書痴肉林・蟄居汎読記

佐野白羚の古い雑文の一部を(たぶん)定期的にひっそり掲載します

ドルトン・トランボ『ジョニーは戦場へ行った』(信太英男・訳 角川書店)

ドルトン・トランボ『ジョニーは戦場へ行った』(信太英男・訳 角川書店

トランボのこの『ジョニーは戦場に行った』と江戸川乱歩の怪作『芋虫』を比較するのは、どうにも今更と言った観がある。どちらの作品にも、戦争が生み出した「生きた肉塊」が出てくる。 ジョニーは砲弾にあたって、耳も鼻も削ぎ取られ、手足の切断も余儀なくされた。本当なら死んでいるところを、幸か不幸か、生きる屍となってしまった。

乱歩の『芋虫』に登場する絶望的負傷兵もほとんど同じ。 この作品には、たしかに、しばらくのあいだ心的外傷が軽微に残ってしまうような、ちょっとした「呪い」が封じ込められていた。第一に救いがない。 酸鼻極まる愛憎劇をあれほど脳裏に彷彿させるその筆力に感嘆させながらも、当分のあいだ食事が喉を通りにくくさせる異様な悪夢成分が濃厚にあった。この作品の物凄さは、その設定にではなく、作者のイメージ喚起力にある。 戦場で手足を失った廃兵の呻きや呪詛が、か細く聞こえてくる。血汗や膿や排泄物の饐えた臭いが、そこはかとなく鼻を刺す。焼け爛れた鼻孔の痕跡でかすかに呼吸しているらしい肉の塊が、眼の前に薄々と浮かんでくる。 ただ素朴に読んでいながら、それをひとつの創作と知りながら、気がつけば、その悪夢空間のなかで自分も呻いているのだ。読み手を作中人物と一緒に呻かせる描出力は、職業作家のそれですよ。こんな事どうでもいいかもしれませんが、一人の読み手を小説世界に拉致してウンウン共に苦しませるのは、ものすごく難しいことでしょう。だって読み手にしてみれば「たかが小説」ですから。人は結局、小説を娯楽としてしか読まないのですよ。しかし、例外が時々あって、娯楽のつもりでいたのに、至極現実味のある恐怖に打ちのめされることがある。小説の限界を打ち破れるものがあるとすれば、この世の中で大いにありうる「本物の不安」を、執念深い描写のなかで、ひたすら暗示し続けることにおいてでしょう。乱歩の『芋虫』は、それに成功している。

あれは何だったのだろうな。 あれは、乱歩一流の怪奇趣味の発現以上ではなかったのか、あるいは同時代の読み手が解釈したように、戦争の悲惨さを訴えるだけの単なる「反戦文学」に過ぎないのか。 たぶん違いますね。「反戦文学」なんて思想臭くて党派性さえ感じさせる呼び名は、この際、野暮の骨頂と思います。レマルクの『西部戦線異常なし』や井伏鱒二の『黒い雨』などが、単なる戦争批判の文学的パンフレットではないのと同じように、『芋虫』も戦争批判の書ではない。そう読むのは勝手だろうけれど、私はそうは受け取らない。

あれを読んだ時に背筋が凍り付いたのは、図らずも重度の病人や要介護高齢者の姿を連想したからだった。現実にも、芋虫はいるのだ。あの芋虫は極端な誇張性を帯びてはいるけれど、実はどこにある身体不自由者の姿と思った。日本中、世界中に芋虫はいる。自分の身体を律しきれなくなったとき、人間は芋虫に似通ってくる。妙に。芋虫的なものになる。当人がそう自覚していなくとも、周囲の人間にとっては何らかのかたちで芋虫なのだ。あの作品が不愉快なのは、自分も芋虫になりうるし、周囲の人々もまた芋虫になりうるという、そうした不安を先取りさせるからだろう。介護されるという言い様のない無力感、介護するという言い様のない虚しさ。人並みの自由を失った人間は、もっと幅の広い何かを失っている。

朝起きたら巨大な虫になっていたザムザは動ける分まだいいけれど、芋虫では意思表示もできないし毎日の生理的自己処理も出来ない。ザムザの理解されない不条理の悪夢よりも、芋虫の現実性濃厚の悪夢のほうが、そらおそろしい気がする。人間はことによると「露骨な生命感」にやたら気味の悪いものを感じ取るのかもしれない。生物の醜い惨状。中途半端な死の断片。

どうだろう。けれどもジョニーの物語の方には救いがある。ただ横たわるだけの肉塊でありながら、自分を見世物にして戦争の現実を世間に伝えろと意思表示するだけの「人間味」がある。復讐心にも似た反骨的心情が脈打っている。

そこのところは、なんとしても、汲み取ってほしい。悲劇にも昇華できないグロテスクな現実のなかで、まだ人間の生生しい情念は生きている。どうせ同じ芋虫であるなら、反逆する芋虫でありたいものですね。こんな締め方も悪くないでしょう。どうもすっきりしませんけれど、小説そのものがこのようなものである以上は、それも仕方ありません。 ただジョニーの物語は、いまの日本人の心にもかなり響くかもしれない。余程深刻に。

どうせこれからの超高齢化時代、芋虫がずいぶん増殖するのだろうから。芋虫的な精神も、芋虫的な肉体も、どんどん増えてくる。芋虫国家ジャパン。とても生きやすい時代で楽しみです。

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ジョニーのつもりが殆ど乱歩の話になりましたが、それでもいいでしょう。こういうのもひとつの「書評」と思います。だいたいお行儀のいい「あらすじ」ほど詰らないものはないし、似非インテリじみた文学論を並べられるのも我慢ならない。書評などおよそ愚劣なものです。すくなくとも書評に技術などないのですよ。ルールもない。その本によって私の心の秩序体制がどんなふうに攪乱されたのか、ほんの少しでも伝達されれば書評は成功なのです。

本評に限っては、成功していないかもしれない。でもそれでも構いません。

ジョニーは戦場へ行った (角川文庫)