっぱり語ってくださいよ、という気にさせる。

 

そういうとき、時々語られるのは、せいぜい「公認の失敗談」や自己弁護であって、間違っても、自分の薄汚れた所業や欲望には言及しようとはしない。こんなものでも読む人が読めば涙腺を刺されたり何かしらの参考になったりするのかもしれないけれど、私はどうしてもその手の語り口調のなかに「公人の限界」を感じ取ってしまって、いっときのあいだ空しい気持ちに浸るのだ。これは自伝にまつわるひとつの暫定原則ではないでしょうか。

 

「公人の自分語りにはどうやら限界があるらしい。だから第三者が書くのだ」

 

その「限界」は奈辺にあるか。自伝学を志す人は、この観点を先ずは持ちましょう。

そこで、私なりに考えてみた。

一般に、この世界では、高い地歩を築いた人ほど、自分を正直に語りたがらない。人事案とか会計監査を巡ってのあれこれや家族との不和軋轢なんかも、そうした立場にある(あった)人ほど、語りにくくなる。誰も自分の晩節を汚したくないものだ。それだけか、違う。もっと重要な点がある。組織の高い地位にあった人間の告白の波紋は、その組織や関連人物にだけではなく、「社会全般」にまで及びかねないのだ。もちろん告白した当人にも影響が及ぶ。こうしたゴタゴタはこれから横町の隠居になって孫とじゃれついたり風流三昧に浸らんとしている人間の望むところではない(元東京都知事があんな高齢で証人喚問に連れ出されるのを見るのは辛い)。

 

世の中には(ごく荒っぽくいうなら)「人を使う人間」と「人に使われる人間」が存在する。「人を使う人間」の語りには何となく本音を押し殺したような慎重さが付きまとう。当人はそうでないつもりでも、やはりその言葉には人心管理者特有の無難で制御された語法があって、私はときどきそれが鼻につく。立場上の発言はやめなさい、そんなお行儀のいい自分語りなら最初からしない方がマシだ、というふうに気が激してしまうのだ。

大体こうした保守的な自伝作法は、組織内存在である(あった)人間の通弊といえそうです。何らかの利益共同体のトップであった人間が自分を語るとき、どうしてもそこにある種の「誇張法」や「隠蔽法」が付いてくる。あの役員が心底嫌いだった、とか、秘書の何々さんに恋心を抱いてしまった、とか、私たちはある時期アンフェアな儲け方をしていた、とか、そんな話はあまり出てこない。「あのときの失敗の責任は全部社長としての自分にある」という種類の形式的表明こそ頻繁見られるけれども、「あの頃は息子の引きこもりと妻のヒステリーのせいで軽い神経症を患っていたので、顧客や社員を満足させることなど本当はどうでもよかった」という様な人間臭芬々たる「告白」は滅多にない。要するに、成功した経営者の書いた自伝には、およそ、この種のリアリズムが欠けているのである。「昭和天皇による戦争観」などもそうだけれど、公の立場にある(あった)人間にはどうしても語れないことが多すぎる。人はこの「語られなかったこと」を、本当は知りたいのにね。

また、その団体に属しているということ自体に、実質以上の運命論的意味を付与してしまうという悪例も少なくない。この会社に私は選ばれたのだ、とか、「我が巨人軍は永久に不滅です」式の大仰な感動表現がそれに当たる。こうした主情的というか、ロマン的な過度の昂揚感の発露は、執筆当時はともかく、あとから読むと恥ずかしいだけであるから、大体において、自伝には相応しくない。基本として自伝は、冷静な反省と自己認識を要するものなのだ。それは数知れない失敗や悪行や苦心を棚卸ししながら過去を俯瞰する試みであるから、書き手語り手にとって必ずしも快いものではない。むしろ過酷な作業と思う。私のように自己欺瞞を表明することで自己欺瞞しているような人間には、とてもそんなことは出来ない。私は内なる恥ずかしい情念や過去の恥部・失態を可視化させる勇気を持たない。だから自分語りなどとは無縁の生き方をするでしょう。ほとんどの人間がそうであるように、私もまた「虚飾の人」であるほうが生きやすい。

けれども翻って見れば、ある程度高い立場にありながらも敢えて自分の黒歴史を語ろとする人間もいる。そうした自分語りをできる人は、本当の敬意に値する。

書くことが恥をかくことであるように、自分を語ることは取りも直さず自分の恥辱を示すことなんだな。大体わたしは人間など思考する糞尿量産機以上とは思っていないので、世にある自伝のいう苦労談や成功談などには、ほとんど心を揺り動かされない。これは体質的なシニシズムのせいだ。思えば私は人間を含めた生物の営み全般に途方も無い虚しさ感じてしまうので、経済現象の話にも新しい発明の話にも新しいアメリカ大統領が出現したという話にも邪馬台国は一体何処にあったのかという黴臭い話の数々にも、心底より入り込めない。それがどうしたのだ、ということなのだ。

自伝の九割九分九厘は、愚にもつかぬものばかりだ。国家の元勲がものしたものさえ詰まらないのだから、凡人の書いたものの質など想像するにあまりある(遊び紙の後に着飾って笑っている著者近影など、もう反吐がでそうになる)。

それだから、人の自伝を読むときは一際目を光らせましょう。行間から隠微な偽善臭が立ち昇ってきて鼻をついたなら、すぐに読むことをやめよう。そんな人工甘味料まみれな美談を読むくらいなら、FacebookとかTwitter上の毒にも薬にもならならぬ駄文でも読んでいたほうが百倍いい。

著者の保坂正康さんは昭和史研究をライフワークとしている人で、著作数も多数にわたります。明仁天皇裕仁天皇三島由紀夫「盾の会」事件、「わだつみのうた」の裏面史、昭和陸軍など、その守備範囲は実に広い。事件・人物との距離の置き方や、情に傾かない筆遣いからは、書き手ならずとも見習うものも多いので、なんでもいいから一冊読んでほしいと思う。

ちなみにですね、私が去年読んだ「自伝」のなかで出色のものは、ロバート・ラッセルの『天子をこの手に』(佐伯わか子・訳 みすず書房)。アメリカで全盲を生きた男の話だけれども、そこには沈鬱な恨み節よりも、「運命への叛逆」といったような荒々しさがあって、読んでいて痛快なのである。この憎らしいまでの開拓精神は明らかにフランクリンの自伝に通じるものだ。

いったい自伝は痛快でないといけない。裸で裸の言葉を語る痛快さ。保身的なお行儀のよさは、自伝の場にあっては不徳でさえある。経営者や政治家は、やっぱり何もかもを語れないのかね。われわれは、ではなくて、一人称の巧まぬ独白を、できれば聞きたいものです。それではじめて自伝らしくなる。自伝の最低条件を満たすことができる。

私はつくづくそう思いますよ。

自伝の人間学 (新潮文庫)

アンドリュー・ソロモン『真昼の悪魔(うつの解剖学)』(堤理華・訳 原書房)

アンドリュー・ソロモン『真昼の悪魔(うつの解剖学)』(堤理華・訳 原書房
 
そもそもうつ病というのは何もので、現場ではどんな治療方法が現に行われていて、どんなふうな歴史を持っているのか。大部のこの労作はそのあたりをばっと辿ってみせる。こういうの、あるようでなかったな。せいぜいあっても、こんな治療法がありますよ、とか、こんな症状の時は医者に相談しましょう、という精神科医による安直なアドヴァイス風のものだった。そこにはしばしば、「つべこべいわず医師に相談しろこの素人め」という傲慢な魂胆がみえみえだった。もちろん医者にみてもらうという判断は間違っていない。ある種の「精神疾患」に対して薬物療法が好ましいことを示す調査は、たしかにある(はずだ)。れっきとした「肉体の病気」なのだからちゃんとした医者に診てもらうべきだという理由は、私の様な人間にもよく分かる。
 
けれども人間という動物がなんで「鬱」に見舞われなくてはならないのかを知りたい一読者としては、おおいに不満ののこるものであった。わたしはとかく、現象の根元に今直ぐ迫りたいという種類の人間なのだ。細々とした治療プロセスよりも、いつからこういった症状が確認されていて、人間はどういうときに自殺してしまうのか、そのそもそもの原因はどこに帰するべきなのか、そこがズバリと知りたい。この本はそんな観点も巧みに取り入れてあるから、ことごとの切り口も面白い。進化や政治や貧困との関わりも見逃せない問題であろうし(9、10、11章)、実際の「うつ病」患者に対するインタビューも多いので、机上の空論に傾かない。著者のフットワークは実によいのだ。マルクスもそうだけれど、物を書いて人に指針を示すような人間は本来こうでなければならないのだな。こんなのを読むと、「人間というのは実に悩み深い生物ですね、なぜこんな悲しい素質を持った生物が何千年も生き残ることができたのだろうか、自殺することもなしに」と思ってしみじみ嘆息するのを我慢できなくなる。けれど、面白いのは主として下巻であって、上巻の薬などの話は時代の推移に取りのこされがちの分野だから今更読んでも得る物がない。
 
そもそも私は鬱病というものが抜本的に療治可能なものとは信じていない。これは個人的な実経験でもある。思えば「既存世界」そのものが迷いに迷って行く先を決めかねているんだから、一個の人間にそんな治療ができるはずがないのだ、と観念している。こんなことはしかし、思索以前に分かることだ。システムや既存宇宙が何かしら病んでいなければ、個としての生物は病まないだろう。「個体」は、最初から最後まで「世界」から独立しえない、極めて文脈依存性の強い意識者であるからだ。この類推は飛躍ではないだろう。
 
第一に人間という生物は自分が何者であるのかも分っていない。この既に始まっているらしい「世界」(「そのようにあり、そのようにあり続けている世界」)のことを何も知らない。ここが何処であって何のためにあるのかも知っていない。これはやっぱり不気味な経験である。このことを考えると、私でも息苦しくなって不整脈状態になる。そんな絶望的無知を強いられた生物個体が安定していられるはずがないだろう。人間は頭の天辺から小指の爪先まで、謎の塊なのだ。マス・オブ・ミステリーである。何も分からない、何も分からない、何が分からないのだろうということさえ時として分からなくなる。本当に何も分からないのだ。私だけが馬鹿なのではない。人間の細胞のひとつひとつには「謎」という字が深く刻印されているのだ。

なぜ「何ものか」が存在しているのかという謎、「世界」がこうやって推移していることの謎、過ぎ去った「過去」がどこに集積しているのかという謎、個体にとっての死が何であるのかという謎、自分の自由意思など本当にあるのかという謎、何故人間は他者を裁きたがるのかという謎、なぜ自分の子どもでなければあそこまで冷淡になれるのかという謎、この不思議で不気味な有機体が形成された謎、この残酷で不確実な世界でなぜ人間が敢えて子孫を残してきたのかという謎、「パチンコ」の電飾文字の一つが欠けるときに何故よりによって「パ」の字が選ばれてしまうのかという謎、すべてが謎のまま古代から今に至るまで問われ続けているのである。鬱病という心的現象を起こさせる大本を一つだけ特定するとすれば、それはこの「謎」が誘発させるところの問答無用の不安感に違いない。もうただそこにあるというだけで怖いのだ。やりきれないのですね。息苦しくなる。生きているという感覚そのものが既に悪寒にふるえている。これは詩的言語でも扱い兼ねる凄絶の心境で、木石たりえない殆どすべての生物個体が実はこの不安感を根底に持っている。生きるということはこの絶対零度の不安に戦慄しながらも敢えてそれから目を逸らす技術を体得し続けるということなのだ。人間は、それだから、悲しい。
 
鬱病というのは結局は人類の業病なんだ。中世の「白昼の悪魔」もチャーチルの「黒い犬」も、その根はおよそ同じところにある。この病はどこにでもある。ありふれた狂気、というよりも、ありふれた正気というべきものだ。そうだな、正気なんだよ。彼彼女らは正気すぎるのだ。「どうせ馬鹿なら踊らにゃ損損」的な作法を軽視しすぎたのだ。ありていにいえば、鬱状態は、素面(しらふ)に近い。眼前世界の悲喜劇をありのままにみてはいけないのだ。自分が必死に集めているものが灰燼に帰している光景など考えてはいけないし、周囲の最も親しい人々さえ自分の「死」とは全く無関係であることを、あまり考えすぎてはいけないのだ。この宇宙はことによると同じことばかりを繰り返しているのではないかという悪夢的発想も可及的遠ざけておかねばならないし、自分が食べている豚肉や牛肉がどんなプロセスで出来上がるのかもあまり生々しく考えない方がいい。そんな具合に、世の中には深く考えたくない事実がごまんとある。けれども先天的にうつ病に親しい人々は、気がつけば、そういう問題をとめどもなく考えているものだ。なぜというに、彼彼女は正気だからだ。ほかの有象無象よりも僅かばかり正気であるからだ。
皺を刻み過ぎた全ての大脳が初めから抱えている時限爆弾が他ならぬこの鬱病である。生物的要因や心理的要因、ストレス説、遺伝説、いろいろな用語法でいろいろの語り方があるけれども、やっぱりその大本は、存在世界の「ひずみ」、最初から避けられない分裂状態にある。
何もかも謎だから何もかもが狂っているのである。何もかもが狂っているから何もかもが曖昧に霞んでいる。よく見えない。この見えない日常がずっと存在する。人間の心は、そんな日常のまやかしの安定性の上にある。
だからですね、どうせ愚昧で狂っているのだから、せめて少しでも苦しくない狂いかたをしたいですね。陽気に狂いたいものです。
 
自身が深刻な患者でもあった著者は、最終的には「うつ病」を肯定的に捉えている。それは、彼が取材した女性の一人の「楽園を見付けるために地獄を通り抜けて来たの」という言葉の取り上げ方からでも、充分に分かる。けれども、いくら楽園を見付けるためとはいえ、何故なそんなに苦しまなければならないのか、私にはどうにも分からない。そんな肯定心理の背後には、彼女自身が苦しんできたという事実にする、ある種の代価請求衝動が控えているように思えてならない。「私はこんなに苦しんだのだから、ほとんど苦しんでいない人よりもずっと大きな報酬をくださいな」という具合だ。全ては無駄ではないという自己激励の有効性は、たしかに万人に妥当する。この世の中で、後悔をそのまま歪曲しないで受け入れることの出来る人間は、思いのほか少ない。カードから何まで入れた財布を駅で落としてしまって見つからないと知った時に生ずる後悔は、必ず「教訓」か何かにしないではいられない。全く偶然の事故死さえ慣例的に「犠牲」と呼ばれる。その死が共同体の何ならの利益に寄与していると言わんばかりに。
何に付け人間には、「生身の不幸な事実」に「意味」なり「価値」を付与しないではいられない生得的な気質がある。病気など元来治ってもともとであり、短い生涯そんなものに関与しないのが最上なのだけれど、大きな病気でカネも時間もいっぱい失った人間はおおむね、その損失自体に何らかの運命的含意を読み取ろうとする。「大病したおかげで人の苦しみが分かるようになった」とか「癌のお蔭で人にやさしくなったとか」、なかにはちょっと無理なんじゃないかなと思わせるものもある。苦しみを「絶対悪」としている私には、こういうセリフはぜんぶがぜんぶ欺瞞にしか聞こえない。おいおい苦しみは病気以外ではあるだろう、そんな痩せ我慢はしないでもっと病気を呪えよ、こんな病気をあなたに与えた世界を先ずは呪えよ、とか思ってしまう。あるいはこの人には赤い血が通っているいるのかなと思う。切ればほとばしる鮮血。辺り一面唐紅、これじゃ講談だよ。そういえば『死の瞬間』で死への五段階とか説いていたキューブラー・ロスも、晩年脳梗塞で倒れた後はいろいろと世界を呪っていたに違いない。乱暴な結論ですが、不幸な目にあって「世界」を呪わない人間は、ちょっと変だということです。変というよりも、人間離れしています。人間なんかどんなに恵まれていても、不平不満呪詛猜疑憎悪不機嫌不愉快倦怠の缶詰みたいなものだから、もっと負の情念を発露させたほうがいい。底の方に渦巻くヘドロを。もうどうしようもないんです、人間は、生物は、意識を持って存在してしまっているということは。こそ初期設定ともいうべき苦しみ、その痛みかた、神経の細さ。必然的なアンバランス、よるべのなさ、飢え方、満たされない欲望、死への不安、社会的暴力、嫉妬心、どうしようもないのだ。諦めるというのは諦めるということさえ諦めるという話は、至言と思う。出口なしという観念がこれからの人間には必要なのかもしれない。
私もよく三十歳近くまで生きられたなとつくづく思う。著者のソロモン(旧約聖書的な名前だな)、そのことは、よく知っている。経験しなくても、人間の心がどれだけ脆弱で、こわれやすいかを(本当ははじめから壊れている)、知っている。人間は知らないうちに暴力的な日常世界に投げ込まれた惨めな糸くずに過ぎないのだから、その糸くずに相応しい悩み方をしないでは生きられない。考える糸くずは悩み多き糸くずでもある。銀河系から見れば所詮糸くずの悩みだけれども、糸くず自身にとってはとても支え兼ねる分量のものである。無理を続けると、いけない。無理は「鬱病」になって報いてくる。
 
今回はもう何だか締りが悪いけれど(いつもそうか)、この辺で区切りをつけます。
 

 

真昼の悪魔〈下〉―うつの解剖学

水原紫苑『桜は本当に美しいのか(欲望が生んだ文化装置)』(平凡社)

水原紫苑『桜は本当に美しいのか(欲望が生んだ文化装置)』(平凡社

 

往年の落語家シリーズばかり聴いていた頃、桂米朝三遊亭圓生(六代目)かのどちらかの演ずる「百年目」のなかで、花見見物客を眺めている旦那がさりげなく桜に苦言をもらすところがあった。「もうそろそろここを移りましょう、桜はどうも下卑ていけません」と大体こんなふう。桜を見れば学齢前の子どもでも綺麗と言わねばならぬようなこの国で、こんなセリフはいかにもダンディに響くじゃないか。それもただ自分の審美感情を滔々とまくしたてるのではなく何気なく呟いてみるところが、よっぽど粋なのだ。「無粋な連中ですね」とははっきり口に出さない。商家の洗練された旦那というのはやはり只者ではないなあと過分な幻想を抱いた次第である。
ところで、この旦那の見ていた桜は、すくなくとも山の中にポツンと自生している山桜ではなかったはずだ。それは、園芸品種化されてそこらじゅうに植えられていた「俗世間」の桜だったに違いない。いわゆる「桜並木」というやつだ。その下で酒を飲んで浮かれ騒ぐという風習は、江戸の時分からあったみたいだ。例の旦那はただ付き合いで岸部まで寄ってみただけのようで、だからこそあの距離感を保っている。この距離感が何とも涼し気なんだなあ。勿論この話の主人公は自称堅物の番頭だけれど、この旦那もいい味を出しているんだ。もうなんかこのまま「百年目」論に突入したい気分だな。
 
ともかく日本には、桜に対するある種の審美的不文律のようなものが空気のように存在していて、これが対象に対する眼差しを良くも悪くも歪めてしまっている。判断停止といってもいいか。「花は桜木人は武士」なんて物言いは、冗談でないなら愚の骨頂ですよ。あんなにもぞろぞろ集団で花見(桜見)に行くのも、やっぱり変だ(桜なんかろくに見ないにしても)。もっと粋な遊びもありそうだけれど、粋な人間はそもそも集団で酔っ払いながらうろちょろしない。一人くらい海岸に漂着するクラゲやイカをみながら酒を飲んでいるのがいてもいい。そしてクラゲにはときどき変な注射針が刺さっている。近所の子どもが遊んでいたのだ。桜よりはずっと素敵な情景です。とかく花というものには、どこか退屈でいやらしいものがある。そうだ、花はいやらしいのだ。ある種の感性に対して気恥ずかしさを与えないではおかない。種類次第では毒々しい。あれは言ってしまえばこれ見よがしの生殖器官であって、花見というのは取りも直さず集団で植物の剥き出しのペニスを鑑賞しながら呑んだり食ったりする下品な奇習に過ぎない。
といっても、綺麗な花は綺麗ですね。私は人の庭に咲くノウゼンカズラはむかしから好きです。花と言えば、まずこれです。これは夏の石垣とよく合いますね。桜については野中に一本だけ侘しく佇んでいる風情はいいけれども、あんなふうに自己顕示欲いっぱいの桜が寄せ集って川沿いを占拠しているような景観は、落語の旦那と一緒で嫌だな。濡れた窓ガラスに張り付いた汚い花びらなんかを見ると、人間を馬鹿にするなといいたい(椎名誠の調子で)。今年も咲いてしまってすみません位の腰の低さが花の美しさには必要なのだ(もっとも桜はすぐに散るから、そこだけは素晴らしい)。動物もそうだな。生きていてすみません位が一番なんだ。生物なんか存在しているだけで必ず何かを圧迫しているんだから。生き物って、本当にずうずうしくて嫌だよね。
 
「いや本当にこの植物好きなの?」
「うん、そういえば野暮で俗っぽい花ですな」
 
ってな遣り取りが時々あってもいいよ。本当に美しいと感じる人の心ももちろん大切だけれども、その美意識を無条件に一般化させないでほしい。なかには花というもの自体が嫌いな人だっているんだから。いやらしくてね。

こうやって桜の開花予想がにぎにぎしく報じられる時節になると、やはり、どうしてこんなふうに桜ばかりが「もてる」のかを考えたくなる。日本のポップスは相変わらず桜桜と歌っているようだし、広告のような印刷媒体や店内デコレーションの演出にも桜の花びらが必ずと言っていいほど登場する(現在愛飲しているリプトン紅茶のパッケージにまで桜の花があしらわれている)。
私見では、日本人にとって桜というものは、単なる一つの植物名ではなく、日常会話をかわすときの無難な話題現象であり、また、季節を実感するための確かな指標なのである(サクラ前線)。要するに「桜」は、あらたまって嘆美するような対象である以前に、何か根の深い文化的合意のうえに成り立った美的記号であり、この権威ある記号に対して人々が接するやり方は、例えば「富士山」や「和歌」や「夏目漱石」という文化記号に対するそれと同型のものであるといえる。接合性が従来より弱くなってきた共同体ほど、その共同体の一体性を確認するための文化記号に、なにかしらの欲望を投入する。この欲望は、物質的欲望とは異なり、ほとんど意識されることがない、極めてナショナルで漠たる感覚である。この「記号への欲望」は、「美意識」という、一見主観だけが支配しているような部門でさえ、例外ではない。もっというなら、ナショナルな意識にかかわらず、人間というものは、つねに何かしらの結束観念に飢えている。県民の鳥とか県民の花なんていう詰まらない事例はもちろん、世の中の無数の企業シンボル、マーク、プロスポーツチーム、沢田研二のファンクラブからカルト映画愛好会まで、枚挙にいとまがない。こんなのは全て、結束観念の力学なしにはありえないのだ。こうした観念のために、偶然形成されたような共同体が、あたかも「運命共同体」であるかのように思えてくる。「日本人」というものは「桜」を愛で「富士山」を誇りに思うものだ、という具合に(もちろんそんなはずはない。北陸に住んでいる人間にとって「富士山」など日本の「象徴」ではありえない)。これはさすがに単純化しすぎるけれども、こういったような「判断に対する記号の介入」は、日常風景をみわたせば、そこらじゅうにみつかる。どうかすると「わび」とか「さび」を知ったかぶって云々したがる人が出てくるのも、これで説明できる。つまり個人の「嗜好」は常に共同体の「嗜好」と響き合っている。めいめいの趣味判断も、共同体がいつのまにか定着させた審美判断や思考様式からは自立していない。

「桜」への集合的美意識が「日本人」の本質を規定しているのだという、そんな自覚がどこかにあるようだ。「渋沢栄一」や「福沢諭吉」が近代日本の守護神と化しているように、日本人は「桜」という植物を共同体の結束記号にまで昇華させた。この「桜」をめぐって「国民」(民族)が共有してきたイメージの沈殿物を思いきって浚渫してみれば、その変遷過程や実体がいくらかは掴めるというものだ。

本書のねらいはそこにある。未開拓に近い分野ゆえ詩論の域を出ていない観こそあるものの、この本の着眼点は興味に満ち溢れている。ひねくれたタイトルからは、著者がひそかに桜を嫌っているかのような印象を抱きかねないけれども、そうではなくて、著者はむしろ、桜に対して殆ど身体化しているといってもいい共同体的反応様式に、一人の歌人として疑問を呈しているだけだ(彼女は短歌の実作者でもある)。それはまた、「美しい」と思う経験は本来何であるのかという観念的な問題と向き合うことでもある。そういえば大昔に、美しい「花」がある、花の「美しさ」なんてものはない、みたいなことを書いていた文芸評論家がいた気がする。「美しい」というのは、どんなふうにして決まるのか。「美」の実在があるからか、美しいと反応したがる主体があるからか、あるいは両方の共鳴作用があるからか。これから何につけ「美しい」と思ったときに、ふと反省することにしよう。「本当にそれは美しいか」「本当に自分はそう感じているか」「習慣的にそう言っているだけではないか」
 
 古事記日本書紀万葉集、王朝文学、西行、能、歌舞伎、松尾芭蕉、軍歌、近代文学、戦後歌謡曲、こうやってインデックスをつらつら眺めてみると、日本人の桜への偏愛心情の底には間違いなく文化的(つまり人工的)な「美意識」が介入していることが分かる。「桜」というイメージに人生の悲哀や恋情を過分に仮託してきた脈々たる詩的伝統がある。植物学でいう「バラ科サクラ属」の一品種ではなく、ほとんどイデアといってもいいような詩的イメージだ。日本文学史で「花」といえばその大部分が桜を指しているというのは、どこまでが本当か分からないけれども、すくなくとも私が「花」という言葉に接したときは、たしかに桜のような映像が思い浮かんでくる。「花」の一字は限りなく桜的イメージと結びついている。
井伏鱒二が訳した唐詩の五言絶句の一節に「花に嵐のたとえもあるさ さよならだけが人生さ」というのがあったけれども、この「はな」の喚起するイメージも、私にとっては、やはり桜だ。それは、夜の嵐の間に花びらを散らせる桜大木の情景と半ば不可分である。こんなふうに、桜をさほど好きでない人間の想像領域にも、この文化的イデア関係は喰い込んでいるのだ。
どの時代から「桜」が定番(紋切り型)の詩的素材になり、どの時代から「はかなさ」や「高貴さ」を表象しえるようになったのか。国文学にかなり精しくならないと、何も語れないね。
例えば『万葉集』で最もよく詠まれている植物は萩で141首、次が梅で118首、桜は八番目に過ぎないから、この詩集が編纂されている年代では、桜はまだ主役級の花ではない(勿論既に栽培されていたし、人々もよく知っていたはずではあるが)。
この研究主題に必要な文献量を思うと気が遠って眠くなる。そうでなくたって眠いのに。でも一生飽きないテーマではあるでしょう。

 

 

桜は本当に美しいのか: 欲望が生んだ文化装置 (平凡社新書)

 

桜は本当に美しいのか: 欲望が生んだ文化装置 (平凡社新書)

 

 

諏訪哲二『なぜ勉強させるのか?(教育再生を根本から考える)』(光文社新書)

 

 

 

なぜ勉強させるのか?  教育再生を根本から考える 光文社新書

なぜ勉強させるのか? 教育再生を根本から考える 光文社新書

 

 諏訪哲二『なぜ勉強させるのか?(教育再生を根本から考える)』(光文社新書

光文社新書もときどきおやっと思わせる本があるね。八割くらいはタイトルからして読む気もなくなる代物だけれど、百に三つくらいは膝を打たせるものがある。若い教育学者がスクールカーストを論じたのもあったし(当時は参考になった)、ほら、さおだけ屋は何とかとかいう本もたしかこの新書からだったと思う。あれは結局何が面白かったのかな。まあいいか。
 
教育再生論とか教育哲学なんか、がんらい全うな人間が興味を持つようなテーマじゃない。私は、教育行政の中枢部から発表される言語を未だに解読することが出来ないから、新聞が読めない。また、教育問題を語る人々の、あの取ってつけたような賢しらさが、私は好きではない。何よりあの脂ぎった有識者たちの流暢な語り方がときどき我慢できない。どうかすると夜回り先生とかカリスマ予備校講師のタレントじみた物言いの方がいい。政策立案者が教育の事を語るとき、まっとうなことを言っているように思えるときでさえ、嫌な気分になる。嫌な気分を通り越して、空しい気持ちになる。「生きる力」とか「他人を思いやる心」とか「国際競争に勝てる人材を育てる」というような悪趣味な理念語法は、すくなくとも、三回以上繰り返すべきではない。私は彼らに、オーウェル的なニュースピークではなく、ちゃんとした自己固有の溌剌たる日本語で語ってほしいと思う。頭の中はちゃんとした具体案で一杯なのだろうから。文科省諮問会議のお飾りみたいな論者がそんな新言語を繰り返せば繰り返すだけ、言葉がもっと空虚に響くようになって、国民を軽いニヒリズムに浸らせる(たぶんこのニヒリズムによる全体的思考停止こそ支配者層の目的とするところなのだ)。世の中には聞くだけで虚しい気持ちになる言葉が沢山ある。そのことに鈍感である人間だけが、そんな言葉を垂れ流す。慣例化された言葉というのはかくも人間を虚しくさせることが出来るのだ。
 
こうした大文字の国策的教育論だけが紙面に乱交するなかで、人間の根本を忘れていない教育思想も勿論ある。もともと教員だった諏訪哲二さんの筆になる本書は実にいろいろの要所を含んでいて示唆に欠かないけれども、あえて本書からの引用でまとめてみれば、こういうことになる。
 
「真に知的な働きかけをするためには、まず教師や親が、子どもたちに対面しているとき、経済的なレベルの固執から抜け出ていなければならない。「学ぶ」や「生きる」が経済的利益を離れ、換金できないひとの崇高な価値として、再構成されていなければならない。」(八章)
 
「人間の知的能力の可能性というのは、私たち一人ひとりの内部に元から在るのではなく、その外部の社会にあるのです。その外部(「知」の体系や文化やルール)を取り込んで文化的身体になっていくことが、勉強の目的なのです。これはひとの身体の成長のような、内発的なものではありません。勉強することは、ひとの内部と外部(文化)が衝突を繰り返し、ひとの内部に外部の構造が定着していくことでもあるのです」(エピローグ)
 
著者にとって、「勉強」というプロセスは単なる知識の習得でもなければ虚しい点取り合戦でもない。まして国家の繁栄に寄与する産業戦士の育成などでは絶対にありえない。
 
勉強(学習)は何よりも先ず、人間の生物的な「ありのまま」を否定する冒険であり、社会的に期待されている「あるべき自分」への変化に他ならない。そうした自己改変は、かならずしも快適ではない。生まれ落ちたままの「欲望の塊」であるほうが、むしろ「人間らしい」とする向きもよく分かる。けれどもそんな人間像は、最初から最後まで虚構以外の何ものでもないのだ。どんなにあがいたって、人間はもう「野生」を生きてはいない。人間は骨の髄まで「社会化」されている。このシステムとしての社会の何かしらの部門に嫌でも身を置かねばならない。人間というのは、何かしらのものに自らを適応させないでは生命個体を維持できないのだ。「教育」もそんな社会の一部門であって、そのあるべき役割は、子どもが「ありのまま」の自分を一旦否定する契機を積極的(強制的)に与え、それを出来る限り熱心に助けることだ。その外からの働きかけは、口で言うほど容易な試みではない。予めあらゆる葛藤要因をはらんでいる。様々な教育トラブルが、(教化の勉強だけすればいい)塾ではなく(制度としての)学校で起こる所以はそこにある。とまあ、詳しいことは本書で。
 
また著者は長年の教師経験から、子どもの中には、知的能力や学習適正において、ある種の先天的な格差があることを肌身で知りぬいている。出来ない子は出来ないし、出来る子は出来る。これは世間が思っている以上に多くの事実を語っている。著者は決して単純な能力決定論者などではないだろうが、勉強に関する限り、子どものなかに最初から存在している能力差については、拍子抜けするほどあっさり認めてしまう。「勉強が苦手な子もやれば皆出来る」というよくある欺瞞論法から最大限距離を置く教育者は、案外少ないかもしれない。熱っぽい教育者や間抜けな親たちは、なんとかそうした「悪しき傾向」を「矯正」しようとする。どんな手で? もうみんなやっているからみんな知っている。たとえば学校の勉強で好成績を取ることが後の経済的成功へのステップになるとか、他人よりも幸福な人生を送ることができるとか、いろいろ子どもの耳元でささやく。魔女みたいに。こんなささやきは確かに汚らわしいけれど、勿論ここで知っておくべきことは、ほとんどの子どもにはそんな卑小的のインセンティブ戦略は通用しないという厳然たる事実だ。そんな「大人のリアリズム」は子どもの脳には響かない。だいたいそうしたことを説いている大人たちの大部分が経済的成功者などではないし、「幸福」そうにも「賢こそう」そうにも見えない。彼彼女たちは、自分の不甲斐なさを教育投資で補おうとしている点で、子どもを自分の思い通りになるペットとしてしか見ていない。試験結果を叱って子どもに殺される父親の存在は、子どもが自分の思い通りになると勘違いしてしまった愚かさに対して支払う過大な罰金みたいなものだ。
 
ともあれ、小さいころからまじめにコツコツ勉強できること自体がひとつの能力であり、そうした能力は当然ながら全ての生徒に備わってはいない。それは教師や親の力量で何とかなるものでもない(もちろん例外もある)。あんな硬い椅子にすわって長時間「授業」を受け続けることが子どもにとって生理的に難しいであろうことは、誰でも理解できる。後の受験レースにいたっては更にイビツで不健康な忍耐力が要求されるわけだが、それについては今は触れない。ともかく、学習においては、あきらかに個体差が歴然となってくる。 このどうにもならない個体差を度外視して教育を語るのは、無意味である以上に危険なことだ
 
この著者が他の脂ぎった教育評論家と特段違って見える点は、ひとえに彼が「勉強」や「教育」の目的を、超実利的な観点から見ていることだ。それは、「知」の探究だ。それは、コンビニに行けば貨幣と等価交換できるような商品ではない。ある特殊な学習作法を身に付けなければ得られない「知」である。著者は、「根源的に己れの個体性を超える普遍なるものを求めて」いくための契機が「学習」であると言う(四章)。こうして字面だけを眺めていると、ドイツの観念哲学を思わせるような壮大な議論だけれど、私は、彼の言いたいことはよく分かる。いわゆる勝ち組・負け組の経済的尺度でしか他者を評価できない「みみっちい大人」たちの「しみったれた」論理に染まらないで、もっと根源的な動機から知を求めるのが本当の在り様だ。子どもはある種の大人が思っているほど「知的好奇心」に満ちてはいない。けれども、精神が根底から揺さぶられて知を渇望する契機は、条件さえそろえば、誰にでも起り得る。著者は深く立ち入ってはいないけれども、この人間という悲しい社会動物は、たとえどんな無気力状態にあっても、ふと「そもそも論」に打ちのめされてしまう。「そもそも何故なのか」で締められる問いは、他のいかなる経済的インセンティブや社会的必要よりも人間を虜にする。生涯を通してこの問いの虜になれないような縁なき個体は、この際論の外である。そんな腑抜けた生き物はここで言及するに値しない。いずれにしても、こうした「そもそも論」に足をすくわれてしまうことは、知的人間の証明でもある。「そもそも論」との対峙は無論過酷である。
 
「そもそも人はなぜ学ぶのか」という種類の問いに即答できる人間は、五大陸の中にはいない。「なぜ人を殺してはならないか」「なぜ人間が宇宙に存在しているのか」という問いと同じくらい、その奥行きは果てしない。オックスフォード大学の哲学教授に聞いても無駄ですよ。そんなことに得意顔で応えられるような人間は全て気違い宗教者か、そうでなければ無学者だから。答えられない問いに向かって雄弁に語ることほど浅薄な作法はない。あらゆる「教養」は、人間が如何に何も知らないかという途方も無い失望に裏付けられている。
 
世の中には、「答えることの出来ない問い」がおびただしいほど転がっている。「何故」の答えに対して無限の「何故」を重ねられる問いを、私は「超越的設問」と呼んでいる。そうした超越的設問への最も最適な態度は、ある種の謙虚な思考停止か、そうでなければ、身の程も知らない探究であって、その探究欲こそ、本当の学習の目的なのだ。労働市場への知的訓練課程などでは断じてない。
 
勉強の目的をこの「そもそも論」への逢着とするのは、間違っていない。そして、この問いに応える言葉を見つけ出すための学習過程は、生涯続く。世慣れた初老も一年生の子どもも、こうした「そもそも論」の前では屈辱の沈黙を強いられる。既存の世界システムの中で無理やり自分を改鋳し続けながら、そもそも何でこんな世界を生きているのだろうと、人は問い続けなければならない。それだから自殺は好ましくない。自殺は多分、問いの中断でしかないからだ。どうせ分からないなら、永遠に考え抜こうではありませんか。そもそもなぜこんな教育論なんかに関わっているのか。
 
 
この本は第一次安倍内閣のころに出版されたようで、「百マス計算」で有名な陰山メソッド批判や政府の教育改革などについては旧聞に属するけれども、内容の眼目は五十年以上経過してもまだ有効でしょう。グッピーの糞みたいに散らばっている教育論文よりも、むしろこっちの方を読んでほしいです。

 

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「人を思いやる心」とか「先の見えぬ社会を生き抜く能力」とかいうすり切れた理念を何の恥じらいもなく繰り返すあの例の調子に至っては、その理屈の成否にかかわらず、むかしから肌に合わないのだ。文科省の教育改革案におもねているだけのこんな俗物連なんか本来いてもいなくてもいいのだ。