書痴肉林・蟄居汎読記

佐野白羚の古い雑文の一部を(たぶん)定期的にひっそり掲載します

エドモンド・シャルル=ルー『ココ・アヴァン・シャネル』(加藤かおり他・訳 早川書房)

マリリン・モンローが寝る前にシャネルの五番を纏っていたという都市伝説があったけれども、いずれにしても、シャネルと聞くだけで何か垢ぬけたものを感じてしまう。シャネルという響きの中に野暮で無粋な成分を見付けることはできない。シャネルスーツ、シャネルスタイル、この名前はこれまで世界中の都市を一人歩きしてきた。 けれども、私は商品としてのシャネルでなく人間としてのシャネルに関心があって、とりわけ当時としては異様なほどに勝気なその性質に注目している。生ぬるい馴れ合いからは生まれてこない強烈な創造的自己表明を、彼女の中に見ないではいられないのだ。

             *

ガブリエル・シャネル(一八八三~一九七一)は、コルセットの要らない服をデザインするなどして従来の服飾形態を打ち破りながら、ヨーロッパに一大モード帝国を築いた。 決して裕福な出自でなかった事とも相まって、いまでは立志伝中の人物になっていて、伝記の類だけでも十指に余るほど書かれている。 それなりに信用できるものを読んでみると、私は必ず、彼女の「孤独」に突き当たる。おそらく彼女には、終生「親友」など一人もなかった。あるいは、彼女の「要求」を満たせる人間などいなかったというべきかもしれない。あれだけ華やかな社交界にあって、芸術家仲間や各界の大立者と親交しながらも、彼女は終生孤独感を持て余していた。一体心から人を信用することは誰にも難しいけれど、シャネルの場合では、生来の気質も加わってか、そのことが極めて困難だったのだ。 幸福とは言えない生い立ちの為かあるいはその並外れた自尊心の為か、私にはおよそ分かるはずもないけれど(*)、ともかく彼女はその本質において、全てのものに「ノン」を叫ぶ女であった。それはしばしば、「愛されたいという激しすぎるほどの生命の欲求にかられて言ったノン」だった(ポール・モラン『シャネル』中公文庫)。 彼女はまた、人間に頭を下げるのが嫌いだった。ぺこぺこして、卑屈になり、自分の考えを曲げたり、人の命令に従ったりすることを本性から嫌った。スカーレット・オハラを地で行くような硬骨性が、シャネルの芯にはあった。こうした強気の女が世間の馴れ合いに堪えられるはずがない。

*【よく知られているように、彼女には体質的な虚言癖があって、大変な伝記作家泣かせだった】

成功者の周りには往々キャンプ場の蚊のような小物がたかって、時代のシンボルの威光に与ろうとする。晩年のシャネルが呟くには、金を借りにくる吸血昆虫もあれば、特ダネ記事を書きたがる売文昆虫もあった。それらの虫けらは、成功者が頂点にある間は、競うようにして取り巻く。けれども威光に陰りが見え始めたり、派手に落魄したりすると、人々は引力の法則にでも従うように、その元を離脱する。彼女もかつての勢いを失ったときに、そのことを痛感した。 この種のことは、いつの時代でも同じだ。たとえばゾルゲやマタハリ(どっちもスパイ)の生涯を辿ってみても、人間がいかに薄情で現金な動物であるかが、よく分かる(もちろん私の少ない経験からも)。人間や組織は、保身の為なら、かつての愛人であろうが「献身者」であろうが、平気で切り捨てることが出来る。絶頂を極めた人間ほど人間関係の浮薄さを知り抜いているものだ。政治家や経営者に特有のあの「疲れた眼光」は、そうした人間論的達観と無関係ではないと思う。極端に言うと、生きている人間など誰一人信用ならない。

この本でも書かれているシャネル晩年の一層強い孤独感は、独裁者の孤独感とどこか似通っている。きっと彼女は、周囲に寄ってたかってくる誰もかもが腹に一物ある小物に、ブランド化した彼女の名前から利を得ようと企む追随者に見えた。中にはシャネルその人に親愛感を覚える人もいただろうが、シャネル自身が既に人間を見離していた。彼女はその名声に引き換え、孤独を貫いて生きた。あたかも孤独が自分の成功を裏付けているというふうに。 シャネルのように孤独を肌身に感じながらも世界を躍進する生き方は、誰にでも出来ることではない。彼女のダンディズムがいまの私には随分恰好よく見える。 窮屈な時代に必要なのはシャネル風の「奔放な自尊心」、あるいは、あらゆる死後硬直に「ノン」を言い渡せる苛烈さなのだ。

ココ・アヴァン・シャネル 上―愛とファッションの革命児 (ハヤカワ文庫 NF 350) (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

ココ・アヴァン・シャネル 下―愛とファッションの革命児 (ハヤカワ文庫 NF 351) (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

デズモンド・モリス『マンウォッチング』(藤田統・訳 小学館)

お盆で実家に戻った折読み返してみて、やっぱり面白いと思ったのはデズモンド・モリスだ。(刊行後半世紀近く経つので)いまではやや賞味期限切れの観もあるあの『裸のサル』(一九六七年)の著者。この人は一般向けに実に面白い本を書いている。『サッカー人間学』とか、あと本書の姉妹篇ともいえそうな『ボディウォッチング』とか(私は読んでいない)。

『マンウォッチング』は、ヒトの体や仕草を動物行動学者の観点から入念に観察したもので、ポップなタイトルとライトな表紙デザインの割には一一の分析が相当突っ込んでいて(聖域なし)、多分どんな階層のどんな人間が読んでも膝を打つこと頻りだろう。

ことさら面白いと唸ったのは、下巻の「転移活動」の章。要するに緊張した時に生じる代理動作のことだが、よくよく反省すれば誰にでも身に覚えがある。初対面だったり、あるいはまだよく慣れていない人と喫茶店で向い合っているときにやたらとスパスパ煙草を吸ったり、コーヒ用のスティックシュガーの袋を何重にも折りたたんで蛇腹状にしている人があるけれども(これ以上畳みきれなくなると渋々戻す)、「転移活動」とはつまりあれだ。内的葛藤にそわそわを隠しかねている喫煙者にとって必要なのはニコチンだけではないわけで、ポケットから煙草を出したり火を付けたりするという動作もまた重要になってくる(双方が喫煙者であれば互いにとって好都合となる。火を分け合いながら相互の不信感を解きほぐせるからだ)。

もしこうした必要動作がなければ「手持無沙汰」になってしまって、遅かれ早かれ相手の眼を必要な程度に見なければならない。およそ見ず知らずの人と視線を交わすことは「きつい」。 当人がどのくらい自覚しているかはともかく、人間は常に社会的な緊張状態にある。見たことの無い人は全て敵とはいかなくとも、不穏な外的存在なのである。こうした対人不安はヒトという動物においては普遍的だ。一見神経の太そうな実業家や人を食ったような寄席芸人も、他者に対してはやはり相当に身構えている。登壇して誰の記憶にも残らないお説教を垂れ流す校長先生でも、政府の仏頂面した官房長官でも、教会の牧師でも、事情はそう変わらない。今日の我々はヒトラーの演説を映像でじっくり見ることが出来るけれども、彼がその内的なオドオドを隠しきれていないのは誰の眼にも瞭然としている(そういえばウォーターゲート事件中の記者会見に臨んだニクソンの手は明らかに震えていた)。石原慎太郎がぱちぱちまばたきをしたり、喋っている最中の西村博之がやたらと体を動かすのも、興味深い事例。

フランス文学者の多田道太郎は『しぐさの日本文化』(これは大変に良い本だね)のなかで、そもそも生身の不特定多数者との交渉は人間の生理的限界を超えたことではないかと嘆息していたけれど、この一文で私は著者の内実に入り込めた気がした。それはそうだ。一体この世界のどこに「傍若無人」な人間がいるだろう。自分が他人の眼差しのもとにあることを殆ど気にしないような人間は、ちょっと想定できない。気違いを装っている患者が崖の危険性を「正しく」理解しているように、恥も外聞もないように生きている人間も他人の眼差しを忘れていない。傍若無人をなんとか演じているだけだ。 だから、見知らぬ人びとの前でソワソワするのは、彼彼女が「繊細」で「臆病」だからではない。人間であるからだ。もちろんその程度や隠し方には個体差があるけれども、それらが、人間という動物の極めて基本的な反応であることには変らない。ソワソワオドオドビクビクほど人間的な所作はないのだ。

人間行動の本を読むと、その眼差しをすぐ自分に向けてしまう。 私は、口唇に何かを含むのは好きだけれども、喫煙癖はない。だから、初対面で人と向き合うときのそうした常套的緊張緩和手続きを何か別の所作で補わなくてはならない。女性が自己愛撫によく利用するような長い髪の毛もない。弄ぶほど豊かなヒゲもない。耳たぶをつまんだりする癖もなさそうだ。チック症のような瞬きもない。貧乏ゆすりは見苦しいので無理をしてでも抑止する。 してみると袖や鼻先でもいじくっているのかもしれない。分かった。そういえば私は、散歩のときでさえ、手ぶらで外出していない。『ピーナッツ』のライナスがいつもお気に入りの毛布を持ち歩いているように、折りたたんだり伸ばしたりできるような「何か」が手元にほしいのだ。それはメガネ拭きでも布袋でも何でもいい。とにかくこうしたものがないと妙の落ち着きが得られない。あたかも武具を忘れて戦場にあるような不安に駆られる。しかしそうした所持物が手の内にあるだけで、いざというときに身を隠せるような気がするのだ。

いまこうしたことを考えてみただけでも、人間の心許なさを再度痛感する。 「人間とは何か」などと大仰な題を持ち出すよりも先に駅前を行き交う人びとをぼんやりと眺めている方が、ときには面白い。 何かを言うたびに鼻をすする人、手の甲を鼻下にあてがう人、足の組みかた(左足が上か、右足が上か)、不遜にお釣りの受けとる人。玩具の水飲み鳥みたいにペコペコ頭を下げて名刺を渡している人。自分の股間ばかりさわっている人。いつも顎を撫でている人。風邪でもないのに咳払いばかりしている人。スマートフォンを片手で「器用」にいじりながら髪に手櫛をかけている女子高生。俺の縄張りだといわんばかりに足を広げてベンチに腰掛ける男子高生。生きていてすみませんとばかりに隅っこの方で丸くなっている人。

生きにくさ云々以前の、「そこにある」という途方も無い居心地の悪さ。所在無さ。不愉快。虚しさ。周囲世界に何とか溶け込もうと、ヒトは無意識裡にもがいている。そのもがきのバリエーションは、ヒトに至っては見渡せないほど豊かで切ない。

マンウォッチング〔文庫〕 (小学館文庫)

ロベルト・ヴァルザー『ヤーコプ・フォン・グンテン』(藤川芳郎・訳 集英社)

先週、何かのきっかけで、ふとロベルト・ヴァルザー(スイス 一八七八~一九五六)を読んだ。

「若いカフカが強く影響された作家」というレッテルの下で、一部ではカルト的な敬愛を集めてきたヴァルザーだけれど、私もこの作品に広がる瘴気にやられて軽い後遺症を得た経験がある。何とはなしに読みはじめると、相当内臓に応える。何かに喩えるなら、それは、異国の阿片窟で闇鍋をつつくのに似ている。鬼が出るのか蛇が出るか。しかし人間しか出てこない。 終始一貫、彼の語りのなかに「救い」がない。「救い」というのは得てして干からびた自己欺瞞の帰結でしかないことを、彼は心底から知っている。

私の思う所では、文学の目的は、ひとつの「呪い」か「夢想」を如実に表出することにある。この任に堪えないものは一切を閑文字として切り捨ててもいい。 およそ「眼の前の世界」は、「人間」に考えられる限り「最悪」のものだから(*)、この「最悪」の世界に「人間」(いま・ここ)はどのような反抗を示せるか、ここに文学のギリギリの生存価値がある。文学は雅な美文を書き連ねる有閑趣味などではないし、また、現在する社会の「矛盾」をありのままに記録する媒体でもない。すくなくとも私にとってそれは、餓死寸前の放浪者が最後の希望を寄せる蜃気楼のようなもので、「世界はこうあるべきだった」という憤怒の夢想がそこに脈打っていなければならない。あるいはそれは、「此処でない何処かへ」の根源願望といってもいい。ところで、この悲痛極まる願望の秘密は、それがはじめから挫折しているところにある。その「何処か」には人間の居場所はない。「何処か」は夢想対象以上ではないのだ。「救い」の本質は、それが到頭見いだし得ない点にのみある。 「此処ではない何処か」ヴァルザーやカフカは、ここにある矛盾を心臓を以て理解していた。

*【「苦しみ」が問答無用に「絶対悪」であることを詳述する余裕は、今はない。けれどもこれは緊密な議論に値する問題なので、いずれ濃密に取り上げねばならない。 いずれにしても、「善」というのは概して消極的な価値概念であって、ごく単純にいうなら、それは「苦しみが現前していないこと」に他ならない。あらゆる「苦しみ」は如何なる「意味づけ」によっても中和されない部分を、常に内に含ませている。「苦しみ」は「それでもそれがあってよかった」と済ませられるようなことではないのだ。「苦しみ」が絶対悪であると考える以上、私はそれを構成させている社会的・歴史的条件をあらゆる面から否定しなければならない。「苦しみ」は弁護不可能な被告人なのだ】

作品設定は、そう入り込んだものではない。 架空のベンヤメンタ学院に寄宿している五六人の生徒と先生が数名出てくるだけで、全体の物語りは一人称の「日記」形式で進行する。ここには「人に仕える人間はいかに振る舞うべきか」を教える授業しかない。この学校は、高望みすることのない召使いを養成するためにのみ存在している。それだから、ここの生徒たちはみな、自分たちが如何に取るに足らない人間であるかを自覚させられる。彼らは、社会を下から支える人間の美徳だけを学べばいいのだ。 こうした設定の寓意をあれこれお喋りするのは野暮に思える。「人の役に立つ人間になれ」「社会に奉仕せよ」などと四方に吐瀉物を投げかけている人物の大部分は、多かれ少なかれ、このベンヤメンタ学院の教師と同じフロアに立っているのでないか。「労働力」「生産人口」「社会人」という類の用語群もおよそ得体が知れないので、近頃の私は殆ど使わなくなったけれど、周囲の人たちは特段気にならないみたいだ。一体口にするだけで胃がむかつきを催すような言葉が、世の中には多すぎる。「就職活動」とか「賃金労働」と呼ばれている現象は言うに及ばず、「人生の目的」「恩返し」「ふれあい」「絆」 耳触りのいい言葉には、何か言い難い不潔さが付きまとう。ヴァルザーのように感じやすい人間は、あらゆるもののなかに「ベンヤメンタ的」な何かを暗に感じ取る。彼は無性格な人間にはなれない。 「世界を征服するつもりでいるこの小僧め、いいか、世間、つまり外の世界に出たあとではじめて、職につき努力し格闘するようになってからはじめて、大海のように果てしない退屈、単調な生活、孤独が君にむかって大口をあけてあくびをするだろう」

この作者の凄みは、その異様なまでの神妙性にある。世の平凡な厭世作家のようにピイピイ泣き言を書き連ねる悪趣味ほど彼から縁遠いものはない。 彼にあっては、絶望の中にも一定の節度が保たれている(こうした静観を装った作法の中にこそ彼の叛逆心が息づいているのだ)。 「世間というものは病弱で感じやすい人間にたいしてはおよそ信じられないほど乱暴で高圧的で気まぐれで残酷」(藤川・訳)であること、そして、ある種の人間にとっては人生など「落胆と恐怖をもたらす不快な印象とがつなぎ合わされた鎖に過ぎない」ことを、語り手は生々しく直観している。けれども彼はそうした陰鬱な自覚を堅持しながらも実に奇妙な達観を得ている点で、他の愚鈍なメソメソ小僧連とは一味違う。 作品終盤に、作者の基本的なスタンスを窺わせて余りある告白が見いだせる。 「僕は人生を呪ったりはしないだろう、呪ったりするには、人生はとうにあまりにも呪うにふさわしくなっているだろうから、またもはや悲しみも感じないだろう、とうに悲しみをその激しい痙攣も一緒に底の底まで感じとり感じきってしまっているだろうから」。

総じて掴みどころのない鵺的作品だ。けれども、読み方に規格を設けるには及ばない。 文学は、めいめいがめいめいの感じ方で受容するものだ。先日、外山滋比古の『異本論』をたまたま読んで余程感心したのだけれど、そのなかで彼は、書写や翻訳や十人十色の受容を通して初めて「古典」が生まれる次第を力説している。読者の理解がなければ書物は残らないのだ。書物は自分だけで育って自存できるものではない。「このように読まなければならない」という規律は、普通、作者さえ知らないのだ。

ところで、外国の文学作品で設定が寄宿生となると、私などはどこか同性愛的な色合いを求めたくなる。この作品にも、やはり、そうした要素がある。同性愛は生殖機能が関係してこない分、とても美しい関係に思える(淀川長治が「男と男のいる映画」を特段好んでいた理由は総じて、そのあたりにあると私はみている)。

生涯を通じて「統合失調症」と切り離せない作者のことだから、さぞグロテスクな幻覚描写に満ち満ちた内容だろうと踏んでいたものだけれど、存外にその筆致は冷静・緻密であったがために、終始ウンザリさせられることがなかったばかりか、所々の微毒を含んだ語りの調子に随分引きずり込まれてしまった。 そのムードの一片を示したいので、最後にいくつか並べてみよう。

「もともと世間で成功を収めようと努力している人間はみんな恐ろしいほど同じ顔をしているのだ」「僕たちの目はいつでも思想のいっぱいつまった虚空を見つめている」「僕は、どんな類いであれ強制というものが基本的に好きだ、というのも、さきざき規則違反をする楽しみを与えてくれるから。もし命令とか義務がこの世の中ではばをきかせていなかったら、僕は退屈すぎて死んでしまうだろう、飢餓感と不満にさいなまれるだろう」

こうした、観念的で抑制のきいた独白を通して、作者は、自分の「呪い」に形を与える。語ることがそのまま彼の内面となる。むにゃむにゃしているようで実は如何にも筋が通っていて、不思議な快感を起こさずにいられない。

いま、ヴァルザーはもっと真剣に読まれてもいい。もちろん読んでどうにかなるものでもないのだけれど。

集英社の世界文学全種版では、カフカの「審判」「変身」も併録されている)

世界文学全集〈74〉カフカ.ヴァルザー (1979年) 審判 変身 他 ヤーコプ・フォン・グンテン

渡辺一史『こんな夜更けにバナナかよ』(文藝春秋)

さだまさしは「療養所(サナトリウム)」という歌で人生そのものがひとつの病室だと熱唱し、辺見庸は人間は一人残らず病人だとあの険しい顔で喝破している。 うん、直感的にも、それはそうだろう。そんなことをドヤ顔で主張されると、何をいまさらという反省がこみ上げてきて、鬢のあたりが痒くなってくる。

病気になってはじめて健康のありがたみがはじめて分かるという風な人生訓があるけれど、そういう「健康」さえ、ある程度譲歩された健康だろう。慢性関節リュウマチに苦しんでいる人から見れば過敏性腸症候群の患者は健康に映るかもしれない。不眠症に悩んでいるだけの人は、うつ病末期の人から見れば「健康」に見える。何が言いたいかって、日常的に使われる「健康」には、大幅な妥協があるということ。「健常者」「障害者」、「病気」「健康」の間に線引きするのは、簡単なようで簡単でない(私は障がい者という表記にはまだ慣れていない)

そういえば、WHO憲章には、こんなことが書いてある。 「健康とはただ疾病や傷害がないだけでなく、肉体的、精神的ならびに社会的に快適な状態であること」

そんな理想的健康に恵まれた人間は、地上にはいない。いたとしても人間の形はしていないだろう。マイクを搭載したセルロイド人形に近い何かのような気がする。もちろん内臓なんかない。人間を病気の缶詰とすれば、内臓はその内容物に違いないから。

「健康」という言葉は、明治期にhealthから訳された言葉らしい。誰だろう。連想のままに書くけれども、ドイツ語から「衛生」という言葉を作りだしたのは長与専斎という人物で、たぶん森鴎外ではない。長与専斎って誰、という人が、結構いるかもしれない。あの小説家の長与喜朗のおとっつぁんだ。『竹沢先生と云ふ人』を書いた人。いまどき読んでいる人はかなりの好事家だろうね。理想に陶酔するお坊ちゃま集団とか揶揄されることも少なくない白樺族のひとり。要するにもう忘れられてもいいような人。日本近代文学史におけるひび割れた骨董品。言いすぎかな)。     なんで健康のことなど考えているのか。健康とは何か、という切実な問題を前にしたからだ。今日では、健康という語は、平和とか民主主義という言葉と同じくらい内容空疎で曖昧俗悪な響きを内に含んでいる。健康保険、健康生活、健康マニア、健康管理、健康麻雀。文珍師匠の枕を拝借するなら、「健康の為なら命もいらない」という猛者もいる。

本ノンフィクションの中心人物・鹿野靖明(四三歳で亡くなった)の半生を知ると、その「健康」という曖昧概念が突然ある異様な湿気を帯びてくる。 彼は、筋ジストロフィーという、筋肉が次第に変成萎縮していく遺伝性の難病をかかえていた。いろいろなところで取り上げられているからか、近頃では、病名だけはそれなりに認知されてきているみたいだ。当然病気のすべてが解明されているわけでない。

詳細は読んでほしいのだけれど、重度の「障害者」である彼は、あえて民間のボランティアの協力で生きる「イバラの道」を選んだ。 渡辺氏によるこの労作は、そうしたボランティアの現場をなかなか入念に報告したものだが、たぶん読んでいない人はこの段階で既に「ああ、巷によくある美談ものね」とため息をついて軽いウンザリ感に包まれてしまうだろう。「生きる勇気をもらった」とか「生命の尊さを学んだ」という類の、およそ毒にも薬にもオブラートにもならない「模範的」言辞で溢れかえっている、そんな二十四時間テレビ式の薄っぺらいヒューマン・ドラマを想定してしまうに違いない。

本書にはそうした趣はない。

その程度のものだったら、私などは短気だから、数ページ目を通しただけで市役所前のリサイクル・ボックスに叩き込んで別の本を読み始めていた。感動など、私は、したくない。感動はただの結果であって目的ではないのだ。涙はいらない。映画にしろ小説にしろドキュメンタリーにしろ、日夜「公の感動」が大量に生産されて不当廉売されているこのお涙超大国(巧妙な洒落になっているね)で、どうして今更そんな安価な模造パールを求める必要があるだろう。 渡辺氏のこの報告書には、そうした誤魔化しがない。私の大嫌いな、あの低級なビルディング・ロマン特有の感傷臭ささが、殆ど感じられない(嫌な部分はあったけれども)。

ボランティアを希望する学生たちの心理的挫折も生々しく書かれているし、関連するトラブルや喧嘩の数限りない逸話も面白い。それにしても、全面的な介助に依存しなければならない鹿野晴明の並外れた「わがまま」や「生きることへの執念」には、正直のところ驚嘆させられた。けれどもすぐに、プライバシーが皆無なうえに基本的な自尊心を維持するのが極めて困難であるという肉体的・心理的限界条件が、彼のもともと激しやすい心をますます鋭敏にしている、と私は察したのだ。母親の保護なしでは生きられない乳児の自己主張と、それはどこか似ている(考えてみれば、人間という動物はおおむね、無力状態に始まって無力状態に終わる。要介護状態にある老人がミキサー食を口に運んでもらっている光景をみていると、どうしても乳児や被介護老人のそれと二重写しになる。オムツをはめ、髪の毛は抜け、言葉も明瞭性を失っていき、大抵はわがままになる。老人と乳児の間に違う点をひとつだけ挙げるとすれば、それば、老人の方が赤ちゃんよりも明らかに薄汚くて、自然な保護感情がくすぐられないことだ。それだから痛々しい虐待事件や放棄も少なくない)。

他者なしでは文字通り一日も生きられない、という無力感は、その人の人格にどう作用するのか。 生きるのが極めて困難な条件下にある彼が、あれほど生命を漲らせているという事実を、私のような体質的ペシミストは、どう受容すればいいのだろう。 このように意志と肉体の分離した状態を生きている冷厳たる事実を非当事者が「理不尽」などと称して嘆いたふりをするのは随分簡単なことだけれども、本を読み終えたいまの私には、それがいかに浅薄な芝居であるかがよく分かる。死と隣り合わせなのは誰だって同じだが、鹿野靖明にとってそれは決して抽象的なものではない。もし深夜に医療機器が故障したら、もし必要なボランティア人員が集まらなかったら、発作が起こったら、そう考えるだけでパニックに襲われる(私も人の紹介で筋ジストロフィーの患者を何度か訪ねたことがあるけれども、彼はパニック障害を持っていると言っていた)。その恐怖は一通りではない。

鹿野という男は、何かにつけて安易に「尊厳死」の発想を持ち出す現代風潮へのアンチテーゼを引き受けているふうにも思えた。次々入れ替わる若いボランティアを独裁者さながらにこき使い、プレゼントが気に入らないと他のに代えてくれと要求し、不快であればすぐさま喧嘩腰になる彼の自我の強さは、読中ひどく乱暴に映ったけれども、指先一つ自由に動かせない彼の無力感を汲みとって反省してみれば、それももっともなことのように思えるのだ。 「生きたいのに生きられない人がいるのに」という種類の干からびたセリフを吐き散らす以外に能のない感傷屋には到底想像さえ出来ないような途方も無い彼の執念。この際、これを「本能」といってもいいだろう。この執念は、いまでも、私の脳裏を離れない。恐怖と不愉快と憤激に裏付けられた、自暴自棄一歩手前の、反逆。この本は決して「心温まるヒューマンストーリー」ではなく、突然の難病に身体的自由を剥奪された男の悲痛のドキュメントである。

読者はおそらく、社会的弱者として一方的に介助されるだけの「障害者」像の見直しを強いられる。受け身なだけでなく、自ら「こうして欲しい、ああして欲しい」と口うるさく要求し、嫌な目にあうと「それは不愉快だ」とはっきり主張できる、極めて主体的で強かな「もの言う障害者」の存在に、一再ならず目を見開かされることだろう。

タイトルは、夜更けに突然バナナを食いたいとリクエストしたエピソードから取られている。夜更けとバナナという取り合わせが妙な滑稽感をつくる。出来過ぎているから、たぶん編集者の提案だろうな。

こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち (文春文庫 わ)

ティモシー・ライバック『ヒトラーの秘密図書館』(赤根洋子・訳 文藝春秋)

扇情的大胆な邦題が妙な誤解を与えかねないけれども、こうした趣向の本としては最後まで結構面白く読めた。せっかくの識字能力を積極的に活用しない人はともかく、多くの人は自分だけの「プライベートライブラリー」を持っている。短い生涯のうちで貧弱な脳髄しか持たない人間が直接経験できることなどたかが知れているのだから、書物から何ごとかを吸収しようとしない人間の頭はどうしても狭小になる。というよりも、人間は元来知るということに途轍もなく飢えた動物なのだ。「どうしてこのようなことになったのか」、「どうしてこれがそこに存在しているのか」という問題を死ぬまで問い続けることのできる執念の動物なのだ。計算のさなかに殺害されたというアルキメデスの戯画的な逸話や、麻酔薬の試験内服妻で妻を失明させた華岡青洲の逸話などは、人間の知識欲の一端をよく物語る。

一面、知ることは半ば所有することで、「貴重な知識」「秘密」を握っていることは、何かしらの点で広く問題を見渡せる視野を得る(あるいは、得たような気になる)ことでもある。「情報」の価値が国際的に重視されるようになったのは、わりあい最近のことだ(各地の金融市場の速報などが商売になると認識されはじめたのは、ロイター通信の創始者P・J・ロイター(一八一六~一八九六)の頃からで、この通信社は二〇世紀初めまでの間、この分野で独占的な地位を占めていた。おそらく、各都市に分散していたユダヤ系ドイツ人は、情報が金になることを肌身で知っていたのだ)。

いずれにしても、「知る」という欲望のなかには、実利的な面もあれば、まったく実利的でない面もある。「知識」や「情報」は、所有者の裁量に始めから委ねられている。 本書は、ヒトラーの蔵書と読書歴という切り口から、彼という人物の一端を見ようとするものだ。彼は努めて功利的読書にこだわる男だった。 その辺にいる善良な市民の蔵書内容など少しも興味をそそられないけれども、あの第二次世界大戦の大きな一因をつくり二〇世紀に巨大な痕跡を残した一国家指導者の愛読書となると話は別だ。近代ヨーロッパに噴出したこのアクの強い「個性」は、何をどのように読んで育ったのか。 何もヒトラーに限らない。ビスマルクであれナポレオン一世であれムッソリーニでれピョートル大帝であれ近衛文麿であれ、「歴史上の人物」の思想形成に影響を持った書物となると、どうしても無関心になれない。人びとは強い関心を向ける。一冊の書物が、こうした人物(そしてその取り巻き)の政治判断や政策決定に何かしらの影響力を持っていないとは限らない。私などはそう考えてしまうからだ。

書物には書物固有の運命がある。

私はかつてトマス・カーライルの『衣装哲学』に打ちのめされたものだけれど、彼の本は戦後にあってはおそろしく不遇らしい(一応主要な著作は翻訳はされているし、著作権の切れたテキストを無料公開しているサイト・グーテンベルクプロジェクトで主著の原文を読むこともできる。もの好きな人はぜひ)。たぶん彼の英雄崇拝思想が時代のファシズム体制のなかで大いに活用されたからだろうけれども、それだけで殆ど読まれなくなるには惜しいくらいのコクが彼の文章の内にはある。ともあれかつては大変広く読まれていたのだ。今では前振りなしでは引用もできない。そういえば、ヒトラーは彼の手になる『フリードリヒ大王』を随分好んで読んでいた。カーライルの文の調子にはどこか異様な気迫がある。

ヒトラーはその生い立ちと気質のせいで知的コンプレックスの非常に強い男だったから、猛烈な読書によってなんとかそれを補おうとした。ここで私はどうしても毛沢東を思いだす。やはり彼も熱心な読書家だった。水滸伝批判は有名だし、田中角栄が訪問した際には意味ありげにも『楚辞集注』を送っている(これについては俗説を含めて多様な会解釈がある)。長く侍医をつとめた李志綏によると、彼はベッドの上でよく古典の解釈を繰り広げていた(『毛沢東の私生活』)。古代中国の統治論や戦略論が現代にどのくらい適用できるのかは知らないけれども、一国の長である以上は常に万事学ばなくてはならぬという気概はあったのだろう。ただし彼は外国語が読めなかった。マルクスエンゲルスもレーニンも系統立ててまともに読んでいない。

広汎でありながら極めて恣意的なヒトラー流の読書作法は、大統領と首相と党首の全権を束ねた「総統」という強大な権力と結びつくことで、大なり小なり現実世界に具体的影響を及ぼした。横町の隠居の無害な読書作法と決定的に異なってくるのは、その点においてである。カーライルによる伝記でいうところの「並外れた人物」に自らがなろうとしたのだ。

彼は読書というものを、「自分が元々抱いている観念という「モザイク」を完成させるための石を集めるプロセス」にたとえている。目次なり索引を最初に読んで、自分の世界観に利用できる情報を意識的に探し出すのだ(我々の方ではこうした態度を伝統的に、「牽強付会」とか「断章取義」などと読んでいる)。それだから彼の思想的初期設定は書物によって覆されることはなかった。ただ無骨に武装されるだけである。本来自由に発想するための読書を単なる補強手段としてみていなかったのは、残念なことと思う。彼の読書作法がもっと柔軟なものであれば、などと考えてしまう。

彼はおよそ一万冊以上の蔵書を持っていたとされているものの、当然ながら、全て読まれたわけではない。彼は学者ではないし、そんな時間もない(読書は時間がなければできない)。ヴァルター・ベンヤミンがあるエッセイでいうのには、だいたい人は自分の蔵書の十分の一くらいしかちゃんと読んでいないそうだ。この見積もりにはそれなりの根拠があるようだが、私の肌感覚では、おそらく、十分の二くらいである。千冊の蔵書があれば、そのうちでしっかり読んでいるのは、せいぜい百冊から二百冊くらいだろう。すくなくとも所有している本のすべてに目を通している人はいない。もしそういう人があれば、それは虚栄から出た嘘だ(ときどきテレビに映る学者の背景にはよく厚い洋書のびっしり詰まった本棚があるけれども、彼がそれらすべてをしっかり読んでいると思ったら大間違いだ 。あれはただ彼彼女の発言を権威づけるために利用されているだけだ。誰でも知っているか)。

それにしても、一国の指導者ともなると頼んでもいないのに方々から献本されて、蔵書が自動的に膨らむものらしい(当然、書籍購入費にも事欠かない)。羨ましいと言えば実に羨ましいが、じっくり読む余裕と忍耐力ないのは、やはり不幸なことだ。

もうそろそろご飯が炊けそうなので、話は飛躍する。

ヒトラーの述懐によると、彼が最初に熱中した本は、カール・マイ(一八四二~一九一二 当時の少年少女に愛された国民的作家)の冒険小説『砂漠への挑戦』だった。そして『ロビンソン・クルーソー』『ガリバー旅行記』『アンクルトムの小屋』に並んで、『ドン・キホーテ』を世界の傑作に位置づけている。彼もまたギュスターヴ・ドレによるあのロマン的な挿絵に魅了された素朴な読書人だった。こうやって彼の月並みな読書歴に触れて見ると、ヒトラーが等身大の人物に思えてくるから不思議だ。後に悪の象徴として語られる「独裁者ヒトラー」のイメージとは、どうしても重ならない。

政治家となる決意を固めると、彼の読書は一層生々しいものになっていったようだ。マーキングだらけの本もある。 古典的な歴史書、都市計画の書、マディソン・グラントなるアメリカ人による優生学の本、アーリア人種の使命を説いた本、ニーチェヒトラーはあまり彼の本が好きではなかった。というよりも彼には哲学的センスが絶望的に欠けていた)、ワーグナーの芸術論、ヴァチカンによるナチス分断工作の「告発本」、今でもよくあるようなオカルト本、反ユダヤ思想を鼓吹する書、有効な戦術を説いた書(彼の蔵書の半数は軍事関連だった)。

まだいろいろ言いたいこともある。 けれども、ぎゅっと一言に圧縮させて言うなら、良きにつけ悪しきにつけ書物は人間に指針を与えうるということだ。書物は人に行動の根拠を与え、判断の裏付けを与える。ひとりの人間(あるいは集団でもいい)の宇宙観、政治観、人間観を、知らないうちに形作る。 「聖書」は今でも多くの人々の救済観や死生観を根本から規定しているし、アラブ諸国ではコーランと法律は切り離せない。ケインズの論文はいまだに政府投資が必要とされる際に言及される。『アンネの日記』は迫害されてきたユダヤ人への同情を世界規模で集めた。『アンクルトムの小屋』は南北戦争の一因とされている(いや本当かい)。 「ふざけるな。書物なんかで歴史や人生が変わってたまるかい」などと反発してしまう反面、たしかに、書物の発言力や呪術が無視できない場面も少なくない。「書物が時代をつくる」というのはやや過大評価のきらいがあるけれども、「たかが書物」とは言えない書物も歴史上多くある。そして重要なことは、そうした書物が必ずしも普遍的な知を提供するものではないことだ。現在「古典」とされている書物群のなかには、(私の眼からみて)ずいぶん下らないものが多くある。怪しいものもある。偏見に満ちた本もあるし、誇大妄想気味のトンデモ本も多くある。それでもある時代のなかで「書物の知」は大きな潮流を形成しかねないのだ。

アドルフ・ヒトラーの「民族観」や「政治観」は、その時代の知的風潮や経済事情とは明らかに切り離せない(環境や集団は「個体」に先行する)。そして、そうした物事は、時の書物の中に刻印されている。ヒトラーがどこまで「時代の子」であったかは、彼が影響された書物をよく踏査することで、ある程度までは分かるだろう。為政者と書物の関係は、もっと詳しく研究されてもよさそうだ。

(そういえば手塚治虫ヒトラーファンだったみたいですね。画家くずれでルサンチマンまみれの男が最高権力者にまで上り詰めるなんて人生は、たしかに稀有です。凡人よりも悪党のほうが興味に尽きない分、書く人間としては好ましい)

ヒトラーの秘密図書館 (文春文庫)

ジャン・ヴォ―トラン『グルーム』(高野優・訳 文藝春秋)

現代フランスの妄想文学。こんなのをパルプノワールとかいうらしい。フランス語でノワールは暗いとか黒い。そういえば映画マニアから「フィルムノワール」っていうジャンルの話をを延々聞いたことがある。見たことないけれど。私はフランス映画では「禁じられた遊び」しか知らない。そしてこれしか好きではない。小説の話をしよう。

私はこういう種類の書き物は、結構好きだね。大好物ではないけれど。 夫婦の絆とか戦国武将の勇気みたいな陳腐極まる主題を飽きずに使いまわしている例の小説群よりは何十倍も好きです。 いったい文学は劇薬であってほしいよ。読んでいる人間の心をささえる園芸支柱を数本へし折るくらいの魔力は欲しいな。数本だけだよ。全部は困る。ともかく何かひっくり返してほしいという被虐嗜好がある。道学者の受け売りでは何も変わらない。「おっしゃることはごもっとも」以上のものが欲しい。 そうはいっても所詮は活字、社会や宇宙の構造をひっくり返す力はない(それが出来たらダダ詩人や埴谷雄高みたいな「文学英雄」が歴史を新しく作り変えているはず)。私もそれはよくわかっているよ。 「現実」というのは、ひとつの真っ白な謎を擁している。これは社会科学的な語彙だけでは把握しきれないし勿論哲学的・宗教的語彙だけでも不十分だ。この真っ白な謎平面を、人間は、妄想のボディペインティングで飾り立てていく。そうですね。前置きが長いですね。

ハイムという青年教師が学校で生徒による「いじめ」にあって、母親と二人で引きこもり生活をしている。この教師崩れの内攻青年は世界全体を憎悪するあまり、リビドーの大半を妄想世界に投入する。自分を〈アルゴンキン・ホテル〉なる所に雇われた一二歳の接客係に見立てて、その周囲世界を高密度に再構成し(全面刷新といってもいい)、そのなかで好き放題に行動している。家族関係に深刻な問題をかかえた子どもが空想上の友人(イマジナリーフレンド)と仲良くするというケースは児童心理学の世界でもよく報告されているけれども(私もそんなフレンドを持っていた)、作中の元教師青年は既に「いい大人」だ。その類の想像力が枯渇し切って詰まらない無害のホワイトカラーになりきっていていい年頃だ。けれども彼は徹底して妄想世界でホテルボーイを演じ切る。彼は最終的に現実世界に「犯罪行為」をしてしまい銃弾で蜂の巣にされる。感動的な音楽とエンドロールで締められる筋の物語ではない。でもルーゴンマッカール叢書のような陰鬱さとはちょっと違う。陰鬱でありながら作中の発想が奔放過ぎるのだ。舌を刺すスパイスが質量ともに筋の暗さを凌駕している。だから痛快なのだ。

それに登場する人物がみんな歪んでいる。色情症のマゾ女、ごみだらけの部屋で死ぬのを待っている老人(ビングという。私は彼を気に入っている)、引きこもりの妄想息子のいいなりになっているだけの哀れな老母(日本にも数万単位でいるよ)、ベトナム戦争中に少女を強姦しようとして塩酸をかけられ失明した元兵士。まともな人間がいないという点では、いかにも小説らしい(とはいってみても、私は「まとも」の何たるかを未だに知らない)。

そのくせ全体は戯画的に彩色されている。キツイ笑いも引き出そうとするし、粋なセリフも少なくない。こんな狂気色濃厚の物語が文庫本で四五〇頁くらい続くのだ。よい子と善良な市民は読んじゃダメ。こんなの読むシンナーみたいなものだから。 空想的行為がはからずも主人公を犯罪行為に駆りたててしまうという筋そのものは大して珍しくないと思う。知っているだけでも数十はある。こんなケースは「現実世界」でもよく見られるでしょう。万事に猜疑的である余り周囲の誰もが暗殺者に見えて権力パラノイアを来してしまうとか(独裁者は殆どこの種の病気にかかっている)、逆に全ての人に愛されていると勘違いしてしまうとか(特定の人物に関するものを被愛妄想という)。

人間という心理的に極めて不安定な生物にとって、妄想という行為は概ねプラスに作用することの方が多い(なかでも最も扱いにくい妄想の一つに「空想や妄想とは無縁な自分」というものである)。宗教や政治的理想なんか九割がた妄想みたいなものだ。 あと、「あの子いまこっちをみて微笑んだ、俺に気があるな」「自分だけは交通事故など起こさない」「自分の妻や母親だけは私のことを愛してくれているだろう」「自分だけは肺がんなどにならないだろう」「私は子供に嫌われていない」「テレビの羽生結弦は私に向かって微笑んでいる」「最近、木村拓哉にストーカーされているみたい」(被愛妄想) こんな種類の妄想を欠いて人は愉快に生きられない。人間が愉快に生きるために必要なのは例の三大欲求の充足と並んで妄想欲求である、というのが私の積年の持論です。

ちなみ妄想ってのは、「裏付けのない確信」のこと。もっと広げてみれば、「確信をさえ必要としない対人的・対世界的前提認識」ということになる。根拠のない判断による主観的信念は全部、妄想に属する。厳密にいえば、「明日も太陽が昇る」とか「他者も自分と同じように自我を有している」という種類の判断の多くも主観的信念の産物に過ぎない。「われ思う」の「われ」さえ疑う人もいるしね。とかく哲学者は体質的に何でも疑う。

こうした味付けで仕上げられた小説の怖いところは、「現実」は結局妄想や空想を養分にしないと自立できない、ということを図らずも浮き彫りにしてしまう点だ。事実、ヒトラーの抑圧されたルサンチマン妄想がベルサイユ体制下のドイツで見事に爆発したのだし、秋葉原事件の犯人の脳裏で起こった瞬間沸騰的な殺意も彼の被害妄想傾向なしには発生しえなかった。 強力な組織的妄想はしばしば現実を激しく侵す。暴動も迫害も、何か、過剰な心理的反応なくしてはありえない。個人単位では微量な妄想成分も、集団レベル、大衆レベルでは大変な力になる。集団心理の方向性は、概して個々の人間の不満状態に影響されるものだ。

ともかく、妄想は、ふつう我々が考えられている以上に、「現実」を浸食しているのだ。 だいたい妄想が機能不全であれば恋愛など成立しえない。理想など誰も語れない。ナルシシズムもありえないし、神経症外来も閑古鳥がなく。人生における対人トラブルの大半は対人妄想なしには説明できないだろう。共同体の集団幻影も、過剰な妄想成分が固定したところに出来上がる。「私たち」とか「我々」なんて書くときの、あのちょっとした違和感、気持ちの悪さは、たぶん、こうした妄想を知らないうちに自覚しているからだろう。

私はへいぜいアパートの隣人のささやかな咳払いさえ許容しかねているのだけれど、こうした心理的な苦しみも、「奴が自分に嫌がらせをしているのではないか」という先行妄想なしには起こり得ない。冷静に考えれば、それは(音声チックであれトゥレット症候群であれ)生理的偶然の現象に過ぎないのだから。悪意などはあるはずないのだ。 一体私は、音に関する限り、被害妄想に駆られやすい。車のクラクションも夫婦げんかも私の聴覚器官は耐えられない。偶然の雑音はとても許容できないのだ。これまでそれがもとで何度トラブルに巻き込まれたか分からない。

主観的信念によれば、人間が生きるのは植物よりも数段難しい(そういえば昔読んだ車谷長吉の小説に大体次のような遣り取りがあった。「おじちゃん世界で一番難しいことって何?」「それは生きることだよ」) それだから人間の妄想の余白は植物よりも広いしその密度も格段に大きい。原則として、妄想なしでは人間の精神は安定を欠くのである。南無阿弥陀仏を唱えていればきっと地獄に落ちないと取り敢えず信じておけば、生きている間は発狂しないで生きられる。自分は社会経済的な階級や教養レベルや容姿において平均よりもちょっとだけ上であろうと信じていれば、自尊心はある程度満たされる。こうした方法的妄想の蓄積が、彼彼女の心的平衡をがっしり支えているのだ。そんな事実を踏まえれば、この世界で最も幸福な人間は最も自分の妄想を育て上げた人間ということにある。自分を取り巻くこの「腐った世界」を、最も華やかで厚みのある妄想で飾り立てる能力を先天的に有している人間ということになる。これからの時代、ほどほどの経済力と強大な「妄想力」を持った人間が一番生きやすくなる。たぶんこれは私が思っている以上に真実を言い当てているだろうな。なんだかんだ「おめでたい奴ら」ほど幸せなやつはないよ。「おめでたい奴ら」は自分が馬鹿にされている事実さえ生産的な運動エネルギに変換できる稟性を持っているのだから。

仮に、精神病棟のベッドを一歩も出ないで自らを世界の神や皇帝だと思っている人があるとすれば、彼の自己充足感はそう簡単には壊せない(実際、世界には自称ナポレオンや自称「天皇落胤」が数百人いる。自分を世界の救世主だと確信している人も数千人はいる。断言しますよ。というのも私は「そういう傾向の人」を直接知っているから)。

外に出ないで、内にこもる。そうすれば、きっと、人は、自分を相対化しないで済む。人間は傷つくと小さな完結した宇宙に逃避する(こんな言い方は好きではないけれど)。人は自分を相対化させる要因がなくなった自己完結宇宙の実現を、心のどこかで夢見ているのかもしれない。イッセー尾形という一人芝居の役者を知っていますかね。私彼のこと大好きなんです。あの人のブラックコメディに、立小便のためにビルとビルの隙間に入り込んで出られなく筋のものがあるの。最初は足掻いたりもがいたりするんだけれど、そのうち力尽きて諦めてしまって、その狭い空間にあることに満足してしている自分を発見する。「もがき」から「安心」に到るあの瞬間、もちろんそこで客席から笑いが起こるのだけれど、この笑いはなかなか意味深長。曰く言い難い笑いだ。極度に狭い空間に安住する心と「引きこもりの心」には何か通底するものがある。

「そうだろうと思ったよ。だがな、ハイム、前にも言ったはずだが、おまえは外には出ない方がいい。家にこもっていればこもっているほど、調子がいいんだ。たとえ、紅茶のカップを前に、家から一歩も出なくたって、世界旅行はできるものだからな。ビールは?」(高野優・訳 二七)

極楽往生」とか「無階級社会」という言葉がなぜ過去の人々を惹きつけてきたのか、いまでは多少分かる気がする。そういうのは全部引きこもりも発想なんだよな。完璧な、不安定要素の取り払われた、「歴史の終焉」に人間は憧れ続けて来た。ビルとビルの間の静かな閉所よりもずっと安定した「世界」。全てが完全な秩序のもとにある世界。「これ以上自分を変化させることのない宇宙」。熱力学的に系のエネルギーが最低になるとされる温度は、絶対零度(マイナス二七三・一五度)。安定は冷え切ってもいるのだ。ええ、今の話とあまり関係ありません。 いずれにしても、そういう自己完結した安定世界を指し示す言葉の数々は、「現実よりも現実的」に響く。人間を陶酔させる色気を放っている。

いろいろ書きましたが、とどのつまりは、人間は妄想を消費しないでは生きられない生き物である、ということ。 いやあ小説っていいですねえ(淀川長治です)。

グルーム (文春文庫)

伊丹十三『ヨーロッパ退屈日記』(新潮社)

すでに物故した人ですが、「マルサの女」なんかの映画監督としてよく知られている伊丹十三が若いころ綴ったエッセイがこれ(どうでもいいと思いますが彼は大江健三郎の義兄でしたか)。

「随筆」と「エッセー」の違いなど、深く考えたことがないけれども、あえて乱暴に定義線を引いてみるなら、随筆の方が文学色が強くて、エッセーの方は格段に洒脱ですね。そういうのは肌感覚と思う。すくなくとも散文度においては、後者の方がずっと高い。

分りやすいように、実例を挙げますか。寺田寅彦とか森鴎外の身辺雑記は全て随筆です。 当然、昭和軽薄体の椎名誠とか群ようこの文章は全てエッセーです。 具体的にどう違うのかといわれるとすこし応答が難しいのだけれど、ともかく、読中感が違うのですよ。随筆には本音をまだ押しとどめている文人臭さというか、形式美のようなものが色濃く残っている。漱石なんかもユーモラスで飄々しているのだけれど、やっぱり明治の文人の臭いをまとっている。文語体も多用されるからな。散文表現の術がいまほど垢抜けしていなかったのだ。 時代が時代といえば、それまでだけれど。

ところで、「散文度って何か」と思うでしょう。 この「散文度って」の「って」のなかに既に高散文度の程が示されています。 散文は本来、韻文の対義語としてありますが、私はこれをもっと広い意味で受け取るのです。 たとえば文語体のなかにいきなり俗な口語体が入り込んだりする書き方も、たぶんに「散文的」です。整合性とか一貫性ほど、エッセーと縁遠いものはない。エッセーは感覚本位であって、格式や気品に重きを置かない。 エッセーは一応は誰もが気楽に読める文章形式を採用しているから、肩が固くなる書き方はいけないのだ。これは特定の専門家しか対象としていない博士論文を書くよりも、数等難しいことだ。 わかりますか。軽妙で面白い文章を書くのは、実に根気と技量を要することなのですよ。 一見馬鹿馬鹿しいだけの日記エッセーも、案外筆を捻って書かれていたりする。

読者をいつもニヤリとさせるエッセイストがいるとする。実に阿保らしいことを淡々と語る人気の文体。そのエッセイストが白紙の原稿用紙を前にして頭ばかり搔いてフケを散らしている姿を、想像できますか。連載に追われる小説家ならまだしも、エッセイストが文の推敲に身をやつしている姿は、素朴な読者には想像しがたい。けれども、文章を書くということは、やはり大変なことです。すさまじく脳を疲弊させることです。一人以上の人間に読まれるということは、大変に恐ろしいことです。たかが読み捨てのエッセーじゃないか、といったところで、その読み捨てる人々の数が数万単位であるとしたら、つまらないものはとても書けない。つまらないことを書くにしても、そのつまらないことをどうしかして面白くかかなくちゃならない。最初の一行から最後の一行まで、なんとか引っ張って読ませないといけない。これがいかに困難なことか、想像できますか。 いまこの雑文は既に千五百文字になんなんとしているけれども、ここまで一行も飛ばさずに読んでいる酔狂な読者など、まずほとんどいないと言っていいでしょう。千五百文字といえば、四百字詰めの原稿用紙だとだいたい四枚くらいですね、わずか四枚でさえ、こんな有様なんだ。まことにエッセイストの気苦労は推して知るべしですよ。

しかしやはりエッセイストは楽屋裏の苦労を読者にさとられてはまずいのだ。

伊丹十三も、ふざけていない。パスタの茹で方とかスポーツカーの運転とか洋服の着こなしをキザで小憎らしい調子で語りながら、けれども筆運びでは少しもふざけていない。どうして分かるのか、と思いましたね。 それは分りますよ、簡単なことです、読んでしまったからですよ。つまらなかったら、読者というものは実に淡白だから、最初の数頁で見切りをつけます。大衆小説であれエッセーであれ、今日の読者はみな消費者ですからね。おいしくないものは買わないし食べない、不当に高い日用品も買わないし使わない。 興味をさそわれなかったら、読まないのです。ふつうの読者は。分りますよね、きっと。伊丹十三の信者とか知人であれば別ですが、伊丹寿三のさしたる愛好者でもない私が通して読んでしまったということは、あらかた面白かったということです。どこかどんな具合に、という人は、読んでみてください。

彼は、ふざけている調子を一つもふざけないで書くのだな。ちょうど落語家の小噺が真剣に語られるように、あるいはコメディアンのさりげないギャグの裏に相当の思案があるように。そうえいえば漫才師のヤスキヨも実はとてつもない数の稽古を重ねていたと聞きます。観客にアドリブと思わせるようなギャグも、実は入念に練られた型であることが多い。

そう考えてみると、エッセーをエッセーたらしめる条件はすべて、伊丹十三のなかに見付けることが出来る。

最後はそんなことを並べながら締めよう。

ひとつめは、既にいいましたが、口語体が幅をきかせて、天衣無縫の妙味がある。

ふたつめは、これが一番重要なことですが、著者の個人的嗜好や主観的美学が、ウンザリするほど語られている。伊丹十三の一貫した高踏派ぶりは既に芸といってもいいでしょう、。

みっつめは、現代批評というか時代風刺の香辛料がほどよく、時々強すぎるくらいに利いている。

よっつめは、カバーデザインから挿絵まで全部自分が手掛けていること。

いつつめは、上質のユーモア、たとえ話の奇抜さ。読者をもてあそぶような遊び心。旺盛な挑発心。

むっつめは、そこで饒舌に語られている見識や経験談が、実生活に役に立つのか立たないのかが未だに判然としないこと。

ちなみにこの人には他に、『女たちよ』と題されたこれまた高品質のエッセーもあります。 本作に幾分でも魅了された人には是非推奨したいものです。ちっとも面白くなかったよという野暮天には恐らく縁の薄い話ですが。

ヨーロッパ退屈日記 (新潮文庫)

ドルトン・トランボ『ジョニーは戦場へ行った』(信太英男・訳 角川書店)

ドルトン・トランボ『ジョニーは戦場へ行った』(信太英男・訳 角川書店

トランボのこの『ジョニーは戦場に行った』と江戸川乱歩の怪作『芋虫』を比較するのは、どうにも今更と言った観がある。どちらの作品にも、戦争が生み出した「生きた肉塊」が出てくる。 ジョニーは砲弾にあたって、耳も鼻も削ぎ取られ、手足の切断も余儀なくされた。本当なら死んでいるところを、幸か不幸か、生きる屍となってしまった。

乱歩の『芋虫』に登場する絶望的負傷兵もほとんど同じ。 この作品には、たしかに、しばらくのあいだ心的外傷が軽微に残ってしまうような、ちょっとした「呪い」が封じ込められていた。第一に救いがない。 酸鼻極まる愛憎劇をあれほど脳裏に彷彿させるその筆力に感嘆させながらも、当分のあいだ食事が喉を通りにくくさせる異様な悪夢成分が濃厚にあった。この作品の物凄さは、その設定にではなく、作者のイメージ喚起力にある。 戦場で手足を失った廃兵の呻きや呪詛が、か細く聞こえてくる。血汗や膿や排泄物の饐えた臭いが、そこはかとなく鼻を刺す。焼け爛れた鼻孔の痕跡でかすかに呼吸しているらしい肉の塊が、眼の前に薄々と浮かんでくる。 ただ素朴に読んでいながら、それをひとつの創作と知りながら、気がつけば、その悪夢空間のなかで自分も呻いているのだ。読み手を作中人物と一緒に呻かせる描出力は、職業作家のそれですよ。こんな事どうでもいいかもしれませんが、一人の読み手を小説世界に拉致してウンウン共に苦しませるのは、ものすごく難しいことでしょう。だって読み手にしてみれば「たかが小説」ですから。人は結局、小説を娯楽としてしか読まないのですよ。しかし、例外が時々あって、娯楽のつもりでいたのに、至極現実味のある恐怖に打ちのめされることがある。小説の限界を打ち破れるものがあるとすれば、この世の中で大いにありうる「本物の不安」を、執念深い描写のなかで、ひたすら暗示し続けることにおいてでしょう。乱歩の『芋虫』は、それに成功している。

あれは何だったのだろうな。 あれは、乱歩一流の怪奇趣味の発現以上ではなかったのか、あるいは同時代の読み手が解釈したように、戦争の悲惨さを訴えるだけの単なる「反戦文学」に過ぎないのか。 たぶん違いますね。「反戦文学」なんて思想臭くて党派性さえ感じさせる呼び名は、この際、野暮の骨頂と思います。レマルクの『西部戦線異常なし』や井伏鱒二の『黒い雨』などが、単なる戦争批判の文学的パンフレットではないのと同じように、『芋虫』も戦争批判の書ではない。そう読むのは勝手だろうけれど、私はそうは受け取らない。

あれを読んだ時に背筋が凍り付いたのは、図らずも重度の病人や要介護高齢者の姿を連想したからだった。現実にも、芋虫はいるのだ。あの芋虫は極端な誇張性を帯びてはいるけれど、実はどこにある身体不自由者の姿と思った。日本中、世界中に芋虫はいる。自分の身体を律しきれなくなったとき、人間は芋虫に似通ってくる。妙に。芋虫的なものになる。当人がそう自覚していなくとも、周囲の人間にとっては何らかのかたちで芋虫なのだ。あの作品が不愉快なのは、自分も芋虫になりうるし、周囲の人々もまた芋虫になりうるという、そうした不安を先取りさせるからだろう。介護されるという言い様のない無力感、介護するという言い様のない虚しさ。人並みの自由を失った人間は、もっと幅の広い何かを失っている。

朝起きたら巨大な虫になっていたザムザは動ける分まだいいけれど、芋虫では意思表示もできないし毎日の生理的自己処理も出来ない。ザムザの理解されない不条理の悪夢よりも、芋虫の現実性濃厚の悪夢のほうが、そらおそろしい気がする。人間はことによると「露骨な生命感」にやたら気味の悪いものを感じ取るのかもしれない。生物の醜い惨状。中途半端な死の断片。

どうだろう。けれどもジョニーの物語の方には救いがある。ただ横たわるだけの肉塊でありながら、自分を見世物にして戦争の現実を世間に伝えろと意思表示するだけの「人間味」がある。復讐心にも似た反骨的心情が脈打っている。

そこのところは、なんとしても、汲み取ってほしい。悲劇にも昇華できないグロテスクな現実のなかで、まだ人間の生生しい情念は生きている。どうせ同じ芋虫であるなら、反逆する芋虫でありたいものですね。こんな締め方も悪くないでしょう。どうもすっきりしませんけれど、小説そのものがこのようなものである以上は、それも仕方ありません。 ただジョニーの物語は、いまの日本人の心にもかなり響くかもしれない。余程深刻に。

どうせこれからの超高齢化時代、芋虫がずいぶん増殖するのだろうから。芋虫的な精神も、芋虫的な肉体も、どんどん増えてくる。芋虫国家ジャパン。とても生きやすい時代で楽しみです。

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ジョニーのつもりが殆ど乱歩の話になりましたが、それでもいいでしょう。こういうのもひとつの「書評」と思います。だいたいお行儀のいい「あらすじ」ほど詰らないものはないし、似非インテリじみた文学論を並べられるのも我慢ならない。書評などおよそ愚劣なものです。すくなくとも書評に技術などないのですよ。ルールもない。その本によって私の心の秩序体制がどんなふうに攪乱されたのか、ほんの少しでも伝達されれば書評は成功なのです。

本評に限っては、成功していないかもしれない。でもそれでも構いません。

ジョニーは戦場へ行った (角川文庫)